№38 【断トツに面白いダンスポ】
■エロスの革命か、革命のエロスか?・・・新旧の革命家超絶対談!!!
(ダンスポ新聞社 2013-07-11 00:14:03 )
エロスの革命か、革命のエロスか?
このような論題を掲げ、新旧の革命家がWEB上で論戦を行った。
言葉は言葉を呼び、言霊が舞い飛ぶ、本格的にしてシュール、また、技巧的にして誠実。これぞ本物の革命家同士の対談と評判になり、ネット界はこの話題で持ちきりとなり騒然としている。
対談を行ったのは70年代から執筆活動を続け左翼のみならず右翼にも大きな影響力を持つ古参の革命家千坂恭二氏と、つい最近アジア主義の復活を掲げて論壇に彗星のごとく登場したダンボール氏(本名:川端秀夫=長谷川如是閑賞作家)。
ダンスポ編集部では両者の同意を得て、ここに過日行われた論戦の記録を全面公開する。「論戦を振りかえって」という、後日の感想文も、両者にご寄稿をお願いした。原稿到着次第、掲載をさせて頂く段取りを組んでいる。論戦の中味について編集部があれこれ感想や評価を述べることは差し引かえさせて頂きたいが、ただ一言だけ。
ここには、かっての埴谷・吉本論争に見られた薄っぺらさはまったく存しない。存在論の奥義が語られているからだ。この対談によって開示された存在論の位相を無視して今後いかなる思想的創造も望めないであろう。控えめに言ってもこれだけのことは述べておいて差し支えないであろうと編集部は考えている。
以下、本文です。クリックし、音楽を聞きながら両者の対談をお読み下さい。(文責;編集部)
【反撃のシェーンベルク】エロスの革命か、革命のエロスか?音楽による一つの回答。
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≪対談≫ エロスの革命か、革命のエロスか?
千坂恭二(革命家) × ダンボール(アジア主義者)
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千坂恭二:それにしても、昼間からシェーンベルクの『浄夜』などを聴いていると、日常のことから諸般の生の雑事など(生など雑事の集合体だが)、何もかも、どうでもよくなってくる。『浄夜』は、確か、森の中で伴侶の浮気の現場を目撃し、精神が狂っていく月夜の夜の発狂というテーマがある。
ダンボール:シェーンベルクですか。私は、昼間からジュース=ジュースを聴いています。何もかもどんどんよくなってくるぞという気分です。いったいどうして貴兄と私の差異はかくも大きくなってきたんでしょうね。ちなみに私は貴兄の昔話がさっぱり面白くありません。
ほぼ同世代。感性がちょっと違うだけでその思想は離れてしまう。理性なんぞ感性の幇間に過ぎないということでしょうね、多分。ジュース=ジュースはこちらでリンクを掛けてあります
【反撃のJuice=Juice】 裸の裸の裸のKISS!アジア主義者と裸の裸の裸のKISS!
千坂恭二:それは貴方と私のユーモアの感覚の違いにあるのかもしれません。
ダンボール:なるほど、そうかもしれませんね。それにしても、いつも私は、あなたのメッセージに、慇懃無礼に、ほとんど全否定のニュアンスに近い形で、コメントを付けていますのに(これは意識的にやっています。内心ではあなたを尊敬しています。秘密にしておいてください)、こんな鮮やかなレスが届く。脱帽!
それにしても、私からユーモアのセンスを取り除いたら、あとにはなんも残らない気がしてきた。これでいいんでしょうか>人生相談係千坂様。それではダメですと言われても、他の特技の持ち合わせは、何もないんですけど。
・・・困った(´△`)
千坂恭二:存在には根拠が無いのですから、それでも存在するにはユーモアしかないのではないでしょうか。ユーモアとは現代の存在論ではありませんか。
ダンボール:「存在には根拠が無い。それでも存在するにはユーモアしかない。ユーモアとは現代の存在論ではないか」。この規定により、ダンボールは非存在の暗闇から引き出され存在の明るみへと浮上することができました。千坂導師にはかたじけなくもグルとしてシャクティパッドを不肖ダンボールにお施し頂きました。
今回の論戦につきましては、ダンボール試練の七番勝負の第六戦目として、その記録を既に某神社に奉納いたしてございます。グルにおかせられましては、いやますますのご活躍、現代有数の論客としてご活躍なされんことを、不肖ダンボールこころから祈っております。
「千坂導師対ダンボール戦」、第六試合としての奉納の経緯については、こちらをご参照願いたく ⇒(略。リンク先、ミクシーのため)
千坂恭二:何がどうなろうと、どうでもいいという存在論的で本質的な物ぐささこそ秘法です。努力などというつまらないことなど一切無視し、事態の方が問題を自己解決するまで、果報は寝て待てば良いのではないでしょうか。
ダンボール:「革命」という領域においては、あるいは千坂さんの仰ることはそうなのかもしれませんが、私は「エロス」を「革命」の上位概念とみなすがゆえに、あなたの戦略はいまだ、女性性の限界をもつものとみなします。
果報は寝て待てば良いのではないでしょうか、とは必ずしも言えません。寝所が、エロスの戦場であることは、その通り。対戦相手がいなければ、寝所は寝所たりえません。対戦相手を「寝所」に引っ張りこむ、あるいは不意を襲って乗り込む。エロスの戦場を拡張するために最大限の努力を払うこと。これが私の革命論の中核です。
千坂恭二:むろん何事も、果報は寝て待ては奥義であり究極であり、その前に種を撒き、水や餌をやる必要はあります。ただ、最後まで能動的である場合、偶然にしかならず必然には到達しえません。エロスの相手は、向こうから来襲してくる外部でなければ、自慰の範疇を越えられないと思います。
ダンボール:奥義であり究極であり、ですね。それなら、同感です。ただ、人事を尽くして天命を待てとどう違うのでしょうか。この場合の「天命」もまた、向こうから襲来するものであり、外部にほかなりません。人事を尽くさずして、手に入れられるものは、棚から落ちてくるボタ餅くらいでは?
千坂恭二:人事を尽くして天命を待てという場合は、人事にウエイトがあり、やるだけのことはやったので後は天命を待とうということですが、ウエイトは天命と言う外部にあり、天命をして天命たらしめるには、人事を尽くさず、天命のみを待つ必要があります。その意味では真の果報は、棚から落ちてくるボタ餅以外にはないと思います。
ダンボール:私は、幼稚園中退(=校舎器具を友人と総破壊しかけて退学処分)レベルの教養しかないので、私にも理解しやすい「人事を尽くして天命を待つ」をクレドに掲げますが、根は怠惰なこの私へのいましめのような言葉です。実態は人事を尽くさずして天命を待っております。「これでいいのだ!(天才バカボン)」
ボタ餅は、「ボタ餅、怖い」と唱えるだけでも、長屋のいたづら好きが、運んでくれてきますが、呪文を唱えるのも、これは「人事を尽くす」の範疇に入りますか? 長屋の革命論議は奥深い。落語の形式で永久革命論が語られていようとは! 江戸は遠くなりにけりですね。・・・・外出します。では、又。
その「ボタ餅」と、この「ボタ餅」は、違いますね。失礼しました。ボタ餅違いでした。絵に描いたボタ餅はバカボンの口に合わない。「ボタ餅が違うのはよくないのだ!(天才バカボン) 」
千坂恭二:私は10代後半から20代そして30代まで、女性には能動的アプローチで、正妻、内妻を含めれば何度かの伴侶を持ち、また恋愛をも重ねましたが、近代的自我の主観性からすれば、能動的アプローチでは駄目なのだと分かり、私なりに竜樹やアウグスティヌスのような開眼に至りました。それが奥義としての、待つことでした。
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◇ 対談を振り返って1 ダンボール ◇
日本政治思想史の研究者であり、三島由紀夫から「社会科学の分野で唯一文体を持った人」とリスペクトされた橋川文三は、自らの世代を「死に損ない」の世代と位置づけ、死に損ないの〈半存在〉という位相から、近代日本の思想史を構築した。
橋川文三は、自らの『きけわだつみのこえ』の精神について、それは「死に損ないの〈半存在〉による、死んだ〈半存在〉の供養」であると述べている(橋川文三「幻視の中の「わだつみ会」) 。「死に損ない」という言葉を尊称と受け取れない戦争世代は「生き残った」ことを恥じることのない人間だ。そんな奴らに私はこう言ってやる。「お前は既に死んでいる」と。ちなみに橋川文三は肉親を広島での被爆で亡くしている。したがって橋川文三にとって、「死に損ない」は、言葉の綾ではなく、事実そのもの、いわば極限の真実であった。
アジア主義の思想は橋川文三に学んだ私が習得した唯一の財産である。至宝と信じている。そんな橋川文三の弟子として私は千坂氏との論戦に応じた。私はよく戦いえたであろうか。分からない。惨敗を喫したような気がするし、堂々と戦い引き分けに持ち込めたような気もする。いずれにせよ私は千坂氏に論戦で勝てなかった。千坂氏は事前に予想していたよりも、ずっと巨きな人だった。包容力のある人だった。戦った後のこれは私の実感である。
◇ 対談を振り返って2 千坂恭二 ◇
(寄稿依頼済み。原稿到着次第更掲載。)
◆新刊◆ 思想としてのファシズム 2015/7/24 千坂 恭二
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■『来たるべきアジア主義』は世界を変えるための書物です。この本は無料で公開します。アジアの新しい歴史の創造を祈念しつつ。
■全体を俯瞰するページ ⇒ 『来たるべきアジア主義』序文&目次