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好日10    希釈された鎌いたち

2007年03月01日 10時00分00秒 | 好日6~10

  好日10    希釈された鎌いたち



 使い慣らしたワープロを取り出し、文章を書き始めるにあたって、私はまずタイトルを定める。後になって変える場合もあるが、まずタイトルを決めないと、書き始めることができない。漠とした内容より、きっちりとしたタイトルがあった方が、書き始める際の心の姿勢を決めやすいといった事情が、私にはある。

 鎌いたちとは、原因も分からないまま、鎌で切ったような切り傷ができることを言うが、いたちの仕業と仮にみなした造語である。この鎌いたちという言葉には、時間的・空間的に危機が凝縮されたイメージがある。そこで時間的・空間的に危機を拡大し、毒を希釈していってそのまま薬に変える。そういった言葉の錬金術として、「希釈された鎌いたち」という言葉を差し出してみたいのである。

 瀧口修造は土方との最初の出会いをこのように回想している。来訪の予告を受けて、玄関前に立った土方は稲妻にあってびしょぬれであった。バスタオルを巻いた土方と最初の挨拶を交わした。その時に詠んだ瀧口の一句ー「鎌いたち稲妻だけを借着して」 

 土方巽は舞踏家であり、肉体そのものが芸術作品であって、普段の立ち居振る舞い、即興的なおしゃべりを含め、すべてが象徴的な芸術行為と取れることが非常に多かった。

 話題がマルセル・デュシャンの事柄に及んだ時、土方巽は発音の仕方が違うと、私に注意した。では、マルセル・デュシャンとはどう発音すべきなのか? 「まず角砂糖を摘んで口の中に入れる」と土方巽は述べ、目の前に角砂糖があるかのごとく取り上げ、口の中に放り込んだ。そしてなにやらもぐもぐとやって、「マルセル・デュシャン!」と叫んだのである。確かにその瞬間、ぼくたちのよく知っているあのマルセル・デュシャンが、呼び出しを受けて、その場に現前したのであった。舌の上で転がりながら溶けていく角砂糖とまとわりつく形で発声されたマルセル・デュシャンという空気の震え。それは即興的に示された土方ダンスそのものであった。

 宴は深まり、夜は更けた。土方は両腕をふわっと伸ばして立上がり、唐突に、何の脈絡もなく、「ヨーハン・ボルグガング・ゲーテ」と呟いた。「光の密売人が」どうのこうのと、ひとりごとは続いたのだが、後は聞き取れなかった。その時にも、粉雪の舞う中に、ヨーハン・ボルグガング・ゲーテが、土方の傍らに立った。土方とゲーテの、幻のデュエットのダンスを、私は見た。

 土方は、テーブルのバナナを手元に引き寄せ、ひとつずつちぎっては周りの人に、丁寧にそれを配った。その仕草に自分のコメントは何もつけず、いまそのバナナをちぎること。それを手渡すことに、全神経を集中しているかのごとき光景がそこにはあった。私がその時連想したのは、キリストがパンをちぎって弟子に手渡した時の、その腕の動きであった。完全に無償な行為。ただ食べ物をちぎり、それを人に分け与える。この肉体の簡単な動作すら、土方にあっては、ただ一回性の危機の舞踏なのであった。

 空間を切り裂き生傷が生まれる瞬間を、確かに私は何度も見た。脳の中にいまなお残るこの古傷を、私は忘れない。いや鎌いたちの方が私を忘れないのだ。希釈された鎌いたち。世界の古傷。

 このエッセイを書き終えて、目を上げれば、扇風機がひたすら回っていた。また夏が過ぎて行く。

 


 

角砂糖が溶けていく味がするマルセル・デュシャンの肉声 


好日9  アメリカとの決別 

2007年03月01日 09時00分00秒 | 好日6~10

 


    好日9  アメリカとの決別 



 
 欧米と一口に言うけれども、欧州、とりわけ西欧とアメリカでは、なにかが違う。それも些細な違いではなく、文明そのものが根底から異なっている気がする。私がこういうことを考えたのは、イラク戦争を巡っての西欧とアメリカの対応の違いが見えたのがきっかけになっている。単なる政策の違いといったレベルにとどまるのではなく、人間観・歴史観をも含む、根本的には文明そのものの違いが露呈されたのではないかという直観があった。

 西欧とアメリカの文明の違いは、根本的にはどういうところにあるのか。それは近代に入る以前に〈ルネサンス〉を経験したかどうかが決定的であると思う。「アメリカとの決別」という言葉を発する私の志にあるのは、この〈ルネサンス〉という経験の尊重、ないしは〈ルネサンス〉の叡智の獲得である。

 エルンスト・カッシラーの『英国のプラトン・ルネサンス』は最近読んだ中で最も目を蒙かされた書物である。その内容を簡単に述べるならば、プラトンが〈ルネサンス〉に精気を吹き込み、プラトン哲学がフィレンツェ・アカデミーの中で復活し、やがてシェイクスピアや啓蒙思想にまで影響を及ぼしてゆく。そうした経緯が精神史の光景として描かれているのであった。

 プラトンとシェイクスピアを繋ぐ糸をついに見つけたという感動は大きかったが、それ以上に〈ルネサンス〉の精神の中心にプラトンが鎮座しているという発見は衝撃的であった。科学と宗教の壮大な規模での邂逅と融和を説くのが、プラトン哲学の着地点であり、それこそ世界史レベルに於ける〈寛容の精神〉の獲得に他ならなかったのである。

 転機は、誰の人生にも突如としてやってくる。きっかけはさまざまであっても、世界が違ったように視え、ものごとが異なったふうに感じ取られる。それが〈新生〉である。晩年のバルトのエッセイに〈新生〉という言葉がキーワードのように用いられ、バルトの思索と生活はこの〈新生〉という概念を巡って展開していた。

 ところで、バルトの〈新生〉は、『失われた時を求めて』という作品を書いたプルーストにモデルを持っていた。作家にとって、いままで誰も書いたことのない新しい作品を書くことが〈新生〉であると、バルトは主張する。プルーストにとっては『失われた時を求めて』という作品を書くことが〈新生〉であった。プルーストの人生は、〈ルネサンス〉の理念の反復ではなかったか。

 バルトの死はプルーストの人生の反復の試みの挫折であった。
 プラトンの〈新生〉はソクラテスの死の日から始まっている。
 ラザロの〈復活〉はキリスト〈復活〉の序曲であった。

 「アメリカとの決別」という言葉を、私がいま発する時、それは単なる政治的発言ではない。〈ルネサンス〉の精神を、日本人が真に獲得し、世界に実現できるかどうかを問題にしている。それは、「アメリカには無理だが、日本ならやれる」そういう自信を、文学・思想・政治のすべての領域で獲得できるかどうかを問うているのだ。生命の呪文として、「アメリカとの決別」という言葉を、私はあなたへ投げ付けよう。お別れだ、友よ。

 「ところで、まだ前夜だ。生気と真の愛情の流れ入るのをくまなく受け入れよう。夜明けに、おれたちは、焼けつくような忍耐で武装して輝く町へ入ってゆこう。」(アルチュール・ランボー『地獄の一季節』「別れ」高橋彦明訳)


 

アルチュール・ランボー 最も高い塔の歌 金子光晴訳 


好日8  サリンジャーと九・一一

2007年03月01日 08時00分00秒 | 好日6~10

  好日8  サリンジャーと九・一一



 桜木町駅が廃止になりみなとみらい線が開通した。私の通っている職場はみなとみらい駅の真上のクイーンズスクエアビルの中にある。駅からエスカレータで昇れば、そのまま職場に直行できるようになった。

 クイーンズスクエアビルの四階から地下四階のみなとみらい駅ホームまでは、巨大な吹き抜けになっていて、四階から見降ろすとホームに電車が入ってくる様子を見ることができる。

 こういう景観はいままで誰も見たことがなかったはずなのだが、妙に既視感が漂う。キリコの絵を見た時のように。あるいは湾岸戦争の際のピンポイント爆弾のテレビ映像を見た時のように。

 見慣れた風景に突如異物が侵入してくる感覚。テクノロジーの尖端を垣間見るような感触。九・一一の事件のみではない。自分の生活の近辺にまで、グローバリズムの影響が近付いてきた気がするのである。ぼくらの感性や直観はますます世界とダイレクトに結ばれてきた。

 九・一一のテロは、誰が何の目的で行ったのか。犯行メッセージはいっさい発せられなかった。そのために、意味の解読は実行行為を担った犯人ではなく、映像の受け手に、アメリカや各国政府、そして世界中の知識人に任せられた。ひとつの事件が世界を結んだ。グローバリズムは、地球時間二〇〇一・九・一一という明確な誕生の日付を持っている。

 アメリカの理想主義の栄光と挫折、長所と欠点を一身に体現する作家はサリンジャーではないかとぼくは考えている。あれほどの傑作をものにした作家のほぼ四十年におよぶ沈黙は文学の歴史にも過去に例がない。サリンジャーの新作は死後に出るであろう。大量に書かれているであろう作品をサリンジャーはなぜ発表しないのか。近親者の言によれば、それは「不評が怖い」からなのだそうである。サリンジャーは紛れもなく天才を有した作家であるが、それは巨人の傲慢という人間的欠陥と裏表である。それゆえアメリカという没落しつつある帝国と、サリンジャーの存在が、ぼくにはこの頃メダルの裏と表のように見えつつある。


「古池やかわず飛び込む水の音」ー耳を澄ます人がここにいる。
「秋ふかし隣は何をする人ぞ」ー視えないものを視ようとする人がここにいる。
「もの言へばくちびるさむし秋の風」ーメッセージの彼方、ことばの彼方へ、魂を通わす人がここにいる。

 新生。電子ネットワーク時代の思想と文学。ぼくらの国の文学は、知性は、愛は、やはり俳諧から得た智慧を汲み取って再開していくしかない。アメリカの理想主義を超える叡智は、この国の言葉の伝統の中に埋もれている。それをグローバリズムの検証に耐えるものに新生させうるかどうかが問題なだけである。新しい言葉を語りうるかどうか、それはぼくらの生活が、新生を獲得できるかどうかに掛かっている。ダンテが、プルーストが、ドストエフスキーが、この国から出ない限り、世界の未来は危うい。文学は人間の心のいちばん奥深くまで届く最後のメッセージであり、対話の最終兵器なのだから。

 サリンジャーを、芭蕉を媒介にして超える。それが、今の私のビジョンである。



 ★マクルーハンの予言ー「グローバル時代には世界はひとつの村になる」★


好日7 ブラームスを聴きながら

2007年03月01日 07時00分00秒 | 好日6~10

  好日7 ブラームスを聴きながら



 ソファーに脚を投げ出し、頭を枕にのせて、クラッシックの名曲を聴く。独り自在の王国で遊ぶ。多くの時間がそのようにして流れた。

「俺たちの欲望には繊細な音楽が欠けている」と記した時のランボーの、心の内に流れていた音楽を、いま知りたく思う。

 孔子は斉国に居た時、韶の音楽を聴いて感動し、数か月間肉の味も分からないほどであったという。その時孔子の内部で起こっていたことは、言語化できないものであった。孔子はただ「音楽がこういうところにまで至るとは思いもよらなかった」とのみ語っている。音楽に感動し言葉を失う孔子。これこそ真の孔子像だ。

 小林秀雄の最晩年の著作はブラームスを聴きながら書かれたという。なるほどブラームスの音楽のあの円熟・完成度は小林秀雄の文体に通じるところがある。

 毎日ショパンばかり聴いて過ごした日々があった。サルサ・クラブで踊って、帰って来て自分の部屋で聴くのはやはりショパン。孤独を荘厳する力がショパンにはある。ショパンはポーランドのダンス音楽を、聴く音楽に作り変えた。そこがショパンの音楽の普遍性の根っこにある。現代に生まれ変わったら、ショパンはサルサをピアノ曲に作り変えるのではないかしら。

 音楽が終わる時、詩が始まる。逆もまた真なり。

 学生時代、私は『日本浪曼派批判序説』の著者であり日本政治思想史の研究者である橋川文三先生のゼミに所属していた。そのゼミの講義の中で最も印象深かったのは、司馬遷の『史記』についての話を聞いた時であった。竹内好に個人教授で中国語を学んでおられた先生は、『史記』の全文も原文で読まれていたようである。司馬遷の時代と現代は、中国語に文法的な違いはそれほどないことなどを話の枕にされた。ところで、荊軻による秦の始皇帝暗殺のドラマをクライマックスとするその日の講義は、まずギリシャと中国の歴史叙述のスタイルの違いの話題から始まった。

 ギリシャの歴史叙述は、ヘロドトスの『歴史』でもツキディディスの『戦史』にしても、それぞれペルシャ戦争やペロポンネス戦争といった〈事件〉を時間を追って語るという叙述のスタイルを取っている。これは基本的に現代の歴史叙述にまで至る方法である。しかし司馬遷の『史記』の叙述のスタイルはギリシャ人の創始したものとは根本的に異なっていた。紀伝体と呼ばれるそのスタイルは、「本紀」でまず王朝の歴史を述べた後に、「世家」の部で諸侯の歴史を語り、最後に「列伝」で個人の伝記を加えている。このようにして王朝の歴史から個人を含む世界全体を記すスタイルのユニークさ語った後、特に「列伝」が素晴らしいのだということを、荊軻の例を以て先生は示されたのであった。

 先生は身振り手振りを交えて荊軻の性格や経歴を語られた。そしてついに荊軻は始皇帝暗殺に出発する。「風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去ってまた還らず」と荊軻が詩を詠む段に至った時、僕らは時空を超えて中国の壮大な世界のその日その時を、まざまざと見るかのような臨場感を味わったのであった。あの日の橋川氏は、始皇帝刺殺を企てる哀しき荊軻の心に感情移入したもう一人のテロリストであった。恐るべき詩人であった。

 「さあ、音楽だ!」(ロートレアモン『ポエジー』) 


 復元された斉国の古代音楽「韶」  演奏は6分過ぎ頃から


好日6  怪物への道

2007年03月01日 06時00分00秒 | 好日6~10

 


          好日6  怪物への道


  エッセイは、ノンフィクションの一人称の語り手が語るという約束事の文学形式である。しかし、ルールは破るためにある。
 そう、その通り、草原を渡る風に賭けて、偽りなき証言をしよう。私の前世は虎である。忘れもしないあの日、私は最高に素晴らしい雌の虎を追いかけていた。逃げ場を失ったその雌虎は急角度の斜面を滑り落ちていった。斜面の下は岩場。落ちれば命はない。私は急角度の斜面を猛スピードで追撃をかけた。死へまっさかさまに滑り落ちながら、私はその最高の雌と交尾したのだった。数秒後の死を意識しながら、死んだらどうなるのかも知らず、永遠にこの快楽が続くことを願いつつ・・・
 転生はありふれた事実だが、虎から人間への転生はめずらしいそうだ。風の噂によれば、そういうことらしい。人間であることは不幸でも幸福でもない。どちらかというとちょっと退屈かな。空は飛べないし、水中で生活できるわけでもないのだから。
 転生は最大規模の移動だが、これよりスケールは小さい移動だが引っ越しがある。引っ越した最初の一日は誰も真性の詩人である。新しい生活を夢見る気力。それこそ詩人のみが持続する活力であろう。すなわち詩人とは、精神の深部で日々引っ越しを繰り返す人。時間を切り裂きつつ場所を移動する人である。ボードレールが何度も引っ越しを繰り返したのはよく知られている。ランボーはボストンバッグひとつに家財道具一切を入れてアフリカを放浪したのだ。「すべてを捨てよ、街頭に出発せよ」とブルトンは言った。
 ものに出会うためには、まずものを捨てなければならない。捨てられたものたち。古雑誌、破れた傘、ほこりを被ったビデオテープ、折れ線のついたネクタイ、色あせた鞄、解約した携帯機。ものを捨てるとは、価値のなくなった時間を捨てることだ。ものに束縛されていた時間から脱出すること。自由な時間を取り戻すことである。
 私は捨てられた椅子である。もう誰も座ることのない椅子。
 私は捨てられた時計である。しかし今も時は刻み続けている。 私は捨てられたパンである。私を捨てた人の名はユダ。
 私は捨てられた扇風機である。私はいま風に吹かれている。
 私は捨てられた赤ん坊である。私を捨てた人の名はルソー。
 我が輩は捨て猫である。我が輩の名は漱石。
 おいらはメダカです。メダカの学校は誰が生徒か先生か。それは水の流れ次第で偶然に決まる。先頭に立ったものが先生さ。
 私は捨てられた定期券。地下鉄六本木駅から銀座駅までの。私の中を列車が走る。列車の中には乗客があまた。車両の片隅に私は捨てられた。その私の中を列車が走る。中には乗客があまた。 僕は捨てられたラジオ。音は永久に消えた。
 僕は捨てられたカメラ。もう何も見なくていい。
 私は捨てられた剣。私を捨てた人の名は無名氏。秦の始皇帝刺殺のまさにその直前という時に投げ捨てられた。よって中国の統一はなった。天下は統一されたのである。
 さてこんなふうに、虎の記憶から秦始皇帝の刺客の話まで語り終えた私は、一人称の衣を投げ捨てて、最後の言葉を吐こう。
 怪物への道が存在する。その道を彼はいまたどっている。

 


 
すべてを捨てよ、街頭に出発せよ。その言葉を実践すべくブルトンはナジャの追跡を始める。伝説の書『ナジャ』はこうして成った。この映像はナジヤに代わりブルトンの晩年を導いたミューズ。