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【連句】①半歌仙「卵50個」の巻&留書

2012年04月23日 10時05分00秒 | 【連句】①~⑤

【連句】①半歌仙「卵50個」の巻&留書


■半歌仙「卵50個」の巻           衆議判

   表
     飛花や一片空のある自由       小原洋一
      虻が眠れる切株の芯        川端秀夫
     春暖炉あやしきものは振子にて    上野遊馬
      左右に開く物語なり          秀夫
     月光に干されてゐたる人民服       遊馬
      ましらたけにはシャオシンチューを   洋一
   裏
     露しとどコクトーを待つピアノ椅子    遊馬
      ことばとぎれて天使が通る       遊馬
     からだからはじける闇をしとねにす    洋一
      卵50個粉50kg             秀夫
     旅果ての憂いのつづき金魚草       遊馬
      サーカステント睨む狛犬        秀夫
     夢の端に置くとらばさみ纖の月      洋一
      卑弥乎の国に奴卑売りに行く      秀夫
     フラクタルな煙草のけむり海の鳴り    遊馬
      義理と人情背ナの双龍         洋一
     朝桜闘争勝利の立看板          秀夫
      ビー玉投げる屋根のうららか      遊馬

              首尾:平成九年四月十二日
              於:東京自由ヶ丘川端邸


 ■留書 「俳諧の花」

 文学の可能性はどこにあるのだろう。
 それは、新しい言葉を発するということ以外にはないように思える。
 だがすぐに「新しい言葉を発する」という言い方は少しも新しくないことに気が付く。
 要は、誰が、いつ、どんなタイミングで言葉を発したかによるのだろう。
「大事なことは、いちばん大事なことは、いまからすべてが新しくなる、すべてががらりと一変することなんだ。すべてが、すべてがだ、でもぼくはその覚悟ができているのだろうか? ぼく自身はそれを望んでいるのか?」
                  (ドストエフスキー『罪と罰』江川卓訳)
 新しい言葉はどこからやって来るのだろう。
 大事なことは、このラスコーリニコフの言葉には、ソーニャという聞き手がいたという事実だ。新しい言葉は、それを新しい言葉として受け止めることができる聞き手がいるところでだけ発することができる。
 言葉が命を得るための必須条件としての対話的思考。
 むろんこのような発想自体少しも新しくはない。バフチンがすでに解明してしまった思想だ。しかしながらバフチンの言葉はいまなお新しい。ドストエフスキーの天才を語り続けて永遠に新しい。バフチンには、ドストエフスキーの読者という確固とした聞き手がいるからだ。
「新しみは俳諧の花」とか。ならば我々も新しみを求めて旅に出なければいけない。
 要は出会いである。その質であろう。
 新しい言葉を発する? 極めて困難ではあるが、ある条件が整えばそれは可能であろう。
 でもぼくらはその覚悟ができているのだろうか?
 ぼくら自身はそれを望んでいるのか?

                       ダンボール


【連句】②アンドロメダへの招待状

2012年04月23日 10時04分00秒 | 【連句】①~⑤

アンドロメダへの招待状


 


 招待状を書くのは誰だろう? それは人なのか、樹木なのか、風なのか。それは、始まりも終わりもない音楽の断片かもしれない。上陸と降海の決意の狭間に揺れる日々に聞いた古代の海の潮騒なのかもしれない。胎内で聴いた心音かもしれない。翼をたたんで墜ちてゆく瞬間に贈られたパスワードかもしれない。

 かってこの地上に出現した最も偉大な詩人であるイジドール・デュカスは、「詩は万人によって書かれるべきである。一人によってではなく」と発言しました。(『ポエジー未来の書の序文』)
 幸か不幸か、その事実は、ほとんど知られていないようです。
 
   デュカスのみ崇め続ける人生を  真文
    たちんぼ仕事けふはありつく  健悟

 「貴種」とは誰か。それは、人間の極限のエネルギーを注いだものだけが文学であり、それ以外はすべてクズである、そう信じる人のことでしょう。「貴種」の運命やいかに。

   いざよひは牡丹くづれゐる気配  実早
    黛玉はいま何をしてゐる?   真文

 宝玉の生活は、1.ぼんやりする、2.黛玉のことを想う、3.それ以外の瑣事、この三つだけしかない。ちょうどいま1から2へと移るところのようだ。そして、紅楼の夢が始まる。

 意外性、偶然性のない人生はつまらないのではないか。異質なものの出会いの場こそ創造への跳躍台ではないのか。南方曼陀羅における「萃点」とはもろもろの因果の系列がもっとも多く通過するところであった。ならばアンドロメダこそ南方曼陀羅の「萃点」であろう。曼陀羅の妙法はアンドロメダに通底すと識るべし。

 作家が文学作品を書く、という考え方をモーリス・ブランショは否定し、作品を書き始めていない人はまだ作家ではない、又、作品を書き了えた人もすでに作家ではない、作家とはエクリチュールの海に出発する人のことなのだ、と主張しました。
 さあ、今日も我等の「アンドロメダ」、飛行準備完了です。


 

 


【連句】③連句的精神とは何か?

2012年04月23日 10時03分00秒 | 【連句】①~⑤

連句的精神とは何か


▽質問 あり: ダンボールネットってなんだ?
▼その答え: 連句的精神に立脚した文芸ネットの建設を目指す者のあつまりです。
▽また疑問: それでは、連句的精神ってどういうことなんだろう?
▼また答え: ふむ、エッセイ 【連句的精神とは何か】 を用意しました。疑問氷解?


【連句】③連句的精神とは何か?

 
河合隼雄の『カウンセリング入門』を読んだが、なかなか面白かった。カウンセリングの基本とは何か。この本の中で河合隼雄は次のように述べている。相談を受けたカンセラーは、自分の考えや能力を全面に出して相手を救おうとする。しかしよいアドバイスを受けたとしても、そのとおり実行できないような人がじつはカウンセラーのところに相談に来ているケースが多いのである。カウンセラーのなすべきことは、まず相手の話を聴くことだという。相手の話を聴くことはエネルギーを要する。そこで耐え切れなくなったカウンセラーが、その人と縁を切るべく、何かアドバイスをしてしまうのである。聴く行為とは、相手の気持ちに共感しつつその在り方を受け入れることである。聴くことがしっかりできると、相手はもともと持っている潜在力が活性化されてくる。自分で立ち上がることができるのである。河合隼雄はそのように述べている。連句においても、前句をしっかり読むことによって、かつしっかり読んだ時にのみ、前句の潜在力が活性化される。この事情は、カウンセリングの場合と同様である。
 文芸雑誌は近ごろあまり売れないが、小説を書く人は増えている。廃刊された『海燕』という雑誌では、実売数よりも新人賞の応募の数の方が多かったという笑えないデータが出ている。その雑誌を買ったことがなくても、情報誌を見て応募する人がいるということなのである。小説を読む人は少なくなったが、書く人は多い。この現象を指して文芸のカラオケ化と呼ぶ人もいる。読むことは文芸の基本でなければならない。連句においては(発句以外は)まず前句を読むところから創造が始まる。文芸の基本が、連句においては、理屈抜きで自然と体得できるわけである。
 インターネットでも情報の発信は非常に盛んで、個人で文芸のホームページを作っている人も多い。自主出版よりは手軽で費用もあまりかからないためであるが、こちらでも発信する人は多いが、読む人は少ないのが実情である。連句的精神に立脚した文芸ネットの建設を「ダンボールネット」は旗印にしている。。創作と享受を同時に成り立たせること、現代に連衆心を回復することが連句の理念と言えようが、同時にそれは電脳文芸誌『ダンボールネット』がインターネットの世界で追及しようとしている課題である。文学は、電子ネットワークの環境の中で、いかなる進化を遂げるのか。ダンボールネットの実験がいま始まる。(ダンボールネットのアドレスはヤフーの検索ページで検索可能)
 連句の方法論はどこまで文学の方法論として拡張可能か。それはひとつの検討すべき根本課題であろう。ネットワーカーとしての芭蕉ということを考えることにもそれは繋がるのである。
 別所真紀子の『雪は今年も』は俳諧における連衆心の在処を深く尋ねた作品集である。その中に書き下ろしで「ちり椿」が収められている。ここには、羽紅の目を通して見た俳諧師芭蕉の姿が描かれており、周到な研究を踏まえつつ詩人の筆で書かれた傑作である。「ちり椿」の中に引用された羽紅宛の芭蕉の手紙を読み返すならば、そのまま芭蕉の肉声が蘇るようだ。芭蕉の肉声は作者にはっきりと届いたのだ。だからこそその声を我々も同時に聴くことができるのである。
「流れるような仮名の多い女房体の優しい文字を、美味な馳走を味わうように、ゆっくりたんねんに拾ってゆきながら、羽紅は、その人のまなざしが見え、声音が届くように思った。何という想いの深い書状であろう。躯の奥深いところで血が熱を帯びて騒ぎ立つ」(別所真紀子『雪は今年も』所収「ちり椿」より引用)
 たまたまネットで連詩の企画があった際に、羽紅を素材にして、連詩の一篇を作ってみた。連句的精神とはいかなるものかをネットの仲間に伝えたかった。題は「ちり椿の人」。

 笄もくしもむかしやちり椿
 と、かってその人は詠ったことがある。
 ちり椿を見てその人は
 長い黒髪をくしけずり、櫛をさした昔を思い出していた。
 娘もまだ若く、人妻のままにして、健やかであるのに
 なぜ、その人は黒髪を切らねばならなかったのか。
 その句を読んで、人々は
 いかなる美女だろう、貞女だろうと
 ささやきあったものである。
 その人をよく知っているグルは、人々にこう答えた。
 いいえ、その人は美女ではありません。
 貞女でもありません。
 ただ、もののあわれを知る人なのですよ、と。
 ちり椿の人がグルに捧げた祈り。
   ならば もう
   けっして 近づくまい けっして終わるまい
   力をこめて 立ち続けよう
 ちり椿の人が髪を切った原因は
 グルに捧げたその祈りの中に隠されていたのである。
(祈りの部分はこがゆき作・連詩「一人染める頬」よりの引用)

 すでに別所真紀子は『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』において、「ちり椿のひと」野澤羽紅に一章を捧げ、羽紅が尼になる意志は如何辺にあったかを推測し、次のように語っていた。
「それは、俳諧衆としての行動の自由、俗世の女を捨てることによって得る非日常への憧れ、夫と共に芭蕉に従ってこの道にいそしむための飛翔であるに違いない。
 芭蕉ほどのひとに「心のあわれなる尼」と賛えられたことで、羽紅は自分の決断を自らことほいだことであろう」
 (別所真紀子『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』より引用)
  「ちり椿」という作品は、羽紅と俳諧との関わりを描きつつも現代に連衆心を回復すべく祈念するところに、作者の深い志がある。そもそも連衆心とは何であるかという連句の根本課題は、学術書や研究書ではとうてい伝えることはできない。それはただ文学だけに可能である。連句とは何かを知る真の詩人の筆だけが、それを現代に蘇らせることができたのである。『雪は今年も』の出現は現代文学の中で連句が新しいステージを獲得したことを意味するであろう。そのことをいまはただ素直に喜びたい。
 瞬間と永遠が一句の中で取り合わされることによって名句が生まれる。これが芭蕉の方法であったとドナルド・キーンは説く。「発句は瞬間の観察(木槿を食う馬、池に飛び込む蛙、あるいは風に吹かれる竹といった)でなければならないが、それとともに馬なり蛙なり嵐によって一瞬のうちにかき乱された永遠なるものを受けとめている必要がある。一つは永遠、一つは瞬間という二つの要素が組み合わせられ、あるいは併置されることによって、句に緊張感が付与される。こうして創造された緊張の磁場の中で、読む人の心は永遠と瞬間のあいだを電光のように跳躍する」
(ドナルド・キーン著『日本文学の歴史』7・徳岡孝夫訳)
 なるほどたしかに「古池や蛙飛びこむ水のをと」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」といった名句には、「人間が永遠を知覚するためには、それをかき乱す一瞬がなければならない」(キーン)という構造が隠されているように思える。この方法は芭蕉の門人たちにも受け継がれた。
 だが同時に「永遠と瞬間を組み合わせる」とはプルーストの発見した方法でもあった。瞬間の感覚が永遠の記憶を呼び起こすというのが、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』という作品の構造の基底にはある。マドレーヌのひとかけらの味からコンブレーに蘇るプルーストの少年の姿(『スワン家の方へ』)は、ちり椿に黒髪をくしけずった昔を思い出す羽紅尼(「笄もくしもむかしやちり椿」)に通底すると言っていい。
 プルーストの方法の背後にはベルクソンがいる。ベルクソン哲学を介して、芭蕉とプルーストは結び付く。知覚と記憶を一瞬のうちに結合させるその方法によって、彼等は一卵性双生児である。 ベルクソンは常に新しい。私にとってベルクソンとは、新しさとは何かを教えてくれた人であるといっても過言でない。
 「ただ人間のみにおいて、とくに人間の中の最上のものにおいて、生命の動きは障害なくつづき、生命の動きが途中で創造した人体という芸術作品を通じて、精神生活のかぎりなく創造的な流れを発します。未来に強い重みをかかるために、たえず過去の全体にもたれかかる人間は、生命が大きな成功をおさめたものなのです。しかしとくに創造的な人間は、それ自身が密度の濃い活動によって、他の人々の活動を密にし、寛大の徳のかまどに寛大に火をつけることのできる人間であります。かれらは進化の頂点に立っているというよりも、起源のごく近くにあって、根底から来る衝動をわたしたちの目に感じさせます。わたしたちが直観の働きによって生命の原理そのものまではいりこもうとするならば、かれらを注意深くながめて、かれらの感ずることを共感するように努めましょう。探底の神秘に突き進むためには、ときどき頂上を見なければならないものです。地球の中心にある火は火山の頂上にだけしかあらわれません」(ベルクソン「意識と生命」渡辺秀訳)
 例えばベルクソンのこういう部分を読むと、それがそのまま芭蕉のことを語っているような思いがするのは私だけではあるまい。 ベルクソンの哲学をそのまま実践すると芭蕉のような人が生まれるのだ。「新しみは俳諧の花」と説いた芭蕉は、古人の心がそのまま自分の体の中に生きていた人であった。芭蕉は、未来への跳躍のために、記憶の全体を踏み台にできる人であった。
連句においては連続するABCの句は、ABとBCで順次別の世界を作っていく。その結果B句は次の読み手によって新しい解釈が付け加わる。付けること、そして転じること、この二つが連句の方法であり、連句の詩的なダイナミズムはここから生まれてくる。この簡単な方法が、過去の記憶と現在の知覚を結び付けつつ未知の未来へ跳躍する生命の原理を内包しているのである。


【連句】④連句の周辺 

2012年04月23日 10時02分00秒 | 【連句】①~⑤

連句の周辺


 連句は千年の時空に支えられた芸術のジャンルでありこれまで様々な人間が関わって来た。積み重ねられた崇高な伝統。それを独自の観点から集約し蘇らせた天才も出現した。芭蕉の出現は連句形式を永遠なものにした。このことは疑い得ないことであろう。天才が出現するかどうかは一般にそのジャンルの可能性を知るのに最も適切な方法であって、ひとたび天才が出現したジャンルは永遠に滅びることなく輝くものである。一人のソクラテス、一人のモーツアルトが出るまでの時間も無視できないが、彼等の出現自体がある不滅の創造的ジャンルを作ったとも言えるのである。 連句は千年の時空を背景に持つ滔々と流れる大河のようなものである。その大河からは幾つもの支流が作られた。俳句もその一つであるが、俳句は天才が出にくい芸術のジャンルであろうと私は思う。俳句には連句と違って芭蕉のような天才はまだ出現していない。その原因は俳句という芸術のジャンル自体が極めて人為的な発生の仕方をしたところに求められるのではないか。
 俳句とは何か。その本質はなんであるのか。宗匠と言われるべきほどの人ならば必ずその問いに対して自分なりの答えを持たなければならない。なぜなら、そんな芸術のジャンルはもともと存在しなかったのであるから。季語は必ず必要なのだろうか? 是非とも五七五で詠むべきものなのか? こんな簡単な問いにさえも、俳句では共通の答などはないのである。各々の宗匠が答を見付けその答に意味づけを与えなければならない。そしてその答は各自の観点からは絶対的に正しい。正しくなければならないのだ。なぜならば、もしその答が正しくなければ、俳句というジャンルはそもそもそこに発生し得ないのであるから。
 俳句というジャンルは自らのアイデンティを絶えず問われている。俳句は「俳句」という文芸のジャンルの発生の必然性を絶えず自分自身に証明し続けなければならないのである。これは歴史的にみるならば俳句というジャンルの弱点というよりむしろ強みであった。様々な才能がこの未開拓の領域に赴いた。そして様々な俳句理論が作られそれらの理論が実作を導いても来たのである。絢爛たる俳句実作の歴史、それは我々が目にしている通りである。
 アイデンティティ それが、他とは異なる、まさにそのもの
  であるということ。自己同一性。「自分のーを主張する」
               (岩波国語辞典第四版より)

 ところで、このアイデンティティという概念は、アメリカの心理学者エリクソンが自らの心理学のキー概念として使用し、まずアメリカで広まった。(もともとはフロイトが論文で最初に使ったのだが、それをエリクソンが拡張した)。
 アメリカという国はそもそも人工国家である。建国の理念を掲げて作られた国である。したがって絶えず指導者は「アメリカとはどんな国であるか、どんな国でなければならないか」を国民にに示し続けなければならない。自らのアイデンティティを絶えず確認する行為を必要とするのがアメリカである。アイデンティティという概念がなぜアメリカで受け入れられたかの事情をこれは物語るのではないだろうか。たかだか二百年ほどの歴史しかない国においては伝統に安住することは許されない。絶えざる国家理念の再確認こそがその国を繁栄させる根拠なのである。この意味でアメリカは若い国なのだ。比喩的に言えば、俳句とはアメリカのごとき人工国家である。そこでは形式が伝統ではなく理念によって支えられている。理念が先立って建設された形式なのである。 まず生活という事実があって、そこに国家ができた。これが古きヨーロパの国々の事情であり、それは日本という国においても同様である。そこにおいては伝統というものが重層性を持って沈殿している。理念は生活の一部としてのみ存在する。
 連句においては、発句は必ず付句を予想している。連衆あっての発句である。連句の視点からは、俳句とはその必要性もないのに家を出ていった家出息子のように思える。彼はなぜ家族を離れて家出しなければならなかったのか(なぜ発句は独立しなければいけないか)、彼は自他の為に証明し続けなければならない。
 簡単に纏めれば、連句と俳句はまるで位相が違う文芸である。生命体とロボットほどにも連句と俳句は違った存在なのだ。生命は連続であり、時期至れば進化する。生命の発生は無限に遡及しうる。しかし人工物には必ず終焉がある。
 方向を変えよう。降っては中世。乱世の時代に連句の原型である連歌は普及した。この連歌について山崎正和は、連歌に代表される中世の文学はそれ自体が人間の社交をそのまま洗練させた構造を持っていたと述べ、さらに次のように指摘する。

  ここで要求されるのは一座の気分の流れを正確に掴む能力
 であり、それにいきいきと、しかも控えめに自分を合わせて
 行く能力である。試されているのは人間のもっとも精妙な心
 の働きであり、野暮や気障や、その他もろもろの醜さがここ
 ではたちどころに馬脚をあらわす仕掛けなのである。
  こういう場所で試しあい、そこで許しあった人間だけを信
 じるということは、乱世の人ひとの驚くべき知恵だったとい
 える。それはあらゆる政治制度が毀れたあとにも残る、人間
 関係のエッセンスというべきものであり、本当はこういう場
 所こそ人間社会の真の表街道であるかもしれない。
                 (山崎正和『室町記』)

 連句は連歌から切れている側面もあるが継承している面も多い。山崎正和がここで指摘しているような座の思想はある意味で二十一世紀の連句芸術の可能性すら示唆していると言えるのではあるまいか。連句人とは文芸を通して人間関係のエッセンスを抽出しようとする者のことなのである。モダーンな言い方をすれば、二十一世紀に我々が必要としている文明人とは、座の思想を掴み取ったネットワーカーであるべきなのだ。このような文明的課題にも応え得る文芸形式として連句を見たいと私は思っている。
 連句が連歌から継承した性格として、洗練された社交の形式を体験できるということがある。連句は芭蕉に至って、より高度な詩的形式として深まったけれども、依然連歌のその性格は連句に継承された。けれども連句は連歌にない大事な側面を持っている。それは説明するのが難しいのだが、人間の社交を詩に昇華したものが連句だとは必ずしも言いきれないということである。逆説的な言い方に聞こえるかもしれないが、むしろ連句においては人間の消滅といった事態が起こるのではないか。
 連句における詩作は自分(人間)から出発するのではなく前句(言葉)から出発する。言葉自体が次の言葉を呼び寄せる。次に来る言葉はそれが誰に書かれたにせよ前の言葉との高度な調和があるかどうかによってその存在が認められる。いわば言葉それ自身がオートマチックな運動を始めてしまうのであり、個々の参加者の才能はただその場に捧げられるのだけなのである。良き言葉が良き言葉を無限に呼び寄せる。だから連句を巻くのは天使がテレパシーを使って対話している光景に似ている。連句を読むことは天使たちのテレパシーを盗聴する経験によく似ている。
 連歌は筑波の道と呼ばれ、日本武尊と御火焼の翁との酒折の宮での唱和が起源とされる。神話的時間が設定されているのに注意する必要がある。それではより根源的で高度な詩的対話を目指す連句はいつどのようにして発生したのか? 我々はここにおいては歴史的にではなく、原理的に考察しなければならない。
 さてここからは私の空想である。天使はテレパシーが使えるが、人間にはなぜテレパシーが使えないのだろう。天使は何語であろうとあらゆる言語を解読できる。しかし実は天使は言語を解読しているのではなく、人間の内面を直接に読んでいるのである。人間が言語を発する瞬間には思考が結晶作用を起こす。天使はすばやくその瞬間をキャッチするのだ。天使には自分の内面を読まれても困るようなものは何もない。だから天使は言語を持っていない。内面の波動をちょうど音楽のようにあるいは波のようにお互いに伝えあっているだけだ。
 ところが人間の内面には秘すべき様々の悪が存在する。天使の内面には存在しない様々の悪の発生。堕落した瞬間に、人間はテレパシーを使えなくなった。そこで悪想念をコントロールしつつコミュニケ-ションするための通信手段が必要となる。かくして人間は言語を獲得した。天使と人間の差異。それはテレパシーと言語の差異に還元できる。
 天使たちの対話と人間たちの対話、対話にはこの二種類が存在する。詩的対話とは天使たちのテレパシーに限りなく接近しようとする人間の試みである。連句という芸術形式はこの失われた天使たちの対話を復元するために人間が考え出した天使的メディアなのではないか。連句の起源は天使が堕落して人間が言語を使用するようになった時点まで遡ることが可能である。
 詩人はまず生を愛するだろう。生き延びることが先決問題であるから。詩人は理論を好む者ではない。理論が彼の詩作のレベルを上回ることはないのを知っているからだ。あらゆる理論は虚構でしかない。しかし虚構の中にも真理はある。そして真理には強度の差が存在するだろう。生きる時間の中のエアポケット。そこに向けてこの空想的な試論は発射された。
 連句にとっての周辺。連句と俳句、連句と連歌、そして連句の起源という問題。連句への旅はまだ始まったばかりだ。
 連句は私にとっていまなお「大空を行く四輪馬車」なのである。


【連句】⑤連句ルネッサンス計画

2012年04月23日 10時01分00秒 | 【連句】①~⑤

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<メタ・フィクション>

           『連句ルネッサンス計画』

                                  ダンボール
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第一章 序 詩二篇

 女たちへ
         きよらかはみだら
         みだらはきよらか
         甘い混沌、分けあっていこうね

 男たちへ
         明日、決闘しよう
         弾丸はそれぞれ一発ずつ
         勝った者は、王となる
         負けた者は、神となる
         それでいいか?


第二章 ダンボール・シアター特別公演

 タイトル『 今 日 も 明 日 も 』
     作・演出  ダンボール
     出演    森高千里
           パスカル

 二人は小さなテーブルに向かい合って座っている。テーブルの上にはコップが一
個と一冊の本。本の題名は『ダンボールがグチャグチャになって』である。なぜ、
そんなくだらない名前の本がそこに置いてあるのか? その理由は誰も知らない。
ま、そんなことはどうでもいいとして、……開幕のベルが鳴る。

森高千里「パスカルさんはどんな女の人が好きなんですか?」
   パスカル、手元のコップを持って彼女の前に差し出す。
森高千里「それは、何ですか?」
パスカル「これは、コップです」
森高千里「何を言っているんですか?」
パスカル「このコップみたいな女の人が好きだと言ってるんです」
森高千里「なるほど、でもわたしはこのハンカチの方が好きです」
   ……と言って、自分のハンカチを広げてみせる。
パスカル「ぼくもそのハンカチの方が好きです」
森高千里「じゃあ、わたしと寝て下さい」
パスカル「いいですよ今日だったら。明日だったらもういやだ」
森高千里「わたしは明日だったらいいけど、今日はいやです」
パスカル「じゃあ、今日も明日も寝ましょうか」
森高千里「そうしましょう」
パスカル「やっぱりやめときましょう」
森高千里「どうもありがとう」
パスカル「ぼくは振られてしまった」
森高千里「これで終わりですね」
パスカル「これから始まります」
森高千里「はじまりはじまりー」
パスカル「何が始まるのでしょう?」
森高千里「連句ルネッサンス計画よ」


第三章 現代連句への電子メール

 拝啓 電子ネットワーク戦士ダンボール様
                      似本島真文拝

 先日はメールありがとうございました。御依頼の件、いろいろと考えてみました。私への御依頼は、「現代連句」をテーマにしたパソコン通信の会議室を開くにあた
って、まず現代連句の優れた付句であると思うものを五つ位選んでほしい、たとえ
ば『連句年鑑』の中からでも、ということでした。
 しかし、よくよく考えてみますと、私も連句はかれこれ八年もやっていますが、
あれは自分で本当にいい付けであったなあと自分で本当に納得できるようなものは、今までにせいぜい五、六句位しかありません。つまり自分の付句に限定しても、歌
仙一〇〇巻以上の中から、選定のための候補が五つか六つくらい出せるに過ぎない
のです。で、さらにそれを一つに絞り、他の人の付句においても同じような作業を
繰り返して初めて、これが現代連句の代表的な優れた付句である、というようなも
のが最終的に出せるのでしょうが、これはおそらく個人の手には余る仕事です。
 しかし、自分の付句に関しては、誰でもそうですが、記憶というものがあります。いちいち自分の全作品を読み返さなくとも、あれが自分のベストの付句であったか
もしれないという、こころあたりはきっと誰にもあるはずです。その記憶、その経
験を持ち寄って、その人なりの付句観を提示しあって、そこから学び、質問し、反
対意見をのべたりして、連句についての議論を進めていくのが、実際的に可能な
「現代連句の付け」をテーマにしたパソコン通信の会議室の方針ということになる
ではないかと思うのです。まず出発点としては、各人各様に、極私的な、良い(と
信ずる)付け合いを提示する所から始める。そういうやりかたで「現代連句の付け」の議論を始めてはどうかと提案します。
 そこでまず言い出しっぺが責任をとり、「極私的・現代連句の付け」についての
意見をこの私が。この報告をもってダンボールさん御提案のパソコン通信連句会議
室のオープニング・メッセージに代えさせて頂きたいと思います。私の選んだテー
マは「最初の付句の持つ意義について」です。よろしくお願いいたします。

##################################
  パソコン通信『現代連句会議室』開設にあたって
    ー最初の付句の持つ意義についてー
                          報告 似本島真文 #
##################################

 白羊宮の会の東堂貴友さんと嶋田洋子さんに招いて頂いて、私が初めて連句の座
に連なったのは八五年の十二月でした。事前に『白羊宮』を送ってもらいそれを読
んではいましたが、連句については私は何も知りませんでした。
 オモテでは事情もよく分からず様子を見ていただけですが、ウラにはいり、四句
めの「ゴロンと生きてプツンと死んで」という多気田祐二さんの前句に、私の出し
た最初の句は「花を餌に人魚釣る手に波しぶき」だったのです。東堂貴友さんは
「ウーン、波しぶきが余計だな。短詩では言葉をもっと惜しんで使った方がいい」
とおっしゃて、私も「なるほど」」と思いました。「でも、いい句だから、どこか
で使いましょうね」と嶋田さん。その日の捌きは嶋田洋子さんが担当でした。結局、「花を餌にして人魚釣るなり」と短句になおしていただいて、ウラの8句目に、初
めて私の句が入りました。前句は「ひょっとこの血を吐く酔もありぬべし」で、東
堂さんの句。

  ひょっとこの血を吐く酔もありぬべし  貴友
   花を餌にして人魚釣るなり      真文

 さて、ここからが実は、最初の付句について、というテーマの始まりなのです。
連句は付けがたいせつである、このあたりまえのことを誰もが連句初心者に説明し
ようとします。しかし、私の考えでは、連句初心者は良い付けとは何であるかをい
くら説明されても絶対に理解しません。そのように考える覚悟が連句人には、とり
わけ実作者たる連句人には、この際、絶対に必要でしょう。初心者に最初から良い
付けを期待するのは無理であって、初心者が出した句に良い付句を付けてあげて、
そのことによって連句における「付け」ということの意義を悟らせるということが、唯一できるのではないかと思うのです。
 「さあ、いい句ですから、しっかり付けてくださいよ」と、嶋田さんがおっしゃ
って、白羊宮の連衆はその瞬間から、熟考の態勢に入りました。シーンとした中で、私の句「花を餌にして人魚釣るなり」への付句が考えられているのだなと思うと、
なにしろ初めてのことですので感動的な思いに満たされたものです。その瞬間の記
憶は、いまでもはっきりと残っています。私にしてみればこの句にいったいどんな
句がつくのか、また付き得るのかは見当もつかなかったというのが、その時の実情
でした。というより、そもそも、「付ける」ということがどんな行為であるかとい
うことはまったくわかっていなかったのです。
 嶋田さんから「さあ、付きましたよ」と見せられたのが、次の川野涼奏さんの句
だったのです。私は、実に意外な気がして、その鮮やかさに、本当に驚いてしまい
ました。

   花を餌にして人魚釣るなり      真文
  春うらら航空母艦坐礁する       涼奏

 こちらでは花を餌にして人魚を釣っている、ふと視線を移すと、巨大な航空母艦
が坐礁している。空には飛行機。その機影に海中では人魚が泳ぐ。そして、それら
すべてをひっくるめて「春うらら」である。季語が実に活きて使われている。どう
考えても自分には出てこない発想だったので、涼奏さんに「すごいですね。驚きま
した」というと、涼奏さんは「いや、まあ仕方がない」とそれほどのものではない
という調子の返答で、それには二度またビックリ。
 涼奏さん御自身はこの付け句を御自文の優れた付け句のなかには入れておられな
いかもしれませんが、私は優れた付け句としてまずこの付け合いを挙げたいとおも
います。「なるほど付けるってこういうことなのか。連句ってなかなか面白いなあ」と、連句初心者に、思わせたからでであって、連句初心者に対して誰もそれ以上の
ことができる筈はありません。
 良い付け、悪い付けというものが仮にあるとしても、同じ一つの尺度で良い付け
悪い付けを計るのはそもそも無理があるのではないか。良い付けというものは、そ
もそも一回性のできごとであり、その日、その場で、それこそ一回ごとに良い付け
の基準は作り直される必要があるのではないかと思います。優れた付け句を報告し、それを素材に議論する場合に、「極私的・現代連句の付け論」という形でやってい
くのが、ふさわしいのではないかと私が考える理由もそこにあります。


第四章 文学部ピタリ助教授講演会

 本日の講演テーマ「連句ルネッサンス計画」

 司会者「それでは御紹介させていただきます。ダンボール大学文学部ピタリ助教
授です。先生は演劇哲学の御専攻で、一九六二年三月十三日ハンガリーのブタペス
トにお生れの、今年三八才。お母さまは日本人と承っております。お父上は皆様
よく御存知の高名な日本研究家ピタリ・ヤー氏です。さて、本日は文学における対
話の問題を中心テーマに据え、世界文学の中における現代連句の位置付けをお話い
ただけることになっております。それでは、御紹介が長くなるといけません。皆様、拍手をもってお迎え下さい。ハンガリーの若き天才、ダンボール大学文学部演劇哲
学科、ピタリ助教授です」(盛大な拍手)

 (講演はハンガリー語で行われ、ワンセンテンス毎に日本語に通訳された。括弧
の中の注は、文脈の理解に必要と思われる語句を訳者が補ったものである)

 『 ピ タ リ 助 教 授 の 講 演 』

 日本の皆様、こんにちは。
 どんな難しい問題も、私が話せば、みんな、なるほどなあ、ああそういうことか
と納得する。アナタタチノ、シリタイコトヲ、ピタリト、イイアテル(注‥この部
分をピタリ助教授は日本語で話し、会場からは拍手がおきた)。ワタシガ、ウワサ
ノ、ピタリ、デス。(笑、そして拍手)
 本日の講演の主題に入る前に、私の専攻している演劇哲学という学問について、
少し話させて下さい。演劇については、いろいろな見方ができますが、演劇哲学の
立場からは、それを、人間の対話している姿ととらえます。対話といっても、ここ
では、広い意味で使っているのに、注意して下さい。喧嘩でも、愛の会話でも、赤
ちゃんがお母さんにパプパプと言っていても、もちろん議論していても、すべてそ
れらを人間の対話している姿ととらえます。もちろん、このような意味での対話は、人間が毎日やっていることです。この人間が毎日やっている対話を、演劇は、意味
のあると思われる観点から編集し、構成し、置き換えて一つの芸術作品に仕立てて
いくのです。もちろん、演劇には、傑作もあれば、駄作もあります。演劇を、深く
研究し、そこから、様々な発見をおこなっていくのが、まず、演劇哲学という学問
がやっていることです。でも、それならば(注‥演劇哲学という学問が演劇を単に
深く研究することだけならば)、演劇哲学は、演劇学と、何の違いもありません。
では、演劇哲学は、演劇学と、どこが違うか。ここで皆さんは、演劇形式、すなわ
ち対話の形式で表現された哲学があることを、思い出して頂かねばなりません。そ
して、対話の形式で表現された哲学は、いろいろとある哲学の内の単に一つの種類
であるというものではなくて、まさに対話こそが哲学そのものなのだということも、あわせて分かっていただきたいのです。しかし、対話そのものである哲学について
の詳しい話は、今日は省略します。
 この二つの種類の極めて重要な対話形式、すなわち、演劇と哲学、この両者の差
異と同一性、それらを研究し、いろいろと発見されたことについての目録をつくっ
たりするのが演劇哲学である。ひとまず皆様には、そのように御了解していただけ
るならば、その理解は、必ずしも、大きく間違ってはいません。演劇哲学について
は、まず、これだけのことをを申し述べておきます。
 象徴的に述べるならば、演劇哲学とは、シェイクスピアとプラトンが対話してい
る光景を思い浮かべる学問である、といっていいいかもしれません。しかし、どう
か、早とちりしないで下さい。シェイクスピアとプラトンの対話は、まったく成立
しないかもしれないのです。ごく慎ましくいうならば、シェイクスピアとプラトン
の対話は、果たして成り立つのかどうか。その結論を出すためには、あらかじめ、
何が分かっていなければならないのか、その条件(注‥シェイクスピアとプラトン
の対話が成り立つかどうかの結論を出すための条件)を、一生懸命になって調べる、そういう極めて地味な学問が演劇哲学であると、いってもいいかも知れません。
 人間とは対話する動物です。対話する動物である人間にとって、演劇哲学が、そ
の人間自身に対して、いったいいかなる役割を果たし、いかなる意義を持っている
のか、またこの学問によって発見された事柄が、いかなる奥行きと深さを持ったも
のであるか、そういうことに関しましては、たいへん残念ですが、今日は時間がな
いので話す訳には参りません。私の話を聞いて、もし興味を持った観客の方がいら
っしゃいましたなら、ハンガリー語をマスターして、どうぞブタペストまでいらっ
しゃい。あなたは、いやというほど、私の口から演劇哲学の話を聞くことができる
でしょう。私は、そうなったら(注‥ハンガリー語をマスターしてブタペストまで
演劇哲学の話を聞きに来たら)、二度ともうあなたを放さないでしょう。前置きが
長くなりました。私の(注‥専攻している学問であるところの)演劇哲学の話に関
しては、これで終わりです。では、本題に入りましょう。
 連句は対話芸術であり、特に詩的な対話を目指すものです。文学における対話性
をめぐって、世界文学の中に於ける連句芸術の位置付けをし、さらに「連句ルネッ
サンス計画」についても、これからみなさまと一緒に考えてまいることに致しまし
ょう。


第五章 突然ですが臨時ニュースです

 臨時ニュースを申し上げます。
 かねてより臣下を二分して御乱闘中のガギグ屁以下とゲゴ非田蚊が、本日、くた
びれ果てて一日の御休憩を御宣告なさいました。国民はこの悲しい知らせに、一時
も早きお二人の御体力の御回復と、新たなる御乱闘の御再開を待ち望んでおります。 それでは、告民と被告民の、お二人を称える声をお聞き下さい。
告民 「ガギグよ、あなたは屁以下だ。何度もいうぞ、屁以下だ」
被告民「ゲゴよ、おまえは非田蚊だ。非田にブンブン、非田蚊だ」
 こちら、地底放送局。
 アナウンス担当、ケコがお伝えしました。

 臨時ニュースが続いております。
 かねてより後光祭チューのパピプ電化と麗しき御礼状ぺポさまが、本日、娯婚約
を発表なさいました。それでは、ただいまより、パピプ電化とぺポさまの「れぎお
ん」の悟友人へ向けての、語挨拶をお聞き下さい。
パピプ電化「パピプ!」
ペポさま 「ペポ! 」
 こちら、火星放送局。
 アナウンス担当、バビブがお伝えしました。


第六章 文学部ピタリ助教授よりのラスト・メッセージ

 ワタシタチノハンガリーハ、トテモチイサイクニデス。マワリノクニカラ、イツ
モイジメラレテキマシタ。ワタシタチハ、ヘイキンシテ一〇〇ネンニ一カイ、ハン
ランヲ、オコシマシタ。ソシテ、ソノケッカハ、ゼンブマケマシタ。ソンナワタシ
タチニモ、ホコリハアリマス。ソレハ、タトエドンナギャッキョウニアッテモ、ワ
タシタチガ、ケッシテハンガリーゴヲワスレナカットコトデス。ウツクシイハンガ
リーゴヲ、ゼッタイニステマセンデシタ。ワタシタチハ、ヨーロッパノナカニスム、アジアケイノミンゾクデス。タイカイニタダヨウシマノヨウニ、ワタシタチノクニ
ハ、ヨーロッパノナカニ、ソンザイシテイルノデス。ハンガリージンハ、ニホンジ
ンヲ、トテモソンケイシテイマス。ドウゾヨロシクオネガイイタシマス。
 エッ? レンクルネッサンスケイカクハ、ドウナッタトオタズネデスカ。ソレハ、アナタガタガ、オタテニナル、ケイカクダッタノデスヨ。レンクルネッサンスケイ
カクトハ、ドンナケイカクデアリ、ハタシテダレガ、ジッコウスルノデショウ。ソ
ノコタエハ、カゼニフカレテイルバカリ……。ベリー・サンクス、フロム、ブタペ
スト。ソレデハ、マサフミサン、ハナノクヲドウゾ。

         僕だけの若狭にありて花を浴び    真文

                              『連句ルネッサンス計画』(終)