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好日20 橋川文三先生が呼ぶ

2007年03月03日 00時27分59秒 | 好日16~20

 私は学生時代に橋川文三先生から日本政治思想史という学問を学んだ。橋川ゼミを卒業した十二年ほど後に、私も福沢諭吉と柳田國男を対比した思想史の論文を書いたことがある。

 橋川文三は丸山眞男から思想史の方法を学んでいる。丸山眞男は思想史の特徴について次のように語っている。

「思想史の素材は解釈を通じてのみ我々の認識の対象となりうるが、それが解釈された瞬間、素材の本来の相貌は永遠に失われる。そうしてその代わりに、解釈を通じて史家自身の価値体系が不可抗的に介入してくるのである」(『丸山眞男集』第二巻・二百九頁)

 解釈に於いては、まず素材についての全体的な洞察が前提になるが、次には表現の吟味が肝要である。論理的な思考を前提としつつも、最終的には、一字一句に至るまで洗練された表現を獲得できるかどうかが決定的な要素なのである。このような特色を持つ日本政治思想史という学問は、丸山眞男によって創始され、橋川文三によって継承・発展せしめられた。しかしその後、橋川文三の問題意識を正統に受け継いだ人はまだ現れていない。

 橋川文三の問題意識を正統に受け継ぐとはどういうことを意味するか。それは日本政治思想史という学問の起源を問うことによって明らかになる。立花隆が『天皇と東大』で明らかにした事実であるが、戦前に於ける学問の自由は天皇機関説事件によって壊滅的打撃を受けた。そのような時代の動きを見据えた上で、東大法学部教授南原繁は、助手の丸山眞男に日本の思想史の研究を指示する。西洋の学問を身に付けるだけでは足りない。西洋の学問も理解した上で、日本のことも分からなければいけない。これは、南原自身の痛切な反省に立っての後輩研究者への忠告であった為、丸山眞男はその指示に全身全霊を込めて応えたのであった。

 橋川文三は丸山眞男の死角を突いた対象を研究した印象があるが、丸山眞男も橋川文三も共にドイツのカール・シュミットの研究を横に見据えつつ、日本の思想史の可能性を極限にまで拡張した。二十世紀は国民国家が二つの陣営に分かれて二度までも世界戦争を繰り広げている。日本政治思想史という学問は、この国民国家の時代を、日本という舞台に即しつつ内在的に理解する可能性を追求した。橋川文三の問題意識を正統に受け継ぐ研究は、国民国家の時代が終わる超越的な視線を獲得するまで続く(はずである)。ホッブズによって創られた近代国民国家の理論を、国民国家終焉の地平から見直し、国家が廃棄される時代の眺望を創りあげることが、日本政治思想史という学問の最終目的ではないか。これは日本人の果たすべき世界史的課題であろう。

 橋川文三が亡くなった翌年、ゼミ卒業生有志が編集した追悼の雑誌が帰省中の実家に送られてきた。追悼雑誌の中の橋川の写真を母が見て、「やさしい顔をした人だ」と評したのを、印象深く記憶している。やさしい人。それは私が二年間親しく膝突き合わせて研究した橋川文三先生の人間像を端的に示す言葉であった。橋川文三はまことソクラテスと吉田松陰のやさしさを併せ持つ人であった。

 それにしても、写真をちらりと見ただけの僅か一秒にも満たぬ短い時間に、どうして母は橋川文三の人となりを見抜くことができたのだろう。一千億の脳細胞がどのように活動して、そのような判断が成り立ったのか。人間の洞察力を生み出す脳の働きには、まだまだ解明されぬ深い秘密が隠されているようだ。

    白鳥の胸のランプの消えて月
     橋川文三先生が呼ぶ    秀夫

        (歌仙「橋川文三先生が呼ぶ」の巻より)


★異界で奏でられるかのごとき静謐な音楽を聴きつつ橋川文三を偲ぶ★


好日19  友愛 

2007年03月01日 19時00分00秒 | 好日16~20

 


  好日19  友愛         

 


  友よ、君はいまどこにいるのか。時代は流れ、嵐は去った。危機は内面化され、誰がどこにいて、いま何をしているのか。姿は見えないし、声も聞こえない。友よ、君との対話は不可能なのだ。やむなく僕はいまここに佇み、沈黙の行を重ねている。

 ここ東京・自由ヶ丘のグリーン通りでは、平日の午後であるというのに、道行く人は数多い。僕はベンチに座って、岩波文庫のプラトン『プロタゴラス』を開いていた。そうすると枯葉が落ちてきたのだった。拾ったその枯葉を栞にして、本の間に挟んでみた。「天然細工の栞だ。これはすばらしい」と、たわいもないことに喜んだ。

     
      東京自由が丘 グリーン通り

 落葉を栞にプラトンを読む。『アルキビアデス』『ラケス』『パイドロス』『饗宴』『プロタゴラス』と読み進んだ時、いまさらながらだが、プラトンがソクラテスを主人公にして対話篇を編んだその理由が、はっきりと分かったように思ったのだ。それは、ひとことでいうならば、ソクラテスこそは友愛を完璧に生きた人であるということだった。友と対話を重ねるということ。それこそがソクラテスにとっては友愛の最高の実践であったのだ。

 これほど簡単なことが分かったからといっていまさらどうなるのかと、君は言うかもしれない。だが、沈黙の行のさなかに、対話こそは友愛の実践であると理解することの悲哀を、誰が分かってくれようか。プラトンこそは友愛の理想郷であり、その理想郷から遠く離れたところで、僕はいま生きている。プラトンを切実に読むことの必然性だけが身に染みる秋というわけだ。

 高校時代に、僕は五〇チームも参加した弁論大会で、優勝した経験がある。チームの主将だった。議題は予め決められ、その議題に関して賛成・反対の立場は、抽選で決まり、自分では選べない。「自衛隊は是か非か」と、いうのが与えられた演題であり、自衛隊は賛成というのが僕たちに与えられた立場であった。自衛隊反対が僕の個人的な意見だったから、自分の信念と反対の主張をしないといけないのは困ったのだが、有利な点は自衛隊は反対の理由を相手よりは上手に説明できる自信が、僕にはあった。

 そこで反対の理由をすべて書き出して、その反論を用意周到に準備した。相手が何を言っても、完璧な反論のシュミレーションができていたのだ。目論見はずばりと当たり、相手の議論は完璧に撃破し、最高得点で僕らのチームは勝利した。これは我が弁論術の勝利だった。自衛隊は「非」という真理は敗北し、自衛隊は「是」という虚偽が、弁論術によって勝利を博したということである。

 友よ、弁論術こそはソクラテスを殺した凶器であった。プラトンが生涯かけて反対したのは、この弁論術であった。自分の信念と反対の議論をして最優秀の弁論であったと表彰される経験は、まことに苦い勝利であるが、それはいまでこそ言える言い草であって、若き日に弁舌の才能を自覚した誇りは、永久に消えるものではないのだよ。友よ、僕にとっていつかやがてプラトンを本気になって読む日が来るのは、運命であったと君は思わないか。

 扇子ほどの大きさの鮮やかな揚羽蝶が、室内を旋回し、やがてカーテンの隙間から逃げ去っていく光景を夢に見た。友愛は、その揚羽蝶のように、僕から永久に逃げ去るのだろうか。

               

 否、時を超えていまも神殿はそびえ建つ。友の手は命の水を汲んでいるのだ。友の姿が見えないのはそのためである。

 
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好日18 ランバダを踊る実朝  

2007年03月01日 18時00分00秒 | 好日16~20

 


  好日18 ランバダを踊る実朝    


 実朝の創始した詩精神の内在律を、現代の音楽で置き換えるならば、それはランバダではないかと私は思う。
 実朝の詩心は、とても普遍的なものを秘めていて、まったく別の時代、別の地域の音楽の中にその面影が現れたとしても不思議ではない。他の人の場合になら突飛な発想になるかもしれないが、実朝の場合には、不思議さは、彼の詩精神のそのものの中にあらかじめ組み込まれている。実朝の普遍性は飛躍したメタファーによってしか取り出せないのかもしれないのである。
 実朝の孤独は小林秀雄が『無常ということ』で充分に描き切ったところであるし、太宰治の『右大臣実朝』には実朝の嬰児のような生命力が活写されていた。孤独の極みに生きた実朝は、平家の明るさに惹かれていた。孤独と光明の二重性の中で生きた実朝像こそ現代の私たちにとってリアルである。
 ランバダはブラジルのバイーア地方で発達したダンス音楽であって、とても明るい音楽である。孤独を一掃する明るさは、中途半端なところからはやってこない。日本の中世の闇を照らす光は、別の時代の、別の世界からやってきても構わないのだ。詩人を遇するやりかたがあるはずだ。詩人とは、ひとつの時代、ひとつの地域に閉ざされることのない存在を指す。自在な精神は自在に語られることを好む。ランバダを聴きながら私は実朝が何度も何度もよみがえる光景を心眼で見た。その経験をいまは述べるのみである。そこに一切の理屈は要らない。ただ事実があるきりだ。
 論理というものが私には信用がならない。心に届く言葉と、知性に訴える言葉は、同じく言葉とは言っても、種類が違う。虚偽であっても論証は常に可能である。真実は震える波動によって心を動かした時にのみ伝わる。普遍的な精神を内在させた詩の言葉の使い手としての実朝。そういう実朝は実在したか否か。世界史の中に出現した新しい光としての実朝像は可能かどうか。光の発見に携わる技術者のように私は仕事をしたいと願っている。
 素直で分かりやすい美しい言葉使いで究極の真理を語ってみたい。文章の道を志した日の初心を思い返すならば、誰もが実朝の残した遺産は無視しえぬであろう。芭蕉から溯る力線と、聖徳太子から下降する光線は、実朝の辺りで十字を切って交差する。そういう光景を一望の下に納めるヴィジョンを私は希求する。実朝論を述べようとしているのではない。実朝について書かれた書物は多く、実朝論をまたひとつ加えることに何の意味もない。
 しかし、実朝の撒いた種の収穫物として、小林秀雄の「実朝」、太宰治の『右大臣実朝』、そして吉本隆明の『源実朝』を挙げることは可能だろう。実朝を詩的源泉とする文学の可能性は尽きていない。そのことははっきりと断言できる。世界文学の視野の中に実朝という存在はどう位置付けられるのか。そういう問題が存在するという事実を確認できれば今はそれで足りるのである。
山は裂け海はあせなむ世なりとも」。この上の句の境地の中に立つこと。これが実朝という課題を身に引き受けることに繋がる。実朝の広げた翼の中に身を躍らせること。不世出の青年詩人の広げた翼の影から、世界を作り変えるヴィジョンを捜し求めること。私が行いたいと思っているのはそういう仕事だ。山は裂け海はあせなむ世。今はそういう時代ではないだろうか。下の句はまだ決してはいない。下の句を付けるのは我々の時代の課題なのである。

【これがランバダだ】 ランバダを踊る実朝!!!  君にふた心わがあらめやも! 


好日17 サルサクラブのチェ・ゲバラ

2007年03月01日 17時00分00秒 | 好日16~20

 


 

  好日17 サルサクラブのチェ・ゲバラ



 長い時間、アパートの屋上に上って、どんなことを書こうか考えていた。いろんな光景が心の中に浮かび上がってくる。それらの切れ切れの記憶は、とても大事なことのような気もするし、他人には無価値なこと、したがって書く必要のないことのようにも思える。書くためには記憶に意味を与えなければならない。なぜそれが書くに値することなのか。読む人に納得がいく理由、そして自分がそれを語るべき必然性も発見しなければならない。
 長い時間、屋上で熟考した末、ぼくには、今すぐ語らなければならないことは何もないことに気がついたのだった。ぼくの毎日は生活費を稼ぐために働く時間以外は、ひまさえあればサルサクラブに出かけて踊るだけになってしまっている。踊る合間に仕事と読書が入る。そういう生活。
 煩いもなく気遣いもなく、ただ時間をやり過ごしている。これは退廃なのだろうか。いや退廃ではないだろう。少なくとも体にはしごく健康的である。では精神的にはどうだろう。心が空っぽになってしまったということなのか。それは分からない。
 部屋に戻りワープロの電源を入れる。いま書けることは、サルサクラブにおける心象スケッチしかない。
 週末にサルサ・クラブに通う習慣がついてから六年が経つ。今年になってからエル・カフェ・ラティ-ノという名のクラブにシマを変えた。
 エル・カフェ・ラティ-ノのフロア-の壁面には、たくさんの写真やポスターが掛かっているのだが、そのちょうど真中にチェ・ゲバラの写真が掲げられている。サルサを踊っているとチェ・ゲバラの視線にぶつかる。葉巻をくゆらせながら、こちらを窺うようなチェ・ゲバラの視線。その視線が妙に気になるようになった。

              

 なぜかその写真だけが他から浮き上がり、まるでそこから光が放たれているようなオ-ラを発しているのである。この存在感はなにものなのか。サルサ・クラブのチェ・ゲバラ。なるほどこれは奇妙な取り合わせである。革命という言葉は地に墜ち、レ-ニンや毛沢東の権威は廃れた。しかし今なおチェ・ゲバラの輝きだけは色あせていないと感じられるのは、なにゆえなのか。
 若き日のゲバラを主人公に描いた映画「モータ-サイクル・ダイアリー」には、その疑問を解く手掛かりが見つかる。ゲバラはキューバ人だとばかり思っていたのだが、じつはアルゼンチンの出身であり、ラテンアメリカ統一の夢を持つゲバラは亡命中のカストロとメキシコで知り合った。まずキュ-バで革命、次に中南米全域で革命を起こすとの方針を立てて、ゲバラはカストロに協力したのであった。キューバ革命の成功の後、ゲバラは工業大臣の職を辞し、ゲリラの指揮者としてボリビヤで戦死した。
 革命家としてではなく、聖者として、ラテンアメリカ統合の象徴として、ゲバラの存在感はあるのではないか。サルサは世界性を獲得したラテン音楽である。その身体性にまで届くサルサの普遍性は、ラテンアメリカ統合の象徴としてのゲバラと、私のなかでは矛盾なく結び付くのである。ひとりの聖者が出てラテンアメリカ統合の夢を告げたのだ。

                   

 キューバを訪れたサルトルに、ゲバラはライターの火を差し出したことがある。その火は消えずに、いま哲学の中で妖しい光を放っている。そんなことをサルサクラブの中で考えた。

 ★チェ・ゲバラの肉声  国連演説の一節★


好日16   世界征服の理論

2007年03月01日 16時00分00秒 | 好日16~20

 


   好日16   世界征服の理論


 


 世界征服の意志を持つことは、良いことなのだろうか。それとも悪いことなのだろうか。私は悪いことだとは思わない。

 世界征服という言葉からは、ナポレオンやヒトラー、溯ってはアレキサンダー大王やチンギスハーンといった軍事的な才能のことがすぐにイメージされる。しかし、真の永続的な世界征服は軍事的な手段では達成されがたいのであって、確固たる世界征服を成し遂げたのは、キリストやプラトン、モーツアルトやシェイクスピアといった文化的な英雄であった。これらの天才よって人類はどれほど恩恵を蒙ったか、また今後蒙り続けるか、その最終的な影響力はいまなお測りしれないのである。

 さすれば世界征服の意志を持つことが良いかどうかはまったく問題になりえない。問題は新たな世界征服はどうすれば可能なのかということ。世界征服の意志を持続すること自体どうすれば可能なのかということが問題なのである。

 私が特に惹かれるジャンルは哲学と文学であった。特にシェイクスピアとプラトンは私が今も仰ぎ見る天才であって、もちろん両者の全集は読んでいる。シェイクスピアはたった一人で人類のコミュニケーション能力を大きく引き上げた天才であり、哲学とは結局のところプラトンの注釈に過ぎぬと誰かが言っている。

 世界征服の意志をより堅固に固め、そこから一歩ずつでも前進していこうという気持ちを私がまだ捨てていないのは、世界征服を可能にする独自の理論を私が秘蔵しているからである。しかしその理論は私にしか使えない。いちおう秘密ではあるが、他人には応用の利かないものなので、ここで公開しても何の問題もない。

 私以外にもし世界征服の意志を持つ方がいたら、何かの参考にして頂こうという魂胆から、ここにご紹介を申し上げる。

 さて、その世界征服を可能にする独自の理論を、ことわざ風に一言でもってまとめるならば、「一兎をも得られぬ者は、二兎を追え」という命題に尽きている。

「二兎を追う者は、一兎をも得ず」という言葉の意味は誰でも知っている。一兎を追えば一兎を得ることができるのに、二兎を追おうと欲張れば、兎を二匹とも取り逃がしますよという、それは警告であろう。だが、この二匹の兎が、そんじょそこらの兎ではなく、シェイクスピアとプラトンであったら、どうだろう。一兎を追って、一兎を得ることができる人間が、どこにいるだろう?

 シェイクスピアは、何千人が束になって追いかけても捕らえることが不可能な、神的な速度で逃げ去る兎ではあるまいか。プラトンに追いついて手をかけた瞬間、その者の手は焼けただれてしまうのではないか。シェイクスピアとプラトンは、追っても追っても追いつけぬ、果てしなき高所を駆ける兎である。この認識が世界征服を可能にする独自の理論の基本的前提である。

 では、どうすればいいのか。「一兎をも得られぬ者は、二兎を追え」ーこれが、私の用意した答である。神的な速度で逃げ去る兎を捕らえるには、二兎を同時に追うしか、他に方法はない。

 シェイクスピアとプラトンを同時に超えようと意志する者にとって、この世のあらゆる障害は除去される。世界征服の意志を持つことは、誰にもできることではない。誰がそのような意志を持続できるであろうか。世界征服を可能にする独自の理論を公開した。私以外には誰にも役に立たぬ理論なので、お礼は要らない。

★ホロビッツ演奏   ショパン:革命のエチュード★