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【霊告月記】第三十五回 「事件」としての子安思想史  ナ・オットッケ

2018年09月01日 10時00分00秒 | 霊告月記21~25

【霊告月記】第三十五回   「事件」としての子安思想史  ナ・オットッケ

★多様体のアジアを招来するための序曲  t-ara の ナ・オットッケ★


思想史家の子安宣邦氏の主宰する市民講座に昨年の12月より通っている。子安氏の講義には毎回熱心な聴講者が20名ほど参加。休憩時間を含めて2時間半ほどの白熱の講義がなされる。講義の後には近くの飲み屋で懇親会が催され、その懇親会にも毎回私は参加している。 この9月には水戸学に関する講義と徂徠の『弁名』に関する講義が予定されている。楽しみの限りだ。             

子安氏は、その講義にあたり毎回講義内容の原稿を準備し参加者に配布している。事前に講義内容の原稿は準備されているのだが、その講義に入るにあたっての前置きの話が毎回素晴らしい。思想史家としての50年の研究を踏まえて、大きなパースペクティヴで、その日の講義内容の意義づけを語ってくれるのである。この原稿内容の講義に入る前の枕の話はいつも圧巻である。子安氏の躰が巨人に見えてしまうような錯覚におちいってしまうほどである。





それに次いで用意された講義原稿の内容についての詳細な解説に入っていく。この導入部分の解説も詳細を極めるものである。それによって講義参加者は準備された講義原稿の意義内容について完璧に理解できるのである。ところが枕の話と原稿の導入部分の話が長いため、講義はいつも後の方が駆け足になってしまうことが多い。しかしその講義原稿は明晰で条理を尽くしたものであり、後で読み返してみて子安思想史学の奥行きの深さを知って愕然とすることしばしばなのである。


このような子安氏の講義の体験を、私は【「事件」としての子安思想史】と名づけたいと思っているが、いかがであろうか。私の意図を理解して頂くために、以下の動画をリンクしておく。では、子安思想史の醍醐味、とくと御覧じあれ。


★子安宣邦氏の台湾・中央研究院・講演 ( 2015年 3月24日)★

  ※参考※⇒  「日本思想史の成立」について  ー「台湾思想史」を考えるに当たって  子安宣邦  (子安氏解説:本稿は「台湾思想史」の成立という問題を考えるに当たって、「日本思想史の成立」ということについて語って欲しいという要望を受けて、台湾の中央研究院台湾史研究所で3月24日になされた講演の原稿である)

 
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【霊告月記】第二十五回 ハイデッガーによるヘルダーリンの讃歌「イスター」朗読 

2017年11月01日 10時00分00秒 | 霊告月記21~25
【霊告月記】第二十五回 ハイデッガーによるヘルダーリンの讃歌イスター朗読 




ハイデッガーのヘルダーリン講義を読み直している。三、四年前に一度読んだのだが、その感動は深かった。感動を新たにする再読の渦中に私は在る。ハイデッガーはヘルダーリンの講義を三度行っている。全集に収められたその三度の講義は以下の通り。


1)ハイデッガー全集第39巻 ヘルダーリンの讃歌「ゲルマーニエン」と「ライン」 木下康光・ハインリヒ・トレチアック訳

2)ハイデッガー全集第52巻 ヘルダーリンの讃歌『回想』 三木正之・ハインリッヒ・トレチアック訳
3)ハイデッガー全集第53巻 ヘルダーリンの讃歌『イスター』 三木正之・エルマー・ヴァインマイアー訳

今二冊目の再読途中である。今年中には全三冊の再読を終える予定だ。ハイデッガーのヘルダーリンの詩の朗読がテープで残されているが、それらはWEBでも公開されている。ハイデッガーによるヘルダーリンの賛歌イスターの朗読を聴いてみよう。ハイデッガーの肉声によってヘルダーリンの詩魂が再臨しているのを我々は聴き取ることができる。これは一つの〝奇跡〟ではないだろうか?

    Heidegger reading Hölderlins Hymne The Ister
  ハイデッガーによるヘルダーリンの讃歌イスター朗読 

        Den Ister
        イスター

Jetzt komme, Feuer!
今こそ来たれ、火よ。
Begierig sind wir,
われらは焦がれ
Zu schauen den Tag,
日の明けを視んとする。
Und wenn die Prufung
よしや試練に
Ist durch die Knie gegangen,
膝折れる思いはするとも
Mag einer spuren das Waldgeschrei.
森の叫びに気付く者はあろう。
Wir singen aber vom Indus her
われらはしかしインダスの方より来たり
Fernangekommen und
はろばろとアルフェウスより来たり
Vom Alpheus, lange haben
歌うのだ。永くわれらは
Das Schickliche wir gesucht,
相応しきものを求めてきた。
Nicht ohne Schwingen mag
いささかの躍動を覚えて
Zum Nachsten einer greifen
近くを捉えるものもあろう。
Geradezu
ひたすらに
Und kommen auf die andere Seite.
そしてあらぬ方へ至るのだ。
Hier aber wollen wir bauen.
ここでしかしわれらは建てよう
Denn Strome machen urbar
何故ならば流れは土地を
Das Land. Wenn namlich Krauter wachsen
拓くからだ。野草はすなわち育ち
Und an denselben gehn
流れに沿うて夏の日に
Im Sommer zu trinken die Tiere,
生き物らが水を飲むべくゆく時
So gehn auch Menschen daran.
人もまた流れのほとりを歩む。

Man nennet aber diesen den Ister.
ともあれこの川をひとはイスターと呼ぶ。
Schon wohnt er. Es brennet der Saulen Laub,
美しく川は住まう。柱廊なす樹々の葉は燃え
Und reget sich. Wild stehn
さゆらぎ、猛き樹木は
Sie aufgerichtet, untereinander; darob
そびえ立ち、互々に枝交わし、その上に
Ein zweites Mas, springt vor
更に整う屋根なして
Von Felsen das Dach. So wundert
突き出でる岩石もあり。さればこそ
Mich nicht, das er
私も異とせぬ、この川が
Den Herkules zu Gaste geladen,
かのヘラクレスを客として招じたことも
Fernglanzend, am Olympos drunten,
そして遥かなるオリンポスに、この地の木々の輝くことも。
Da der, sich Schatten zu suchen
かの折に英雄は蔭なす樹木を求めて
Vom heisen Isthmos kam,
暑きイストモスの地より来たったのだ。
Denn voll des Mutes waren
勇気あるかの国のひとらも
Daselbst sie, es bedarf aber, der Geister wegen,
とはいえその霊気の故にまた
Der Kuhlung auch. Darum zog jener lieber
冷風を要するのだ。かくて英雄は
An die Wasserquellen hieher und gelben Ufer,
この源泉と黄に映える岸辺まで渡ってきたのだ。
Hoch duftend oben, und schwarz
高き上方に香ぐわしくまた黒ぐろと
Vom Fichtenwald, wo in den Tiefen
唐槍の森はそびえ、谷深く
Ein Jager gern lustwandelt
狩人は心愉しくさすらいゆく。
Mittags, und Wachstum horbar ist
真昼時、生いゆく命の音も聞こえる
An harzigen Baumen des Isters,
イスターの樹脂薫る木々のほとり。

Der scheinet aber fast
その川の流れはしかし、さながらに
Ruckwarts zu gehen und
戻りゆくやに見えてならぬ。そして
Ich mein, er musse kommen
私は憶う、川はむしろ
Von Osten.
東より来たるべきかと。
Vieles ware
あまたあろう、それにつき
Zu sagen davon. Und warum hangt er
言わるべき事どもは。だが何故にひたむきに
An den Bergen gerad? Der andre,
この川は山々にすがるのか。かの別の
Der Rhein, ist seitwarts
ラインの川は傍らへと
Hinweggegangen. Umsonst nicht gehn
離れさったものを。凡そ河流が
Im Trocknen die Strome. Aber wie? Ein Zeichen braucht es,
乾いた土地を行くは故なしとせぬ。だが如何に流れゆくべきか。
Nichts anderes, schlecht und recht, damit es Sonn
河流は即ち言葉とならねばならぬ。一つの印が要るのだ。
Und Mond trag im Gemut, untrennbar,
その他の何者にもあらず、単純素朴に、印は太陽と
Und fortgeh, Tag und Nacht auch, und
月とをば、分かち難く心に抱きわたりゆくのだ、昼も夜も。かくして
Die Himmlischen warm sich fuhlen aneinander.
天なるものらは互いに身を暖かく感じあえるのだ。
Darum sind jene auch
それゆえに河流はまた
Die Freude des Hochsten. Denn wie kam er
最高のものの喜びなのだ。さもなくして彼は如何にして
Herunter? Und wie Hertha grun,
下り来たれよう。地の女神ヘルタの如く緑なす
 Sind sie die Kinder des Himmels. Aber allzugedultig
河流こそ天の子等なのだ。だが、イスターは余りにも
Scheint der mir, nicht
忍耐強いと私には思われる。
Freier, und fast zu spotten. Namlich wenn
自由の身とは思えぬのだ。戯れているやに見える。時あたかも

Angehen soll der Tag
陽は立ち昇り
In der Jugend, wo er zu wachsen
生い立ちの始まる青春に
Anfangt, es treibet ein anderer da
かの河ラインは既にして
Hoch schon die Pracht, und Fullen gleich
たかだかと華麗を誇り、若駒さながら
In den Zaum knirscht er, und weithin horen
はみをば拒み、その歯がみして駆けりゆく響きは遠く
Das Treiben die Lufte,
天空にまで聞こえる勢いだった。
Ist der zufrieden;
イスターは憂愁を湛える。
Es brauchet aber Stiche der Fels
しかし岩石は穿たれ
Und Furchen die Erd,
大地には畝をばならぬ。
Unwirtbar war es, ohne Weile;
時を得ずしては地は拓かれぬ。
Was aber jener tuet, der Strom,
だがかの流れが何をなすや
Weis niemand.
知る人は誰もない。

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【霊告月記】第二十四回 我ら光の道を踏む ハリマオと宮澤賢治

2017年10月01日 10時00分00秒 | 霊告月記21~25

【霊告月記】第二十四回  我ら光の道を踏む  ハリマオと宮澤賢治

★快傑ハリマオの歌  アジア主義の少年向け宣伝歌として聴くと面白い


十年以上連句実作の現場に居た経験は何物にも代えがたい貴重な私の宝である。連句の経験は私の書く文章の発想の根底にあるものであろうと自覚している。


いろんな連句論があるけれどもやはり寺田寅彦のものは漱石直伝の文学観と自身の科学的直観をミックスして極めてオリジナルである。殆ど古今無双といってよい。たとえばこんなふうである。

 フロイドの考えでは顕在的な「夢内容」の底には潜在的な「夢思想」なるものが流動している。前者の表面的な並列はいわゆる夢のような幻影の無意味な行列に過ぎないのであるが、これらの「夢内容」を形成する象形文字のような影像を一つ一つ夢思想の国のこれに相当する言葉に翻訳してみれば、それはちゃんとした文章となり、そうしてそれは驚くべくおそるべきわが内部生活の秘密を赤裸々に記述するものとなるのである。しかもその一つ一つの象形文字のような夢内容は驚くべく多様な夢思想の圧縮されたエッセンスであり、またはなはだしく複雑な夢思想の網目の接合点である。それらの接合点のうちでも、その人のその日の、その前日の、また生涯の経験――意識的ないし無意識的――の最も多くを結びつけるに都合のいいような、そういう特別な接合点が、その夜の夢の内容の一つとして象形文字的に選ばれて現われて来るのである。たとえばフロイドが「植物に関する彼の著書が彼の前に置かれてあり、そのぺージをめくっていると一枚の彩色絵がさし込んであり、また一枚の腊葉がとじ込んである」という夢を分析した結果によると、この「植物学の著書」というだけの一見きわめて簡単なる内容が実は非常に多様な体験を接合するための一つの中間介在物であり、言わば扇のかなめのようなものになっている。すなわちこれはその日偶然通りかかったある店先で見た他人の他の事に関する植物学の著書につながると同時に、自分の昔書いたある論文につながり、次いでその論文に連関した大学研究室のいろいろの出来事につながり、また一方ではある眼科医へつながる。この眼科医とその前日現に出会って用談をしているうちに邪魔がはいって談を中絶された事があったのである。それからまたその「植物の」というだけがある他のプロフェッサーからその美しい夫人それから他の婦人患者といったふうにいろいろの錯綜した因果の網目につながっている。かくのごとくにしてこの一見はなはだつまらぬ「植物学の著書」はこれらの多数な夢思想の全体を引率するに最も適当な、扇のかなめのようなものとして便宜上代表的に選ばれてその夜の夢の顕在的夢内容として現われたというのである。
 連句の一句の顕在的内容は、やはりその作者の非常に多数な体験のかなめである。そうしてその多くの潜在的思想の網が部分的に前句と後句に引っかかっているのである。もちろん前句には前句の作者の潜在思想の網目がつながっているのであるが、付け句の作者の見た前句にはまたこの付け句作者自身の潜在的な句想の網目につながるべき代表的記号が明瞭に現われているのである。そうしてまたこの二つの句を読む第三者がこの付け合わせを理解し評価しうるためにはこの第三者の潜在思想中で二句が完全に連結しなければならないのである。しかもこの際読者の網目と前句作者の網目と付け句作者の網目とこの三つのものが最もよく必然的に重なり合い融け合う場合において、その付け合わせは最もすぐれた付け合わせとして感ぜられるのである。

 このような機巧によって運ばれる連句の進行はたしかにフロイドの考えたような夢の進行に似ているのである。しかし夢の場合はそれが各個人に固有なものであって必ずしもなんらの普遍性をもたなくてもよい。しかし連句においては甲の夢と乙の夢との共通点がまた読者の多数の夢に強く共鳴する点において立派な普遍性をもっており、そこに一般的鑑賞の目的物たる芸術としての要求が満足されているのである。
(寺田寅彦『連句雑俎』「四 連句の心理と夢の心理」より)


      ※参考※  【霊告日記】第二十回 連句入門

】霊告【 日は君臨し 輝きの 太陽系は真昼なり
   険しき旅の 途上にして 我ら光の道を踏む      宮澤賢治


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【霊告月記】第二十三回 歴史の天使は廃墟を凝視する

2017年09月01日 10時00分00秒 | 霊告月記21~25

【霊告月記】第二十三回 歴史の天使は廃墟を凝視する

 】霊告【 学ぼう 学ぼう 学ぼう  愛国心を超える道を  北一輝  

今月はたいへんに忙しかったので、モランボン楽団の動画にリンクを貼りました。またクレーの絵にベンヤミンが解説を加えた文章を引用しました。すべて素晴らしいものばかりです。
モランボン楽団、イイネ!  歴史の天使に敬礼!

    

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており 、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのようにも見える。かれの目は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が天に届くばかりに高くなる。僕らが進歩と呼ぶのは〈この〉強風なのだ。
(ベンヤミン「歴史の概念について」第九テーゼ野村修訳)》

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【霊告月記】第二十二回 マクロンのフランスは啓蒙のリーダーとなりうるか

2017年08月01日 10時00分00秒 | 霊告月記21~25

【霊告月記】第二十二回 マクロンのフランスは啓蒙のリーダーとなりうるか

【マクロンの霊告】 マダム、私は絶対に譲歩しません。真実を言います。



フランスの啓蒙思想はフランス革命を引き起こした。それ以降フランスは、常に革命の輸出国の役割を果たし、世界を啓蒙する国家としての威信を保持してきた。世界史の光はフランスの方向から射していたのである。

21世紀のフランスはかっての19世紀でそうであったような政治的・経済的・軍事的大国ではもはやない。しかしながら、ドゴール・ミッテランのようなあるいはそれ以上の自主外交を展開することによって、マクロンのフランスは啓蒙のリーダーとして今後ふたたびその存在感を増していくことがありうるのではないか。

そのような期待を実感させる演説。ここでのマクロンはまちがいなく完全に自分の言葉で語っている。マクロンの演説を聞く時、かすかではあるがフランスの伝統である啓蒙精神の復活の響きを私は感じ取る。フランスは青春の国、我々にとって第二の祖国なのである。

★奇跡の身体、宝石の声。黒いヴィーナス、ジョセフィン・ベーカー。  

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