【霊告月記】第五十五回 「ラス・メニーナス」と「資本論」
エッセー:その1 ベラスケス「ラス・メニーナス」
この絵が他の絵と違っているところは、フーコーがもしかしたら分析済みかどうか知りませんが、次の点にあるかもしれません。普通の絵は、画家が自然や風景や人物を、その独自の画風で描く。描かれたその絵は、画家の観た対象物として、そこにある。そうすると、その絵を鑑賞する私たちの視線は、画家の視線と二重になる。画家の視線と重ね合わせて、対象を見る。こういうことがある。絵を描くという体験と、絵を見るという体験とは、重ね合わせられる。逆に言うと、そこに描かれたのは、画家の観た対象だけであって、画家は隠れている。その隠れた画家の視線でもって、描かれた対象=絵画を私たちは見る。隠れるという点に於いても、画家と我々は、重ね合わされるわけです。
この絵は、どうか? この絵には、何が描かれているか。絵を描いている画家が描かれている。そして、絵を描く現場に居合わせた人が描かれている。その絵を私たちが鑑賞する時、私たたちの視線は、描かれている対象=国王の視線に重ね合わされる。こんどは隠れているのは画家ではなく、その画家が描いている対象=国王である。画家は隠れていない。相変わらず、上の場合と同じく、鑑賞者である我々は隠れています。我々は隠れている国王の視線でもって、国王を描いている画家や、その立会人=国王の家族を眺めている。そういう構造になっている。こんな風な解読をフーコーさんは行っているのでしょうか? たぶん、きっと、そうなんでしょうけど・・・。文学で云うメタ・フィクションの作品の構造と同じです。
写真は瞬間を捉える。ベラスケスは写真芸術が到来する数世紀前に絵画で瞬間を捉える試みをしていた。ドナルド・キーンが指摘しているのですが、芭蕉は一句の中で瞬間と永遠を共存させています。ほとんどの俳句がそうだというのです。典型的な例句:古池やかわずとびこむ水の音。古池の静寂。そこにカエルが飛び込む。一瞬の運動と響く音と水面の波動。すべてはおさまり元の静寂に戻る。古池の醸し出す永遠。こういう構造になっています。ベラスケスもある特定の一瞬を描くまでに、どれほどの長考が必要であったか、また描き終えるのにどれだけの膨大なエネルギーと費やされた時間が必要であったのかが思われます。芭蕉もベラスケスもその「貫道するものは一なり」ということが言えるのかもしれません。
芭蕉とベラスケスの対比、続けます。瞬間と永遠の共存が両者の芸術の中に看取されるのだという指摘を致しました。例を「夏草や」の句にとって考察してみましょう。ここには、見えるもの(夏草&古城)と見えないもの(つわものどもの夢)が一枚のダブローの中におさめられています。ベラスケスのタブローには、ある偶然性によって集められた人物や物が、美的秩序の中に収められている。その空間的な構図もまた芭蕉とベラスケスには貫道するものがあるのです。その慣道するあるものの正体は何か?それこそゲーテがファウストをして生涯の最後に叫ばしめた言葉に他なりません。ファウスト曰く「時よ止まれ!お前は美しい」です。ゲーテ・ベラスケス・芭蕉の巨匠トリオの描く視線と思考をカシャと撮影してみました。この写真、いかがですか? 良い写真が撮れていますでしょうか?
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エッセー:その2 青春の書としての「資本論」
資本論は私にとって青春の書である。「資本論を読んでいない頭は子供の脳である(中江丑吉)」という意見もあるくらいだが、すくなくとも私にとって資本論は青春の書であったし、いまでもその認識は変わらない。
一年間の自宅浪人をした後に明治大学政治学科に合格した。合格発表を見たすぐその足で神田神保町に行って、向坂逸郎訳岩波書店発行の大型本の『資本論』を買い求めた。それから帰省して4月7日の大学の入学式に出席するため上京するまでの約40日間、故郷の自宅で資本論だけを読み続けた。
一日約10時間40日間読み続けたので合計400時間くらいを資本論読書に費やした勘定になる。資本論を読んでいる間に19歳の誕生日を迎えた。3月13日が私の誕生日であった。
資本論は気迫を込めて三度読みを実行した。資本論全三巻の内、第一巻と第二巻はその三度読みによって完全に理解したと思ったのだが、時間切れで第三巻まで読み進めることはできなかった。しかしこの第三巻こそは資本論の核であり中枢である。中江ではないけれども資本論第三巻を理解できていない間は子供の脳であるということはたしかであろう。
資本論は私の青春の書であると最初に述べた。しかし資本論第三巻を完璧に読み終えて理解できてはじめて子供の頭脳を卒業し大人の頭脳に成長できるのだと私は思っている。
蛇足だが、時事問題にさして興味が持てない理由は、こういう課題を私は抱えているからである。
※参考:向坂逸郎訳『資本論』第三巻冒頭の文の引用※
「第一巻では、それ自体として見られた資本主義的生産過程、すなわち、外的事情の副次的影響は、すべてまた度外視されて、直接的生産過程としての資本主義的生産過程が呈示する諸現象を、研究した。しかし、この直接的生産過程は、資本の生涯の全部ではない。それは現実の世界では、流通過程によって補足されるのである。
この流通過程が、第二巻の研究の対象をなした。そこでは、とくに第三篇で、社会的再生産過程の媒介としての流通過程の考察に際して、資本主義的生産過程は、全体としてこれを見れば、生産過程と流通過程との統一であることが示された。
この第三巻のかかわるところは、この統一について、 一般的反省を試みることではありえない。肝要なのは、むしろ、全体として見られた資本の運動過程から生ずる、具体的な諸形態を発見し、説明することである。
その現実の運動においては、諸資本は、直接的生産過程における資本の態容と流通過程における資本の態容が、ただ特殊の因子として現われるにすぎないような、具体的な諸形態において、相互に相対している。
したがって、われわれが、この巻で展開するような資本の諸態容は、社会の表面に現われ、種々の資本の相互に相対する行動、すなわち、競争のうちに現われ、そして生産担当者自身の普通の意識に現われるときの形態に、 一歩一歩近づくのである。」
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