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【霊告月記】第五十回  君は絶世の美女を見たか?

2020年01月01日 10時00分00秒 | 霊告月記46~50

【霊告月記】第五十回 君は絶世の美女を見たか?

  劇作家:唐十郎  流山児★事務所の「新スター」:山丸莉菜 
             撮影:横田敦史

★序幕★ 君は絶世の美女を見たか?

:君は絶世の美女を見たか?
:絶世の美女を見たかって? 美女なら見たことあるけど絶世の美女はまだないなあ。上の写真はなんですか。絶世の美女となんか関係あるの?
我:関係おおありです。玄宗皇帝と楊貴妃の2ショットです。拡大してしらべてごらん。写真を右クリックすると拡大できます。
汝:玄宗皇帝と楊貴妃か。妖しい物言いだね。なるほど、そう言われてみればそのように見えなくもない。いつもながら君のレトリックには感心するよ。

我:レトリックなんかじゃない。真言ですよ。幻想肯定と陽気碑。ところで「やわはだの熱きこころも知らずして悲しからずや道を説く君」と云う歌があるよね。
汝:与謝野晶子の歌だね。知っている。僕はね「道」はまだ知らないけれど「やわはだの熱きこころ」なら知っているよ。普通の男でも女性を愛すればやわはだの熱きこころは知ることができるんじゃないかな。よほどの男尊女卑の信条の持ち主でなければね。そう思うよ。
我:なるほど。君は美女を見たことがある。そして、道はまだ知らないがやわはだの熱き心は知っている。ではもう一度聞く。君は絶世の美女を見たか?
汝:ない。絶世の美女はまだない。絶世の美女はどこにいるのだ? 知っているなら教えてほしい。
我:分かった。教えよう。以下の文章を読みたまえ。さすれば君は絶世の美女に出会う秘訣を会得できるだろう。


★第一幕★ 『少女都市からの呼び声』劇評
     

日本劇団協議会主催新進演劇人育成公演 『少女都市からの呼び声』@Space早稲田 2019年12月6日(金)~18日(水)  唐十郎:作、小林七緒:演出、流山児祥:プロデューサー


私はこの公演を12月12日に観ました。アフタートークがある日だったので12日に予約をかけました。

唐作品はいままで本家状況劇場以外にも何作品も観ていますが、今回の上演は唐十郎の劇世界の真の奥底を覗かせてくれるような特別の舞台だと思いました。唐十郎の戯曲は既に古典になったとまで感じた。なぜそう感じたのか簡単に説明してみます。

唐作品は古典になったという言い方をしましたが、古典になったという意味は、古くなったということではなくてまったく逆です。ギリシャ悲劇やシェイクスピアがそうであるように、新解釈・新演出によってたえず刷新され新しい劇として再生する。そういう意味合いの演劇的潜勢力を持った作品として唐作品が確認された。これは「事件」として見ていい事態ではないかと思います。

もう一つ発見したことがあります。それは何かと言いますと状況劇場では女優が育たないという評価があったと思います。それは仕方がない事情があって、李礼仙という圧倒的な存在感を持つ女優がいて、その女優と張り合うことによって男優は育った。主演女優は一人しかいず、一人だけいれば充分だった。新進女優の育つ余地は狭かった。

しかし唐十郎は自身の劇団の戯曲を書くだけではなく、外部の劇団にも戯曲を提供しています。その場合、主演女優は唐十郎の劇団の外部から選ばれることになる。

話が長くなりそうなので結論を急ぎます。私は今回の上演を観て主演女優の山丸莉菜さんの演技に圧倒的な感銘を受けました。アフタートークでも大久保鷹さんは山丸莉菜さんの演技を絶賛されていました。アフタートークの時に観察したうえで言うのですが、山丸莉菜さんは相当の美女です。ところが役を演じている時の彼女は、文字通り掛け値なしの「絶世の美女」でした。

唐戯曲とは実は「絶世の美女」が潜むユートピアである。唐作品は女優が育たないどころではない。女優が絶世の美女として君臨できるのが唐作品であるということを証明してみせた。そういう意味で今回の舞台は「事件」であった。そういう感想を抱きました。

簡単ですが感想を述べさせて頂きました。今後続々と唐作品がいろいろな劇団によって上演されることを期待しています。


★第二幕★ 『少女都市からの呼び声』劇評:舞台裏

『少女都市からの呼び声』劇評が、この劇のプロデューサー流山児祥氏のフェイスブックに<これも素敵な「劇評」です。「新解釈・新演出によってたえず刷新され新しい劇として再生される古典となった唐演劇」BY 川端秀夫>とのコメント付きで転載されています。そこで更に続きを書きました。

《流山児さま、劇評の転載ありがとうございました。私の拙い劇評がおかげさまで多くの方に読んでもらえたようでうれしいかぎりです。

マルクスの「経済学批判要綱 序説」を再読していましたら、次のような一節にぶつかりまして、その瞬間インスピレーションが湧いて、「そうだ、唐十郎作品の再演について何か書いてみよう」と思いつきました。革命家マルクスの書の再読と演劇の革命家唐十郎の作品の再演。この「再読」と「再演」の暗合が私が得たインスピレーションのきっかけとしてありました。

私がぶつかったマルクスの一節とは以下の箇所です。

「芸術作品は――他のどんな生産物も同様だが――、芸術を理解して審美鑑賞する能力をもつ公衆をつくりだす」。
(カール・マルクス「経済学批判要綱 序説」『資本論草稿集①』大月書店38P)

マルクスはここで生産と消費の関係について論じているのですが、その関係を芸術の生産(例えば演劇の上演)とその消費(演劇の鑑賞)に置き換えて説明しています。優れた演劇作品の上演が優れた演劇鑑賞者をつくりだす。逆も然り。優れた芸術を求める鑑賞者がいて初めて優れた芸術を生産しようと望む演劇人を作り出す。マルクスが言っているのは結局そういうことなのだろうと思います。

流山児事務所の今後のますますの活躍と発展を祈っています。川端拝 》

この感想に対して流山児氏からファエスブック上で「有難うございます。これからもよろしく」とのコメントを頂戴した。私の劇評は流山児氏のブログにも転載されている。
☛ http://ryuzanji.stablo.jp/article/472728384.html
なお流山児★事務所では2021年2月に同じキャスト・スタッフで唐作品に挑戦とのことである。期待して待っていよう。早く来い来い、来年の2月♫。



  ★劇評への返歌★

  うつむきて化粧をなほすたをやめの横顔をそとぬすむ幕あひ  九鬼周造


              ★ ★ ★

】 九鬼周造の霊告 【 私は端唄や小唄を聞くと全人格を根柢から震撼するとでもいうような迫力を感じることが多い。自分に属して価値あるように思われていたあれだのこれだのを悉(ことごと)く失ってもいささかも惜しくないという気持になる。


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【霊告月記】第四十九回 『悪の華』&『源氏物語』ダブル批評

2019年12月01日 10時00分00秒 | 霊告月記46~50

【霊告月記】第四十九回  『悪の華』&『源氏物語』ダブル批評

】霊告【 映画「 LORO 欲望のイタリア」:ヴェロニカへの愛を証明すべくベルルスコーニが彼女に思い出の歌「Domenica Bestiale」をサプライズする場面。ファビオ・コンカート本人が登場して歌う。

                           
◇ボードレール『悪の華』批評      
                                          Charles Baudelaire, 1821 – 1867


『悪の華』中の93番目の詩「A UNE PASSATE」を、福永武彦は「通り過ぎた女」と訳し、安藤元雄は「通りすがりの女(ひと)に」と訳している。

A UNE PASSATE」は四連から成っている。その第三連目の訳をまず双方から引用しておく。

1)安藤元雄訳「通りすがりの女(ひと)に」第四連

  一瞬の稲妻……あとは闇!
  ――消え去った美しい人
  そのまなざしが私をいきなり生き返らせたひとよ  
  君にはもはや永遠の中でしか会えないのか?

2)福永武彦訳「通り過ぎた女」第四連

  稲妻のように……そして夜!
  ――束(つか)の間の美しい人よ、  
  その眼差(まなざし)は一瞬に僕を生へと呼び戻したのに、  
  もはや永遠の中でしか、お前に会うことは出来ないのか?


詩は複雑微妙な感情を詳しく長く説明するのではなく短く数語で圧縮するところにその妙味がある。 その観点からは、一行目の訳は安藤の訳に軍配が上がるだろう。 「一瞬の稲妻……あとは闇!」。翻訳されたボードレールの日本語としてこれ以上すばらしい訳は想像することすらできない。この一行でボードレールの全詩を象徴していると言っていいほどだ。芥川龍之介が「人生は一行のボードレールに如かない」と述べた。その一行は芥川の研究者にも不詳のようだが、「これだ! これがその一行だ」ともし誰かが述べたとしても、私はその主張に反対はしないだろう。 ただ原詩が圧縮された表現であり、それを直訳すると原詩に含まれたニュアンスがうまく伝わらないことがある。その時、些少の説明的要素を加えて訳することは許される。許されるというより、当の詩人に対する敬意という観点からすれば必須の義務とも言えよう。福永武彦の第二行から第三行へかけての日本語訳は分かりやすい。しかも美しい。日本語の詩として安藤の訳詩を上回っていると言うことは許されるだろう。

安藤元雄と福永武彦はボードレールの詩を外国語(=この場合は日本語)に翻訳するするという苦行を実践した。日本人に日本語訳というかたちでボードレールの価値を伝えた。双方で補い合うことによって彼ら(安藤と福永)は「翻訳者の使命」を立派に果たした。読み比べてみて初めて見えてくるボードレールの偉大さ。ボードレールの詩作品を翻訳する試みは、ベンヤミン云うところの「純粋言語」に到達しようとする希求に添うことができるのだ。そのように私は考えている。

※この「悪の華」批評は次の「源氏物語」批評と共に、『翻訳されたベンヤミンについて』(宇波彰現代哲学研究所2019年10月21日掲載) の補論です。 ☛ 翻訳されたベンヤミンについて

◇紫式部『源氏物語』批評

本居宣長は源氏物語の本質を『紫文要領』の中において次のように指摘している。

「この物語の外に歌道なく、この歌道の外に物語なし。歌道とこの物語とは、まったくその趣き同じことなり」(本居宣長『紫文要領』)

源氏物語は単に物語というだけでない。歌道の書でもあると宣長は述べる。単に歌を読むだけではわからないことが、源氏物語を読むと分かってくる。上古の人がいかなる気持ちで歌を作ったか、その作りざま、歌を詠む際の彼らの心ばえが手に取るように分かってくるのだと宣長は指摘する。この意味において源氏物語は歌道の書なのである。

源氏物語の中で私が最も愛するのは篝火(かがりび)の巻であった。源氏全五十四帖の中でおそらく最も短い巻だが、ここには歌物語としてのエッセンスが縮凝されているやに思えて私は好きなのである。篝火が燃えている情景の中で、光源氏が玉鬘に一つの歌を贈り、玉鬘の返歌がなされる。「篝火」の巻からその部分を原文と現代訳で引証しておく。

★渋谷栄一による現代語訳と紫式部の原文★

篝火とともに立ち上る恋の煙は永遠に消えることのないわたしの思いなのです。いつまで待てとおっしゃるのですか。くすぶる火ではないが、苦しい思いでいるのです」と申し上げなさる。女君は、「奇妙な仲だわ」とお思いになると、「果てしない空に消して下さいませ。篝火とともに立ち上る煙とおっしゃるならば。人が変だと思うことでございますわ」とお困りになるので、「さあて」と言って、お出になると、東の対の方に美しい笛の音が、箏と合奏していた。

篝火にたちそふ恋の煙こそ世には絶えせぬ炎なりけれ。いつまでとかや。ふすぶるならでも、苦しき下燃えなりけり」と聞こえたまふ。女君、「あやしのありさまや」と思すに、「行方なき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば。人のあやしと思ひはべらむこと」とわびたまへば、「くはや」とて、出でたまふに、東の対の方に、おもしろき笛の音、箏に吹きあはせたり。

結論。たしかに源氏物語の巻々は、歌の交換の場面において白熱する。源氏物語は単に長編小説というだけではない。言葉の美しさをその極限まで究めた詩的対話の書でもある。源氏物語はいまなお我々にとって〈みやび〉の源泉なのである。

★Fabio Concato - DOMENICA BESTIALE


【霊告月記】第四十八回  本格的な橋川文三の時代がやってくる!

2019年11月01日 10時00分00秒 | 霊告月記46~50

【霊告月記】第四十八回    本格的な橋川文三の時代がやって来る!

深淵を凝視する人   橋川文三( 1922-1983


               

 「子安宣邦先生の勉強会で知り合った元橋川ゼミのKさんに紹介してもらい、橋川文三研究の第一人者、宮嶋繁明氏とお会いし、決定的な評伝『橋川文三 日本浪曼派の精神』(弦書房)の続きが掲載された同人誌「隣人」28号~32号を頂く。早速読む。手を入れて、単行本として近刊予定とのこと。」

 「元橋川ゼミのKさん」~それは私です(笑)。
べつに匿名を希望しているというわけではないのでここに公開致します。 宮嶋繁明さんと私はじつは橋川文三ゼミの同期生でして、杉田俊介さんとは上に書かれている通り子安宣邦氏の市民講座に来られたので知り合いました。 橋川文三を究めんと精魂込めたお仕事をなさっているお二方とたまたま知り合いであるという利点を生かそうと思いまして、さる10月10日(木曜日)にお二人を拙宅にお招きしたのでした。
その際に宮嶋さんの橋川文三伝記の同人誌連載が完結したことを私も初めて知りました。この評伝の完成・刊行によって橋川文三研究は分水嶺を越えることでしょう。 そして更に杉田さんの文芸誌『すばる』における橋川文三論の連載があります。杉田さんの連載も完成の暁には書物になって公刊されるであろうことが期待されます。
やがて本格的な橋川文三の時代がやって来る。そう私は信じております。真打登場ですね。その時代を呼び寄せる決定的な鍵を握っている人こそ、我らが宮嶋繁明さんと杉田俊介さんのお二人に他なりません。
この両者を引き合わせた功徳によって私も何か余禄がありそうな気がしていますが、今のところ何もなし。これは煩悩ですな。いかん、いかん(笑)。

☆★☆★☆ お知らせ ☆★☆★☆

「翻訳されたベンヤミンについて」という論考によって、私(ダンボールこと川端秀夫)は「宇波彰現代哲学研究所」デビューを果たしました。内容については研究所該当頁にてご確認下さい。
     翻訳されたベンヤミンについて


【霊告月記】第四十七回  「〈近代の超克〉新論」に期待する

2019年10月01日 10時00分00秒 | 霊告月記46~50

【霊告月記】第四十七回  「〈近代の超克〉新論」に期待する

 ◆「廣松渉没後25年」記念研究会◆


        廣松 渉  1933ー1994

   日時:10月5日(土)13:00~17:00   開場:12:30
  場所:明治大学駿河台校舎・研究棟第9会議室(2階) 
  テーマ:「〈近代の超克〉新論」
  講師:小林敏明(ライプチッヒ大学名誉教授)

  司会:石井知章(明治大学教授)  
  参考文献:廣松渉著『「近代の超克」論』(講談社学術文庫)
     小林敏明著『廣松渉-近代の超克』(講談社学術文庫)  
  資料代(参加費):500円 予約不要 学生歓迎
  主催:現代史研究会/共催:『情況出版』090-1771-4601(中澤)

※解説※  川端秀夫(ちきゅう座会員)

この夏合澤清氏(現代史研究会)は二カ月半の長期ドイツ旅行をされ、その際にライプチッヒ大学名誉教授の小林敏明氏と面談。廣松渉歿後25周年の記念講演を依頼されました。小林氏は快諾。このような経緯によって今回のイベントが開催されることとなりました。
小林敏明氏は廣松渉名古屋大学時代の直弟子で、廣松渉論の著書もあり、ライプチッヒ大学では日本思想史の講義もなさっていたいわば国際的な知識人です。廣松渉歿後25周年の記念講演としてうってつけの人物と考えます。
広く各界の知名人がこの講演会に参集されると聞いております。一人でも多くの方がこの貴重なイベントにこぞって参加されることを願っています。予約は不要です。当日会場にお越し下さい。

☆★☆★☆ お知らせ ☆★☆★☆

「〈近代の超克〉新論」に期待する」という論考によって、私(ダンボールこと川端秀夫)はちきゅう座デビューを果たしました。内容についてはちきゅう座の該当ページにてご確認下さい。

  ⇒ 「ちきゅう座:〈近代の超克〉新論」に期待する」

】  霊告  【  東北アジアが歴史の主役に! 2019年10月1日。香港の新しい1日がアジアの新時代を創る礎(いしずえ)となるであろう。  廣松 渉


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【霊告月記】第四十六回 欅坂46「不協和音」新海誠「天気の子」ダブル批評

2019年09月01日 10時00分00秒 | 霊告月記46~50

【霊告月記】第四十六回 欅坂46「不協和音」新海誠「天気の子」ダブル批評
      

   ★☆★☆『不協和音』批評★☆★☆

★けやき坂46の振付師:TAKAHIRO:7年前のダンス・パフォーマンス



欅坂46の「不協和音」の振付はTAKAHIROこと上野隆博(うえの たかひろ)が担当している。上野による「不協和音」の振付はまったく独創的なもので、ある意味グロテスクと言っていいほど常識からかけ離れている。優美さを完全に投げ捨てている。振付それ自体が「不協和音」を前面に押し出している。上野でなければアイドル・グループにこういう振付を授け得る人はいなかったかもしれない。

ウィキペディアの上野隆博評価によれば <その活動は世界からも高く評価され、ニューズウィーク「世界が尊敬する日本人100」に選出している。マドンナからは「輝かしいダンサーであり、とても才能のある素晴らしい振付家」と評価を受ける。ニューヨーク・タイムズ紙はTAKAHIROのことを「驚愕の表現家」、アポロ・シアターは「若き天才」と評する> とのことである。

しかし、趣味判断、つまり好き嫌いや美醜の価値判断は、人によって大きく違うのが常態であって、たとえば上野による「不協和音」の振付を美しいと見るか醜悪と見るかは人によって違うかもしれない。この振付をグロテスクと見る見方もありうるのである。感受性というのは知識ではない。身体に埋め込まれた情念の深層からの反応である。趣味判断が議論で収束することはない。それは双方のどちらかが感受性の改変を伴って初めて議論の収束が可能なモンダイだからだ。

美醜の判断だけでなく、食べ物の好みでも同じです。辛い物が好きで甘いものが苦手な人に超甘のスイーツを薦めて、「この美味しさが分からないのは変!」と決めつけられては、辛党の人は困ってしまうでしょう。

古代ギリシアの哲学者エンペドクレスはこう述べています。<ひとがその性質をさまざまに変えるのに応じて、ちょうどそれだけ彼らにとって、考えがさまざまに変わるということもまた そのたびごとに起こるのである>。要はそういうことです。

】 霊告 【    我らみな実存的ロマン主義に徹すべし!    Keyakizaka46
         

         

      特別出演:橋川文三  要はそういうことです


      ★☆★☆『天気の子』批評★☆★☆        

新海誠監督の『天気の子』を私はお盆の翌日(8/16)に見ました。たいへんに素晴らしい作品であったと感じました。この映画は思春期の少年と少女の出会いの物語です。天気を左右する力を得た少女に家出少年が東京で出会うというストーリーです。文学の原点である「ボーイ・ミーツ・ガール」を繊細に反復しています。

「我は海の子」という歌がありますが、海の子を天気の子と読み替えたところに新海誠のオリジナリティがありそう。映画館は海ではなく山でもなく都会のど真ん中にある。映画館を出れば真夏の太陽がギラギラと光っている。「最高だ!」と叫ぶ少年と少女たち。光輝く特別な一日をこの映画は届けている。これがいい映画でなくて何がいい映画なんでしょう。最高ですよ。夏の太陽。天気の子。

この映画の理想的な観客は、夏休みに入ったばかりの小学生高学年・中学生・高校生・大学低学年、といったところでしょう。もっと絞れば主人公の少年少女と同じ16才から15才あたりの心性を持つアドレッセンス中葉の男女に捧げる物語といってよい。

16才から15才の心性に戻ってこの作品を享受できるかどうか。それが肝心かなめの問題=課題であって、大人であるわれわれがこの作品とその理想的な観客層に心を通わせることができるかどうか。深層に潜む親和力を回復できるのか。相当に高いハードルが設定されていると思った。それが私のこの映画の捉え方であり基本的な視座です。

もし映画を純粋な贈与として捉え、その贈与を届けるべき対象に過たず届けたかといえば、その贈与対象は的を得ていた。贈与された中身もほぼ完璧と言っていいほどのものに仕上がっていると私は思います。日本のアニメはここまで進化した。作家新海誠はこの作品で世界を一歩リードした。それは反面として、世界をリードできるほどに日本の少年少女は観客として豊かな心性を獲得しているということも言えるかと思います。今の新海誠の中にある肯定的な要素は何か。それをそしてそれだけを私は取り出して評価してみました。

今を遡ること約二千五百年のその昔、エンペドクレスはこんな予言を行なっていました。聴いてみましょう、エンペドクレスは何と語ったのか?

 大地に襲いきたって その息吹によって田畑を荒らすところの
 つかれを知らぬ風のちからを 汝はしずめるであろう
 そしてもしそれをのぞむならば 汝は風の息吹を仕返しに送り返すであろう
 汝は人間たちのために くらい長雨を変じて
 時期に適した旱魃(ひでり)となし さらにまた夏の旱魃を変じては
 天空より降り落ちて樹々をはぐくむ水の流れとなすであろう
 汝はハデスの国[冥府]から 亡き人の力を連れ戻すであろう
 (藤沢令夫訳・エンペドクレス「自然について」『ギリシア思想家集』筑摩書房刊) 

さて皆さん、一緒に世界の秘密を探究しましょう。世界の秘密、その答のカギを私なりに言うならば<明日は明日の風が吹く>です。今日の風ではなく明日の風。どんな風を明日吹かせるべきか、それを我々(=天気の子)が決める時代がやがてやってくる。要はそういうことです。


】霊告【  私はこれまで かって一度は少年であり 少女であった、薮であり 鳥であり 海に浮び出る物言わぬ魚であった・・・  エンペドクレス

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