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PSY(サイ)はノーベル音楽賞にふさわしい

2012年10月12日 07時30分45秒 | エッセイ

PSY(サイ)のGANGNAM STYLE(ガンナムスタイル)。それはどんな音楽か。少女2名少年1名と一緒に聴いてみてほしい。なぜ私がPSYはノーベル音楽賞にふさわしいと主張するか分かって頂けるはずだ。PSYの芸術性は極めて高いと思う。

芸術の目指す理想は、特に文学の理念は、理不尽と不条理との戦いにある。その通りでしょう。しかし戦い方はいろいろあります。これでないといけないとういう決まりはない。種々様々な方法がその人の個性を形作る。笑いとユーモアも時には最大の武器になります。

PSYの個性はこの点で際立っていると私は思います。それは好みの違いで片付けられるレベルではない。グローバルな国境を越えた高度の芸術性を獲得している。そういう印象があります。そのことはこのティーンエイジャーのリアクションが雄弁に物語っているやに思えるのですが、さてどうでしょうか。

→[MV REACTION] PSY-GANGNAM STYLE


さてこのガンナム・スタイルは別名「騎馬舞」とネーミングされています。韓国には古代騎馬民族のDNAが残っている、鮮やかにそのDNAが復活した印象があります。万を超える聴衆が一糸乱れず「騎馬舞」を踊り狂っているその光景は、さすが騎馬民族の末裔の勇姿さながらと感動を催すものがあります。PSYのコンサートから。

PSY-GANGNAM STYLE @ Summer Stand Live Concert


巨大なエネルギーが渦巻いていますね。K-POPが世界を席巻する日は近い、そう感じます。たしかまだノーベル音楽賞は設立されていなかったかと思いますが、そろそろノーベル音楽賞もこの機会に設置し、その最初のノーベル音楽賞をPSYに授けてはいかがでしょうか。

PSY(サイ)を世界最初のノーベル音楽賞の候補として推薦します。


村上春樹はノーベル文学賞にふさわしい

2012年10月11日 03時40分30秒 | エッセイ

賞を受賞したからといってその文学者の作品の真価があがるものでもないし下がるものでもない。そういった意味では村上春樹の作品の評価と賞の獲得如何という問題とは何の関係もない。

しかし村上春樹の竹島・尖閣を巡る今回の発言を見るならば村上春樹はノーベル文学賞に相応しい。というよりもむしろ村上春樹のノーベル文学賞受賞は少なからず政治性を担うノーベル文学賞の権威を高める、私はそう考える。

ノーベル文学賞選考委員はそのことも考慮に入れてこの機会を逃さず村上春樹にノーベル文学賞を与えるのが妥当である。村上春樹をノーベル文学賞に推薦する。

※↓ 村上春樹の竹島・尖閣に関する発言の紹介。
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2012092993828


ミクシイ記事拾遺

2011年12月29日 23時58分37秒 | エッセイ

ミクシイの日記に載せた文章の拾遺集です。
(独立した文にするため最小限度の字句の訂正や補筆あり)

■「本の読み方」について=加藤周一と橋川文三の対比  2008年4月17日

ゼミの第一回目の時です。橋川さんは「この際に、本の読み方について述べておきましょう」と仰いました。その時に私は加藤周一の『読書術』という本を読んでいたので、<精読が大事である。しかし乱読も必要である。速読術というのもあって、キーワードを押さえる。ま、そういう話だろう。そんな話ならもう知っている。聞くまでもない>と思ったんですね。

しかし、先生の話はそういうのとはまるで違っていました。

「本の読み方には、詩的・直観的に全体をパッとつかまえる方法と、論理的・分析的に順序を立てて辿っていく方法とふたつある。まず、詩的・直観的に全体をパッとつかまえる方法は、まちがえたり勘違いすることが非常に多いので危うい。次に、論理的・分析的に順序を立てて辿っていく方法は、細部のつながりが正確というメリットはあるものの、前提が間違っていると全然逆の結論に到着することもあり、これも問題が多い」と、どっちもダメと、ぴしゃりと言い切られたのです。

ではどういうふうに読めばいいのか。興味深く、次の言葉を待ったのでした。

「どちらも問題が多い方法ではあるが、このふたつを慎重に組み合わせて本を読んでいくと、真理に接近することは必ずしも不可能ではない」と橋川さんは結ばれたのです。

<真理に接近することは必ずしも不可能ではない>
この言い方に私は感動を覚えました。

この橋川さんの読書術に関する話は、加藤周一の教養主義的な読書術とは、まったく次元の違うものと私には受取れました。それは真理の内発性という根本的な問題に関わることです。橋川文三が本物の知識人であることは、この読書術に関する話を聞いただけで、その時、私にはもう確信できたのでした。

■連詩「ポツダム宣言」 2008年12月25日

 朕は帝国政府をして、米英支蘇4国に対し、
 その共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり  天皇裕仁

  若殿に兜取られて負け戦             北一輝

 あゝ おまへはなにをして来たのだと……
 吹き来る風が私に云ふ               中原中也

  内はほらほら、外はすぶすぶ          ネズミ

 どうせ二人は途中でやめるから
 夜の長さを何度も味わえる             井上陽水

  ゆらめく月にグラス重ねて             執筆


■橋川文三先生 2009年05月17日

我々の橋川先生に対する思いは、一種のプラトニック・ラブだったのかもしれない。

ところで、プラトン的な愛とはそもそも本質的には何か。そのことを語ったのが『饗宴』という作品です。

『饗宴』の最後に、酩酊状態のアルキビアデスが乱入し、ソクラテス賛美の演説を繰り広げます。その一部を引用してみます。

「一度その言葉の開かれるのを目にし、その内部に踏み入った者なら、まず第一に、他に言葉はたくさんあるだろうが、ただただ彼の言論だけが、内に知性をもったものであること、さらに神の言葉にも近いものであること、徳の無数の像(すがた)を内に孕んでいること、また、すぐれた人物になろうとする者なら、考察すべき大部分のことがら、いな、むしろ一切のことがらに、その視野のおよんでいることを知るだろうと思う」(プラトン『饗宴』森進一訳・新潮文庫)

橋川文三氏もまた、我々の前に、このような人として現れたのであった。


■猪瀬直樹氏「わが青春の軌跡」を読んでの感想  2009年06月22日

橋川ゼミの2回目の同窓会の席で、橋川さんは自分の後継者に関して、後藤総一郎さんではなくて、猪瀬直樹氏を考えていたことを聞いた。

猪瀬直樹が橋川文三の後継者? その話を聞いても、なかなか私は得心がいかなかった。橋川さんの後継者として日本政治思想史の教授になった猪瀬直樹氏のイメージがどうしても思い浮かばなかったからだ。

猪瀬氏の自伝を読むと、猪瀬氏が橋川さんのところに弟子入りしたのは72年とある。72年というのは、私が学部4年の時だ。その時すでに後藤総一郎さんは橋川さんの助手を勤めていた。

助手である後藤さんを差し置いて、橋川さんが猪瀬氏を後継者として意中に置いたというのは、何か相当に根拠があるはずだと思う。

現在の猪瀬氏は、ジャーナリストとして大成し、東京都の副知事という顕職に就いている。いまさら橋川文三のような(世間的には)マイナーな学者・思想家のことを回想すべきいわれはないはずだ。

けれども、橋川氏の思いというのは、いまなお猪瀬氏の胸中奥深いところで残っているのではないか。無意識の中で、猪瀬氏はもっと別の人生がありえたのではないかという直感が働き続けているのではないか。

そういう印象を、自伝を読んで私は感じた。橋川さんは、明治大学に奉職する前は、優れた編集者だった。編集者というのは広い意味ではジャーナリストだし、橋川さんの師匠である丸山真男もジャーナリステックな才能を、父の丸山幹二から受け継いでいる。

猪瀬氏の出世作『ミカドの肖像は』、日本政治思想史の感覚を盛り込んだジャーナリステックな作品だった。ここで猪瀬氏は、才能を証明したと思う。

しかし、猪瀬氏にはもうひとつの道、別の人生もあった。別の人生というのは、橋川さんの思いの中だけに、リアリティとして存在した。ジャーナリスティックな感覚を盛り込んだ日本政治思想史を彼の才能があれば、作り出せたかもしれないという・・・。

猪瀬氏が、橋川さんの後継者にならなかったのは、たぶん偶然の事情がこれを決めたのだろうと思う。繰り返すが、猪瀬氏が橋川さんの後継者になる可能性はあった。猪瀬氏にぜひともそうしたいという欲望があればなれた。けれども彼は、その時は大学教授になんかなりたくもなかったのだろう。

いま彼は橋川さんの思いに、いまなお囚われているのだろう。それは彼のなんといったらいいのか、才能かもしれないし、愚直な部分かもしれない。

私は、橋川ゼミの尊敬すべき先輩として、猪瀬氏のことを語りたい気がしている。


■正統と異端 ロシア篇 2009年12月23日

昨日の「橋川文三を考える」コミュニティのオフ会で、参加者におみやげとしてアレクサンドル・カザコフの論文「ゴルバチョフとロシア哲学」のコピーを配った。

アレクサンドル・カザコフはバルト三国のラトビア出身のロシア人で、この論文が書かれたのは1989年の10月である。翻訳は翌1990年の8月号『第三文明』に掲載されている。

ちなみに、ここでアレクサンドル・カザコフが論評を加えている道標派知識人の論集も邦訳されている。『道標 ロシア革命批判論文集1』(現代企画室、1991.6)

ソ連の崩壊は1991年であった。アレクサンドル・カザコフは1988年の春先に、佐藤優に対して、次のように語っている。

「マサル、ゴルバチョフはほんものの馬鹿だ。ペレストロイカを進めれば進めるほどソ連が弱体化する。ゴルバチョフは生産を重視して、社会を活性化しようとする。共産主義者は、分配にしか関心がない。ここで生産の科学を唱えれば、共産主義体制の枠組みが崩れる。宗教やナショナリズムにしてもそうだ。これまでの抑圧政策を改めれば、それはソ連を解体する方向に作用する。だから僕は、ゴルバチョフの個々の政策で、ソ連の弱体化に貢献する政策は支持することにしている。徐々に僕が支持する政策が増えている。これはいいことだ」
(佐藤優『甦る怪物』新潮社、2009年6月、205頁)

丸山真男は、天皇制国家の構造を、正統と異端という問題設定を立てて解こうとしたが、企ては成らず、副産物として「闇斎と闇斎学派」という作品をわずかに残して没している。

ソ連の崩壊は、大日本帝国の崩壊にいや勝る大きな事件であった。私は、ソ連の崩壊も、丸山真男の立てた正統と異端という問題設定に沿って了解してみたいと考えている。

その出発点の資料として、貴重なものと思うゆえに、昨日のオフ会の参加者、Kさん、Mさん、Tさんの御三方に、資料の写しをお配りしたのであった。


■才能足りなかったんじゃないの、サリンジャー君! 2010年01月29日

「ライ麦」サリンジャー氏死去

91歳で死亡とは、意外と早かったなあというのが、正直な感想である。せめて百歳くらいまで生きなければ、引きこもりした成果は出せなかったともいえる。「才能足りなかったんじゃないの、サリンジャー君!」を私の弔辞とさせていただこう。

ちなみに私は約6年ほど前「サリンジャーと九・一一」というエッセーを同人誌に書いたことがある。連句誌『れぎおん』45号・2004年4月発行。私のHPにそのエッセーは掲載してあるので、ご参考までにリンクを貼っておきます。↓

http://www2.ocn.ne.jp/~dan/a4608.htm

Kさんへ。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は傑作です。

どの程度の傑作かと私が「おっしゃって」るかと言いますとですね(笑)、「ダンテ、プルースト、ドストエフスキー」に匹敵するか、少し及ばないくらいの天才と私は見なしているのですよ。

そしてこの少し及ばないという部分を指して「才能足りなかったんじゃないの、サリンジャー君!」という弔辞を読んだわけなのです。

ちなみにKさんは、「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man」は、ご覧になりましたか。私は4日前に見たばかりですが、これは実に面白い作品です。サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にインスパイアされた近未来の物語ですが、現在を正確に予測しています。

詳しい解説は省きますが、風が吹けば桶屋が儲かる式に、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に影響された若者が引き起こした企業テロがきっかけになって、最後は公安と政府の武力対立までに発展。最後は、公安=攻殻機動隊の課長と、首相の取引になって、与党幹事長が逮捕されるという物語です。

サリンジャーと小沢一郎は、ネットの中でどう繋がるのか? こんな不思議な現象はないです。サリンジャーの天才おそるべし、が私の基本認識です。


■自分の古典を十冊持つべし 2010年08月21日

書棚に、百冊以上の本を持っている人は、日本全国で何十万人、いや何百万人いるかしれません。しかし、自分の古典を十冊持っている人は果たして何人いるか。もしかして、ひとりもいないかもしれません。これは非常に効率の悪い読書法だと思わざるを得ません。

というのも、私の場合、若い頃にロートレアモンとランボーとマルクスの三名の著作を繰り返し読んだ経験が、今の私の感性と知性の中核を形づくっています。精魂込めて一冊の本を読むということはとても実りのある経験であろうと思います。

十回読んだ本は自分の古典になる。自分の古典を十冊持つべし、というのは一見遠大な目標に見えます。しかし、十冊×十回は、勘定すれば、延べで百冊の読書に過ぎません。

長い人生で百冊読書する時間の余裕のない人は、まずひとりもいないでしょう。なのにその十冊×十回=百冊の読書の経験をたぶん誰もしない。いたずらにたくさん本を読むことだけにいそしんで、貴重な人生の時間を浪費している。

これは謎です。


「原発いらん」のシュプレヒコール(拡散希望)

2011年04月20日 09時27分17秒 | エッセイ

原発いらん。シュプレヒコール!

・原発いらん。いるのは、きれいな空気や。

・原発と子供とどっちが大事や、ゆうてみい。

・原発は子孫末代まで祟るで。ほんま怖いで。

・原発は何万年でも毒吐く機械や。正露丸飲んでも利かんぞ。

・原発で金儲けした奴は誰や。汚い商売すんな。

・原発も原爆も同じ穴のムジナや。日本人ならそれくらいわかったれや。

・原発は健康を損ねます。タバコやめてもなんにもならんがな。

・原発はやめや。節電協力するがな。それで文句ないやろ。

・原発いらん。原発いるゆう代議士は、民主党やろと自民党やろと、みないてこましたるど。


【ブログ掲載第一作】処女作の経験

2007年02月03日 13時12分29秒 | エッセイ

 文章を書くことに関して持っている私の信念は極めて単純であり、それは「人間の極限のエネルギーを注いだものだけが文学であり、それ以外はすべてクズである」ということに尽きる。若い頃に読んだロートレアモンの影響は決定的であった。ロートレアモンが『マルドロールの歌』を書く際に注いだようなエネルギーを、私もまた自分の中から引き出したかった。それが私にとって「書くこと」の唯一の課題であった。そしてその課題に処女作こそは最も近づき得た経験ではなかったか。自戒を込めていまそう思うのである。

 中央大学が創立百周年を記念して長谷川如是閑賞授賞の懸賞論文を募集した。朝日新聞に載った募集要項には、原稿用紙四十枚以内、課題が「歴史における保守と進歩」とあった。ある日のこと私は「柳田國男はわが国における最も純粋な保守主義を代表すると私は考える(『保守主義と転向』)」という橋川文三の一文を思い出した。(学生時代、私は橋川文三のゼミにいて彼の著作は全部読んでいた)。

 柳田國男が保守主義を代表するのならば進歩主義を代表するのは誰だろう、と私は考えた。柳田國男に拮抗しうる思想家としては福沢諭吉しかありえない。丸山眞男の論調からしてもそのことは明らかではないか。そうだ。福沢諭吉と柳田國男を比較する論文を書けば必ず賞は取れる。書く前から私にはそのことが確信できた。

 このアイデアが生まれたのは応募締切りの五十日前。さっそく私は福沢と柳田の全集を図書館で借りて読み始めた。福沢と柳田を交互に読み較べながら、毎日抜き書きをしたり対比のメモを取ったりした。論文の構成は簡単に決まった。第一章で福沢諭吉の進歩主義を論じ、第二章は柳田國男の保守主義を記す。第三章で福沢諭吉と柳田國男を対比する。(第三章のタイトルは「解剖台の上の進歩と保守、あるいは、人間の発展は如何に可能か」と華々しいものである)。それに前書きと後書きを付けるという構成。

 書くことに決めた最初の頃、テレビで山崎五紀と立野記代が対戦しているのを見た。特に女子プロレスに興味があるというわけではなかったが、その試合には感動した。自分もこういう新鮮なファイトをしないといけないなと思った。同じくテレビで堤清二が、農業は単に経済の問題ではなく日本文化の問題でもあるという趣旨から、橋川文三の名前を出していたのに勇気づけられた。橋川文三だけがその時の私の唯一の支えだった。

 実際に論文を書き始めたのは締切りの十二日前。一日四枚のペース、十一日間で四十枚の草稿ができた。それを推敲してぶっつけ本番で一日で決定稿を書き上げた。最後の日は睡眠不足と疲労が極限に達した。原稿用紙が机から落ちてもそれを拾うことができなかった。体を傾けるとそのまま倒れ込んで眠ってしまいそうである。「原稿が一枚落ちたので後で拾うこと」とメモを書いて作業を続行した。

 やっと原稿は完成したが、駅まで行って郵便ポストに投函する仕事がまだ残っている。ほとんど立ち上がることさえできなかった。壁を伝ってアパートを出た。普通ならば駅までは徒歩で十分。原稿を入れた封筒を落とさないよう胸にしっかり抱いて、一歩一歩駅までの道を辿った。あんなに長い行進は生まれて初めてだった。(初出 文芸誌『21世紀文学』第十号)

   【参照】長谷川如是閑賞授賞の懸賞論文『歴史における保守と進歩』

【反撃のリング】 数々の名勝負を繰り広げた立野記代と山崎五紀の一戦。


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 『21世紀文学』第十号に掲載された「処女作の経験」


『21世紀文学』創刊号の表紙と目次の一部=創刊号には「ビリリ署長」を掲載