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【霊告日記】第五回  チークタイム  「青い影」&「メリージェーン」

2014年08月01日 10時00分00秒 | 霊告日記1~5

【霊告日記】第五回  チークタイム  「青い影」&「メリージェーン」

【 A Whiter Shade Of Pale - Procol Harum 】



学生時代は故郷の若狭出身者のみが入寮資格がある学生寮に住んだ。その寮には図書室があった。ある日その図書室でソシアルダンスの講習会があった。寮の一年生は全員が参加。当時四年生の先輩が講師をつとめてくれた。基本ステップを学んだ後の練習は寮の先輩が相手になってくれたのだけれど、油断すると背負い投げをくらったりしてソシアルダンスの練習なのか柔道の練習なのか分からないありさまだった。

こういうところが学生寮のありがたいところなのだが四年生の先輩はチークダンスの踊り方まで講習をしてくれた。「いいかカワバタ。チークタイムに入ってもいきなり抱き付いたりしたらあかんぞ。女の子がびっくりしてしまう。どういうふうにチークダンスに持っていくかというとだな」と秘伝の術の公開が始まった。その瞬間から柔道の練習どころではない。みんな真剣な目付きになって先輩の講義の声に聞き入ったのだった。

「右手は女の子の背中に当てているやろ。そして左手は相手の右手を握っている。その右手をやな、曲のいい感じの時にタイミング良く自分の左肩にそっと置くんや。そして自分の左手はするりと相手の腰に落とす。そしたら右手も腰の辺りに落としてもいい。それから両手でだんだんと相手を抱き寄せるんや。これがチークダンスの入り方や。どや?わかったか」。なるほどと思った。実践に使えるテクニックだと感心した。同郷の先輩というものはありがたい。こんな技は街のダンス教室やプロの講師は決して教えてくれないだろう。

私が大学生だったころには学生主催のダンスパーティが春秋の週末どこでもよく開かれていた。ダンスパーティを略してダンパと云った。よくダンパに行ったものだ。ダンパでは最後の数曲はスローのブルースが連続して演奏される。チークタイムが始まるとまずかかる曲はプロコル・ハルムの「青い影」だった。そしてラストの曲は必ずと云っていいほどつのだひろの「メリージェーン」。そんなわけで「青い影」や「メリージェーン」を聴くと若き日々のチークタイムを私は想い出すのである。陶然たる至福の時間を。 


【つのだひろ ♪メリージェーン 】

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【霊告日記】第四回  私の夏は明日もつづく  石川セリ「八月の濡れた砂」

2014年07月25日 10時00分00秒 | 霊告日記1~5

【霊告日記】第四回  私の夏は明日もつづく   石川セリ「八月の濡れた砂」 


『来たるべきアジア主義』の全面公開と軌を一にしてブログ「ダンボールの部屋」は大ブレークした。10ケ月に渡る周到な準備の後5月1日から6月28日までブログの更新を毎日続けた。作品のクオリティを高めることを優先順位の第一に置いたため情宣活動に割く時間はそれほどなかったのだけれども、それでも宣伝の方法を種々編み出した効果もあって日毎にアクセスは増えていった。宣伝が注目されコンテンツの内容も支持され多数のリピーターを獲得しブログはいまや完全に軌道に乗った。更新開始前のアクセス数は1週間合計しても一桁台の小さい数字であった。それが更新を開始した第一週(4/27~5/3)には三桁の数字となった。更新期間全体(4/27~6/28)の数字も参考までに掲げておく。

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 更新期間中(及びその後)の閲覧数・訪問者数  
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 期間                                    閲覧数     訪問者数 
①2014.04.27 ~ 2014.05.03         1084 PV   459 IP
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②2014.04.27 ~ 2014.06.28       12511 PV  4660 IP 
                    =======
③2014.06.29 ~ 2014.07.05      857 PV     289 IP
④2014.07.06 ~ 2014.07.12    1438 PV     387 IP   26794 位  /  2038449ブログ 
⑤2014.07.13 ~ 2014.07.19    1019 PV     315 IP   26115 位  /  2040590ブログ  
                                   gooブログランキング) 
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私が注目したいのはブログの連日更新を終了し週一回更新に切り替えた6月29日以降も閲覧数・訪問者数がそれほど目減りしていないことである。ブログの機能を使ってアクセスの経路を検証してみると、グーグルやヤフーからのキーワード検索による訪問客が次第に増加していることが分かる。一定数のリピータが存在すると同時にコンテンツが増えたことにより自動的に新しい訪問客がアクセスして来ているのである。週一回の更新のみでgooのブログランキングに入るなど通常ならばありえないことだ。ちなみにYAHOOで"ダンボールの部屋"と入力するとヒットする件数は約688万件。第一位にランクされるのがこのブログ【ダンボールの部屋】である。実績の評価が客観的な形でも示されている。このブログは理想的なサイクルで回り始めた。軌道に乗ったと云えると思う。

勿論これで終わりではない。「ダンボールの部屋」は上昇気流に乗って飛翔を続けて行く。もうすぐ八月だ。八月の濡れた砂を踏んで私の夏は明日もつづく。

※追記※  直近5週間の閲覧数・訪問者数とランキング(2014/8/24更新)
日付                           閲覧数     訪問者数   ランキング
⑥2014.07.20 ~ 2014.07.26  1377 PV  311 IP  30846 位 / 2042784ブログ
⑦2014.07.27 ~ 2014.08.02  1677 PV  334 IP  30329 位 / 2044855ブログ 
⑧2014.08.03 ~ 2014.08.09  1633 PV  344 IP  24896 位 / 2047147ブログ
⑨2014.08.10 ~ 2014.08.16  2226 PV  525 IP  13961 位 / 2049307ブログ
⑩2014.08.17 ~ 2014.08.23  3228 PV  728 IP    8542 位 / 2051434ブログ

【反撃の石川セリ】 私の夏は明日もつづく

『来たるべきアジア主義』は世界を変えるための書物です。この本は無償で公開します。
アジアの新しい歴史の創造を祈念しつつ。⇒ 【来たるべきアジア主義】 


【霊告日記】第三回 村上春樹の『1Q84』(おふざけモード+しりあすモード)

2014年07月18日 10時00分00秒 | 霊告日記1~5

【霊告日記】第三回 村上春樹の『1Q84』論(おふざけモード)

村上春樹の小説でボクがまだ読んでないのは長編・短編含めて最近作である『女のいない男たち』だけだ。で、村上春樹の小説で最後から二番目に読んだのが『1Q84』だ。読み方にはちょっとした工夫をボクはしたつもり。第三部が出版されて半年後くらいに、まとめて第一部から第三部まで一気に通して読んだ。

この小説で取り扱われた世界は村上がいままでに展開した小説に比べてより深くより広くなっている。いろんなことを調べ考えてそれらの成果をことごとくこの小説の中に彼はぶちこんでいる。これ以上深い小説を日本を含めて世界のどの国の小説家が書けるだろうか。書けないよ。

・・・だから、世界中で読まれて当然の作品という気がする。ぼくらは日本語で読める世界文学を手にしているのだ。文学のファンならこれを幸福と言わずして何を幸福というべきか。ぼくらは村上春樹という母国語で読める彼の世界文学の傑作に対して不満をいうなんてこと許されるはずはない。もしそんなことをしたらそれは文学に対して冒涜を犯すことすらになってしまう。そう思わざるを得ない。うん、そういうことだろうな。納得。

ここまではいい。さて、ここからが難しい。何が難しいかというと、何事か、あるいは何物かを批判することはすごく簡単である。なぜなら事実を述べればいいのだから。これに対して褒めるのは難しいということがある。褒めるってのは創造だからだ。

そういうことで、日本一の文芸批評家である小林秀雄は、その批評作品で自分が褒めることできる作家・思想家のみを取り上げた。ここからが問題なのだが、ある作家・思想家を論じる場合、そこにある抽象化がほどこされてしまうということだ。

つまり自分の褒めやすい作家・思想家を彼は作ってそれを褒めているのであって、実際の作家・思想家とそれは同じものなのかどうか。こういう根本的な疑問が湧くのだ。

つまり嫌いな部分、気に入らない部分、共感できなかった部分を切り捨てて、自分が褒めやすいものに作り替えて、それを褒めたとして、その行為=批評は自分を褒めているに過ぎないのではないか?

一見するとそうは見えない。自分を褒めてるようには見えない。だって彼は自分のことなど一言も言ってやしないのだから。他者である作家・思想家を評価しているに過ぎないようにみえるからね。他者の文章を差し示し、いつも小林秀雄はこんなふうに語っている。

ーーこの作家はみんなに誤解されている。あまり評価されてないようだ。けれど、ほんとはこんなにすばらしい人なんだよ。ほれ、この引用文を読んでみなさい。どう、この文章は目を凝らせば、こんな風にも読めてくるだろ。むにゃむにゃ、かくかくしかじか、こういうことを彼は言ってるわけさ。どうだ? 深いよね。君はいままで気がついてなかったろう。読みが足りないんだよ。さっと読み飛ばしたりするからいけない。君はいつもそんな読み方しかしてこなかったんだよ。ダメだなあ。書物は何度も熟読したまえ。そうしたら、僕がいま読み取ったと同じくらい深い世界が君にも見えてくるはずだ。無私とはそういうことだ。さかしらを交えず、著者の声にひたすら耳を傾けてみなさい。そこからしか、何も始まりはしない。いいね、分かったね。

上のような小林秀雄の議論に逆らえる人間がはたしているだろうか。いるかもしれないが、ボクには反論は不可だ。現時点では反論をする能力もその意志もボクにはない。従ってそれゆえに『1Q84』という大作家の傑作に対して、いまのところ語るべき言葉をボクは何も持っていない。やれやれ。悲しい話だと思いませんか?

それでもなおかつこの『1Q84』に関して何かを語れと言われるならば、うん、「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(『カンガルー日和』所収)という原稿用紙5、6枚くらいの掌編小説がありましてね。そっちの方がボクは『1Q84』より好きですというしかないです。ハイ、すみませんが。

これって比べるのがそもそも無理(ヾノ・∀・`)なんですけどね。長さが違いすぎですもん。でも長さや深さを無視すると、同じハナシじゃないかな。世界には男の子と女の子がいる。で、自分にぴったり会う男の子(男の子からすると女の子)は世界ひろしといえども、たったひとりしかいない。そして出会いのチャンスは一回しかない。その一回きりしかないチャンスをもし逃したら万事急須、永遠に彼(もしくは彼女)と再開できる日は来ない。

あなたの人生が勝利するか、それとも敗北に終わるか。たった一回だけ訪れるその出会いの日に、これだ! この人だ! と気づくことが出来るかどうか。その一瞬の判断にあなたの人生の成否がかかっている。その一瞬の判断を正確に下すこと以上に大事なことはこの世の中に他に何もない。

村上春樹はこういうメッセージを「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という小説でもってボクに単刀直入に示してくれたんでしてね。もちろん『1Q84』もそのMSGは同じように含まれているんだけれど、ゴタゴタと未消化な考察やら分析やらが大量に含まれていて、ボクからすると、それらは議論のレベルがあまりに低くて、面白く感じられなかった。ハルキ! もっと勉強しろよと言いたいくらいで~す。

ハイ、ごめんなさいね。石投げないで下さい! 世界的作家に対して言うべきことではなかったですね。暴言でした。お詫びしますのでお許し下さい。ごめんなさ~い!      終わり


【反撃の村上春樹】 
『1Q84』(しりあすモード)


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【霊告日記】第二回 マルクスの霊告「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」

2014年07月11日 10時00分00秒 | 霊告日記1~5

【霊告日記】第二回 マルクスの霊告「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」


追い込んだ奴が、今度は追い込まれる。巡るや巡る因果応報の劇。

因果応報劇はふつう三
幕(戦闘準備、戦闘開始、そして総攻撃)から成り立つ。

第一幕 主人公(もしくは主人公の属する組織・団体)が追い込まれる。しかし主人公(もしくはその組織)は反撃の準備を始めている。

第二幕 反撃が始まる。しかし敵も新たに戦力を補強し勝敗の行方は予断を許さない。双方が、有利になったり、不利になったりと、熱い戦いが続く。

第三幕 決戦の時が到る。勝利するのは必ずしも主人公(無実の人)とは限らない。しかし歴史の女神はたとえ無実の人が敗れたとしても、そのままでは終わらせない。


すなわち、新しい劇を用意して、新しい歴史を創造する機会を与えるのだ。
主要登場人物は同じである。しかし登場する役者や場面は大幅に増加する。

歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。
歴史がかく繰り返すゆえんはなぜ? それは人類が過去と朗らかに決別するためである。

野戦攻城の一回目は負け戦に終わった。悪霊アベノミクスが世を制した。
⇒  極のカーニバル演劇【野戦攻城】参照

反撃の日が待ち遠しいでは御座らぬか? 同志よ!
⇒ 来春5月、反撃の烽火が燃える!

  


【反撃のベートーベン】 チェロソナタ第3番イ長調 Op. 69 第2楽章


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【霊告日記】第一回 北一輝の霊告「大海ニ波立ツ如シ」

2014年07月04日 10時00分00秒 | 霊告日記1~5

【霊告日記】第一回 北一輝の霊告「大海ニ波立ツ如シ」

                              
    北一輝(明治16年4月3日―昭和12年8月19日)

    2・26事件直後警視庁に出頭した際警視庁写真班が撮影


昭和11年2月28日午後1時、北一輝は自らの日記帳に最後の霊告の文字を記した。大きな文字で、大海ニ波立ツ如シ、と。「大海ニ波立ツ」とはどのような意味の比喩であろうか。大海は、時代の深層とも、民衆の無意識とも、思想家の精神の真髄とも、どのような解釈も可能であろう。だが、大海は、時間空間を超越した地球時間の永遠とも解釈できるし、現代にまで射程を伸ばすならば地球全体を覆うWEB空間とみなすことも可能である。

大海と聞いてまず私が思い浮かべるのはロートレアモンである。この引用は、そのままで北一輝の霊告の正確無比の注釈になっている。

年老いた海原よ、おまえは自己同一のシンボルだ、いつも自分自身と一致している。おまえは本質的に変わってしまうことはなく、おまえの波はどこかで猛り立っていても、遠く離れたほかの海域では完全な静寂の中にある。おまえは人間のようではない。奴らは二匹のブルドッグが首に噛みつき合っているのを見るためなら道のまん中に立ち止まるくせに、葬式が通る時には止まりはしない、今朝つきあいがよかったかと思うと、夕方には機嫌が悪い。今日笑っているかと思うと、明日は泣くのだ。おれはおまえに敬礼する、年老いた海原よ!
(渡辺広士訳『マルドロールの歌』ロートレアモン)


あるいはランボーだ。

 見つけたぞ。
 何をだ? ――永遠だ。
 太陽に溶け込んでいる
 海だ。        1872年5月
(小林秀雄訳「永遠」A.ランボー )


】大海ニ波立ツ如シ 北一輝 【

  「霊告日記」第四冊最終頁・昭和11年2月28日


この後、霊告を続けることは北一輝にはできなかった。昭和11年2月28日午後3時頃、憲兵隊の手で逮捕され、翌年の夏北一輝は処刑されてしまったからだ。いま北一輝の霊は安心立命して沈黙を願っているであろうか。そうではあるまい。北一輝の意志は霊告の続行を求めている。それはほとんど私の確信である。

もし他に誰も引き受け手がいないのなら(現に今迄引き受け手はいなかった!)、誰よりも北一輝の意志と気概を熟知している私が名乗りを上げ、霊告の続行を引き受けよう。そのように考え思念してこの霊告シリーズを発案した。

「大海ニ波立ツ如シ」とは最後の言葉ではありえない。それは始まりの言葉である。最初の著書『来たるべきアジア主義』を公開したばかりの私にとって、今日こそ真の始まりの日であると思っている。最初の書で何が足りなかったのか、言い残したことは何か。そのような問いと共に、本当の言葉、真実の言葉、最初の言葉が探求される。そしてその探求に終わりはありえない。

ハンス=ゲオルグ・ガダマーは、ソクラテス以前の哲学者についての講義の中で「始まり」の真の意味について「多くの継続が可能であること」と解釈を施し、次のような補足説明を試みている。

或る事の始まりが知られるということは、その事がその青春期において、つまり、人間の生涯において、具体的な特定の発展の歩みがまだ成し遂げられていない段階を意味する青春期において、知られることを言うのです。若者は不確かではありますが、同時に自分の前にあるさまざまな可能性に対して全力を尽くそうという熱意を感じているのです。この類比は、最初に未決定のまま開かれており、まだ固定していない方向性が次第にますます明確性を増して具体化の道を辿る一つの運動を暗示するのです。
(箕浦恵子/國嶋貴美子訳『哲学の始まり』ハンス=ゲオルグ・ガダマー)

ロートレアモンとランボーによって真の青春の可能性が切り開かれた。その可能性は北一輝によって引き継がれた。人類の青春相続人は誰か? いま問われているのは、そのような問いである。今後「霊告日記」を毎週金曜日午前十時に連載することに致します。ご期待下さい。

   夏の海。
   デュカスをのせた船は、モンテヴィデオへと向かう。
   あらゆるものが漂流する場所、夏の海。
   デュカスは、その航海で、ありとあらゆるものを見た。
   パリの一室にこもって、やがて
   彼は自分の見たものを記すことになろう。
   が、しかし、ここもまた電子の海である。
   あらゆる人が、想念が、漂流可能なのだ。
          (「非ユークリッド文学宣言より


【反撃のミッドナイトブルー】

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