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【霊告日記】第十回 さて、シュミットです ~カール・シュミット「レヴィアタンーその意義と挫折」を読む~

2014年09月05日 10時00分00秒 | 霊告日記6~10

【霊告日記】第十回 さて、シュミットです
          ~カール・シュミット「レヴィアタンーその意義と挫折」を読む~

▼まえがき▼
ミクシーのコミュニティ「橋川文三を考える」に連載した「さて、シュミットです」の総集編を公開します。全体理解に役立つと思い旧約聖書列王記下第五章のナーマンの逸話の引用を補い、引用元の違いに応じて文字の色を変え、肖像写真の挿入や誤字脱字の訂正等の修正を行いました。

カール・シュミットの「ユダヤ・イデオロギー」批判は、あくまでに法学的・哲学的・思想的なものであって、人種差別やナチスへの加担といった、一般的に流布されているシュミット象とはまったく違う内容のものであることを証明しようとしたミニ・エッセイです。

その証明の過程で近代自由主義の根本をなす考え方を抽出することに成功しました。国内的には差別の拡大を助長する発言の自由=いわゆるヘイトスピーチの問題があり、国際的にはグロバール経済の拡大によって富が一極集中し先進国・発展途上国を問わず中間層の破壊が進み民主主義が機能不全に陥っている現状があります。これらはいずれも自由主義が席巻し民主主義が後退することによって引き起こされている弊害です。近代自由主義の克服を課題として掲げたカール・シュミットの学問の先駆性が問われるべき時期に入っているというのが私の根本認識です。

「さて、シュミットです」 第1章 


まずは、ホッブズの『リヴァイアサン』の扉に掲げられた銅版画をご覧下さい.



カール・シュミットによるこの画像の説明です。
――その画はLeviathanの題、「地上の権力には是と並ぶ者なし」というヨブ記四十一章二十一節の標語とともに、一見して異様な印象を与える。無数の小人によって合成された巨人が右手に剣、左手に牧杖をもち、平和な町を上から守っている。(略)
衝撃的題目をもった本は内容以上に有名になる。『レヴィアタン』もその一つであるが、この扉絵もまた同書の衝撃力に貢献した。
(長尾龍一訳カール・シュミット「レヴィアタンーその意義と挫折」=福村出版1972年刊『リヴァイアサン』所収)

途中全部省略して、「レヴィアタンーその意義と挫折」の結論はこうなります。この書の結びの部分です。
――彼が(注:ホッブズが)現在の我々になおもたらしうる洞察と寄与は何か。それこそあらゆる種類の間接権力に対する闘争である。

――今こそ我々は彼の論争の力をありのまま理解し、その思惟の内的誠実を理解する。そして人間の実存的不安を恐れることなくつきつめた不撓の精神と、間接的諸権力の曖昧な使い分けに対する真の戦士の姿に愛情を捧げる。

――彼こそ我々に偉大な政治的熟達を教える真の教師である。先駆者の孤独、自国に受け容れられない政治思想家に附き物の誤解、他人を通すために扉を開くものの報われなさ、それにもかかわらず彼は万世の知者たちの不滅の共同体の一員であり「古代の叡智の唯一の回復者」である。さればいざ、幾百年をこえて彼に呼び掛けよう、
「ホッブズよ、汝の教えは空しからざりき」と。
(同、カール・シュミット「レヴィアタンーその意義と挫折」)


「さて、シュミットです」 第2章  



                  Leo Strauss (1899-1973)

シュミットは『リヴィアタン』においてユダヤ人の哲学・法学を厳しく批判しています。ところが、シュミットがもっとも評価する同時代の学者が、ユダヤ人のレオ・シュトラウスなんですね。そしてこのレオ・シュトラウスもまた、反ユダヤ思想の持ち主であるシュミットを同時代の学者の中では一番評価している。

いったい何がどうなっているんだ、わけがわからん・・と、ふつうは思いますよね。しかし、事実なんです。この不可思議、もつれた糸をときほぐすのは容易でないです。

竹島博之著『カール・シュミットの政治──「近代」への反逆』 には、二人の関係がこんな風に対照的に記述されています。

ーー シュトラウスが自由主義の克服という課題に取り組んだのは、自由主義が根本的にユダヤ人問題を解決できないという認識があったからだ。しかし、シュトラウスが一時的に加担したシュミットの自由主義克服の試みは、皮肉にも、反ユダヤ主義を積極的に扇動するものであった。

ーー 一九三八年のシュミットの『レヴィアタン』は、キリスト教の伝統の中で解釈された「ビヒモス」像との対立関係から「リヴァイアサン」像を規定する。革命や無政府状態といった、いわゆる自然状態を象徴する「ビヒモス」は、平和を強制する国家秩序の象徴たる「リヴァイアサン」と対立するものだと考えられる。そして「リヴァイアサン」の神話的迫力は、対抗神話である「ビヒモス」から獲得されるのだとされる。ところがこの「ビヒモス」は、ナチ・イデオロギーへの迎合もむろん影響していようが、ナチス期のシュミットによってユダヤ性に還元され、ユダヤ人が内乱や国家の分裂をもたらす象徴に仕立てあげられることになる。このような認識の延長線上で、シュミットは、国家の多元的分裂をもたらした中立化の動因をスピノザ、メンデルスゾーンといったユダヤ人に帰せた精神史を描きだす。

ーー つまり、神話に依拠したシュミットの政治理論は、シュトラウスの問題関心である「反ユダヤ主義」を克服するどころか、逆に「反ユダヤ主義」を積極的に唱えるに至ったのであった。

ふたりの関係をまとめると、シュトラウスはユダヤ人問題を解決するために自由主義の克服という課題を追求した。シュミットは自由主義の克服という課題を追求する結果として反ユダヤ主義に到達した。自由主義の克服という課題を追求する過程において、両者はホッブズの研究に向かった。そしてホッブズの研究の過程で両者は本質的な対話を交わした。そしてその両者の対話はいまなお誰も乗り越え不可能な高みに宙づりになっている。こういうことかと思います。

「さて、シュミットです」 第3章  

シュミットの反ユダヤ主義はほんとうに複雑微妙です。シュミットがナチスの桂冠法学者の地位から脱落したのは、「口先だけの反ユダヤ主義者である。実質的にユダヤ人を擁護する理論を展開し、私生活でもユダヤ人を多数擁護している」という批判が公然とナチスの御用雑誌から巻き起こり、この嫌疑はナチス全盛時には致命的なものでしたから、単なる失脚ですまず、一時は強制収容所入りのおそれもシュミットにはありえました。絶体絶命のピンチを救ったのはゲッペルスです。ゲッペルスは、「たとえ証拠があっても、私の保護下にあるシュミットをこれ以上批判するのは許さない。これは私への侮辱である」という趣旨の弁を手紙で雑誌の担当者に伝えてシュミット批判を封殺しました。ナチス第二位の権威の命令によって、証拠があろうがなかろうが、シュミットのユダヤ人擁護の嫌疑はこれ以上論ずべからずというのが、ナチス体制化の法律となった。そうゆうわけでシュミットは強制収容所入りを免れ、公職活動の自粛、つまり単なる失脚で済んだのですね。

『レヴィアタン』におけるシュミットの反ユダヤ主義は、シュミットの信念から出ているもので、単なるナチズムへの迎合とか、人種差別主義の表明とかではないと私は思っています。なぜなら、この『レヴィアタン』における反ユダヤ主義の議論は、その第一の読者として、尊敬するユダヤ人学者レオ・シュトラウスに向けられているからです。ナチスの有象無象なんかは相手にしてない、高次の論争の中から発せられている。シュトラウスとの孤高の対話的関係の中から生み出された言説としてそれはある。だからシュミットの反ユダヤ主義は一筋縄では解けないのです。そういう基本認識がリュータースなどには欠けている。能力不足でそういうことまで気づかないのなら仕方ないが、気づいていて何も言わないのなら不誠実です。リュータースはナチスのシュミット批判に謙虚に耳を傾けるべきだったのです!?

シュトラウスの自由主義批判について、未詳でしょうから、ご紹介します。竹島博之著『カール・シュミットの政治──「近代」への反逆』からの孫引きによる引用です。 

ーー 自由主義国家は、ユダヤ人市民を「差別」しようとはしない。(しかし)自由主義国家が、個人や集団によるユダヤ人「差別」を憲法上防止できないこと、そして防止する意志もないことは、またそれと同じくらい確かなのだ。こうした意味での私的領域の承認は、私的な「差別」を許容し、保護し、その結果、事実上「差別」を助長する。自由主義国家は、ユダヤ人問題に解決策を提示できない。なぜなら、その解決のためには、あらゆる種類の「差別」を法的に禁止することが必要になるのだが、これは私的領域の廃棄であり、国家と社会の区別の拒否であり、つまりは自由主義国家の破壊を意味するからだ。 (シュトラウス『スピノザの宗教批判』英語版への序文:高木久夫訳:『スピノザーナ』第一号、1999年所収)

方向は逆ですけれども、シュミットとシュトラウスは自由主義の克服という問題意識からそのホッブズ論を戦わせ、これまたスピノザ評価を競った。彼らの対話に深く耳を傾けることが、橋川文三の「絶対者の探求と政治」という問題提起を受け止めることにつながるのではないかと思います。


「さて、シュミットです」 第4章  
 



                  Thomas Hobbes (
1588-1679)

『レヴィアタン』の中におけるシュミットの反ユダヤ主義について述べようとしただけなのに、シュトラウスの話題まで自分で振ってしまって収拾がつかなくなりそう。

さて、『リヴィアタン』ですが、この書物は、ホッブズが国家をリヴァイアサンという神話的イメージをかぶせたことの、後世に与えた影響を考察したものであると言えます。

ところが、不思議なことにホッブズの『リヴァイアサン』には、このリヴァイアサンという言葉は本文の中でたった3回しか出てこない。書物の表題と銅版画のイメージがあまりに強烈だったために、ホッブズと言えば、即リヴァイアサンというイメージが呼び起こされるようになった。そもそもなぜリヴァイアサンなのかという問題があります。

二度目のリヴァイアサンへの言及は、ホッブズの書「第二編国家論第十七章」でなされています。

ーー 人びとを、外敵やかれら相互間の侵害から守り、またそれによって、人ひとが、みずからの労働と土地からの収穫物でその生命を支え、快適な生活を送ることができるように保護してやれる能力をもった共通の権力を樹立するための唯一の道は、かれらのあらゆる権力と力とを、多数決によって、すべての意志を、一つの意志とできるような一人の人あるいは合議体に与えることである。
ホッブズによれば、「各人対各人の信約によってつくられる、まったくただ一つの人格のなかへの、かれらすべての真の統一」が必要なのである。そしてその信約は、あたかも、各人が各人にむかって、「あなたもわたくしと同じように、あなたの権利をかれに与え、そのすべての行為の権限を認めるという条件のもとに、わたくしは、みずからを統治する自分の権利を、この人あるいはこの合議体に与え譲渡する」と宣言するかのようなものでなければならないとされます。
(ホッブズ著『リヴァイアサン』水田洋訳)

この後に「リヴァイアサン」の語句が使用されます。

ーー このこと(注;各人対各人の信約)がなされると、この一人格に統一された群衆は、コモン-ウェルスーーラテン語でキウィタスーーと呼ばれるのである。これが、かの偉大なリヴァイアサン、いやむしろ(もっとうやまっていえば)、あの可死の神の生成であり、われわれが不死なる神のもとで、[国内の]平和を維持し、[外敵から]防衛されているのは、この可死の神のおかげなのである。
(同、ホッブズ著『リヴァイアサン』)

つまり、国家=コモン-ウェルス=キウィタス=リヴァイアサン=可死の神、ということであって、リヴァイアサンとは国家の仮のひとつの名称(名づけ)でしかなかったようです。

完結編「さて、シュミットです」 第5章  

 

              Carl Schmitt(1888-1985)

シュミットの「レヴィアタンーその意義と挫折」(1938年)は、次のような章立てを持っている。

緒言
第一章 レヴィアタンとは何か
第二章 ホッブズの用例
第三章 神・人格・機械
第四章 国家の中立化
第五章 主権的人権の死亡
第六章 機械の崩壊
第七章 象徴の失敗

第一章から第四章まで、シュミットは、レヴィアタンの生成を描き、圧縮した鋭利な表現を駆使してその本質を分析している。第五章から第七章までは、表題の「死亡」「崩壊」「失敗」という否定的な語句の選択でもわかるように、レヴィアタンの没落の過程を描写している。そしてこの没落に手を貸し、最終的にレヴィアタン殺害にまで持っていった勢力こそ、シュミットの考えによれば、誰あろうスピノザを筆頭とするユダヤ人の一団なのである。「レヴィアタンーその意義と挫折」は、このような意味で本質的に「ユダヤ・イデオロギー」批判の書という性格を持っている。

スピノザ批判は、第五章「主権的人権の死亡」の中ほどで開始される。そこの部分をそのまま引用してみる。

――ホッブズは『レヴィアタン』四十二章で、国家権力はキリスト教を信じないという「舌先の告白」を要求しうるが、「内面信仰」には強制は及ばないとしている。ここでホッブズは、聖書列王記略下五章十七―十九節を援用し、更に内外区別論を援用する。ブラムホール司教への回答書(一六八二年)においても、これは微妙な論点であるとしつつ、政治体系の中に内的・私的な思想と信仰の留保をとりこんでいる。この留保こそ強力なレヴィアタンを内から破壊し、可死の神を仕止める死の萌芽となったのである。
 『レヴィアタン』刊行から程なく、この目立たない破れ目が最初の自由主義的ユダヤ人の眼にとまり、彼は直ちにこれが、ホッブズの樹立した内外・公私の関係を逆転させる、近代自由主義の巨大な突破口たりうることを看取した。スピノザは一六七〇刊『神学・政治学論』の有名な第十九章で、この関係を逆転させた。同書の副題自体が既に「哲学する自由」である。
(長尾龍一訳「レヴィアタンーその意義と挫折」90頁)

ここでシュミットが紹介しているホッブズの『リヴァイアサン』第四十二章にはシリアの将軍ナーマンが登場する。ナーマンとは誰か。ナーマンの名はさらにもういちど第四十三章でも語られる。ホッブズが語るナーマンは旧約聖書・列王記下第五章に登場する人物である。

     旧約聖書・列王記下第五章
5:1 アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。
5:2 アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。
5:3 少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
5:4 ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、
5:5 アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
5:10 エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
5:11 ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
5:12 イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
5:13 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
5:14 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
5:15 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」
5:16 神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。
5:17 ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。
5:18 ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように

5:19 エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。
  (引用元⇒http://ikitamizu.com/baible/old-10-Kings2.html#5

 
ホッブズの『リヴァイアサン』第四十二章の小見出し
≪迫害をさけるためにキリスト教徒はなにをしていいか≫

本文:もし、ある王、あるいは元老院、あるいは他の主権者人格が、われわれがキリストを信じることを禁止したらどうなのか。これにたいしてわたしは、そういう禁止は効果がないのであって、なぜなら、信、不信はけっして人間たちの命令から生じるものではないからだ、とこたえる。信仰は神のおくりものgiftであって、人はそれを、報酬の約束や拷問の脅威によって、あたえることもとりさることもできない。

また、もしわれわれが、われわれの合法的な王侯によって、自分の舌をもって信じないといえと命令されるならば、どうなのだとさらにたずねられるとしよう。われわれはそういう命令にしたがわなければならないのか。舌による告白は、外部的なものごとであって、われわれの従順をあらわす他のどんな身ぶりにも、まさるものではないのだし、そしてそこにおいてキリスト教徒は、心のなかにキリストへの信仰を堅持しながら、予言者エリシャがシリア人ナーマンにゆるしたのと同一の自由をもつのである。

ナーマンはその心において、イスラエルの神に改宗した。すなわちかれはつぎのようにいう(列王下・五・十七) 「あなたの召使は、今後、主のほかの神々にはやいたささげものも、いけにえも、ささげることはないでしょう。つぎのことについて、主よ、あなたの召使をおゆるし下さい。すなわち、わたしの主人が、そこで礼拝をするためにリンモンの家にはいるとき、わたしの手によりかかり、そしてわたくし自身も、リンモンの家で拝礼をします。わたくし自身がリンモンの家で拝礼をするとき、主よ、このことについて、あなたの召使をおゆるし下さい。」

その予言者はこのことを承認し、かれに平和にふるまうように命じた。ここでナーマンは、その心において信じたのだが、しかしリンモンの偶像のまえで拝礼することによって、外見においては真の神を否定したのであり、それはまさにかれがその唇をもってしたかのようであった。
(ホッブズ著『リヴァイアサン』(三)水田洋訳 岩波文庫 212頁)


ホッブズ『リヴァイアサン』第四十三章の小見出し
≪神と政治的主権者への服従は両立しないものではない。その主権者がキリスト教徒であっても≫≪あるいは主権者が不信心者であっても≫

本文:政治的主権者が不信心者である場合に、かれに抵抗するかれ自身の臣民のすべては、神の法に対して罪をおかすのであり、またすべてのキリスト教徒はかれらの王侯に服従するように、すべての子どもと召使はあらゆるものごとにおいてかれらの両親と主人に服従するようにとすすめている、使徒たちの忠告を拒否するのである。そしてかれらの信仰についていえば、それは内面的で不可視なのであって、かれらはナーマンがえたゆるしをもち、それの信仰のために自分たちを危険におとしいれる必要がない。(同 260頁)

シュミットは、ホッブズの『リヴァイアサン』とスピノザの『神学・政治学論』の違いを、最終的に次のように総括している。

―― ホッブズの正面には公的平和と主権があり、個人的思想の自由は背後の最終的留保にすぎないが、スピノザは逆に個人の思想の自由が枠組みの構成原理をなし、公的平和と主権を単なる留保に転化させた。ユダヤ的実存に発した思考過程の小転換が、単純極まりない一貫性をもって、暫時のうちにレヴィアタンの運命に決定的転換をもたらしたのである。
(シュミット「レヴィアタンーその意義と挫折」91頁)

さて、シュミットの「ユダヤ・イデオロギー」批判は、このようにして開始され、次の第六章・七章にかけてより辛辣で攻撃的なものになっていく。しかしその批判は、ここまでの記載内容からも推測されるように、あくまでに法学的・哲学的・思想的なものであって、人種差別やナチスへの加担といった、一般的に流布されているシュミット象とはまったく違う内容のものである。


そのことを、ご理解頂ければ、私の今回のシュミット紹介は目的を達したものと考えられるので、今回の記事をもって「さて、シュミットです」のシリーズは、一旦終了とさせて頂きます。最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。                終

【関連記事】⇒好日40 (創作)ドストエフスキー・インタビュー
特にこの記事の中の<補足的解説>を参照。ドストエフスキーが近代自由主義をどう評価したか。私なりの解明を試みています。

【反撃のユダヤ人劇作家ブレヒト】 《三文オペラ》より 「モリタート」


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『来たるべきアジア主義』第4篇 長谷川如是閑賞受賞論文「歴史における保守と進歩」


【霊告日記】第九回 僕が二十歳の時に初めて書いた散文詩 ベンチャーズ

2014年08月29日 10時00分00秒 | 霊告日記6~10

【霊告日記】第九回 僕が二十歳の時に初めて書いた散文詩  ベンチャーズ


僕が二十歳の時に初めて書いた散文詩と当時のスナップ写真を記念に収録しておく。霊告の第五回でも述べたことがあるが僕は学生時代には郷里の若狭出身者のみが入ることができる寮で暮らしていた。当時その学生寮では寮の理事会が費用を負担して雑誌が毎年発行されていた。若狭高校の同級生だったT君が編集長を担当したこともあって、僕も苦心惨憺して一篇の散文詩を書きあげた。これが詩になっているかどうかは保証の限りではないが、ランボーに熱狂しロートレアモンに心酔していた頃の初心は込められていると思っていて愛惜する作品である。

    【寮の雑誌『扶桑』に掲載した散文詩】

    ②2頁目~3頁目   
                  散文詩 1頁目
    
     
      
クリックすると拡大→  

   
その頃から現在に至るまでロートレアモンへの崇拝の念は一貫して変わらない。僕の文章はもしロートレアモンがいま生きていたらこう書くであろうということを感じ取って、それをそのまま書き写しているに過ぎない。その意味で僕がこれまで書いてきた文章はすべてロートレアモンの【霊告】なのである。


    ロートレアモン『マルドロールの歌』

     クリックすると拡大


※参考※ 長谷川如是閑賞受賞の際の挨拶でロートレアモンの「マルドロールの歌」の詩の抜粋を朗読した当時の写真


【反撃のベンチャーズ】ロートレアモンに震撼された君はエレキ・サウンドを子守歌に聴いて育った。


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来たるべきアジア主義 第三篇⇒ 「好日」(全50編・175枚)
2001年~2013年 連句同人誌『れぎおん』連載を再掲


【霊告日記】第八回  チンクェッティの清純と妖艶   反撃のマクベス    

2014年08月22日 10時00分00秒 | 霊告日記6~10

【霊告日記】第八回  チンクェッティの清純と妖艶     反撃のマクベス  


 ■□■□ チンクェッティの清純と妖艶 ■□■□


 【悲劇の序曲1】マクベスに嫁ぐ前のマクベス夫人が歌う=清純な美しさ
 

 


女性の美しさには基本的に二つの要素があって、それは「清純さ」と「妖艶さ」である。シェイクスピアはこのことが良くわかっており女性の清純な美しさと妖艶な美しさを的確に描き分けている。シェイクスピア悲劇の最高傑作は『マクベス』だと私は信じるのだが、この劇の影の主人公はマクベス夫人である。通常の解釈ではマクベス夫人はマクベスにダンカン王の殺害を命じる妖婦ないしは毒婦と受け取る向きが多い。しかし私はその解釈はちがうのではないかと疑っている。美は悲劇を先導する。マクベスの真の悲劇はマクベス夫人という美の化身のような存在に出会ったことにあった。マクベスに嫁ぐ前のマクベス夫人のイメージ=清純な美しさを私は【悲劇の序曲1】において示したい。そして王殺しを先導するマクベス夫人は【悲劇の序曲2】のイメージ=妖艶な美しさである。付録として私の『マクベス論』を画像で添付しておく。この評論の内容は実はマクベス無罪論である。もしかしたら評論ではなく小説かもしれない。


【悲劇の序曲2】 ダンカン王の殺害を先導するマクベス夫人=妖艶な美しさ


 ■□■□  反撃のマクベス  ■□■□

 マクベス論  by ダンボール 
  
  『モーツアルトが俳諧を巻いたなら』  表紙と目次の一部
1 
  序詞「新しい犯罪を夢みる」
と「マクベス論」の最初の頁
2 

 3 

 4 

 5 

 6  

 7 

    

  マクベス論テキスト篇

 【マクベス】のあらすじ

 ここはスコットランド。荒野で、マクベスとバンクォーは、三人の魔女に会った。魔女は、マクベスには「王になる」、バンクォーには「子孫が王になる」と予言した。ダンカン王がマクベスの城にやってきた。マクベス夫人はマクベスに王を殺してしまえと迫る。高貴な魂を持つマクベスは、愛する妻の説得に、殺すべきか殺さざるべきか、なかなか決断がつかない。両立しない二つの命令に呪縛され、ダブル・バインド(二重拘束)の状況に追い詰められたマクベスは、城の中庭で幻の短剣を見たのだが、……。
 その夜、マクベスの城で、スコットランド王ダンカンが暗殺された。二人の王子マルカムとドナルベーンが城から逃亡し、王殺しの嫌疑は王子たちにかけらる。王位はマクベスのものとなった。
 しかし、マルカムは逃亡先のイングランド王から、シーワード率いる一万の精鋭を借り受け、マクベス打倒の戦いを開始した。一触即発の緊張状態の中で、マクベス陣営の重鎮バンクォーが暗殺され、勇士マクダフも妻子を置き去りにしてマルカムの元へ逃亡するという変事がおこる。マクダフの妻子もまた何者かの手によって虐殺されてしまった。マルカム陣営のスパイ・レノックスはこの機を捕え、バンクォーを暗殺しマクダフの妻子を虐殺しダンカン王を殺したのはマクベスであると巧みに主張して、マクベス陣営内部で攪乱(かくらん)工作をおこなった。
 やがて両陣営の戦闘が始まる。マクベス陣営はすでに内部崩壊の一歩手前にあり、マルカムの側について戦う者さえ出てくる。マルカムの立てた作戦、バーナムの森の枝を頭上にかざして進軍する作戦は、マクベス陣営に「バーナムの森が攻めてきた」という妄想さえ起こさせた。妻子をマクベスに殺されたと思い込むマクダフは、マクベスの前に立ち塞がり、憤怒と共にマクベスを倒す。勝利はマルカムの陣営に帰した。「スクーンでの戴冠式にはこぞって参加してもらいたい」マルカムが全軍に挨拶してこの劇は終わる。


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  マ ク ベ ス 論
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                 1


 「マクベス」をシェイクスピア悲劇の最高の作品と考える人は多いようである。そこで私もまた「マクベス」がいかなる意味において“劇的”であるかを語り始めたい。しかし、「マクベス」が劇的な作品であり、またマクベス自身が劇的な主人公であったことは、マクベスの次の台詞のなかに、すでに決定的に示されている。

 マクベス 明日、また明日、また明日と、時は
  小きざみな足どりで一日一日を歩み、
  ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
  昨日という日はすべて愚かな人間が塵と化す
  死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、
  つかの間の燈火! 人生は歩きまわる影法師、
  あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても、
  出場が終われば消えてしまう。白痴のしゃべる
  物語だ、わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
  意味はなに一つありはしない。
    (シェイクスピア「マクベス」第五幕第五場・小田島雄志訳)

 マクベスは、自身を最後の悲劇の主人公であるかのごとく語っている。悲劇の主人公である自分が滅ぶ時、あらゆる悲劇も同時に滅び去り、その滅ぶ悲劇の中では世界のあらゆる価値あるものも滅び尽くすであろうとまで語っているのである。マクベスが生きた悲劇の世界とは、かくも壮大きわまりないものであった。
 「マクベス」は、「王位を主題とする壮大きわまりない芝居」である。ではマクベスはその芝居でどんな役を演じたのか? ダンカン王を殺し、マルカムに滅ぼされる役である。ではマクベスはなぜダンカンを殺したのか? ダンカンを殺す役を演じたのだろうか……? しかしそれは答えるのが難しい質問である。多くの人が答えようとして、そのたびごとに失敗した質問でもある。あたかもマクベスは、悲劇の主人公に向かって、「なぜあなたは悲劇の主人公を演じるのですか。もっと端役でもよかったのに」と問う人を前にしたかのように、なぜダンカンを殺したかを誰にも語ろうとはしなかった。
 方向を転じてみよう。マクベスは、マルカムに滅ぼされた。では、このマルカムがこの劇で演じた役はどんな役であったか? マルカムについて人々はどう言っているのか? それを調べればマクベスがどんな人間かも、もっと良くわかるようにちがいない。ところが、奇妙なことに、このマルカムについて人々はなぜか口を噤んだままほとんど何も言おうとしないのである。ある意味で「マクベス」という作品は、父王を殺された王子マルカムが、王殺しの大悪党に立ち向かい反抗し勝利する道徳物語であるはずではないか。しかし、誰もそんなことは主張しない。あきらかにマクベス劇の脇役に過ぎぬバンクォー、マクダフ、マクベス夫人、さらには端役に過ぎぬマクダフの妻子、門番、暗殺者、さらには人間でさえない魔女についても人々はいろいろと語っているのに、なぜかマクベスに対峙するもう一人の主人公であるマルカムだけは論じようと誰もしないのである。まるでマルカムという人間などこの劇には始めから存在していなかったかのように、人々はもっと別のこと、例えば、この劇には闇の場面が非常に多くて火が効果的に使用されているとか、登場人物が衣装についての譬えをよく語っている、その譬えを比較して分析してみるとおもしろいとか、マクベスはバンクォーに「今日の宴会に出てくれ」と言っていた。すると出たことは出たが亡霊になって出て来た、こういう皮肉(アイロニー)にこそこの劇のおもしろさはあるのであって、そういう例は他にないかもっと真剣に探すべきだとか、まるで何を研究しようと、どんな枝葉末節のことを調べようと、論じたこと同士をお互いに賞賛しあいながら、なぜかマルカムについてだけは人々は論ずることを内心で禁じた。この「禁止」には何か深い意味がありそうである。人々はマルカムの存在をあたかも忘れ去ったかのように振るまおうとする。この「忘却」にも、何か深い原因がありそうである。とにかくマルカムの存在は「マクベス」という作品の謎の一点であることだけはまちがいない。
 私は、私のマクベス論を、マルカムがいかなる人間であるかを調べることをもって開始する。これはいままで誰も取ったことのない方法であり、新しい道である。そして、調べ、考え、間違いがないかよく確かめた上で得た私の結論を、あらかじめ聴衆の前に提示しておきたい。
 問 マルカムは何者か?
 答 父王ダンカンを殺し逃亡した謀反人である。
 これが、私の得た結論であった。以下は、その証明である。


                  2


 「マクベス」という作品は今まで次のように説明されてきた。まずマクベスが野心に駆られてダンカン王を殺す、次にバンクォーを暗殺し、マクダフの妻子を虐殺してと、次々と兇行を重ねて行き、最後にマルカムに倒される、そういう劇なのだというふうに。しかし、この劇を観て、戯曲もよく読み、しっかり考えていくと、実はそうではないことがだんだんにわかってくる。マクベスはダンカンを殺してはおらず、バンクォーの死にも、マクダフの妻子の虐殺事件にも、何の係わりもなかったのである。誰も今までそんなふうに考えた人はいなかった。それは今まで誰も私ほど「マクベス」という作品について考えた人がいなかったからである。「マクベス」を読んだ人は多いし、「マクベス」劇を観た人も多いが、「マクベス」がどんな作品であるかを真に考えた人は、ブラッドレーをも含めて、今までに誰もいなかった。
 ダンカンを殺したのはマルカムであり、バンクォーの暗殺、マクダフの妻子の虐殺を実行したのは、マルカムの副官レノックスである。シェイクスピアは、これらの犯罪があたかもマクベスによるものであると見えるようにこの劇を作った。だが、同時に、実際にはそうでないことを示す証拠と伏線も縦横に張りめぐらせているのである。ただしマルカムのダンカン殺しの証明は容易であるのに対し、レノックスの犯罪の方は証明が難しい。シェイクスピアはレノックスの二つの犯罪、バンクォーの暗殺、マクダフの妻子の虐殺を、なぜ証明が難しいように作っておいたか。そのような作劇を採った必然性を洞察しておかねばならない。まず確認しておかねばならないのは、バンクォーとマクダフはこの劇の単なる脇役に過ぎないことである。バンクォーの重要性は、この劇が終わった時に、真に現われてくる。なぜならば、魔女の予言によれば、バンクォーの息子フリーアンスこそはマルカムを倒して君臨するはずの未来の王だからである。バンクォーは亡霊になって登場するので、舞台効果を上げる役割も果たしている。マクベスのような強力な武人を倒すには、妻子を殺された男でも登場させなければ、観客に納得のいく結末をつけるのは難しかった。マクダフの役割はそういうところにあった。

 ダンカン なにものだ、あの血まみれの男は?
 マルカム        あの男です、
  私が敵の手に捕らえれそうになったとき
  勇敢にも救ってくれたのは。             (第一幕第二場)

 いっぽうマルカムはこの台詞でも分かる通り、個人的な戦闘能力には極めて乏しい男であった。マルカムは臆病で卑劣な性質の持ち主ではあるが、カメレオンのように複雑で謀略に長けた才能を持っている。マクダフがマクベスを倒すだけの戦闘能力を得たのは、妻子を虐殺された怒りからであった。そのような解釈によってはじめてマクベスのような優れた武人が、この劇において滅ぼされる不自然さが解消されることができる。このように劇の効果という観点から考察するならば、マクベスの無罪が見破られなければ、それだけいっそうマクベス劇は完璧に作られた作品ということになるのである。実際にはレノックスの犯罪なのに、バンクォー殺しも、マクダフの妻子の虐殺も、マクベスがやったとしか思えぬようにこの劇は作られている。シェイクスピアは「マクベス」において天才的な作劇術を行使した。このシェイクスピアの天才の前に、かってあらゆる知性は完璧に無力であった。
 実際にバンクォーを殺したのは、マクベスが暗殺指令を出した暗殺者1と2ではなく、どこから現われたかわからない謎の暗殺者3であった。

 暗殺者1 しかしだれがおれたちに会えと言ったんだ?
 暗殺者3 マクベスだ。
 暗殺者2      信用してもよさそうだぜ、
  おれたちの仕事も手順も、言いつかったとおり
  ちゃんと知ってるんだから。

  (中略)

 バンクォー 今夜は雨になりそうだな。
 暗殺者1      血の雨を降らせてやる。(彼らはバンクォーに襲いかかる)
 バンクォー ええい、卑怯な! 逃げろ、フリーアンス、
  逃げるんだ、仇をうってくれ。ええい、畜生!(死ぬ。フリーアンスは逃げる)
 暗殺者3 だれだ、あかりを消したのは?
 暗殺者1              いかんかったか?
 暗殺者3 やったのは一人だけだ、息子は逃げたぞ。
 暗殺者2 だいじなほうを逃がしたか。
 暗殺者1             とにかく引きあげよう、
  やったことだけは報告しなければな。         (第三幕第三場)

 暗殺者3はバンクォーを「頭に二十も風穴をあけて」殺したが、役立たずの暗殺者1と2にじゃまされて、バンクォーの息子フリーアンスを取り逃がす。しかし意気揚々と暗殺者1は、「私がやりました」とマクベスに報告した。このような役立たずの暗殺者1と2をわざわざ選んで暗殺者指令を出したマクベスには、もちろん本心での殺意など毛頭なかった。しかし、ひそかにスパイ網を張りめぐらせてマクベスの行動を監視していたレノックスは、この機会をとらえて暗殺者3にバンクォーの暗殺指令を出した。信頼できる暗殺者3は、役立たずの暗殺者1と2といっしょに暗殺計画を実行したため、フリーアンスを取り逃がす。バンクォーは、マルカム陣営から見れば、マクベスの最大の忠臣であり国家の支柱ともいうべき人物である。マルカム陣営のスパイ・レノックスにとっては早急に始末しなければならない人間であった。マクベスは役立たずの暗殺者1から、バンクォーの暗殺報告を受けた。その報告を聞いた直後、マクベスはバンクォーの亡霊を見る。バンクォーは真犯人がレノックスであることを告げただろうか? バンクォーはしかし、「喉をぐさり」とやられていた。死人に口なしとはよく言ったもだ。亡霊の出現によって、マクベスは自分がバンクォーを殺したものと信じたのだ。そしてまた、バンクォーの亡霊を見て怯えるマクベスの姿を見て、この悲劇の観客達もまた同じように、マクベスがバンクォーを殺したに違いないと信じるであろう。人は自ら見えるものによってこそ誤解する。真実を誤謬に、誤謬を真実に変える容器、それこそまさにシェイクスピアの劇場なのである。


                 3


 では、次に、マクダフの妻子が虐殺された事件の解明に移ろう。

 マクベス 啼の音がしたが、だれかきたのか?
 レノックス           二、三のものが
  伝令としてかけつけました、なんでもマクダフが
  イングランドに逃げたとか。
 マクベス         イングランドに逃げた!
 レノックス はい、陛下。               (第四幕第一場)

 この知らせを聞いてマクベスは、怒りにまかせて呪いの言葉を口走った。しかし、マクベスがマクダフの妻子の虐殺指令を出した形跡は何処にもないのである。ところで、この両者の対話において注意すべきことは、二人が利害の対立する人物であることだ。そこに何らかの策謀が秘められているのではないかと考えてみる必要がある。マルカム陣営のスパイ・レノックスは、マクベスの忠臣であると見せかけるのに成功していた。そしてそのレノックスがマクベスに対し「マクダフは逃亡した」と報告したからには、実はマクダフはマクベス陣営から逃亡したのではないかもしれぬと考えてみなければいけない。
 マクダフは無双の勇将マクベスを、この劇の最後に自分の剣で倒す。そしてこの結果から逆算して、なぜ勇敢なマクダフが、妻子を捨てて逃亡するというような臆病な行為をしたのか、その問題を考えねばならない。一場面変われば、性質が正反対に変わる人物は、そのどちらかが演技をしていたと仮定すれば、彼の性質の恒常性は保たれる。マクベスを倒したのが事実である以上、マクダフは本来勇敢な人物であり、臆病心から逃亡するような人間ではないと考えるのが妥当であろう。ブラッドレーもまた、このマクダフ失踪事件に注目した一人であった。

  「マクダフの失踪は、妻のみか、他人からも甚だ咎められているのだが、沙翁
 は之をどう考えさせるつもりであったか? 自分の身を恐れたとか、家族への愛
 がなかったとかは、断じてそれに係わりはない。マルカムと二人の場面に強く現
 われる彼の祖国への愛心こそ明らかに唯一の動機である。
   御主人はりっぱなかただ。賢明でもあるし判断力もある。時代の動きをよく
   こころえておる。
  とロスはいっている。失踪は高潔のゆえと疑いえない」。
        (ブラッドレー『シェイクスピア悲劇の研究』鷲山第三郎訳)

 ブラッドレーは、シェイクスピア劇の登場人物たちを、あたかも実際の人間であったかのように語る傾向があり、しばしばちぐはぐな印象を述べはするけれども、問いの真摯さによって、我々の姿勢を糺させもする。

  「私は、マクダフは自分の為すことの何たるかをよく知り、その意図の挫ける
 のを恐れて、失踪したとの意見を述べて見たい。おそらく彼は、コリオレイナス
 と同様に、
   女々しい根性にならぬ為には
   子供や女の顔を見ないに限る。
  と自分にいいきかせたであろう」。       (ブラッドレー、同書)

 マルカム陣営に投じて祖国の危機を救おうと高潔な目的を抱いて、マクダフは涙を飲んで足手まといになる妻子を見捨てたのである。これがブラッドレーの解釈である。しかし、マルカムからシーワード率いる一万の精鋭がスコットランドへ向かったことを知らされた時のマクダフの反応ーー。

 マルカム 実は、あなたがここに到着する前に、老シーワードが
  一万の精鋭を率い、すでに祖国に向かって
  出発している。われわれもあとを追おうではないか。
  戦の大義はわがほうにある、願わくは勝利の栄冠も
  わが手に帰しますよう! なぜ黙っているのだ?
 マクダフ 嬉しいことと嬉しくないこととがこの胸に
  同時に押し寄せてきたのでとまどうのみです。     (第四幕第三場)

 さらに、この直後、ロスの口からはっきりと妻子が虐殺されたことを知らされた時のマクダフの反応ーー。

 マクダフ 女房子供が、私にとっていのちよりたいせつであったものが、
  生きていたことを思い出さずにはいられません。
  天も黙って見殺しにされた! 罪深いマクダフ、
  きさまのためだぞ、みんな殺されたのは! けしからん
  おれの罪のためだ、罪もないあいつらみんなが
  虐殺にあったのは。どうかやすらかに眠ってくれ!   (第四幕第三場)

 マクダフは「女房子供が、私にとっていのちよりたいせつであった」と言っている。私はこの言葉をマクダフの真意を伝えるものと理解する。ではマクダフにとって、家族への命がけの愛情と、祖国への愛心は、いかなる条件があれば両立するものでありえたか? それはマクダフが祖国の敵マルカムを、単身乗り込み騙し討ちにしようとの意図を持っていたと解した時にのみ、両立できるのである。
 レノックスはマクダフの意図を見抜いていたので、マクベスに対して、マクダフが反乱を起こしましたぞと偽の報告をする。マクベスは妄想が膨れ上がって、マクダフを謀反人に違いないと錯覚した。レノックスの迅速な工作により、マクダフの妻子は虐殺される。レノックスは直ちにマクベスがマクダフの妻子を虐殺したという偽情報を、ロスを通してマルカムの元にいるマクダフに届けた。この工作は成功し、その時点から(そう、その時点から)マクダフはマルカムの側につき、マクベスの敵になる。レノックスの功績により、偽者の謀反人であったマクダフは、本物の謀反人に変わった。マクダフは彼の最初に抱いた意図を誰にも明かさず、永久に自分の胸の内にしまったのである。最初マクダフは、いかにもあなたを信用して忠実を尽くしますぞという演技をしてマルカムを欺き、信用させておいてから騙し討ちにするつもりであった。マクダフは、マルカムの味方でありマクベスの敵であると見せかけるのに成功した。この演技が成功したその直後、妻子が虐殺されたという知らせを、マクダフはロスから受けとるのである。そこでマクダフは今までの自分の立場、実際はマクベスの味方でありしかしマルカムには味方であると思わせておいた立場を振り捨て、マルカムに対して本物の味方に転じた。このマクダフの立場の転回こそ、マクベス劇の真の転換点でもあった。なぜならマクベスを倒すことのできる武人が、この瞬間に始めて誕生したのだからである。
 誰もその正体を見破れなかったのだが、レノックスはマルカムのスパイであり、マクベス陣営の内でさまざまな破壊工作を行なった。彼の使った謀略のテクニックの中でも最大の武器は、偽情報を系統的に流して、人々に何が真実かを見極め難くしたことである。最初のうち人々はダンカン王を殺したのは逃亡した王子達だと思っていたが、実はそうではなくてマクベスが殺ったのではないかとの疑惑の種を撒き続け、ついにマクベス陣営の団結を突き崩したのはレノックスの功績である。
 レノックスは、自分自身が行なった二つの犯罪、バンクォーの暗殺とマクダフの妻子の虐殺事件を最大限に利用して、人々がマクベスに抱いていた信頼感を動揺させた。悪逆な王マクベスというイメージを作り出したのだ。レノックスはこの劇の最初からマルカムの腹心として登場している(第一幕第一場のト書き参照)。最後にはマクベス陣営の内部崩壊を促す役目を果たした。レノックスこそは、マルカムがダンカン王を殺したことを知っており、かつマクダフには謀反の意志がなかったを見抜いていた只一人の男でもあった。偽者の謀反人マクダフを、彼の妻子を殺すことによって本物の謀反人に変えたのはレノックスの功績である。明らかにレノックスはイアーゴー的人物である。そしてマルカムはリチャード三世的人物である。イアーゴーを副官に従えたリチャード三世を想像してみよう。この二人が揃うならばどんな大悪事も成功させることが出来るだろう。けれどもその邪悪さにおいてマルカムとレノックスはリチャード三世とイアーゴーのコンビをはるかに凌いでいる。なにしろその大悪事を四〇〇年近くも隠し通してきたのだから。ほとんど奇跡の大悪党と呼んでもいい。およそ世界文学の歴史で、いや文学に限らずあらゆる領域の歴史で、これほどの不思議な事件が他にあったか? 真犯人が四〇〇年も後にやっと判明する推理文学など他にあっただろうか。確かにシェイクスピアは劇的な天才であり、「マクベス」は世界文学の奇跡と言っても過言ではない。


                4


 ついにマクベスとマルカムの戦争が始まった。だがドナルベーンは兄マルカムの始めた戦いに参加しようとはしなかった。ダンシネーンの近くを、マクベス側から寝返った人々を引き連れて、マルカムの軍勢と合流すべくレノックス達が行く。全員、意気高らかな様子である。が、しかし、次の会話。

 アンガス         バーナムの森あたりで
  彼らと合流することになろう、このまま進めば。
 ケースネス ドナルベーンも兄上とごいっしょか?
 レノックス いや、名のある人々の名簿を手にいれたが、
  それにはなかった。                  (第五幕第二場)

 ドナルベーンは、マクベスの城から逃げ出して以来、この劇には二度と登場しない。したがって、マクベスの城でダンカン王が殺された直後の混乱の場で、兄マルカムと交した会話が、ドナルベーンが何を考えていたかを推測するための唯一の手がかりである。

 マルカム おまえはどうする? あの連中とつきあうことはない。
  心にもない悲しみを示すのは、偽りの心もつものの
  お手のものだ。おれはイングランドに行く。
 レノックス ではアイルランドへ。別れ別れのほうが
  おたがいに安全でしょう。ここでは微笑のかげに
  短剣がひそんでいる。血のつながりが近いほど
  血なまぐさいことをやりかねない。           (第二幕第三場)

 ドナルベーンのことばの表面の意味は、別々に逃げてマクベスの追撃をかわそう、というものである。しかし、裏の意味はちがう。たとえ血のつながりが近いはずの兄であっても、微笑のかげにひそませた短剣をふるい、弟を殺しかねない。父を殺すような男は、弟も殺すであろう。別れてくらせば、お互い殺し合う可能性もなくなる。あなたがイングランドへ行くのなら、私はアイルランドへ行こう。こういう考えを抱いていたドナルベーンが、兄と合流できるはずはなかったのである。
 マルカムがマクベスの城から逃げ出したのは、父王ダンカンを殺したからである。王が殺されたと知った直後のバンクォー、マクダフたちの憤激があまりにも凄まじく、早く逃げ出さねば自分も殺されてしまうとマルカムは思ったのである。マルカムがドナルベーンに語った最後の台詞はこうであった。

 マルカム 別れのあいさつなどは抜きにして、こっそり脱け出そう。
  みずからを盗み出す盗っ人には正当な理由があるのだ、
  さもないといのちの危険が単なる杞憂(きゆう)ではなくなるのだ。
                             (第二幕第三場)

 さて、マルカムのダンカン殺害の実際の状況は次の通りである。
 ダンカン王の最期の状況は、マクベス夫妻の会話および独白の内容を分析することによって知ることができる。まずマクベス夫人がダンカンの寝室の内外の様子をどう語っているかに注目せねばならない。マクベス夫人の語るところによれば、ダンカンの部屋のドアはあいていた、したがってそこへ誰かが入り込むことは何時でも可能であった。ダンカンのお付きの二人は眠り薬の入った酒を飲んで高いびきをかいている。この二人の短剣は、マクベス夫人が眠るダンカンのそばに置いておいた。誰も見落とすはずはなかった。ダンカンの寝室の隣りの部屋にはマルカムとドナルベーンがいた。このような状況の中で、ダンカンの部屋に向かったマクベスは、舞台奥で「だれだ、おい! 」と叫ぶのである。
 マルカムは、置いてあった短剣でダンカンを殺した直後、不意に誰かが来る気配を感じた。あわてて自分の部屋へ戻ろうとしたマルカムは、逃げるとき何か物音をたてた。その物音を聞いてマクベスは「だれだ、おい! 」と声をかけた。マルカムがマクベスに、「だれだ、おい! 」と声をかけられたのは、すでにダンカンを殺した後である。では、いつマルカムはダンカンを殺したか。
 マルカムはダンカンの部屋へ入ってゆき、マクベス夫人が王のそばに置いた短剣を握りしめた。その時、その短剣は、王殺しの短剣となった。マルカムがダンカンに向けて短剣を振りかざしたまさにその同じ時刻、その同じ短剣の幻影が、城の中庭にたたずむマクベスの目の前に、突如、現われる。

 マクベス おお、短剣ではないか、おれの目の前に見えるのは?
  柄(つか)をおれの手に向けているな。よし、つかまえるぞ。
     (中略)

  まだきさまが見える、
  おお、刃にも柄にも血のりがついているではないか、
  いままではついてなかったぞ。
     (中略)

  おれがおどし文句を並べているあいだは彼は生きている、
  言葉は行為の熱をさますあまりにも冷たい息にすぎぬ。

     鐘がなる。

  行くぞ、それで事はすむ。鐘がおれを呼んでいる。
  聞くなよ、ダンカン、鼓膜が破れかねないぞ、
  あれはおまえを天国か地獄へ招く弔いの鐘だぞ     (第二幕第一場)

 マルカムは短剣を振りかざし、一気に父王ダンカンめざして突き刺した。マルカムがダンカンを刺した時、マクベスの見ている幻影の短剣に、いままでついていなかった血のりが刃にも柄にもついた。
 マルカムに刺されたダンカンは、老人にしては思いもよらないほど大量の血を流し続ける。そのころ中庭では、マクベスがいろいろとおどし文句を並べており、そのあいだはまだダンカンは生きていた。しかし中庭でマクベスが、呪いのことばを吐くのは行為の熱をさますためにすぎぬと語った直後、鐘がなる。その鐘がなった時、ついにダンカンは絶命した。鐘の音に招かれて、ダンカンは天国か地獄のどちらかへ行った。
 そしてマクベスは、鐘の音を聞き、ダンカンが天国か地獄かへ行ったその後から、天国か地獄かわからぬダンカンの部屋へと向って入った。随分と重い腰をあげながら、「行くぞ、それで事はすむ」と自分を励ましつつ(行きさえすれば事実、用は済んだのである)、マクベスはダンカンの部屋に向って行った。その部屋のあたり、舞台の奥で、マクベスは何かの物音を聞いて、「だれだ、おい! 」と叫んだ。
 マクベスは、魔女の予言を聞くという形で、自分の未来を予知する能力を持っていた。それだけでなくマクベスは、マルカムが同時刻に行なっていることそのままを、自分のことばにあたかも影絵のように映し出すテレパシー(精神感応)の能力も持っていたのである。

 マクベス夫人 なぜその短剣をもっていらしたんです? あの部屋に
  おいておかなければ。                (第二幕第二場)

 やがてマクベスは血だらけの短剣を握りしめてマクベス夫人の前に登場した。なるほどマクベスはダンカンを殺したに違いない、血だらけの短剣という証拠があるからには。だが、どうして、マクベスはわざわざを血だらけの短剣持って出てくる必要があるのか? ここにシェイクスピアの劇作家としての天才があった。

 マクダフ          おお、バンクォー、バンクォー、
  わが主君が殺されたぞ!
 マクベス夫人     まあ、なんということを!
  この私どもの邸で?
 バンクォー    どこであろうとあまりに残酷な!   (第二幕第三場)

 マクベスの城でダンカン王が殺されたということ、その悲劇的偶然が「マクベス」という劇を産み出す土台になっている。マクベス夫人の一見不用意とも思えるこの発言に、シェイクスピアがどれだけ深い劇的アイロニーを隠したか、そのことを洞察した人はいままで誰もいなかったのである。
 ダンカン王の死んでいるその部屋で、マクベスの身に起こったことは何であったのか? それは極めて神秘的な問いである。マクベスは終始、劇の最初から幻を見る男であった。マクベスはダンカンの部屋で、自身がダンカン王を殺害する幻を見たのである。そしてその幻は、それ以後マクベスの現実となった。ダンカン王を殺害したマクベスという演劇がここに始まる。その劇の主役こそマクベスその人であった。マクベスの幻の劇場、マクベスはその劇場で、悲劇を演ずる俳優として生き始めるのである。誰がかくも凄まじきマクベスの悲劇を観たのか? 
 時代はいまなお中世である。魔女の予言の呪縛はまだ解かれていない。「マクベス」は善と悪が入れ替わる劇である、そして現実と幻想が交錯する劇である。マクベスの悲劇、マクベスの劇場。我々は今まで何度もマクベスに会ったはずである、だが真にマクベスに会ってはいなかったのではないか。さあ、そこにマクベスがやって来た。マクベスに会うことができるのは……我々だけだ。

 魔女1 いつまた三人、会うことに?
  雷、稲妻、雨の中?
 魔女2 どさくさ騒ぎがおさまって、
  戦さに勝って負けたとき。
 魔女3 つまり太陽が沈む前。
 魔女1 おちあう場所は?
 魔女2        あの荒野。
 魔女3 そこで会うのさ、マクベスに。(第一幕第一場)      (終)


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  <注>『マクベス』は白水Uブックス・小田島雄志訳よりすべて引用しました。   

   
【反撃のマクベス夫妻】 ふたりはいま天国でこんなに美しく踊っている(^^♪

解説:近頃都で流行るもの。それはサルサ
一番人気のDJはサルサ・レボリューションのRiekoさん(^^♪

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※ダンボールの部屋※  ⇒ コンテンツ総目次&本文へのリンク


【霊告日記】第七回 ロートレアモンへのオマージュ  橋川文三と北一輝

2014年08月15日 10時00分00秒 | 霊告日記6~10

【霊告日記】第七回 ロートレアモンへのオマージュ  橋川文三と北一輝


短編小説『連句への手紙』を画像で掲載します。連句に興味がある方もしくはロートレアモン=イジドール・デュカスに興味がある方にとってはゼッタイのお勧めですが、そのどちらにも関心がない人にはまるでつまらない作品です。読むのはお勧めできません。スルーして下さい。その代わりにといっては何ですが「ジンギスカン」2曲は必ず聴いて下さいね。この2曲の選曲とそれに付けたコメントが現在の私の到達点を示しています。そんなわけでこの小説を読んでこの2曲を聴けば私という人間の美点も弱点も一目瞭然です。やったね!ヾ(@゜▽゜@)ノ
           
  
    ■□■□ ロートレアモンへのオマージュ ■□■□

  短編小説『連句への手紙』

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 ※参考※⇒ 連句・わが初学時代

                       ↓   こちらも後でクリック
     ■□■□ 橋川文三と北一輝 ■□■□

霊告1【 命よくもて慈しめ花と匂って散る日にはさっと綺麗であるように 橋川文三



】霊告2【 アジアの兄弟たちよ! 革命的大帝国の建国の準備はできたか?
エラン・ヴィタール(生の跳躍)の用意はできたか? 
 北一輝

 
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王道のアジアを想像=創造するための手引き⇒『 来たるべきアジア主義 』


【霊告日記】第六回 三島・連合赤軍・オウム   Berryz工房「スッペシャル ジェネレ~ション」

2014年08月08日 10時00分00秒 | 霊告日記6~10

【霊告日記】第六回 三島・連合赤軍・オウム    Berryz工房「スッペシャル ジェネレ~ション」

拙文「好日42 三島由紀夫と連合赤軍」へのコメントを再録します。目立たない場所にあるので埋もれてしまっている感がありますので表に出しておきます。ダンボールネット創設以来の盟友海神さんとの応答です。三島事件と連合赤軍事件そしてオウム事件がどのように関係するのか、私の思考の軌跡を語りました。橋川文三やハイデッガーの仕事を参照しつつ、その奥底に秘められた論理の糸の解明を試みています。

        ■□■□ コメント(1) ■□■□

 難しいですね (海神)    2012-08-19 00:56:53


三島と橋川文三についてはわかるんですが、連合赤軍がどう関係するのか、わかりにくいです。
当方も勉強不足で申し訳ないんですけど。

 三島事件は個人の対社会性の問題(三島にとっては個人的な問題)、連合赤軍については社会化に失敗した集団の問題であると、私は思います。

 ただ、ダンボールさんの「先読み」については、後ではっとすることばかりなので、よーく考えてみます。

        ■□■□ コメント(2) ■□■□

 三島・連合赤軍・オウム (ダンボール)    2012-08-20 01:13:26

三島の自死と連合赤軍の総括死そしてオウムのポアの思想。これらはすべて地下で繋がっている。そしてすべての発端は三島にあった。

---こういう仮説を最初に私は立てたのでした。そして連合赤軍事件の総括こそがこの仮説の提示の要になるであろう直感がありました。さらに連合赤軍事件の総括はできるだけ距離を置いて始めて可能になるだろうという予感もありました。

そこで橋川が三島を語る語り口とハイデッガーがヘルダーリンを語る語り口に何やら共通する匂いがするのを導きの糸として、ハイデッガーのヘルダーリン講義を読み直してみたところ、これだ! これこそ連合赤軍事件の総括そのものだという断片が見つかったのでした。「犠牲の死」ーーこれがそのキーワードでした。

連合赤軍兵士の犠牲死。それはいつか人類に到来するであろう世界共和国建設のための犠牲の死であり、世界内戦における戦場死です。総括を求めた者も、総括を求められた者も、総括を求める立場から総括を求められる立場に代わって死に至った者も、すべて世界内戦の過程における犠牲の死である。これら世界共和国建設のための内戦で倒れた死者は英霊としてまた同志として追悼する立場に私は立ちます。

この私の立場からは、オウム事件を引き起こしたメンバーは、連合赤軍とは同列にはおけない決定的な違いがあります。大衆の救済のために自己を犠牲に供したのが連合赤軍であり、自己の救済のために大衆に犠牲の死を求めたのがオウムだったからです。

では三島の場合はどうか。果たして純度百パーセントの「犠牲の死」であったのか疑念が湧くのです。その疑念は以前ツイッターで述べたので再録します。

①1970年の三島由紀夫の割腹自殺の際に滝田修は「我々は負けた。我々の側からも第二、第三の三島を出さなければ」とのコメントを出した。命を賭した行為を無条件で讃えるべきか。もし三島の死が究極のマゾヒズムのもたらしたものであるとしたならば、滝田修はなにか勘違いを犯していたことになる。(1月14日)

②フロイトの理論によれば、攻撃衝動が他者に向けられるのがサディズムであり、自己に向けられるのがマゾヒズム。テロは一般的には他人を殺傷するのだが、自分をテロの標的に選ぶのを何と呼ぶべきか。三島の割腹自殺は文学者の自死ではあるが、三島の自意識の中では皇帝暗殺のテロだったのかもしれない。(1月14日)

さて、最終的な私の判断は、三島もまた連合赤軍同様「犠牲の死」を遂げたのであり、連合赤軍と同列に処して差し支えないというものでした。そういう決断をもって、上記エッセーを書き下ろしたのです。

ハイデッガーのフライブルグ講義の圧巻は、ヘルダーリンについての最初の講義(1934年)と、ニーチェのニヒリズムについての講義(1940年)の二本です。

橋川が「中間者の眼」という三島について論じた文章の中でノスタルジアの危険性を説き、ノスタルジアは狂気か死に至る、と三島の行く末を心配していたことが思い出されます。ニーチェもヘルダーリンも晩年は狂気に至っています。

橋川の三島論にはハイデッガーのヘルダーリン評価に同調しない、できない部分が内包されています。ロマン主義批判の立場に立つか立たないかのせめぎ合いがハイデッガーと橋川の分岐点なのでしょうが、ことはそう簡単に裁断できるほど単純ではありません。

ヘルダーリンには「神々の逃散」というテーマがあり、ニーチェには「神の死」という主張がある。マルクスの共産主義の理論も「神の不在」が前提的認識となっています。

ハイデッガーのヘルダーリン講義の中から再度引用してみます。

       ハイデッガー1889-1976      

ーーー神々の雷電に撃たれぬ限りは祭司は生まれない。そして故郷なる大地とその民族全体が雷雨の中に立つのでない限り、雷電に打たれることはない。だが、民族が全体として民族の歴史的現有そのものにおいて、神々の死という最も深い困窮を本質から経験し、そしてそれを永く耐え抜くのでない限り、決して雷雨の中に立つことはできぬであろう。
(木下康光/ハインリヒト・トレチアック訳『ヘルダーリンの賛歌 「ゲルマーニエン」と「ライン」』 ハイデッガー全集第39巻)


     

マルクスもヘルダーリンもニーチェも、そして三島も連合赤軍も、このような意味において、本質的な「虚無性」を共有していた。そういう見取り図が描けるのではないか。


マルクスや連合赤軍にロマン的イロニーはないが、神の不在・神々の逃散・神の死といったある絶対的なものの欠如といった自体を耐え抜く覚悟は、マルクスや連合赤軍も共有を余儀なくされたという考え方もできるのではないか。

練れていない考えを提示して恐縮ですが、このような思考経路を踏まえて「好日42 三島由紀夫と連合赤軍」を起稿したのです。

     本文 ⇒
好日42 三島由紀夫と連合赤軍 

    

】北一輝の霊告【 祝福せよ、スペシャル・ジェネレーションの到来を。 北一輝


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