【ダンボールの部屋】 いつも輝いて煌めいていましょう!

ダンボールの部屋へようこそ!!! ここはWEBの聖地だ ヽ(^0^)ノ

【霊告月記】第五回 保田與重郎「みやらびあはれ」誕生秘話

2016年03月01日 10時00分00秒 | 霊告月記1~5

【霊告月記】第五回     保田與重郎「みやらびあはれ」誕生秘話

発端:1925年(大正14年)6月。雑誌『新潮』に芥川龍之介が「みやらびあはれ」の歌を掲載した。

===========
 佐藤惣之助君に貰つた「琉球諸島風物詩集」によれば、琉球語に娘子を「みやらび」と言ふさうである。「みやらび」と言ふ言葉は美しい。即ち禮状のはしに「みやらび」の歌一首を書いて送つた。何でもこの「みやらび」どもはしんとんとろりと佐藤君に見とれたやうに聞き及んでゐる。

  空にみつ大和扇をかざしつつ來よとつげけん「みやらび」あはれ

   (『澄江堂雜詠』の三「みやらび」より) 
=========

当時中学生の保田與重郎はこの歌を読んで鮮烈な印象を受けた。この歌と作者の名前の不完全な記憶が後に保田與重郎の最高傑作「みやらびあはれ」を生むことになる。

佐藤惣之助の「琉球諸島風物詩集」は、近代デジタルライブラリィで閲覧することができる。 ( http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977897  )


この詩集の中「乙女座の下で(11頁)」の詩の冒頭には、次のような八重山民謡が、エピグラムとして掲げられている。

 月の美(かい)しや、十日三日、乙女(みやらび)美(かい)しゃ、とうななち、ほういちょうか。

この歌はどんな旋律で歌われるのだろうか。歌詞をウィキペディアで、歌をユーチューブで検索してみた。

◆月ぬ美しゃ◆

月ぬ美しゃ 十日三日
みやらびかいしゃ とおななつ
ほーいちょーが

東から上がりょる 大月ぬ夜
沖縄ん八重山ん 照ぃらしょうり
ほーいちょーが

あんだぎなーぬ 月ぬ夜
我がげら 遊びょうら
ほーいちょーが

寺ぬ大札んが 絹花
黄金花 咲かりょうり
ほーいちょーが
     ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E3%81%AC%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%82%83 )

  

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

★ダンボールの部屋へようこそ!!! ⇒ ダンボールの部屋のマップ


【霊告月記】第四回   一度目は悲劇として、二度目は茶番として

2016年02月01日 10時00分00秒 | 霊告月記1~5

【霊告月記】第四回    一度目は悲劇として、二度目は茶番として

マルクスとエンゲルスの盟友関係には特別なものがある。そのことを実証するような資料を発見したので紹介しておく。エンゲルスからマルクスへの手紙、その抜粋である。ナポレオンの甥ルイ・ボナパルトによるブルメール十八日のクーデター成功の直後に盟友マルクスに書き送ったものである。

 132 エンゲルスからマルクス(在ロンドン)へ

フランスの事態は最高に完成された喜劇の段階にはいった。この平和のただなかで、不満を感じている兵士たちとともに、世界じゅうでいちばんくだらい人間によって、これまでに判断できるかぎりではなんの抵抗もなしに遂行されたブリュメール十八日の茶番、これ以上に愉快なものを想像することができようか。

われわれが先日見たところでは、人民などは全然問題にされていなくて、まるで老ヘーゲルが墓のなかから世界精神として歴史を導きながら最大の几帳面さですべてのものを二度出現させたかのようだ。一度目は大悲劇としてして、二度目はあさましい茶番として。すなわちダントンのかわりにはコシュディエールが、ロベスピエールのかわりにはルイ・ブランが、サン-ジェストのかわりにはバルテルミが、カルノのかわりにはフロコンが、そして短躯の下士官とその食卓仲間の将軍連とのかわりには手あたりしだいに集めた借金中尉たちを引き連れた奇形児が登場するのだ。こうしてわれわれはすでにブリュメール十八日を目前に見ているわけだ。


      君からの便りを待ちつつ。  
君の F・E
     
 [マンチェスター]一八五一年十二月三日
(マルクス・エンゲルス全集第27巻 325頁  大月書店 1971年)


歴史に於ける反復という興味深いテーマに関しての問題提起である。そしてマルクスはエンゲルスから個人的に差し出された言葉をそのまま反復(!)することによって、反復というテーマをいわば普遍的な歴史的現象として周知のもの足らしめたのである。これはまことにみごとな連携プレーと言えよう。


ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番(ファルス)として、と、かれはつけくわえるのをわすれたのだ。ダントンのかわりにコーシエディール、ロベスピエールのかわりにルイ・ブラン、一七九三年から一七九五年までの山岳党のかわりに一九四八年から一八五一年までの山岳党、叔父のかわりに甥。そして「ブリュメール十八日」の再販が出される情勢のもとでこれとおなじ漫画が〔えがかかれる〕!
(マルクス著『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』岩波文庫)


この反復という歴史現象に注目したもう一人の人物が橋川文三である。「橋川文三とマルクス」というエッセーにその内容を記載したので詳細は省くが、日本浪曼派はドイツロマン派の悪しき反復であった。カール・シュミットの『政治的ロマン主義』を批判的に読み込むことによって、橋川文三は『日本浪曼派批判序説』を書き上げたのである。


     ~~~ 関連記事 ~~~

(1) 橋川文三の文学精神】 十三 橋川文三とマルクス

(2) 好日31 日本浪曼派とは何か

★一度目は懐かしく、二度目は新しい。そんな曲が聴きたい。

 □■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

★ダンボールの部屋へようこそ!!! ⇒ ダンボールの部屋のマップ


【霊告月記】第三回   ドストエフスキーと橋川文三

2016年01月01日 10時00分00秒 | 霊告月記1~5

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

  【
霊告月記】第三回    ドストエフスキーと橋川文三


★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


本年もどうぞ宜しくお願い致します。1年の計は元旦にありと言います。この機会に霊告月記の第一回で明らかにした計画をもう少し詳細に示しておきます。2020年の東京オリンピック閉幕の月を目途に『来たるべきアジア主義』を質・量共に凌駕する作品を書き下ろしで発表したいと考えています。

足掛け5年で新作というのはずいぶん長くかかるものだと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、『来たるべきアジア主義』の完成には29年の歳月をかけています。長年書きためたものを集大成した作品だからなのですが、新作は書き下ろしなので準備を含めて5年ほどあれば完成するだろうと見込んでいるわけです。私の感触としては5年というのはむしろ短い時間なのです。

オリンピック明けの発表にこだわるのは、時代の空気を変えるような衝撃的な作品を書きたい。それにはオリンピックが終わって、さてこれから日本の国や諸個人がどう動くべきか、そのような精神的な要請が求められるであろう、そのタイミングを捉えたいというのが思惑としてあります。新作はだいたいのところ準備に4年、執筆に1年程度を予定しています。従ってことし1年間は深く静かに潜航します。

〈計画〉という話題で私がいま想起するのはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』続編です。不慮の事故によってドストエフスキーは死亡。『カラマーゾフの兄弟』続編の完成の計画は頓挫しました。

様々な人がこの続編の内容を議論しています。私もこの続編の内容がどのようになるのであろうか、資料を漁ると共に色々と思い巡らしてきました。そのような作業の一環として『悪霊』の読み直しも行いましたが、カラマーゾフ続編を空想するにあたってはロシアの思想史に関する洞察が必須である、これは橋川文三を研究することによって得た私なりの見解です。
橋川文三の『日本浪曼批判序説』の中にはこういう一節があります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
私が保田のものにいかれた時期は正に私の未成年期であり、文字どおりドストエフスキーの『未成年』と、保田の「ウェルテルは何故死んだか」とは同じ昭和十六年の秋に私の読んだものであった。これは閉塞された時代の中で、「神というと大げさになるが、何かそういう絶対的なもの」を追求する過程での不吉な偶然であった!? 
~~~~~~~~~~~~~~~~~

ドストエフスキーの『悪霊』にはロシアの思想的混沌を象徴するかのようなスタヴローギンという悪魔的人物に触発された三人のキャラクターが登場します。ピョートル、シャートフ、キリーロフの三名です。この三名はスタヴローギンにインスパイアされてそれぞれ独自の理念を確立します。

ミハイル・バフチンが明らかにしたところによると、ドストエフスキーの人物たちは、それぞれある理念(イデー)を体現しています。そしてイデーを体現しながらも、そのイデーを乗り越える肉体を持っている。どこまでも血肉を持った存在として描かれている。 そこでピョートル、シャートフ、キリーロフの三人がいかなるイデーを体現しているか、ドストエフスキーは体現させたのであろうか、を見てみますと、

  ピヨートル→革命の理念
  シャートフ→民族主義の理念
  キリーロフ→自我の理念、です。

 そこで『悪霊』という作品の本質的構造を記号表現で置き換えてみましょう。
  
   S(p、s、k)        ・・・・・ 構造式(1)

Sはスタヴローギンで後発近代のロシアの思想的可能性と混沌の一切を象徴するかの如き悪魔的人物。pはピヨートルで
革命の理念を、sはシャートフで民族主義の理念を、kはキリーロフで自我の理念を、それぞれ体現ないしは肉化した人物として造型されています。

ところで橋川文三は昭和前期の思想的混沌を次のような鮮やかな思想史的洞察によって総括しました。

~~~~~~~~~~~~~~
私の考えでは、昭和の精神史を決定した基本的な体験の型として、まず共産主義・プロレタリア運動があり、次に、世代の順を追って「転向」の体験があり、最後に、日本浪曼派体験がある。このそれぞれの体験は、概して現在の五十代、四十代、三十代のそれぞれの精神的造型の根本様式となっており、相互の間に対応ないしは対偶の関係がある。この三者は、精神史的類型の立場からみれば、等価である。
(橋川文三『日本浪曼批判序説』講談社学芸文庫・15頁)
~~~~~~~~~~~~~~~

上に引用した部分は橋川文三の最高傑作(丸山真男)である『日本浪曼批判序説』の更に精髄であるというのが衆目の一致した意見でしょう。 ならば、橋川文三が昭和の精神史のエッセンスとして取り出した、マルクス主義体験(=革命の理念)、転向体験(=民族主義の理念)、日本浪曼派体験(=人神の理念に繋がる可能性もあるところの自我の発見)。この三項目を等価と断定した作業こそ、思想史を活きた科学として誕生させた橋川文三の金字塔ではなかったかと私は考えるものです。この橋川の洞察を記号表現に置き換えてみます。

   S(m、t、n)    ・・・・・ 構造式(2)

後発近代である日本の昭和前期の思想的可能性と混沌の一切をSは象徴しています。mはマルクス主義体験(=革命の理念)を、tは転向体験(=民族主義の理念)を、nは日本浪曼派体験(=人神の理念に繋がる可能性もあるところの自我の発見)を、それぞれ記号表現に置き換えたものです。

先ほどのドストエフスキーの『悪霊』と橋川文三の『批判序説』の構造式(1)と(2)を突き合わせてみましょう。このふたつの構造式は等価です。等号で結び付けられる性質を持っているのです。方程式で表現するならば、こうなります。

   S(p、s、k) = S(m、t、n)

左辺のSはスタヴローギンのS、右辺のSは昭和のSです。左右の構造式に含まれた各要素pとm、sとt、kとnの各々は、橋川の言い方を借りれば「相互の間に対応ないしは対偶の関係」があります。
これは私の得た発見です。もし興味を感じた方がいらっしゃいましたら検証の労を取って頂けたら幸いです。(すでに証明はなされており反証は不可能とは思いますけれども念のためということもあります。)

『悪霊』で表現されたカタストロフィーの劇はそのまま昭和の歴史として反復されました。ドストエフスキーは昭和の歴史を精確に予言していたのです。

    ※参照※ ⇒ 【創作】『カラマーゾフの兄弟』続編

★去年は悲しいことがあった。今年は嬉しいことばかりの年にしたい。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

★ダンボールの部屋へようこそ!!! ⇒ ダンボールの部屋のマップ


【霊告月記】第二回  時には母のない子のように

2015年12月01日 10時00分00秒 | 霊告月記1~5

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

  【
霊告月記】第二回     時には母のない子のように


★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆



 今日は寺山修司の霊告を聴く日である。寺山が作詞しカルメン・マキが歌った「時には母のない子のように」。この曲を最初にかけたその理由は僕が母のない子になったからだ。寺山修司の母を乞う心境に共感しシンクロしている。そのような状況をこの曲を流すことによって現出したかった。つい先日10月28日(水)午後11時10分わが母川端かね子は永眠した。母を偲ぶ四十九日の法事は今月12日(土)に僕も帰省し故郷の実家でとり行われる。父と母については二度書いたことがある。その文章へのリンクを貼り母の写真を掲げておく。お母さん、お世話になりました。ありがとうございました。これ以上言葉は費やすまい。嗚呼!
      
      父と母の物語:言霊降臨1
      
      父と母の物語:言霊降臨2


       ありし日のわが母の肖像

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


霊告月記】第二回  附録

★平泉澄の皇国史観の核心としての楠正成の崇敬★

平泉澄(1895-1984)の『楠公 その悲劇と余香』(鹿島研究所出版会 1973年)を読んだ。この著書の要旨を核心部分の引用によって再構成してみた。この要旨と「櫻井の駅」の歌を併せ聴くことによって平泉澄の皇国史観の核心が直観的に理解できるよう工夫してみた。念のため申し添えておくが私は必ずしも平泉澄の皇国史観に賛同しているわけではない。ただ楠正成崇敬の心には心から共感している。

■闇斎学派について

明治維新の原動力の有力なる一つは、山崎闇斎の学統でありますが、闇斎の孫弟子に当る若林強斎は、おのれの書斎に名づけて望楠軒といひ、その理想とする所が楠公に在る事を明確にしてゐます。
(平泉澄『楠公 その悲劇と余香』p84)


■楠正成尊敬の発端

江戸時代になって学問が盛になるにつれ、次第に史実の詮索も行届き、建武中興前後の事情も明かになり、正成に対する尊敬が盛になって来ますが、その風潮を決定的ならしめたものは、水戸の徳川光圀が、湊川の遺蹟に、正成の墓碑を立てた事でありました。時は元禄五年、石碑の表面には、光圀自身、「嗚呼忠臣楠子之墓」の八字を揮毫し、そして裏面には先に朱舜水の作った「楠公賛」を採って、之を刻したのであります。(同、p78)

■朱舜水について

朱舜水は明の遺臣で、明の国が清によって滅ぼされた時、清に仕えるを潔しとせず、我が国に亡命した人物で、その高潔なる人格と深遠なる学識の為に、光圀の尊敬と信頼を得て、水戸へ招請せられ、天和二年四月、八十三歳で亡くなりました。(同、p78)

朱舜水は、清の為に滅ぼされた明の遺臣でありますが、自分の生まれた土地には、革命しきりに起って、国家の生命まことに短く、之に反して日本に於いては、建国以来、万世一系の天子を仰いでゐるのを見て、感慨無量であったでせう。(同、p79)

■平泉澄の皇国史観の核心としての楠正成崇拝

 もし楠公の精神が理解せられず、却って足利をよしとするか、よしとしないまでも容認するか、しますと、それは大変なことになるのであります。
 足利は、おのれの名誉、権益を追求するに急であって、その為には、他にどのやうな迷惑を与えても構はなかったのであります。兄の高氏と、弟の直義とは、やがて利害が衝突して、互いに激しい争を演じ、そして結局直義は、高氏の為に殺されます。それを始めとして、父子兄弟一族の間に、次々と争いが起ります。足利の家来も之を見習って、或は主家にそむき、或は相互に争ひます。「自分さへよければ」と云う私利私欲が、つもりつもって、やがて応仁の大乱となり、そのまま百年の戦国時代に入るのであります。君臣父子夫婦の間の道徳が悉く乱れて了っては、世の中は乱れ、国は衰亡の道をたどる外はないのであります。孟子の初めに説いてあります所の、上下すべておのれの利益を追求するならば、「奪はずんばあかざる」、つまり「略奪しなければ満足しない」やうになるであろうとの誡戒(いましめ)がしみじみと痛感せられるではありませんか。
 日本人は必ず勇気を取戻し、理非を分ち、正邪を裁くに至るでありませう。日本国はその時、正大の気に充ちた道義の国としての威厳を回復するでありませう。それに先んじて之を導くものは楠公の精神であり、その成就したる暁に、全国民の心に光かがやくものは、忠孝両全の教でありませう。(同、p95)


■落合直文について

落合直文は、すぐれたる国文学者である共に、純情の歌人であって、その作に、
  一つもて 君を祝はむ 一つもて
    親を祝はむ ふたもとある松
  父君よ 今朝はいかにと 手をつきて
    問ふ子を見れば 死なれざりけり
などがあり、いかにも素直に日本の心が現れてゐますが、そういふ人柄であったればこそ、櫻井の駅の名歌が出来たのでもあり、同時に櫻井の駅の、あの悲しく美しい史実があったればこそ、その感化影響を受けて、直文のやうな人柄が養はれたのでもありませう。(同、p67)

■大楠公の歌



□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


         ★ダンボールの部屋へようこそ!!! 
   中央大学創立百周年記念長谷川如是閑賞授賞論文
  『歴史における保守と進歩』  目次と本文へのリンク


【霊告月記】第一回  風立ちぬ、いざ生きめやも

2015年11月06日 10時00分00秒 | 霊告月記1~5


※五ヶ月更新を休止していたブログを本日より再開します。再開にあたって、従来の「霊告日記」を「霊告月記」に改め、毎週金曜日更新から、次月以降毎月1日更新に改めます。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

  【
霊告月記】第一回     風立ちぬ、いざ生きめやも


★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

★『来たるべきアジア主義』はこのマンションで書かれた。動画はダンボールの部屋の隣室。

 

5か月間更新を休止しているあいだに、こんごどのように表現活動を展開していこうか、かんがえていました。その結論は、『来たるべきアジア主義』は短編の積み重ねで成り立っており、テーマが幅広い代わりにまとまりに欠ける。そこで、こんごは短編のつみかさねではなく数年間相当の時間をかけてまとまった作品を書く。
長編の作成に99%の努力を傾注し、ブログ更新に関しては、身辺雑記や近況報告のような軽い読み易いものを書いて月一度の掲載とする。

こういう方針を立てた次第です。そのようなわけで、ブログ再開にあたって、従来の「霊告日記」を「霊告月記」に改めることにしました。

5月から6月にかけて100本を越える数の韓国映画を見ました。なお、韓国映画から得た影響は甚大ですが、感想を述べるのは今回は控えさせて頂きます。

6月に入って、私生活で大きなイベントがありました。20年以上住んでいたマンションが7センチ傾いていたことが判明。マンション建て直しのためという名目で不動産会社から立ち退きを要求されました。交渉の結果、酷暑の8月7日に目黒区自由が丘から世田谷区奥沢に転居しました。勿論移転費用は不動産会社持ち。立ち退き料として然るべき金額を得ることができました。

奥沢は閑静な住宅地でして、自由が丘へも徒歩で8分ほどの好位置。住居は5月に内装をリニュールしたばかりで、たんに小奇麗なだけではなく31ヘーベの1LDKと室内は広く、三階の角部屋のため室内は明るくて住み心地がとても良い。まさに新生活が開始できたとの実感を持つことができたのでした。新しい部屋で新しい表現を獲得したいと思っています。

転居と同時にパソコンは電話回線を利用したADSLから光回線に変更。新たにタブレットも購入し、外出先からもブログを更新できるようにしました。休みの日などには、自由が丘のグーリーンロードのベンチに座り、タブレットのヘッドフォンで吉本隆明の講演の音声記録を聞いたりなどしています。

直近で近親者に不幸がありました。いまは悲しみにうちひしがれています。これ以上は書けません。もうしわけありません。 


★新生活への船出に  ひょっこりひょうたん島のテーマ


□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

★ダンボールの部屋へようこそ!!! ⇒ ダンボールの部屋のマップ