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【霊告日記】第十七回 大空を行く四輪馬車16~19(2000年) アルチュール・ランボー

2014年10月24日 10時00分00秒 | 大空を行く四輪馬車

霊告日記】第十七回 大空を行く四輪馬車16~19(2000年)  アルチュール・ランボー


大空を行く四輪馬車の第16回と17回は内容が連続している。16回で連句の特性を探り、さらに17回では文芸とインターネットの可能性との関連を解き明かそうとした。このころ私はただひたむきに文学の革命を夢みていた。そしてその思いはいまも変わらない・・・


【大空を行く四輪馬車】16 『れぎおん』28号 (2000年冬号)

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  【大空を行く四輪馬車】17 『れぎおん』29号 (2000年春号)

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大空を行く四輪馬車の第18回目はアルチュール・ランボー論(←テキスト版へのリンクです。別のランボー動画も付けました)である。ユーチューブからランボーの詩の朗読の動画を探しだし訳文も添付しておいた。WEBではこういうことも可能である。16回目と17回目で述べたインターネットの空間における文芸の可能性を切り開くひとつのサンプルとして見て頂きたい。

 【大空を行く四輪馬車】18 『れぎおん』30号 (2000年夏号)

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大空を行く四輪馬車の最終回はサルサ・エッセイである。題して「永遠のサルサ」。私の文章修業はここにおいてある到達点を示した。しかしそのことと引き換えにこれ以後私は同じ分量では連載を続けることができなくなってしまった。前回の質を超えるという自らに課した約束を果たせなくなった。そこで『れぎおん』で新たに1頁分の連載を始めて質を確保しようとした。それが「好日」シリーズであり、全50回・12年と6か月連載を続けた。「好日」は『れきおん』廃刊によって終わったのである。

 【大空を行く四輪馬車】19 『れぎおん』30号 (2000年秋号)

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※ 「永遠のサルサ」はSHJ(サルサ・ホットライン・ジャパン)のHPからテキスト版で読むことが可能です。☆SHJのHPは⇒こちら。「永遠のサルサ」へリンクの掛かった頁は⇒こちらです。

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 永遠の詩人アルチュール・ランボー

 
アルチュール・ランボー

MA BOHÊME (Fantaisie.)
                                        ぼくの放浪(幻想):高橋彦明訳

 
Je m'en allais, les poings dans mes poches crevées ;

Mon paletot aussi devenait idéal ;
J'allais sous le ciel, Muse ! et j'étais ton féal ;
Oh ! là là ! que d'amours splendides j'ai rêvées !

ぼくはでかけて行った、破れたポケットにげんこつをつっこんで、
外套もおあつらえ向きになった。
ぼくは大空の下を歩いて行った。詩神よ! ぼくは君の忠僕だった。
ああ! 全く! 何と素晴らしい愛の数々をぼくは夢みたことだろう!

Mon unique culotte avait un large trou.
— Petit Poucet rêveur, j'égrenais dans ma course
Des rimes. Mon auberge était à la Grande-Ourse ;
— Mes étoiles au ciel avaient un doux frou-frou.

ぼくの奇抜なズボンには大きな穴が一つあいていた。
ー夢みる親指太郎みたいに、ぼくは歩きながらぽつぽつと
詩の韻をひねっていた。ぼくの宿は大熊座。
ー空に光るぼくの星たちはやさしくひそひそ囁いて 

Et je les écoutais, assis au bord des routes,
Ces bons soirs de septembre où je sentais des gouttes
De rosée à mon front, comme un vin de vigueur ; 

道ばたに腰かけて、ぼくは星の話を聴いていた。
あの九月の素晴らしい夜に、ぼくは精をつける酒のように
額にしたたる夜露を味わっていた。 

Où, rimant au milieu des ombres fantastiques,
Comme des lyres, je tirais les élastiques
De mes souliers blessés, un pied près de mon cœur ! Octobre 1870 

不思議な影たちに囲まれて韻を踏み、
ぼくは、竪琴みたいに、胸のあたりまで片脚を持ちあげて、
破れた靴のゴム紐を引っぱっていたのだった! 1870年10月


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◆橋川文三の伝記が11月13日に出版されます⇒ 宮嶋繁明著『橋川文三 日本浪曼派の精神』
◆アジア主義の詳しい解説書が刊行されました⇒ 中嶋岳志著『アジア主義 ―その先の近代へ
◆橋川文三もアジア主義もまずこちらで確認⇒ 川端秀夫著『来たるべきアジア主義』無料公開!

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※ご報告※ 本日ダンボールネット・アンドロメダ館のアクセス数が135000件に達しました!

★★ ダンボールネット ★★  2000年1月1日開館 
アンドロメダ館 暫定版   
                       ダンボールの部屋(オープン 07/2/3) 電脳文芸誌『アンドロメダ』 

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※当ブログは開設して七周年を迎えますが、本日までの閲覧数(PV)と訪問者数(IP)は以下の通りです。その大半は本年5月1日に『来たるべきアジア主義』の連載を始めてからの数字です。

トータル閲覧数(PV) 109689 PV
 トータル訪問者数(IP)   57328 IP 


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【霊告日記】第十六回 大空を行く四輪馬車12~15(1999年) アンドレ・ブルトン

2014年10月17日 10時00分00秒 | 大空を行く四輪馬車

霊告日記】第十六回 大空を行く四輪馬車12~15(1999年) アンドレ・ブルトン
  
大空を行く四輪馬車というタイトルで連句同人誌『れぎおん』に5年間19回に渡って連載を続けた。今回はその12回目~15回目。「大空を行く四輪馬車」は次回で全篇掲載完了である。

12回目と13回目は主人と客の対話編である。対話形式のメリットは著者と読者が仮想の対話を行えることにあるのではないだろうか。対話こそが哲学の始まりであることはソクラテスの対話編を書いたプラトンが証明したことでもある。他者との対話のみならず自分自身との対話もそれを文章にすることによって他者の参入を促す。問いを立てそれに応えることは根本的な意味でのコミュニケーションに他ならないからだ。

14回目にはシュールレアリスム小説「狛犬少女」を収めた。この第三話は新作であるが、第二話はシュールレアリスム小説【狛犬少女】全三話 一挙公開!の中の第二話にも収録した。併せて読んで頂くと興味深いと思う。

アンドレ・ブルトンの『シュールレアリスム宣言』と『ナジャ』は私の20歳前後の時期の最大の愛読書であった。シュールレアリスムは20世紀の青春のもっとも大胆な冒険であった。その運動を牽引したアンドレ・ブルトンが登場する貴重な映像を発見したのでリンクを貼っておく。

15回目はいわば自分史の試み。自分史と云ってもいままでに書いた作品を中心とした書誌のようなものである。私の拙い歩みの1999年時点における総括の試みである。


  【大空を行く四輪馬車】12 『れぎおん』24号 (1999年冬号)

    
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 【大空を行く四輪馬車】13 『れぎおん』25号 (1999年春号)

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 【大空を行く四輪馬車】14 『れぎおん』26号 (1999年夏号)

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【大空を行く四輪馬車】15 『れぎおん』27号 (1999年秋号)

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※原稿起こし:【大空を行く四輪馬車】15回

学校を卒業してから五年間勤めた会社を辞め、私は文芸誌『群像』の評論の新人賞に応募しようとしていた。その応募作が私の処女作になる筈であった。筈であったと過去形で書くのは、それがじつは習作でしかなかったという事実を述べたいからなのである。処女作とは最初に書いた作品のこととは限らない。世間(もしくは自分自身)に最初の作品として認められたものをもし処女作と呼ぶこととすれば、処女作と区別して習作という概念もありうるだろう。習作とは処女作たりえなかった作品のことである。横浜にある広告代理店に就職し営業の仕事をやっていた。五年間勤めたが、営業はやはり自分に向いてないと思い、なんとか文筆で身を立てたいと願った。そこで文芸誌の新人賞への応募とあいなった。生活が足が地についていなかった。とほうもない非現実的な空想ばかりして、私は生活を失ってしまったのだ。言霊という美しい言葉がある。語られた言葉など抱いた思いのほんのわ      ずかである、語ろうとして語りえなかった思い、それこそ言霊であるというかんがえ。私が今まで書いてきた作品など、思いの深さに比べれば氷山の一角だ。火事の煙にしか過ぎぬのだ。しかし言霊とは便利な言葉でもあって、作品の貧しさを弁解する方便に使うことも可能である。作品こそすべてである。それが文学の非情の掟である。なにしろ気持ちだけは五年間も準備したのだし、会社も辞めて      背水の陣を敷いて書き上げた作品だったのだから、その時点では自分でも傑作が生まれたという思いがとても強かった。とにかく若すぎた。自分を客観視するにはほど遠かった。思い込みだけで突っ走って書き上げた百枚の『形而上派宣言』という作品。これが私の記念すべき習作である。結果は見事に落選であった。応募作がまさか落選するとは思ってもみなかったので、ショックは大きく、そうだ、尊敬する埴谷雄高に読んでもらおうと考えて、原稿を持って吉祥寺の埴谷邸まで出かけていった。呼び鈴を押してから、鍵もかかっていなかったので玄関をがらがらと開けて入り、大きな声で「すみません」と叫ぶと、しばらくして埴谷が出てきた。群像の評論の賞に応募したのだけれど落選した、しかし内容については自信があるので読んでもらえないだろうかと頼んでみたところ、埴谷は、最近眼が悪くなって新聞の見出し位の大きな字でないともはや読めないこと、生原稿を読むのは無理であることを説明した。いきなり押しかけて随分厚かましい要求をしたと今では思うのだが、その時は賞の選考に落ちて焦っていたので、読むことができないのなら私が評論の最初の部分を読み      上げるので、それを聞いた上で感想を聞かせてほしいと頼んだ。気圧されたのか、それとも無限大の親切心からなのか、おそらく後者だと思うのだが、埴谷は私の頼みに応じてくれた。途中まで朗読したところで、埴谷は手をかざし、「わかった。あなたは〈私とは誰か〉という根本問題を考えようとしている」と言った。「それはそれでいいのだが、そういうものはそう簡単に世の中に認められることを期待してはいけない。同人雑誌に掲載したりして、少数でもいいから自分の作品を認めてくれる人を増やしていくべきです。私の『死霊』だって最初は誰も認めてくれなかったんですよ」とアドバイスしてくれた。そして「作品を活字にしたら送ってきてもよい。そしたら読んであげよう」とも      言ってくれた。少しは気がおさまった私は、礼を述べて埴谷邸を後にしたのだった。まるで絵に描いたような偉大な作家と愚かな若者との対面の光景であった。『形而上派宣言』の全体はついに活字になることなく終った。したがって埴谷に読んでもらうこともなかった。『形而上派宣言』の第一章はその後俳諧同人誌『風信子』第十五号に発表している。埴谷雄高とは文字通り一期一会の出会いであった。長いスランプの後、全力投球というよりは死に物狂いで書き上げたのが、長谷川如是閑賞授賞作の『歴史における保守と進歩』である。この論文が私の処女作ということになる。高校生の頃、      将来は政治家になりたいと思っていた。だから大学も明治大学の政治学科を選んだ。だが、政治家になるということは立身出世をすることであり権力者を目指すということである。当時、学生運動が激しくなっていて、そこに於て私の考えていた政治の概念は根底から覆されてしまった。政治とは、自己犠牲であり、モラルを根底から問うことでなければならないのだった。それが時代の常識であった。そのような時代精神を象徴する極め付けが三島由紀夫の割腹自殺である。『豊饒の海』四部作は二十歳の若者の輪廻転生の物語である。三島由紀夫の衝撃的な自死のニュースを聞いたのは私も二十歳のときだった。橋川文三の『日本浪漫派批判序説』を読んだのは、三島の自死があってから数日後である。橋川文三が母校明治大学の政治学科の教授だったのは知っていたが、この本を読んで初めてここに真の知識人がいると感じた。私は翌年の春から二年間、橋川文三の日本政治思想史のゼミに学んだ。長谷川如是閑賞が受賞できたのも、けっきょくは橋川氏に学んだことに大きく因っている。       しかし、この授賞作品については、課題論文であり、自分で探したテーマではない為、自己表現をしたという思いからは程遠い。 論文での応募作ということから、審査員向けに書いたせいもあって文章もそうとう固い。受賞をとても喜んでくれた叔母さんから、いっしょうけんめい読んだけれども難しくてだんだん腹がたってきた、と言われたことがある。長谷川如是閑賞の授賞式で別所真紀子さんと知り合ったのが、連句を始めるきっかけとなった。第三作目が『マクベス論』である。シェイクスピアの全作品を読んだ上で、シェイクスピアについて書くならば、その最高傑作である『マクベス』しかないと思っていた。そして幻視者マクベスを論ずるにふさわしく、私もまたある幻視を体験した。その幻視を核にして書いたのが、わが『マクベス論』である。とにかくこの作品は早く活字にしたかった。私の発見を形にしておきたかった。『マクベス論』は、窪田薫氏の『極私的俳諧年鑑一九九一・モーツアルトが俳諧を卷いたなら』に掲載して頂いた。窪田氏にはとても感謝している。今もなお、いつかだれかに私のマクベス論が発見されることを期待しているからだ。窪田氏とはいちど旅の宿で両吟を巻いたことがある。そのとき窪田氏は、浴場に入る時まで紙とペンを持って行って連句を続けようとされた。私はびっくりしてしまった。私はお湯につかるときくらい句作りも忘れてのんびりしたかったので、なんとか説得してあきらめてもらったのだが、窪田氏はやや不満そうな顔をさ      れた。ああ本当にこの人は連句が好きなのだなと思って心底感動した記憶がある。窪田氏みたく連句に無心に遊ぶ境地にいつ達することができるか。それは私の課題とするところである。『れぎおん』には、窪田氏の勧誘で同人となった。さて、その後の私の主要な作品はほとんどすべて俳諧同人誌      『れぎおん』に掲載されている。じつはパソコン通信に発表した文章も多いのだが、それらはすべて改訂し組み替えて作品として形を整えた上で、最終的に『れぎおん』に発表している。したが って『れぎおん』のバックナンバーを繰っていただければ、右記三作品以外の私の全作品はほぼ網羅しているわけである。書くことにこだわった人生を送ったつもりでいるものの、実際に書いた作品の量は意外と少ないのに自分でも気付く。一作ごとに画期的な・新しい・前代未聞の文章を書きたいと願っている。そんなことはそう簡単にできる筈がないから、どうしても書く量 は少なくなってしまう。残念だが仕方ない。アサヒネットのパスカル会議室で知り合ったメンバーと一緒に、草の根のダンボールネットを九四年に創設した。アサヒネットに匹敵する本格文芸ネットの構築を目指した。連句的精神に立脚した文芸ネットを謳い文句に。シスオペはそこでは連句における捌きの立場の役割というアナロジーでとらえられる。ネットの経営においては、大岡信の「うたげと孤心」の理論も大きなヒントになった。同人には年額四千円の同人費を払ってもらい、個人ボードに自分の作品をすべて載せられるようにした。個人ボードは〈孤心〉の空間、そして〈うたげ〉の空間として「バーチャル公      園」という会議室を作った。そこでは連詩、テーマエッセイ、読書会、百物語等の共同制作の実験を行った。パソコン通信は活字とはまた違った独特の言語空間であって、そこでは〈肉声〉が生き返るように思われる。ゲストボードに出没した宇宙猫と名乗る謎の女性がダンボールネットに発表した      『天の半分』という作品は、レイアウト・内容・その空気、どれをとってもまったく新しいパソコン通信を前提とした、つまりディスプレイの中でこそ出会えるまったく新しい形式の文芸という気がした。私の場合をとっても、パソコン通信ではダンボールというハンドルネームを名乗ったのだが、ダンボールという架空の書き手でしか書きえないものが続々と書けるようになったのだ。 狛犬少女や、ビリリ署長、ピタリ・テレパスといったキャラクターも、パソコン通信の中からこそ生まれ出たのだった。現在草の根ネット版のダンボールネットとホームページ版ダンボールネットの両方で営業しているのだが、一年以内にインターネットに一本化する予定でいる。その為の移行作業がいま進行中である。大海のごときインターネットの世界でどのような新しい文芸の可能性を開くことができるのか。そして書くことが人生のいかなる冒険たりうるか。夢の中の冒険者にこれからも問い掛けていきたい。電子ネットワーク戦士ダンボールの新たな冒険を開始すべき時は近付いた。 『れぎおん』と『ダンボールネット』が今の私の主戦場である。 (完)

シュールレアリスム運動を牽引した20世紀最大の思想家アンドレ・ブルトン


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【霊告日記】第十五回  大空を行く四輪馬車9~11(1998年) 委員長はヴィーナス

2014年10月10日 10時00分00秒 | 大空を行く四輪馬車

霊告日記】第十五回 大空を行く四輪馬車9~11(1998年) 委員長はヴィーナス
                               


【反撃のヴィーナス】 日本の俳諧スピリット健在! もどき全開! 委員長はヴィーナス(゜д゜)!


ボッティチェリ高校の特待生ヴィーナス委員長の願望は「ハダカでいたい」ということでした。井上涼はこのようにもどくことによってボッティチェリの名画「ヴィーナスの誕生」を歌とアニメで復演してみせた。日本の俳諧スピリットは健在である。もどきという方法の実例を最初に紹介させて頂いた。

折口信夫によれば日本の芸能の発生には「もどき」という方法があった。このもどきの方法をもっとも意識的に駆使した芸術のジャンルが俳諧であり、もともとは俳諧とは連歌のもどきであった。だから「俳諧の連歌」というのが連句の正式名称なのである。

「もどき」という術語には、「真似る」という意味と「抵抗する」という意味の両義性があると山折哲雄は指摘する(山折哲雄「方法としての「もどき」 : 折口信夫の場合  ※参照⇒PDF)。模倣しつつ批評するのが「もどき」である。

芭蕉こそは日本文学の歴史に現れたもどき芸のチャンピオンであったといえるかもしれない。芭蕉の天才を全面的に受け容れた文芸形式が俳諧の連歌すなわち連句であった。

連句同人誌『れきおん』に連載した私の「大空を行く四輪馬車」も9回から11回と続き、俳諧スピリットの解明は佳境に差し掛かった。俳諧の批評と俳諧の実践。私の挑戦はまだまだ続く。


 【大空を行く四輪馬車】9  『れぎおん』20号 (1998年冬号)

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 【大空を行く四輪馬車】10 『れぎおん』21号 (1998年春号)

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 【大空を行く四輪馬車】11 『れぎおん』22号 (1998年夏号)

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  ※『れぎおん』23号 (1998年秋号)は【大空を行く四輪馬車】1回お休み。


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【霊告日記】第十四回 大空を行く四輪馬車5~8(1997年) シャコンヌ

2014年10月03日 10時00分00秒 | 大空を行く四輪馬車

【霊告日記】第十四回 大空を行く四輪馬車5~8(1997年) シャコンヌ

前回の日記に引き続き連句同人誌に連載した「大空を行く四輪馬車」のバックナンバーを掲載しました。簡単な解説を加えておきます。

◆「大空を行く四輪馬車」の5回目は丸山真男(1914-1996)についてのエッセー。丸山真男は終戦と同じ日8月15日に亡くなった。読み物として面白いものを書こうと思っていたので本格的な丸山真男論にはなっていない。丸山真男著作集全巻を読んだ上で追悼文のつもりでこの文章を書いた。

◆6回目。私の随筆「漱石の、椿」と小説「ピタリ・テレパスの手紙」の二題。

◆7回目。この頃私はパソコン通信のBBS「ダンボールネット」を運営していて、そこで会員の方と「百物語」の企画を立てて実際に99個の作品が集まった。その99個の作品を読んだ上でメタ・テキストとしてこの作品ができあがった。

◆8回目。「ダンボールネット」への会員の投稿作品の中から選んで編集した短編小説集。どの小説も心に残る珠玉の名品だと思う。

 
 【大空を行く四輪馬車】5  『れぎおん』16号 (1997年冬号) 

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 【大空を行く四輪馬車】6  『れぎおん』17号 (1997年春号) 

    


 【大空を行く四輪馬車】7  『れぎおん』18号 (1997年夏号) 

       


 【大空を行く四輪馬車】8  『れぎおん』19号(1997年秋号)   


   
 


【追悼-丸山真男】 丸山の葬儀にはバッハのシャコンヌが流された。故人の愛した曲である。

  
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【緊急】すべての大学人へ: 帝塚山学院大において朝日OB教授を自主退職に追い込んだ爆弾テロ予告の首謀者を断固として許さず、いま暴力に脅かされているひとびとを見捨てず、学問と言論の自由を脅かすあらゆる暴力に決して屈さず、立場を超えて結束し互いを守りながら共闘してください。 暴力に抵抗する大学人を支持する市民一同⇒ http://chn.ge/1vtHX5n

上↑のサイトに私も署名し、実名にて下記のコメントを掲載しました。

言論の自由こそ民主主義のかなめ。右翼も左翼も言論の一つの立場。論敵の立場を尊重して初めて右翼であれ左翼であれ崇高な立場と言いうる。大学が学問と言論の自由を放棄してどうしますか。学問と言論の自由を守れない大学など大学の名に値しない。帝塚山学院大学の関係者は自らの大学が存亡の危機にあること。正念場であることを自覚すべきです。


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【霊告日記】第十三回  大空を行く四輪馬車1~4(1996年)  ランバダ

2014年09月26日 10時00分00秒 | 大空を行く四輪馬車

【霊告日記】第十三回 大空を行く四輪馬車1~4(1996年)  ランバダ

連句同人誌『れぎおん』に連載したエッセー「大空を行く四輪馬車」を5回に分けて掲載したい。『れぎおん』は1993年春に創刊された季刊の雑誌で神戸在住の前田圭衛子編集長によって20年間発行された。私は創刊号から同人として記事を毎回欠かさず発表した。

大阪で連句シンポジウムが開催された際に私はパネリストの一人として参加した。その時が前田編集長との初対面だったと記憶している。11号までは単発の記事を掲載していたのだが、前田さんとの話し合いで企画ものを連載することとなり、標題をランボーの詩句から抜いて「大空を行く四輪馬車」とつけた。

「大空を行く四輪馬車」の第一回は連句論。真っ向勝負で挑んだ。第二回目は『源氏物語』と『資本論』についての評論。第三回は漱石の文学理論の解明。四回目は再び連句論。「夢そのもの」と「夢の記録」の差異を説いて連句論に及ぼした。

エッセー「大空を行く四輪馬車」の連載は『れぎおん』12号から19回続いた。この連載を終えた後さらに別の企画で書き続けた。それが「好日」シリーズである。「好日」は『れぎおん』に49回連載されたが、好日シリーズの最終回「アジア主義とは何か」は『れぎおん』終刊となったためこのブログが初出である。

「大空を行く四輪馬車」はぼくにとって懐かしい作品である。はじめてこのエッセイに触れる人にも何かを伝えることができるだろうか。それは分からない。ただぼくの文学的野心はこの4つの作品の中にも存分に込められている。それを誰かがきっと受け止めてくれるに違いないという成算めいたものは感じるのである。

  【大空を行く四輪馬車】1  『れぎおん』12号(1996年冬号) 
     ←クリックすると拡大 本格的連句論

    【大空を行く四輪馬車】2  『れぎおん』13号(1996年春号)
        ←「源氏物語」と「資本論」

   【大空を行く四輪馬車】3  『れぎおん』14号(1996年夏号)
      ←漱石の文学理論

   【大空を行く四輪馬車】4  『れぎおん』15号(1996年秋号)
      ←再び連句論
   (創刊号表紙)       


【反撃のランバダ】 ぼくらは太陽の下で出会おう。そして息のとまるまで踊り続けよう。 ダンボール 


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◆関連記事⇒ 好日18 ランバダ゛を踊る実朝