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「国際平和支援法」(恒久法)・「国際平和共同対処事態」規定の、「言葉は便利、方便だよね!」を指弾する

2015年04月17日 13時55分00秒 | ナイーブな人たち

解題:葦原風太郎様より管理人宛にて玉稿を寄稿頂きました。一語をも加減せず全文を掲載させて頂きます。なお葦原様の前回の寄稿の掲載はこちらです。
⇒ 【寄稿】 我々日本人こそ世界平和を築く中心勢力となるべき 葦原風太郎


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 「国際平和支援法」(恒久法)・「国際平和共同対処事態」規定の、
 「言葉は便利、方便だよね!」を指弾する。


                         葦原 風太郎 
 
              

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 祖国のために散華した「英霊たち」また「多大の戦争犠牲者たち」は、このようにして進む政治過程をどう見ているだろうか。
 
 先の大戦で亡くなった全ての人たちが、再び「栄ある大日本帝国」の再来・再建を望むだろうか。

 私、私たちの望むのは「平和国家」であり、「民主主義国家」であり、日本の政治としては「平和路線」であり、「戦争をしない国々・世界」を、望んでいるのではないか。

 ウクライナの戦闘で涙に暮れた老婆が「……なにより、平和が欲しい」と言っていた。同感だ。



 私自身は「日本の独立・永世中立」を願う。よって自衛隊は国防軍であり「日本領土・国民を守る」とする。

 よって「海外派兵・武器売却」などは認めない。「専守防衛」で良い。「国防軍が他国にいる」と誤解が生まれやすい。

 そして片方の口で積極的平和主義と言い、片方の口で軍事協力を言いイスラエルにF-35などの部品供給するような「敵を作り、敵よりの守り」を言うのは、全くの詭弁であり間違っていると思う。

 今まで日本人は「テロに巻き込まれる」ことはあっても「テロの直接標的になる」ことはなかったのだ。アラブゲリラ達さえ「日本人」は識別し、時には尊敬さえしてくれていた。もう「気楽に世界旅行」など考えられなくなった。

 今国会で、総理は「反動を生みつつ、踏み潰し、冨国強兵策を貫徹する」と言ってのけているようだ。

 なのに野党議員は、誰も総理の真意が読めないようでもある。今は「平和国家日本の危機」なのだ。



 私、私たちは『我々日本人こそ世界平和を築く中心勢力となるべき』ではなかろうか。

 武力の『武』の字は「二つの矛の交わりを止める」と書く。その意味である。よって武力の本来的意味は「積極的平和主義」のことである。もしくは「二つの矛の交わりを止める」武力であるだろうか。それは「平和外交」ー政治・討論による認識と互いの肯定ー「仲良くしよう・半分こしよう」のことであるだろう。


「戦後70年・敵を作らないー平和国家建設」そのブランドこそが、日本の繁栄の秘密であり基軸であり、それが世界の人々よりの信頼と称賛を勝ち得たのだと考えている。



 よって本来、日本の総理大臣が国会や国連で言うべきは、N・マンデラ氏の言であるだろう。

「勇気ある人は平和のために許すことを恐れない」

「報復するよりも情けをかける方が、この世界ではより多くのことを成し遂げられる」

「人は憎しみを学べるのなら、愛を教えてもらうこともできるはずだ。

  なぜなら、人の心にとって愛することは憎むことよりも自然なことだから」



 ならば、私たち日本人が言うべきは「普遍的正義と平和」の事柄であるはずだ。



 私たち日本国民の歴史を振り返れば……、大航海時代以降の帝国主義の勃興、18世紀ー産業革命の成功により欧米列強は世界各地に植民地を求めた。アジア・アラブ・アフリカ・中南米などは「近代兵器」戦法の前に為す術が無かった。それ以前は「奴隷制・人身売買」そしてこの頃には「植民地争奪戦・支配」となる。

 西洋列強が中国・清に目の向く間、日本は「脱亜入欧」を目指し、明治維新・大日本帝国の成立の形を成した。そして「日清戦・日露戦・日韓併合・満州事変(大東亜共栄圏ー満州国)・連盟脱退2.26・日中戦争・ノモンハン(対ソ戦)・太平洋戦争」へと国民総動員しながら、「沖縄地上戦・大空襲・二発の原爆(人体実験)→敗戦」米国下占領統治を受けるに至った。

 「神国日本・八紘一宇・大東亜共栄圏」の発想にあるのは帝国主義の理念であり、戦時スローガンとしては「ABCD包囲網 → 狭い日本にゃ住み飽きた・王道楽土 → 進め一億火の玉だ」そして 「万歳突撃→ 一億玉砕」へと向かっていった。これが亡国の論理でなくて何だろうか。

 日本という国は大東亜戦争の敗北を受けるまで「他国による侵略・占領」など体験したことが無かった。

 日本の軍隊が外敵より国家を守るが為「日本軍」の呼称も不思議でもなんでもなかった。

 しかし「一億総懺悔」の無念さと「占領軍GHQ」支配による恥辱も知るなら、まして「廃墟と化した日本」を見たなら「平和への希求」は当たり前の事の筈だった。

 だが、今はどうだろうか。



 なのに政府自民党・公明党は「敵を作り出し」戦争の準備を始めようとしている。

「国際平和支援法」(恒久法)・「国際平和共同対処事態」との概念を国民の前に提示しようとしている。



「アメリカなら大丈夫だよ」の判断だろうが、如何なものか。

 20世紀だけで「我が国との対戦」も含めて、

 交戦国として、アルゼンチン・チリ・ハイチ・ハワイ・ニカラグア・中国・朝鮮・パナマ・フィリピン・キューバ・プエルトリコ・グアム・ホンジュラス・サモア・ドミニカ・ハイチ・メキシコ・ドイツ・ユーゴスラビア・グアテマラ・エジプト・レバノン・トルコ・エルサルバドル・イラン・ウルグアイ・ギリシャ・プエルトリコ・ベトナム・ラオス・インドネシア・アンゴラ・リビア・レバノン・グレナダ・ボリビア・バージン諸島・リベリア・サウジアラビア・クウェート・ソマリア・ボスニア・ハイチ・クロアチア・ザイール・リベリア・アルバニア・スーダン・アルバニア・アフガニスタン・イエメン・マケドニア

 と、そりゃもう「政治的暗躍・恫喝・内乱誘発・クーデター関与・大統領暗殺・傀儡政権樹立」などなどと「世界の保安官」ぶりを発揮している。

 およそインディアンを虐殺するなんて平気だし「黒人射殺」もポリスなら、あ・た・り・ま・え! 暴動鎮圧に軍隊の出動も日常茶飯事のお国がら。インディアンの人権や民主主義なんてどこ吹く風でしかない。



 日本が「副保安官」として名乗りを上げるなら、相当の「出費と流血の覚悟」は必要だ。

 まして自衛隊の皆さんが外地に赴くなら「敵は区別しない」だろう。しかし「血を流しての血盟」を、誰が望んであるだろうか。

 ★東日本大震災の時、「トモダチ作戦」などと現地救援を言いながら、「福島原発事故」の発生を知り、彼らが、「即・Uターン」したことを、もう忘れたか?! 安全確認して後の、再度のゴーサインだった。



 安倍総理がこのようにして軍国主義化を急ぐのは、「湯川氏・後藤健二氏の惨殺」が「契機」であり、我が国総理の、発言と行動であったことを忘れてはならない。

◆『イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します。』
◆安倍総理大臣の中東政策スピーチ-2015年1月17日 於・日エジプト経済合同委員会(一部抜粋)

 この三日後に「ISIL・身代金二億ドル要求・邦人二名殺害予告」のニュースが流れた。ここで日本国民・政府に対して、ジハーディ・ジョンの「テロル宣言」さえ出て来た。

 時に総理は「テロに屈せず・テロと戦う」を連呼する。「闘う」がどう文字化けしようが、「ISILと闘う」と米国を中心とする処の国際社会に向けて発表し続けた。「邦人二名を救うための緊急会見・報道」など、微塵も考えなかっただろう。

 そして後、「国会答弁」をニュースなどで見る限り、「★為政者による未必の犯罪」を誰一人として暴くものも無かった。よって「人命は地球より重し」の政治判断が以前にはあった。これが今の日本の国会なのだ。軍靴の響きが聞こえないかい?!

「邦人二名、テロリストにより惨殺」されることよりも、一億二千七百万人の「毎日、飯を食う」事に比べれば些細な事なのだろう。そりゃ、こっちのほうが大切だろうけれども。



 為政者たちは「二人の惨死」を理由とし、これよりテロ対策・邦人救出を理由とし「集団的自衛権ー安保体制強化ー軍備増強ー憲法改悪」へとシナリオ通りに進めている。

 そりゃそうだろう。日本のビジネスマンは中東ばかりでなく世界中に展開しているし、またイスラム過激派も世界中に展開しようとしているのだから……。

 しかしながら「敵を作り出し、軍備増強ー安保法制ー改憲論議」は、如何なものか。

 メディアによる調査では、日本国民の「四分の三」近くが軍国主義化に反対しているというのに……。



 しかしながら、我が国では「イスラム過激派・極悪人説」が罷り通っている。

 彼らを作りだした第一次大戦後の「先進国によるアラブ処理(サイクス・ピコ協定やバルフォア宣言など)」や「南北間格差」などは問題にもされない。

 彼らのテロは「野蛮だ・非道だ」が一般見解とされ、また中共の軍事大国化もあり、「日本も相応に備えるべきだ」という意見が「あたりまえだろ」となってきている。

 「テロリストたちの言い分を聞く・話し合い」など全く考えもせず、「壊滅・殲滅する」とオバマ大統領の言う。ならば各国首脳も「頭右」となりはてる。彼らを「鬼っ子」に仕立てて「アラブ原住民」を放逐してゆく。これは、まるで西部劇を見るかのよう。



 およそ一般世論もメディアも「ゲリラは極悪非道」と決めつけ「テロより日本人を守るー戦争を準備する」ことに不思議を感じていない。

 およそ「材料の全てをまな板の上に上げて」語ることもせず、「双方の言い分に耳を傾ける」こともなく、「メディアの流し続ける一方的な情報」を鵜呑みにして「テロリスト―悪逆非道」とするのは、如何なものか。 また「有志国連合の情報・ニュースの鵜呑み」は、如何なものか。

例えばそれが中国や北朝鮮での「ミサイル戦」を想定するのであっても、それ以前の「外交」-国際政治の在り方や、「国際政治家の不在」などが問題なのではないか。これらは「以前に手を打つ」ことができるのではないか。

 繰り返すが、 私、私たちは『我々日本人こそ、世界平和を築く中心勢力となるべき』ではなかろうか。

 それは「問答無用」ではなく、それこそ「相手に語り掛ける」事より始まるのが「積極的平和主義・外交」だと思う。



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【霊告日記】第四十一回  夏目漱石『文学論』の余白に バージンブルース

2015年04月10日 10時00分00秒 | ナイーブな人たち

【霊告日記】第四十一回 夏目漱石『文学論』の余白に  バージンブルース




解題:ミクシーの過去日記を調べていたら、夏目漱石の『文学論』を話題にして、TさんとMさん(=共に仮名)と私(=Dと表記)の三人で対話している記事が見つかりました。このまま埋もれさせるには惜しい高度な内容の対話篇に仕上がっていますのでこのブログにも転載しておきます。


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    夏目漱石『文学論』の余白に

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◇まえがき◇

言葉と思索と感情の関係に関しての、千坂恭二@ガイストさんのつぶやきに触発されて、夏目漱石の『文学論』に関して私もつぶやいてみましたところ、Tさん・Mさん・私(D)による三者の対話が始まりました。
対話が一段落したところで、お二人の了承を得た上で、日記に転載することにしました。今後このテーマでのより幅広い対話が発展することを願っています。
議論の発端を与えて頂きました千坂恭二@ガイストさんにお礼申し上げます。

◆発端:千坂恭二@ガイストさんのつぶやき◆

言葉は思索を表すものではなく、思索は言葉で行われるものだという。これは言葉以前の思索は無いということでもあるが、しかしでは言葉は同じものかといえばそうではない。同じ語を同じ意味で使用していても、ニュアンスや言葉にこめた感情が全く違っていたりする。

□私のつぶやき□

①夏目漱石は『文学論』の冒頭においてかくの如く述べている。「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象又は観念を意味し、f はこれに付着する情緒を意味す。されば上述の公式は観念の二方面即ち認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したるものと云い得べし」 。

②言語における同一性と差異の問題。同じ語を同じ意味で使用していても、ニュアンスや言葉にこめた感情が全く違っていたりする。逆に、違う意味の言葉を使っても、ニュアンスや言葉にこめた感情を全く同じにすることができる。同じ言葉はない。言葉は常に新しい。だが(F+f)という構造は不変である。

③ある人がある時に使った言葉は認識的要素(F)と情緒的要素(f)の結合から成りたつ。同じ人が違った場合に使う同じ言葉はFも同じでなく f も違っている。まして他人が使った同じ言葉が別の人の(F+f)と一致したらそれは奇跡だろう。しかしそのような奇跡を招来すべく文学者は戦っている。

■以下、コメントです■

T:ソシュール言語学。シニフィアンとシニフィエの関係。

T:通訳を使い慣れてない人が稀に言うのが、「そのまま言葉を訳してください」。でも、言語やフレーズの背景にある文化が違うから、そんな事をしても意味がない。技術分野だったら何とかそれでも出来なくはないけど、日常会話の通訳はムリ。その意味で、戸田奈津子さんの字幕は、とてもいいです。

T:漱石は、I love you を、「月が綺麗ですね」と訳したけれど、これはちょっとやりすぎ・・・。

M:漱石が『文学論』を発表したのは1907年。ちょうどソシュールがジュネーブ大学で後に『一般言語学講義』として纏められる講義を行っていたのと同時期です。まあ、言葉と意味のズレというのはドストエフスキーも頻りと強調していたことですし、トーマス・マンも1903年に『トニオ・クレーゲル』の作中で論じています。

M:言葉というものに多少真摯に思いを凝らす人であれば、言葉と意味のズレという事態には自覚的になるでしょう。しかし、その自覚を「シニフィアンとシニフィエ」「F+f」という形で明快に定式化してみせた点は、やはりソシュールや漱石の偉大さですね。

M :ただ、たとえばトーマス・マンなどは「シニフィアンとシニフィエ」「F+f」が完全一致することはあり得ない、前者と後者は永遠にズレ続ける、その永遠のズレに耐え続けるのが文学者である――という決意を『トニオ』で表明しています。一致という奇蹟を目指すのではなく、永遠のズレに耐え続けるのが文学者である、と。

M :そして、この言葉と意味のズレ(ラズノグラーシエ)をキーワードにドストエフスキーを読み直しているのが、山城むつみの近著『ドストエフスキー』です。

D:「異和=ラズノグラーシエ」の説明、なるほどなとは思うのですが、それがドストエフスキーの言葉の特質を解明しているとは思えない。最後の言葉はぎりぎり最後までどういうものになるかわからない。他人に分らないだでけでなく自分にさえ分らない。こういう思想が「異和=ラズノグラーシエ」という現象を発生させる。

: 「異和=ラズノグラーシエ」の説明     http://book.asahi.com/review/TKY201101250151.html
・・で、ソシュールですが、ソシュールが論じたのは、認識的要素(F)と記号との相関関係では? 情緒的要素(f)という人間にとっての大事な要素は捨象されている。

D:(F+f)は文学論であって、言語論より上位のステージを考察している。力点はfに置かれている。fが考察可能になったのは、意識の推移の理論を漱石がもうひとつの柱として立てたからだと思います。漱石における俳諧の素養が、(F+f)というアイデアを生む土台であったと私はにらんでいます。

D:意識の推移。Fの推移に伴ってfも推移する、その一例。古池や蛙飛び込む水の音。古池というF+f⇒蛙というF+f(季語!情緒最大)⇒飛び込むというF+f⇒水の音というF+f。静止と運動、静寂と音響が、永久運動を開始する。推移の科学を漱石は建立した。

D :まったくありふれた言葉を使って芭蕉は、他人が使った同じ言葉が別の人の(F+f)と一致させうるという奇跡を実現している。まず言葉の選択が完璧である。意識の推移が、天才(芭蕉)と凡人(日本語が使える日本人すべて)で一致する。(F+f)の構造式と意識の推移の理論が漱石の『文学論』の二つの柱と私は見た。

M :なるほど。漱石の「f」はソシュールが彼の言語学の体系を構想する際に捨象した「パロール」に類するものと、ということでよろしいでしょうか。とすると、「F+f」という定式でラングとパロールの綜合を目指した漱石は、ソシュールというよりはバフチンに近い言語空間を構想していた、ということになりそうですね。

D:漱石は、I love you を、「月が綺麗ですね」と訳した。これは漱石が宿命の女性と夜道を歩いているとする。その時、自分の真実の思いを述べようとした時に何というだろうかと想像するならば、「月が綺麗ですね」としか言いようがない、それ以上に適切な愛情表現の言葉はありえないという判断でしょう。

D:『三四郎』で与次郎が、Pity’s akin to love を「可哀想だた惚れたって事よ」と訳す。これは、漱石が与次郎という男ならこう訳すのが適当だろうと想像した例。漱石の英語力は架空の人物がどう訳すであろうかまで想像できる次元に達していた。

D:I love you = 月が綺麗ですね。この場合、左右の何が同じなのだろうか。左のF+fと右のF+fを比較してみる。左のFと右のFは何の関連性もない。まったく無関係。fはどうか。完璧に一致している。F+fを違う言語のF+fに変換する場合に、F+fをどのようなバランスで移項すべきかが課題になるのだ。

D:月が綺麗ですね(月が綺麗ですが貴女の方がもっと綺麗です。私の想いを分って下さいよ)。月が綺麗ですねは表白された言葉であり、括弧の中は沈黙の内に伝えられた言葉。その意味=Fも、I love you と一致している。文学は言語を使うことによって沈黙を暗示するアートなのか。然り。漱石にとってはその通り。

T:漱石の弟子がまず「我、君を愛す」とやったらしい。それに漱石がダメ出しをしたそうな。日本には、Iを主語に持ってくる習慣はあまりない。それから、自己表白する文化もない。「愛」というものの概念もまだ定着していない。なにせ「神の愛」を、「神のお大切」と訳していたくらいだから。

T:左右のfは一致、です、です。だから当時の日本人がこういうシチュエーションでどう言うかを文化背景に鑑みて言い換えたんでしょう。でーも、でーも、「月が綺麗ですね」でホントに当時の女性は「あら、この人、私に気があるのかしら?」と思うんでしょうかー。すでに、お互いの暗黙の了解があるなら別ですが。

D:なるほど。伝わるはずがないですね。これで伝わるはずと思うほど男はバカな存在なんです。西欧にはこんなバカはほとんどいないでしょうね。メイド・イン・ジャパンのバカです。ところで、「月が綺麗ですね」は、男性の言葉としての翻訳です。I love you を女性の言葉として翻訳するとどうなるんでしょうかね。

D:I love you⇒「あなたのお袖が風に揺れてますわ」はどうでしょう(笑)。

T:男: 月が綺麗ですね 女: ほんとですね。お袖が風に揺れてますわ
いいかも(笑) 考えたら、百人一首ってこの世界ですよね しかし、今じゃほとんど暗号です(笑)


M:尾崎豊に「慣れない仕事を抱えて/言葉より心信じた」(遠い空)という歌詞があるのですが、これはまさに「F」と「f」が完全一致しないことにこそ「希望」を見出そうとしている歌ともいえますね。

 
D:夢が壊れた後にこそ歌が流れる。何もかも終わったからこそ歌が始まる。荒木一郎「空に星があるように」の境地こそ「絶望と希望の中間」のfかもしれない。



T:尾崎で来ましたか!いやぁ柔軟です!そしてダンボールさんがアラーキー Fとfが永劫不一致ならば、f(female)とm(male)も永遠に分かり合えない。でもさ。 私からはこちらをエントリー。




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【霊告日記】第四十回  脱亜論批判序説    履物と傘の物語

2015年04月03日 10時00分00秒 | ナイーブな人たち

【霊告日記】第四十回    脱亜論批判序説   履物と傘の物語

私が昨年の5月1日より『来たるべきアジア主義』という著作をWEBで公開したそもそもの動機は、福沢諭吉の「脱亜論」に対する全面的な反論をいまこそ行わなければ、今後の日本は危うい。某安倍のような歴史認識が乏しい下等人類にこの日本をまかせてはおけないという強い危機感があったからなのです。

私はWEBで公開する著作のタイトルとして「来たるべきアジア主義」を採用したのですが、ここですぐに想起されるのは福沢諭吉の「脱亜論」という論文でしょう。この福沢の「脱亜論」は恐るべき先見性を持った著作であって、この論文に対して真っ向勝負を賭け、完膚無きまでに叩きのめす必要がありはしないか。 いま私が痛切に感じているのはそのことです。

福沢の「脱亜論」といっても、橋川文三に学んだ我々には基本常識に属する事柄ですけれども、その名のみ有名でもほとんど知られていなかった。竹内好が記念碑な労作「日本のアジア主義」(=筑摩書房刊『アジア主義』所収。旧題「アジア主義の展望」)に
全文引用してから、その内容が初めて知識人やジャーナリズムの世界でも知られるようになった。こういう経緯があります。

ネットは、こういうことにも便利な世界でして、福沢の「脱亜論」を現代語に翻訳して速読で聴くことすら可能になっています。私が何に挑戦して『来たるべきアジア主義』という著作を世に問おうとしているか。そのことを明確にするためにも、福沢の「脱亜論」をもう一度振り返ろうではありませんか。

福沢諭吉の「脱亜論」は明治18年3月16日、時事新報に掲載された論説であり、その根幹をなす主張はかくの如きものでありました。 

「今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろ、其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ」(福沢諭吉「脱亜論」) 

近代国家としての日本は隣邦中国・朝鮮に対して福沢が主張した通りのことを実行した。すなわち爾後の大日本帝国は、欧米の帝国主義政策に倣って中国を侵略し、欧米の植民地政策を見習って朝鮮を併合したのである。そして現下の日本が清算を求められているのは、この福沢諭吉の抱いた「脱亜論」の主張の完全な清算であり、「脱亜論」の言説に内在する野蛮性・非文明性からの完全な脱却である。

繰り返しになりますが、某安倍のような歴史認識が乏しい下等人類にこの日本をまかせてはおけないという根本認識から、私は『来たるべきアジア主義』を書きました。

     『来たるべきアジア主義』目次と本文へのリンク 

リンク先の 「●●● 西郷隆盛の霊告 ●●●」 をご覧頂きたい。

 】霊告【 日本を罵る中国人は醜い。中国を罵る日本人も同程度に醜い。隣国を非難して止まないこうした下等人類は日中双方に同程度の比率で存在する。かつその比率は年々増加している。アジアの道徳的堕落が進行しているのだ。だが絶望するには及ばない。日本に中国にそして南北の朝鮮にアジア主義は生き続けている。 西郷隆盛

西郷隆盛が「下等人類」と呼ぶべきと指示した巨魁が現下の日本の首相である安倍晋三である。そう私は認識しています。

そしてこの西郷隆盛こそが、彼の思想を継承した北一輝と共に、日本人が抱くべき理念=理想を現代に担保する偉大な先人である。西郷の掲げた「敬天愛人」の理念こそ、アジア主義を貫く偉大な思想的内実である。西郷のアジア主義は、福沢の脱亜の便宜主義と、真っ向対立する思想である。

私は、福沢ではなく、西郷こそ、今後の日本人が依って立つべき先人であると考えています。 だからこそ、『来たるべきアジア主義』を公開するにあたって、西郷の思想を【霊告】という形で置いた。今後の日本と日本人が進むべき方向性を暗示したのでした。 

   ※関連記事⇒ 平成版三粋人経綸問答「脱亜論はどうすんだよ!」

★隣国とはどのように付き合うのがいいのだろうか? 日韓両国民必聴の歌(^^♪


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【霊告日記】第三十九回  胎児と幼児    Waka Waka

2015年03月27日 10時00分00秒 | ナイーブな人たち

【霊告日記】第三十九回  胎児と幼児   Waka Waka


     自由が丘 サンクスネイチュアバス


自由が丘には目抜き通りを無料で巡回するサンクスネイチュアバスというのが走っています。あるときその乗り降りの際に地元の小学生の男女のガイダンスが流れました。小さい子が一生懸命にガイダンスしているその声を聴いてとても癒されました。

小さい子が懸命に何かを訴えるその声は大人よりも伝わる、というかなり重大な発見をその時しました。この発見の意味をかなりの時間を掛けて私は考えたことがあります。


丸山真男が橋川文三を評して「胎児」のようだと述べています。丸山真男はそういう言い方で橋川文三のナイーブさを批判したのですが、私に言わせれば橋川文三のそのナイーブさこそ彼の思想家としてのまた人間としての特筆すべき美点なのです。この美点なくして橋川文三という特異な存在はありえなかった。橋川文三が「胎児」のようであると云うのは絶妙のメタファーだと思います。

私は「胎児」よりはもう少し年上です。就学前の「幼児」かな。私の精神年齢はせいぜい五歳くらいです。
幼児が踊り狂っているこの動画を見ると、思わず駆け出していって、仲間に加わりたいと思うくらいなんです。多忙につき今回は短めに切り上げます。失礼_(._.)_

★Waka Waka (Medley) Iloilo version.AVI

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【霊告日記】第三十八回  神のためにまとうヴェール=ヒジャーブ(Hijab)

2015年03月20日 10時00分00秒 | ナイーブな人たち

【霊告日記】第三十八回    神のためにまとうヴェール=ヒジャーブ(Hijab)

★神のためにまとうヴェール=ヒジャーブ(Hijab)


後藤絵美の『神のためにまとうヴェール』(中央公論新社2014年)はその副題を「現代エジプトの女性とイスラーム」と題し、現代のエジプト女性がヒジャーブをまとうようになった経緯を総合的に分析した学術書である。この書から私は多くを教えられた。

この書の中で紹介されているエジプトの説教師アムル・ハーリドによれば、女性がヒジャーブをまとうべき理由は「ハヤー」にあるとされる。では「ハヤー」とは何か?

「ハヤー」の源は自尊心である。ハーリドは言う。「私が嘘をつく? そんなことはできない。物を盗む? 姦通する? そんなことは不可能だ。なぜか。私の心は気高いからだ。私の心は偉大だからだ。」自分は神に対して、人々に対して、自分自身に対して、つねに自尊心を持っている。これが「ハヤー」である。
後藤絵美『神のためにまとうヴェール』184頁)


イスラームの道徳のうちもっとも完全なもの、それがハヤーである。そして、ハヤーの中でももっとも高位にあるもの、それは神に対するハヤーなのだ、と。
 神に対するハヤーとは、神の意思に逆らうことは恥ずかしいという感情である。このハヤーは、神の寛大さ、神からそそがれる愛、そして神の素晴らしさを前に生まれるようである」(同、186頁)

「ヒジャーブをまとえば、女性のハヤーは守られる。女性のハヤーが守られれば、結果的に社会全体のハヤーも守られる。そうすれば社会全体の信仰が正しいものとなり、イスラム共同体は繁栄する。つまり、ヒジャーブとは、女性のハヤーを守るための、そして共同体繁栄のための最初の一歩なのである」(同、193頁)

イスラムの教えは女性に優しい。その優しさは『クルアーン』(第24章31節及び第33章33節・59節)の中において、アッラーが直々に女性にヒジャーブをまとうよう薦めるところにも表れている。近年アラブ世界で続々と女性たちがヒジャーブをまとうようになったのも当然の趨勢と言えよう。

どの宗教でもそうなのだが正しい信仰はいつも女性から始められるようだ。女性の敬虔さそして幼い子供の純心さ。この二つをもっと尊重すれば人間の住む社会もより安らかなものになるのにといつも思う。


★聖典クルアーン「開端章(アル・ファーティハ)」


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