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【霊告月記】第七十回 必殺の呪文「コロナ、来るな! 」

2021年09月01日 10時00分00秒 | 霊告月記66~70
【霊告月記】第七十回 必殺の呪文「コロナ、来るな!」

昨年の1月頃、コロナの蔓延が予測されるにあたって、必殺の呪文「コロナ、来るな!」唱えたのだが、私の霊能力が不足していたのかそれともまったくなかったのか知らないが、効果がまるでなかった。いまはコロナ禍で外出もままならず鬱屈の日々を過ごしております。新しい文章を書く気力も起こらないので以前フェイスブックに掲載したわりと評判が良かった記事を転載します。題して「兄と妹」。

◆兄と妹




私は自立心が強い性格だ。それはいちおう長所なのだろうけれども、言動が独断的に流れやすい。自立心の暴走を制御する心的装置が微弱なのが自分の弱点だと認識している。
 
男ばかりの四人兄弟の次男であり、両親とも心やさしく寛容な性格だったので、自分を縛るものは家族環境の中にはなにも存在しなかった。胎児・乳幼児・少年時代を通じて小皇帝として育った。その心性がいまに通じているわけだ。
 
だから、もし自分で好きな家族環境を選べるなら妹がほしかったと思う。妹がもしいたら自分の自立心を少しくらい損ねてもいいと思うだろう。もっと人間として幅のある性質を獲ち得たのではないかと思うのだ。
 
おそらく妹がいる男性はこんな省察を読んでも、何のことやら意味が分からない、妹がいるけどそれがどうしたと思うかもしれない。

しかし、それは妹がいることが自然状態になっているからで、もし妹がいなかったら、どれほど自分の人生が貧しいものになっただろうかを想像してみたことがないということに尽きるのではないか。
 
ま、そんなことはどうでもいい。兄と妹が並んで立っている一枚の写真からひきだした省察を述べてみただけだ。お兄ちゃんがいるから幸せ、妹がいるから兄としての幸福がある。そういう感情がこの写真のなかに鮮烈に流れている。

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【霊告月記】第六十九回  ジャン・ジャック・ルソー作曲「村の占い師」

2021年08月01日 10時00分00秒 | 霊告月記66~70

【霊告月記】第六十九回  ジャン・ジャック・ルソー作曲「村の占い師」

        

2年少し前の2019年1月の私のブログに「世界思想の獲得に向けて一路邁進!」という記事を投稿した。世界思想の獲得を目標とする以上、近代における全体的知識人の嚆矢としてのジャン・ジャック・ルソーの思想の理解は欠かせない。しかし高峰であるルソーを征服するには、登頂ルートの入念な準備が必要である。どこから登るべきか? 

全体的知識人という概念が成立するには、思想的完成度と共に、その前提的条件として、彼(や彼女)が、どのような文学的センスを有しているかどうか。そのセンスの内実が問われるであろう。ルソーの文学的センスをまずもって直観的に把握する必要がある。

ルソーという高峰に登るもっとも適切な入り口はどこからか? それは彼の処女作ともみなしてよい歌劇「村の占い師」を聴くことから始めるのが適切であろう。「村の占い師」から「社会契約論」へ。これが私の設定した高峰ルソーの正しい登頂ルートである。

それでは、皆さま。ジャン・ジャック・ルソー作曲「村の占い師」の貴重映像をお楽しみ下さい♬♬♬

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【霊告月記】第六十八回  向田邦子の恋文

2021年07月01日 10時00分00秒 | 霊告月記66~70

【霊告月記】第六十八回  向田邦子の恋文

    向田邦子 (1929-1981)           

衛星放送のスカパーで高倉健主演・向田邦子原作の映画「あ・うん」が放映されたので録画しておいて鑑賞した。「あ・うん」は映画賞を総なめにした傑作で何よりも原作のすばらしさが心に残った。向田邦子という人は人間としての気品が際立っていると感じられた。

ユーチューブで「向田邦子」と検索すると数多くのテレビドラマがヒットするのだが、その中で「没後20年 向田邦子が秘めたもの」というドキュメンタリーを見ることができる。向田邦子が家族にも秘した恋文をメインテーマにしたその番組を見て、向田邦子の才能の秘密が分かったような気がした。秘する恋。心の奥底で演じられたドラマを向田邦子はその人生の終局まで「沈黙」し、その沈黙をドラマのかたちでフィクションとして再現した。そこに人は究極のリアリティを感じるのである。

向田邦子原作のドラマを観るとき我々はいいようのないノスタルジア(郷愁)を覚える。ノスタルジアは一種の病気ではあるが避けようもない人間的な病気である。このようにして向田邦子に病みつきになってしまった今日この頃のわたしである。

さて、下はツールゲーネフの小説『初恋』からの引用だが、ノスタルジアとはいかなるものか。雄弁に語って飽きないと思う。人生の秘密を開示していると言えるのではあるまいか?

ああ、青春よ! 青春よ! お前はどんなことにも、かかずらわない。お前はまるで、この宇宙のあらゆる財宝を、ひとりめにしているかのようだ。憂愁ゆうしゅうでさえ、お前にとってはなぐさめだ。悲哀ひあいでさえ、お前には似つかわしい。お前は思い上がって傲慢ごうまんで、「われは、ひとり生きる――まあ見ているがいい!」などと言うけれど、その言葉のはしから、お前の日々はかけり去って、あとかたもなく帳じりもなく、消えていってしまうのだ。さながら、日なたのろうのように、雪のように。……ひょっとすると、お前の魅力みりょくの秘密はつまるところ、一切を成しうることにあるのではなくて、一切を成しうると考えることができるところに、あるのかもしれない。ありあまる力を、ほかにどうにも使いようがないので、ただ風のまにまにき散らしてしまうところに、あるのかもしれない。我々の一人々々が、大まじめで自分を放蕩者ほうとうものと思いんで、「ああ、もし無駄むだに時を浪費ろうひさえしなかったら、えらいことができたのになあ!」と、立派な口をきく資格があるものと、大まじめで信じているところに、あるのかもしれない。
 さて、わたしもそうだったのだ。……ほんのつかたち現われたわたしの初恋はつこいのまぼろしを、溜息ためいき一吐ひとつき、うら悲しい感触かんしょく一息吹ひといぶきをもって、見送るか見送らないかのあのころは、わたしはなんという希望に満ちていただろう! 何を待ちもうけていたことだろう! なんという豊かな未来を、心に描いていたことだろう!
 しかも、わたしの期待したことのなかで、いったい何が実現しただろうか? 今、わたしの人生に夕べのかげがすでにし始めた時になってみると、あのみるみるうちに過ぎてしまった朝まだきの春の雷雨らいうの思い出ほどに、すがすがしくもなつかしいものが、ほかに何か残っているだろうか?

ドキュメンタリー番組「没後20年 向田邦子が秘めたもの」

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【霊告月記】第六十七回 大林宣彦映画ベスト5 きらめいて 煌めいて

2021年06月01日 10時00分00秒 | 霊告月記66~70

【霊告月記】第六十七回 大林宣彦映画ベスト5 きらめいて 煌めいて

    大林宣彦監督  1938-2020


大林宣彦映画のベスト5を選んでみた。この5本はどれもベスト1に選んでも良い傑作なので、本日の気分で順位を決めただけに過ぎない。明日になれば順位は入れ替わるかもしれない。いずれにせよ不動のベスト5本である。前置きはこれくらいにして、さっそく。


第五位 彼のオートバイ・彼女の島 (1986)

この映画は何年も前に見てつい最近見直したのだが、じつに清々しい映画だ。大林宣彦の映画はどれも青春へのレクイエムの要素をはらんでいる。その青春へのレクイエムのエッセンスを凝縮したような傑作である。主題歌をぜひ聴いてほしい。美しい声で歌われる美しい歌。青春へのノスタルジアに突き動かされる気がしないだろうか・・・

   

第四位 伝説の午後・いつか見たドラキュラ

大林宣彦の実験映画時代の代表作。個人映画作家としての大林宣彦の才能が開花した傑作。私は学生時代にこの映画をどこかの大学の学園祭で見たのだが、友人にこの映画を絶賛したことがあった。その友人は「そんなに映画が好きだったら映画監督になったらどうだ」と感想を漏らされたことがあった。大林のような才能はそう簡単に得られるものではない。3歳の時からカメラを持って遊んだ。3歳の時から映像作家だった稀な歴史を持つ大林宣彦でしか創れない特殊な映画である。ちなみに、この映画のタイトル「伝説の午後・いつか見たドラキュラ」がいたく気に入っていた私は「伝説の午後・いつか見たランボー」というエッセーを書いたが、それは私の処女作といっていい作品である。28歳の全力投球した記念碑なのです。

※参考☛ 永遠の詩人アルチュール・ランボー
    第二部「伝説の午後・いつか見たランボー」


第三位 ふたり

事故でなくなった姉がどじでかわいい妹を陰ながら見守るという話。少女を描く大林の視線は優しい。大林の故郷である尾道が背景に描かれてもいる。この映画を大林宣彦の最高傑作と信じる人も多い。

第二位 時をかける少女
いわずと知れた名作。この映画を観ずに映画ファンというなかれ。

第一位 廃市 

これこそ本物の映画だ。本物の映画という言い方は変かもしれない。映画というものは虚の世界の産物なのだから。しかし仮に本物の映画というものがもしあるとしたら、この「廃市」こそは本物の映画と言えるだろう。嘘偽りから遠くかけ離れたこの世で唯一の本物の映画。それがこの「廃市」であろう。大林宣彦監督のファンなら私のこういう評価にきっと賛同してくれると信じたい。
リンクを貼っておきますので、お暇ならご鑑賞して下さい。今すぐでなくともいいですから、いつかきっと。

映画「廃市」☛ Nobuhiko Obayashi - Haishi subs en     


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【霊告月記】第六十六回 蘇峰と蘆花  忍者になりたかった!

2021年05月01日 10時00分00秒 | 霊告月記66~70
【霊告月記】第六十六回 蘇峰と蘆花  忍者になりたかった!    

*子供の頃わたしは忍者になりたかった。そう、こんな忍者に☟


スランプに陥った。方向性が見えなくて困っている。確実に知っていることが何もない。何も新しいことを考える気が起きない。仕方がないので過去ログを探してアップすることにする。

フェイスブックでの子安宣邦氏の発言☛<
「謀叛論」の背景を知るために中野好夫の『蘆花徳冨健次郎』(全3部)を読み始めたが、これはすごい。本当の伝記というのはこういうものをいうのかもしれない。蘇峰・蘆花兄弟(賢兄愚弟)の相克・葛藤のうちに明治中期から後期にかけての国家も社会も精神も、そのすべてが映し出され、読み出されているようだ。なるほどこの高峻の蘇峰にして、蘆花のこの狂気がある>。この発言を受け、以下のような応答を行ったことがある。

◆徳富蘇峰と徳冨蘆花◆
「なるほどこの高峻の蘇峰にして、蘆花のこの狂気がある。」(子安宣邦)
先日の先生の市民講座での帰り道、本多さんと蘇峰・蘆花兄弟、この二人の不思議な関係について、語り合ったことでした。本多さんが、蘇峰と蘆花は兄弟なのにずいぶん違ってますね、どうしてでしょうかね、という感想を漏らされましたので、私なりの意見を述べたのでした。蘇峰と蘆花。この兄弟の対立と相克。ここには明治と大正、更には昭和の大敗北(敗戦)に至る、問題性のすべてが、その原型とでもいうべきものが潜在しているのではないか、という直感を申し述べたのでした。
蘇峰は単純化して言えば戦前の大日本帝国を代表する右翼思想家であり、これに対してこれまた単純化して言えば蘆花は人道的かつ平和主義的な戦前の諸思潮を吸収した大作家であった。だからこの兄弟は骨肉の相克・対立関係に入らざるをえなかった(少なくとも世間はそう見ていた)。
しかし、蘇峰から言うと、兄弟で喧嘩したことはない、少なくとも私から喧嘩を仕掛けたことは一度もない、という趣旨のことを述べています。蘆花は子供の時から親もあきれるほどわがままで反抗的であったそうです。蘇峰はそんな蘆花を心から愛し、私が責任もって育てますから、安心して下さい、と親に言って、その通り実行した。大学教育を受けさせ、文章も自分の経営する媒体に載せて、作家徳冨蘆花を誕生させた。
そんな蘇峰に蘆花は叛逆した。そして世間は判官びいきで蘆花に同情し、蘇峰を大悪人と評判した。蘇峰は、絶交を言い渡された蘆花のことを心配し、絶交されているのに、蘆花の自宅までたずねたこともあった。蘆花は、その時、蘇峰に門前払いを食らわせた。その時、蘇峰は、そうか弟もこの蘇峰を門前払いするほど偉くなったのかと喜んだそうです。それでもなお悲しみの心も湧いてどうしよもなかったと回想しています。
私はこの蘇峰の回想に、はじめて蘇峰という人間に共感を抱くことができた。蘇峰と蘆花、この兄弟の関係性は、1868から1945までの、日本近代史の問題性・悲劇性を象徴する、稀な、それこそ唯一と言えるほどの歴史的・思想的・芸術的な遺産ではないかと思えるのです。

★永遠の名作「風をあつめて」
  はっぴいえんど( 細野晴臣 大滝詠一 鈴木茂 松本隆)
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