第一章 福沢諭吉の進歩主義
福沢の洋学研究は、ペリー来航の翌一八五四年、長崎における砲術修行をもって開始されるが、それ以前の十九才までの幼少年時代には、故郷の中津(現在の大分県)において、当時の武士階級の子弟ならば誰もが修めることになっていた漢学を身につけていたに過ぎず、その教養は特にめずらしいものではなかった。注目すべきは、出生の事情である。諭吉の父は中津藩蔵屋敷に廻米方(まわりごめかた)として勤務していたため、兄弟(一兄三姉)と共に大阪で生まれた。ところが父が翌年病死したため、一家は全員が故郷へ帰還したが、その結果、福沢家は中津に独自の家風を持ち込むことになった。自伝によれば、『私共の兄弟5人はドウシテも中津人と一所に混和することが出来ない。(中略)第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「さうぢやちこ」と云う処を、私共は「そうでおます」なんと云うやうな訳で、お互に可笑しいから先づ話が少ない。夫れから又母は素と中津生まれであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、小供の髪の塩梅式(あんばいしき)、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。有合(ありあい)の着物を着せるから自然中津の風と違はなければならぬ(』といった具合である。すなわち諭吉は、生まれながらにしてすでにその故郷において異邦人であった。福沢家は異なった文化体系(大阪文化)を家風として中津へ持ち込んだため、「幼少のとき中津の人と言語風俗を殊にして、他人の知らぬ処に随分淋しい思ひをしました」と述べるような孤立感を福沢に味あわせることになったけれども、その孤立は後に重要な意味を持つことになった。
より高い文化を保持するが故に疎外されるその生活環境は、野蛮への嫌悪と、文明への憧れを増幅させると同時に、異なる文化価値体系(大阪と中津)の観念をも、諭吉に体験的に与えた。福沢の思想の根本モチーフである「野蛮(ないしは半開)から脱して、文明へ向かうこと」は、この光栄ある孤立の中にその種子がまかれていた、といっても過言ではない。福沢の幼少年時代の境遇はまた、アンデルセンのみにくいアヒルの子の童話に似ていなくもない。後年の白鳥の羽ばたき(啓蒙思想家への飛躍)に、みにくいアヒルの子の時代は無駄ではなかったのである。さらに、家庭内での大阪言葉が保存されたため、他の子供達と言葉があまり通じなかったことが、後年の福沢に与えた影響も無視しえない。言葉に敏感な子供として育ったから外国語の上達も早かった、といった皮相な意味でいうのではなく、言葉というものが単に思想交換(相互理解)の手段としてだけでなく、相互無理解(思想不交換)の原因にもなりうることを体験的に了解したことは、福沢の書く文章の平明さの理由の一端をも説明するであろうからである。議論の明快さと共に、文章のわかりやすさは、まさに啓蒙思想家福沢の本領ともいってよい。
「自分の文章は最初より世俗と決心し、世俗通用の俗文を以って世俗を文明に導くこと、恰も真宗の開祖親鸞上人が自ら肉食(にくじき)して肉食の男女を教化したるの顰(ひん)に倣ひ、何処までも世俗平易の文章法を押通し、世俗と共に文明の佳境に達せんとするの本願にして、會て初一念を変じたるなき」(『福沢全集緒言』)と述べたその決心も、幼少時代の体験とけっして無縁ではなかった。かくして、あらゆる英雄的人物がその生涯で一度は筈(な)めねばならぬ苦境を、福沢もまたその幼少時代に味わったのであって、この時期に、無意識の内にも培われた貴種流離の感覚=流され王の予感は、後の飛躍のための大きなバネとなったのである。
さて、十余年の洋学研究と、二回の洋行(後にさらにもう一回)による実地観察の成果を組み合わせ、『唐人往来』(一八六五年)を著して福沢は、啓蒙思想家としての述作の第一弾を放った。
『唐人往来』は福沢の思想的な処女作であるのみでなく、啓蒙思想家としての力量をもすでに如何なく発揮した名著であり、頃は所謂(いわゆる)攘夷論の最中に、「一本の筆を振り廻して江戸中の爺婆(じじいばばあ)を開国に口説き落とさん」と企図して記された小冊子である。我々はこの小論に、福沢の思想と理念が立ち上がる原景を見ることができる。政治・経済・軍事の三本の柱を立てて開国の利点と不可避性を説いたその内容を、以下簡単に見ておきたい。福沢が主張した第一点は、いまや政治意識の変革がすべての日本人にとって必要な急務である、という事であった。福沢はまず日本を含むアジアの特徴を、「兎角改革の下手なる国にて、千年も二千年も古の人の云ひたることを一生懸命に守りて少しも臨機応変を知らず、むやみに己惚(うぬぼれ)の強き風なり」と指摘する。アジアは全体として「己惚」の病にかかっており、それは福沢によれば「言語道断、風上にも置かれぬ悪風俗」である。「人情は古今万国一様にて、言葉の唱へこそ違え仁義五常の教なき国はなし。(中略)然るに今、日本一国に限り自ら神国などと唱へ世間の交(まじわり)を嫌ひ独り鎖籠(とじこも)りて外国人を追払はんとするは如何にも不都合ならずや。(略)謂れもなく自国許り別段貴きものの様に思込み、世間の事に頓着せずして我意を言募(いいつの)らば、遂には人の嘲弄を受け、唐士同様の始末に陥り、我国を貴ぶ心より実は却て我国を賎むるの場合に成行べきやと深く心配する処なり」、とまずは気を鎮め心を落ち着けよと、ゆるやかに諭している。第二に、福沢は、外国との交易が始まったことによって、「何は無用、何は有用、之を買ては国の富など、彼是言ふ」、風潮に対して、分かりやすく自由貿易の利点を示さねばならなかった。筋道を立てて経済の仕組みを説明し、自由貿易が決局は富と仕事を増やすための仕組みであることを明快に議論したそのあとで更に福沢は、理屈では分かっても自由貿易を非難する人が絶えない原因を、その心理的な根拠まで遡って追求している。「故に交易は我国一般繁唱の基と思ひ喜ぶべき事にて、少し物心ある人は皆合点せる所なり。然るに世上一般諸色高値難渋と唱る何故なるやと考ふるに、基本は皆人情の自分勝手より起こりたる話に相違なし。大抵世の中の人は自分に都合よき事なれば先づ隠すものにて、金があるとて自慢する金持もなく、大儲けをしたと吹聴する町人もなし。何か自分の身に付き不足あれば少しの事にても頻りに唱触らし仰山に言ひなすは人情の常、当時諸色高値と云ふも矢張り交易の御蔭を以て好き事した所はだんまりにして置き、取ても付かぬ外の事へ交易を引合に出し自儘勝手の愚痴を述ぶることと思はる」。この心理分析の部分などは、現代にもそのまま通用しそうな議論である。第三の国防論の骨子は、「先見ずの短気にて前後を顧みず、是非を弁えず無理なる師をすれば、敗軍の上に世界史末代まで恥辱を遣し、唯一つの道理を守て動かざれば敵は大国にても恐れるに足らず」と、まずは道理に立脚するのが先決問題であり、つぎに、「今日にもせよ一番思立ち、漢学や槍術などは先ずお次のことにして置き、欧羅巴風に見習ひて、蒸気船も沢山に拵へ大小砲も造立て、海陸にも備を設け……」と、軍備の充実のためにも、世界と交わって国力を増すよう努めねばならぬと結論したのである。
ところで、『唐人往来』は、開国の主張を述べたに止まり、その意味では極めて限定的な議論であって、福沢の啓蒙思想の本質を必ずしも全面的に示したものではない。福沢の啓蒙思想の本質的内容、その最大の限目ともいうべきものは何であったか。「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである」(カント)としても、それでは一体何を獲得すれば、未成年状態を脱したと判定されることができるのか?
「古来東洋西洋相対して基進歩の前後遅速を見れば、実に大造な相違である。雙方共々に道徳の教もあり、経済の議論もあり、文に武におのおの長所短所あちながら、扨国勢の大体より見れば富国強兵、最大多数最大幸福の一段に至れば、東洋諸国は西洋諸国の下に居らねばならぬ。国勢の如何は果して国民の教育より来るものとすれば、雙方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコで、東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形に於て数理学と、無形に於て独立心と此二点である」。(『福翁自伝』)
福沢の進歩主義の核心がこの部分で述べられている。東洋が西洋と比較して停滞性を持つ原因は、東洋に於ける数理学(実験精神に裏打ちされた科学)の欠除と、独立精神の欠除、この二点であり、しかもそれを支えているのは儒教教育であるというのが、福沢の生涯を貫く啓蒙活動を背後で支えた根本認識であった。『学問のすすめ』を書いた福沢が、なぜ一貫して儒教主義の復活には反対したのか、「独立自尊」の標語が福沢精神と同等(イコール)とみなしうるのはなぜか、こうした問いの答も、前記の引用文中にあらかじめ示されているといえよう。
丸山真男氏は、福沢が新時代の学問の中心的位置に数理学を置いたことの意味を特に取上げ、徳川旧体制(アンシャン・レジーム)の典型的学問が倫理学(道徳)であったことと対比しつつ、その移動の孕(はら)む意義を指摘されている。(『福沢に於ける「実学」の転回』参照)。しかし私はここでは、福沢が東洋の欠陥として見抜いたその二点(独立心と科学の欠除)が、現在の視点としてもなお有効性を持つような認識であるかどうかを検証してみたい。しかしその前に福沢とは逆に、西洋人の立場から、西洋と東洋の文化現象を比較したマックス・ウェーバーの比較社会学の視点を参考してみよう。この部分は、ウェーバーが、儒教とピューリタニズムについて比較しているところである。
「儒教の倫理も、ピューリタニズムの倫理も、ともに深い非合理的な根底をもっていた。が、それは前者においては呪術、後者においては現世を超越する神のどこまでも究めがたい決断であった。ところで呪術から帰結するものは伝統の不可侵という事実であった。もろもろの精霊の怒りを避けるために、経験ずみの呪術的手段を、究極においては、伝来の生活諸形式を変更するようなことはとうてい許しえなかったのである。これに反して、現世を超越する神と、また被造物に堕落し倫理的に非合理的な現世との関係から帰結するものは、逆に伝統の絶対的な非神聖視と、そして所与の世界を支配し統御しつつ、これを倫理的に合理化しようとする不断の勤労への絶対無際限な使命〔観〕、要するに「進歩」への合理的な即事象的態度であった。こうして、儒教における現世への順応とはおよそ対蹠的に、ピューリタニズムにおいては、現世〔世俗生活〕の合理的改造への使命〔観〕が打ちたてられたのである」。(『世俗宗教の経済倫理』大塚久雄訳)
要するにウェーバーは、呪術の容認(=科学の軽視)、伝統の聖化(=現世の合理的改造の困難)を、儒教の精神とからめてこれを理解し、プロテスタンティズムはその対極に立つもの、と結論したのである。ウェーバーの認識が、福沢のそれと著しい共通性を持っているのは明らかである。
現代中国で、科学技術の現代化が最近の国家の政策目標となっているのは知られたとおりであるし、日本でも科学の基礎研究の立遅れが指摘されているのも事実である。
ロッキード事件とウォーターゲート事件での日米の証人の対応ぶりの違いを観察するにつけても、それが福沢やウェーバーの仮説を援用すると解ける場合が多いのに気付く。議会での宣誓を重んじるか、人との義理を守り抜くかの選択の違いは、独立心の問題と深く結びついている。
「あらゆる政治的概念が、すべて世俗化された神学概念に過ぎない」(カール・シュミット)とすれば、旧体制の神学の打破が福沢の出発にならねばならなかった。独立精神の鼓吹と近代的教育の普及をもって、福沢は日本の啓蒙精神の輝かしい旗手となった。
「欧羅巴の文明を求るには難を先にして易を後にし。先づ人心を改革して次で改令に及ぼし、終に有形の物に至るべし」。このような戦略が述べられた『文明論の概略』は、日本の文明化のための不退転の思想原理が示されている。福沢畢竟(ひっきょう)の名著といえよう。