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【橋川文三の文学精神】 十五 橋川文三先生が呼ぶ

2014年06月28日 06時00分00秒 | 橋川文三の文学精神11~15

   【橋川文三の文学精神】  第15回    内容目次@本文リンク

 


    
  十五 橋川文三先生が呼ぶ 

 

 橋川文三の教え子たちが師を語るその語り口にはどれも畏敬の念が満ち溢れていて、そのことはどの卒業年度を取ってみても変わらない。教え子たちは、橋川文三に学問の師だけでなく、在学中には見えなかった人生の師を見出してその発見を綴っているのである。告白するならば、私もまた橋川文三ゼミの末席に連なった者である。ゼミでの対話も大教室での講義も私には忘れがたいものがある。

 橋川文三の日本政治思想史の講義は、開始時刻がわりと朝早かった。同じ講義が第二部でもあったため、朝の講義を聞きそびれた時に私は第二部の講義を聞くことにしていた。夜はこじんまりした小教室で、講義を受ける学生たちもせっせとノートを取ってまじめであり、教室はいつも厳粛な雰囲気が漂っていた。

 橋川文三の日本政治思想史の講義でいちばん感銘を受けたのは、石原莞爾の東亜連盟の思想と運動をテーマに語られた日のものであった。私はこの日の講義は、あまりに面白かったので、朝と夜と二回聞いている。蒋介石の北伐から始まり、混沌とした中国の近代史の歩みの中で東亜連盟の思想が立ち上がる光景が鮮明かつ詳細に語られる。それは思想と現実が交差する真の歴史の実相を描いた名講義であった。

 石原莞爾は東条英機との権力闘争に敗れ予備役に編入される。故郷鶴岡に隠遁を余儀なくされた石原の元に、東条は憲兵を差し向け、監視を続けた。この日の講義は、この憲兵と石原との次のようなエピソードが紹介されて終わった。

 憲兵「閣下。閣下は東条閣下と思想が合わないのでありますか」
 石原「東条と思想が合わないって? そんなことはないよ」
 憲兵「さようでありますか。東条閣下とは思想が合わないと聞いておりましたのですが、どういうことでしょうか」
 石原「東条には思想がない。俺には思想がある。だから合わないということはない」

 ここで教室は大爆笑。名講義の見事な幕切れであった。

 ゼミの講義の中で最も印象深かったのは、司馬遷の『史記』についての話を聞いた時であった。竹内好に個人教授で中国語を学んでおられた先生は、『史記』の全文も原文で読まれていたようである。司馬遷の時代と現代は、中国語に文法的な違いはそれほどないことなどを話の枕にされた。ところで、荊軻による秦の始皇帝暗殺のドラマをクライマックスとするその日の講義は、まずギリシャと中国の歴史叙述のスタイルの違いの話題から始まった。

 ギリシャの歴史叙述は、ヘロドトスの『歴史』でもツキディディスの『戦史』にしても、それぞれペルシャ戦争やペロポンネソス戦争といった〈事件〉を時間を追って語るという叙述のスタイルを取っている。これは基本的に現代の歴史叙述にまで至る方法である。しかし司馬遷の『史記』の叙述のスタイルはギリシャ人の創始したものとは根本的に異なっていた。紀伝体と呼ばれるそのスタイルは、「本紀」でまず王朝の歴史を述べた後に、「世家」の部で諸侯の歴史を語り、最後に「列伝」で個人の伝記を加えている。このようにして王朝の歴史から個人を含む世界全体を記すスタイルのユニークさを語った後、特に「列伝」が素晴らしいのだということを、荊軻の例を以て先生は示されたのであった。

 先生は身振り手振りを交えて荊軻の性格や経歴を語られた。そいてついに荊軻は始皇帝暗殺に出発する。「風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去ってまた還らず」と荊軻が詩を詠む段に至った時、僕らは時空を超えて中国の壮大な世界のその日その時を、まざまざと見るかのような臨場感を味わったのであった。あの日の先生は、始皇帝刺殺を企てる哀しき荊軻の心に感情移入したもう一人のテロリストであった。

 懐かしい記憶を手繰って私なりに橋川文三論をかたちづくってみたこともある。七年前の平成十八年三月の作である。その日から私の橋川文三理解はいささか程も進歩していない。はなはだ残念な事態ではある。しかし私の橋川文三論の原型をなすものでもあるので、いっさい手を加えずそのまま取り出して示しておく。

 
□橋川文三先生が呼ぶ
       
(連句同人誌『れぎおん』2007・春・57号初出)

私は学生時代に橋川文三先生から日本政治思想史という学問を学んだ。橋川ゼミを卒業した十二年ほど後に、私も福沢諭吉と柳田國男を対比した思想史の論文を書いたことがある。

橋川文三は丸山眞男から思想史の方法を学んでいる。丸山眞男は思想史の特徴について次のように語っている。

 「思想史の素材は解釈を通じてのみ我々の認識の対象となりうるが、それが解釈された瞬間、素材の本来の相貌は永遠に失われる。そうしてその代わりに、解釈を通じて史家自身の価値体系が不可抗的に介入してくるのである」(『丸山眞男集』第二巻・二百九頁)

解釈に於いては、まず素材についての全体的な洞察が前提になるが、次には表現の吟味が肝要である。論理的な思考を前提としつつも、最終的には、一字一句に至るまで洗練された表現を獲得できるかどうかが決定的な要素なのである。このような特色を持つ日本政治思想史という学問は、丸山眞男によって創始され、橋川文三によって継承・発展せしめられた。しかしその後、橋川文三の問題意識を正統に受け継いだ人はまだ現れていない。

橋川文三の問題意識を正統に受け継ぐとはどういうことを意味するか。それは日本政治思想史という学問の起源を問うことによって明らかになる。立花隆が『天皇と東大』で明らかにした事実であるが、戦前に於ける学問の自由は天皇機関説事件によって壊滅的打撃を受けた。そのような時代の動きを見据えた上で、東大法学部教授南原繁は、助手の丸山眞男に日本の思想史の研究を指示する。西洋の学問を身に付けるだけでは足りない。西洋の学問も理解した上で、日本のことも分からなければいけない。これは、南原自身の痛切な反省に立っての後輩研究者への忠告であった為、丸山眞男はその指示に全身全霊を込めて応えたのであった。

 橋川文三は丸山眞男の死角を突いた対象を研究した印象があるが、丸山眞男も橋川文三も共にドイツのカール・シュミットの研究を横に見据えつつ、日本の思想史の可能性を極限にまで拡張した。二十世紀は国民国家が二つの陣営に分かれて二度までも世界戦争を繰り広げている。日本政治思想史という学問は、この国民国家の時代を、日本という舞台に即しつつ内在的に理解する可能性を追求した。橋川文三の問題意識を正統に受け継ぐ研究は、国民国家の時代が終わる超越的な視線を獲得するまで続く(はずである)。ホッブズによって創られた近代国民国家の理論を、国民国家終焉の地平から見直し、国家が廃棄される時代の眺望を創りあげることが、日本政治思想史という学問の最終目的ではないか。これは日本人の果たすべき世界史的課題であろう。

 橋川文三が亡くなった翌年、ゼミ卒業生有志が編集した追悼の雑誌が帰省中の実家に送られてきた。追悼雑誌の中の橋川の写真を母が見て、「やさしい顔をした人だ」と評したのを、印象深く記憶している。やさしい人。それは私が二年間親しく膝突き合わせて研究した橋川文三先生の人間像を端的に示す言葉であった。橋川文三はまことソクラテスと吉田松陰のやさしさを併せ持つ人であった。

 それにしても、写真をちらりと見ただけの僅か一秒にも満たぬ短い時間に、どうして母は橋川文三の人となりを見抜くことができたのだろう。一千億の脳細胞がどのように活動してそのような判断が成り立ったのか。人間の洞察力を生み出す脳の働きには、まだまだ解明されぬ深い秘密が隠されているようだ。

      白鳥の胸のランプの消えて月
      橋川文三先生が呼ぶ
          (歌仙「橋川文三先生が呼ぶ」の巻より)

 
 橋川文三は未来社から『歴史と人間』を1983年4月に上梓した後、その年の12月17日に急逝した。『歴史と人間』の「あとがき」には3月24日の日付が記されている。そのあとがきで橋川は「戦中派廃棄」の心理を告白し、最終的な遺言として自身は何を信じるかを語っている。その問いは誰もが自らに突きつけるべき問いであろう。橋川文三の何を信ずるかの答えはこうである。

――それはアジアでもなく、ヨーロッパでもない。いってしまえば宇宙に近いが、要するに地上にさかえる何ものでもない、とある実在である。そうするとそのとある実在をお前は信ずるのか、といわれそうであるが、私は今それを信ずるというしかない。

 『歴史と人間』の「あとがき」はこのように書き始められている。

――私は未来社からカール・シュミット『政治的ロマン主義』の初版本の訳書を昨年出した。すでにもう二十数年の昔のものであるが、それは私が結核をやみ、まさに戦後の最大の危機という時期に翻訳したものである、当時、丸山真男先生からシュミットの初版本を借りていたためであり、それによって「日本浪曼派」批判の考えをかためた記憶がある。その『批判序説』は一九六〇年二月に本になった。今覚えば戦争後凡そ十五年をたどる私の回生の時期にほかならない。

  そしてこの「あとがき」の最後の一文はこのように書き納められている。

――要するに、私の生き方は「希望」と「絶望」の中間にただよっている状態なのである。

 この最後の言葉の中に橋川文三の生は永遠に宙吊りになっていつも輝いて煌めいている。橋川文三先生は未熟な僕たち彼女たちを見放さず現に今も呼んでいるのである。橋川文三のいう「とある実在」、それは存在でもなく非存在でもなく「半存在」である。自らを「半存在」と化すとき、人は誰でも橋川文三のいう「とある実在」に接近することが可能になる。しかし自らを半存在と化すとはどういうことか。その方法・手段はいかに? 橋川文三の叡智のすべては橋川文三著作集全十巻の中に封印されている。その著作はあたかもスフィンクスの謎のようにそこにうずくまっている。オイディプスが近づいてその謎を解く日をスフィンクスは永遠に待っているのだ。

 ゼミや大学院で学んだ生徒たちの橋川先生に対する畏敬の念は一種のプラトニック・ラブを思わせるに近いものがある。これは男生徒でも女生徒でも性の違いを超えて変わらない。プラトン的な愛とはそもそも本質的には何か。そのことを語ったのがプラトンの『饗宴』という作品である。『饗宴』の最後で酩酊状態のアルキビアデスが饗宴の中に乱入しソクラテス賛美の演説を繰り広げる。その一節を引用する。

――一度その言葉の開かれるのを目にし、その内部に踏み入った者なら、まず第一に、他に言葉はたくさんあるだろうが、ただただ彼の言論だけが、内に知性をもったものであること、さらに神の言葉にも近いものであること、徳の無数の像(すがた)を内に孕んでいること、また、すぐれた人物になろうとする者なら、考察すべき大部分のことがら、いな、むしろ一切のことがらに、その視野のおよんでいることを知るだろうと思う」
(森進一訳プラトン『饗宴』)

  橋川文三もまたこのような人として我々の前に現れたのである。

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■著者より

●「橋川文三の文学精神」6月14日より28日まで15回の連載は今日で完結しました。最後までお読み頂きありがとうございました。「橋川文三ゼミ談話室」を設けました。拙文の感想など聞かせて頂ければ幸いです。
●今後の予定です。7月4日(金)より毎週金曜日午前十時に『霊告日記』シリーズを公開します。週一回定時の更新です。ご期待下さい。


【橋川文三の文学精神】 十四 橋川文三追悼文集

2014年06月27日 06時00分00秒 | 橋川文三の文学精神11~15

 【橋川文三の文学精神】第14回    内容目次@本文リンク


 
   十四 橋川文三追悼文集

 

『追悼ー橋川文三先生』は、橋川文三先生追悼文集編集委員会(代表:後藤総一郎)によって橋川文三没後の翌年1984年8月に刊行された。その追悼文集には橋川文三に教えを受けたゼミのメンバー二百余名と三十余名の大学院で学んだ者のうち、2期生(1962年卒)から24期生(1984年卒)までの46名の追悼文が収められている。どの文章も間近で橋川文三に接した者だけが知りうる観察が語られており、橋川文三を考える上での重要な一次資料たる価値を失わないのであるが、ここでは橋川文三の人間像を伝える回想に絞って断片を掘り出してみる。(なお名前は頭文字のみの表示とした)。

 

○先生が講義の中で触れられる文献を教卓の上に積み上げ、一冊一冊私たちに示しながら説明される姿は、非常な迫力があった。(略)また、その講義の中で、先生が言われた「歴史とは未来を拘束する力である」という言葉を私は鮮明に記憶している。それは、過去に拘束された現在を、あえて未来に力点を於いて捉えようとする言葉のように思えた。学生運動の挫折の中にあった私は、この言葉を何度も呟いたことを覚えている。(H・E。第4期生)

○数年前、先生と、ある酒場でお会いしたことがあった。先生も私もやゝ酔っていたが、学生時代の気分で先生に失礼なことを言い、私は先生に強く叱責された。その時、先生は「君は何を信ずるのか」と詰問された。私は口ごもり、結局、愚かしいことを答えた。しかし、その後先生にお会いした時には私の失礼をとがめようとはせず、何ごともなかったかのように柔和に接して下さった。(E・E。第四期生)

○「松下村塾には多くの十代そこそこのお弟子が来ますね。この連中がほとんど異口同音にいうのは、とにかく最初にうたれたのは、弟子と先生という区別がないということ。これはごく自然に差別がないんですね。そこで勉強してればすぐ傍らに来て教える。帰るというと、普通の若い友達という感じで送ってくれる」。先生は『吉田松陰』の中で「ヒューマニスト松陰をめぐって」このように評されている。教師としての先生は松陰のような素顔を持った人であったと追慕している。(E・Y。第8期生)

○「Mut verloren alles verloren」――昭和四十一年一月十九日、十号館一一0番教室で最終講義で、先生が黒板に書かれた僕達を送る言葉である。これはよく知られているように、ゲーテの言葉であり、「勇気の喪失は一切の喪失である」と訳す。もちろん、ドイツ語を辞書なしで直ちに理解できるはずもない僕たちに、訳文を説明されたのは先生であった。金銭の喪失よりも名誉の喪失がより重大であるが、さらに勇気を失うことは全てを喪失することと覚悟せよ、と読むべき一文だと僕は理解した。(T・A。第六期生)

○先生の講義や発言に接した人ならば、だれもがその言葉の慎重な使い方に驚かされたはずだ。それは、いったん表現された言葉は必然的に自身に返ってくることを十分自覚されたうえでの慎重な配慮からくるものであったと思う。だから先生と対話するのはひじょうな緊張感を覚えたものだ。(K・Y。第9期生)

○ゼミに出席し始めて間もなく、ほとんど初めて直に話しかけたとき、まず「先生」と呼ぶなと言われ驚いた。擬制の師弟関係で接してはならないという趣旨だったと思う。たとえ大学という場であったとしても生活者として対等である。互いにそのような位置で意思を交わさなければ学問は成り立たない、というように受け取った。あるいは、師と呼ぶにはそれだけの手続き覚悟がいるという意味だったかもしれない。ひととの接し方自体を問い直せと迫られ、一種の負担を覚えながらも、常に原則を通そうとし続けているのだと、新鮮な印象だった。ゼミを卒業した後、私の結婚式に出席してくれたときも、「友人としてつきあう」という挨拶だった。私には過分な言葉で恥じ入りはしたものの、言わんとされようとしていることは十分に推測できるように思った。(略) 

思想としてすぐれるためには、やはり苦悩の体験がなければならない。しかしその体験は求めて得るようなものではない。そこには運命のようなものがあるかもしれない、と言われた。堪え難いような苦境に陥ったとき、それをどのように超えるかで個性が問われる。ただ、苦境は与えられるようにやってくることであって、今は自分の生活を大切にしなさい、というのが、私が会社勤めを始めるときに橋川さんが与えてくれたはげましである。(O・B。第9期生)

○大学紛争の最中、文三さんを槍玉にあげる学生は一人としていなかった。これも「野戦攻城」の姿勢が通じていたのだろうか。(K・I。第十一期卒)

○教室ではいつも抑制した姿勢の先生が、屈託なくにこにこしている様子は、私達まで幸福にした。又、先生はこの世には稀有な清らかさを自然に感じさせる人でもありました。(N・O。第十一期生)

○橋川先生は、本に書かれている内容がパーフェクトに理解できるということは、自分の言葉をもって言い換えることができるということであり、さらに、それは小学生位の年齢の子供にも容易に納得できる言葉を使わなくてはならない、とおっしゃっていた。私は、その時、その先生の発言に深く感銘し、理解とは、そのようなものだと、今でも自分で肝に銘じている。(M・M。第十六期生)

○先生が奥様のことを語るときの優しいまなざしが忘れられません。先生が私達に奥様の写真を見せてくださった時の、楽しそうなまなざしがすてきでした。(Y・O。第二十期生)

○私には、今でも一年半ほど前、連れ合いいっしょにと駿河台↓を歩いてきて挨拶を交わした時のことを思い出す。あの時の先生は、にこにこ笑っておられた。にこにこ笑っておられたが、先生の心の中には、常に悶々としたものが渦巻いていたように思われて仕方がないのだ。悶々としたものの一つの表れが、ある意味では、あの笑い顔ではなかったのか、感じられもし、未だに私の目に焼き付いて離れなくなってしまっている。(S・M。第二十二期卒)

○先生の文章や言葉の中に感じられる繊細さと強靭さが、あの様な自然さで表現されているという事の裏にどのような過酷な闘いがあっただろうかという思いにとらわれるとき、何か眩暈のようなものを感じたのは一度や二度ではない。(K・N。第二十三期生)

○先生の不思議な人格。それは上手く表現できない。先生の顔も今から考えると奇妙な表情を持つ顔であった。人間から煩悩を一つづつ取っていくと、橋川先生のような顔に似てくるのではないか。先生のちょっと首をかしげるおかしな仕草は、広隆寺の弥勒菩薩像に似ている。(K・M。第二十四期生)

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■著者より

●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●橋川文三先生の肖像  『追悼ー橋川文三先生』より


【橋川文三の文学精神】 十三 橋川文三とマルクス

2014年06月26日 10時26分55秒 | 橋川文三の文学精神11~15

 


 

  【橋川文三の文学精神】  第13回  内容目次@本文リンク


 
    
十三 橋川文三とマルクス

  竹内好と並んで橋川文三に大きな影響を与えたもう一人の師に丸山真男がいる。橋川文三著作集第七巻の月報で丸山真男は橋川文三の『日本浪曼派批判序説』に触れてこのような評価を述べている。

――『日本浪曼派批判序説』の「批判」という言葉は、ただの枕言葉じゃない。本当に批判なんだ。日本浪曼派をかいくぐっているから、単に超越的な非難じゃない「批判」が可能だった。やはり橋川君の最高傑作が生まれるだけの背景はあった、と思います。

  これは核心を突いた指摘であってさすが丸山真男と唸らせる内容であるが、編集部を聞き手とするこのインタビューの中で丸山は橋川文三の弱点について気になる発言をしている。

――「社会科学者として見れば橋川君の基本的な弱さは、マルクスを本当に読んでないということです。何が何でもマルクスを読めという意味じゃなくて、マルクス主義についてあんなに論じている以上、じゃマルクスをどれだけ勉強しているのか、とききたくなるんです。

  マルクス主義と保田の関係、これが問題となる。即ち、マルクス主義と保田の関係はあるのかないのか。あるにしても関係が脆弱すぎるのではないかという問題。そこから出発して、そもそも橋川はマルクス主義を知らなさすぎるのではないかということも問題になってくる。

 ところで「批判序説」という言葉を枕言葉(丸山真男)に掲げた書物はいままでに二度書かれている。マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序説』と、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』の二冊である。

 橋川の『批判序説』は、マルクスの『批判序説』を読んで正確に理解した上での、ある意味でその書き換えでもある。時代と地域は大きくかけ離れているけれども、この二冊の書物は、その方法において本質的に重なっている部分が多い。橋川の『批判序説』は、保田を主人公に設定したある国のある時代の歴史書としても読むことができる。それは、マルクスが、ヘーゲルを主人公にしたある国のある時代(プロシア国家)の歴史書を書いたのと等しい。

 そういう読み方が可能な書を、マルクスは『批判序説』の他に、もう一冊書いている。ナポレオンの甥を主人公に設定した歴史書『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』である。この書は、こんな書き出しで始まっている。

――「ヘーゲルはどこかで言つている。あらゆる世界史上の偉大な出来事と人物はいわば二度あらわれる。しかし彼はこう付け加えるのを忘れたのだ。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』)

  橋川の『批判序説』は、題字に『ヘーゲル法哲学批判序説』からの引用文が掲げられているが、それは、こういう文句である。

――ギリシャの神々は、すでに一度、アイスキュロスの捕われのプロメティウスにおいて、悲劇的な死をとげたが、さらにもう一度、ルキアノスの対話編において、喜劇的な死をとげなければならなかった。歴史がかく歩む所以は如何? 人類をしてその過去より朗らかに離別せしめるためである。 ヘーゲル『ヘーゲル法哲学批判序説』

  橋川文三は、マルクスがヘーゲルやルイ・ボナパルトを葬ったように、マルクスに倣って保田を葬ったのである。橋川文三ほどに歴史家マルクスの方法を理解した知識人は、かってこの国にいなかったのではないか。丸山真男の主張に真っ向から反対する形になるけれども、私はそう思っている。

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■著者より
●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●橋川文三は一高生の頃、アルチュール・ランボーの愛読者だった。「ランボー詩集にはいっぱい線を引いてあります。その本はまだ手元に残っていますよ」と私に語ってくれたことがある。橋川はどんな詩句を愛読したのだろうか。私がいま心に響く詩はこれだ。きっと橋川文三も・・・

    おお季節よ、おお城よ!
    無疵な心がどこにある?
                                 A.ランボー
 


【橋川文三の文学精神】 十二 北一輝の性愛原理主義

2014年06月25日 06時00分00秒 | 橋川文三の文学精神11~15

 


 
   【橋川文三の文学精神】
  第12回       内容目次@本文リンク
 


 

 十二 北一輝の性愛原理主義

 

 橋川文三の教え子がその追悼文の中で興味深い感想を漏らしている。

「北一輝輝次郎の片眼の中和した写真は、二子を持つ私を未だに瞬時酔わせる。(略)月並みな表現ではあるが、橋川先生は、私には北一輝輝次郎とオーバー・ラップして生き続けている。(S・I。第13期生)」

 北一輝と橋川文三がオーバー・ラップして生き続けているという感想はどこから来るのであろう。橋川文三が北一輝の優れた研究者であったいうことが事由のすべてではないだろう。では何か? 北一輝の人間性は橋川文三の人間性に近似しているという印象が私にはある。両者の似ている点をしいて挙げれば、共に天才的な頭脳の持ち主であったこと、無限といってよいその優しさ、そして現実界を離れて遠くを見ることができる視力である。

 北一輝とはどのような人間性をもつ人物であったのか。それは肉親への手紙を見るのが一番の近道であろう。次に掲げるのは大正八年六月一八日(と推測される)北一輝の手紙。文中の星野すえは北一輝の従姉妹であり完城はその弟である。北一輝がこの手紙を書いた大正八年(1919年)北は三十八歳。上海にいて中国革命援助で奔走していた頃に当たる。文面から察するにすえは従兄弟である北一輝に婿取りの相談をしたらしい。北はきっぱりとその縁談を断るよう指示している。思いやりにあふれたすばらしい手紙を返している。ここでは手紙のごく一部しか引用できないが、全編感動的な言葉に満ち溢れている。この優しさは肉親に宛てた吉田松蔭の手紙の文面の優しさに匹敵する。真の革命家がニヒリズムとは一切無縁であることのそれは証明となるかもしれない。

 
星野すえ宛北一輝の手紙 
(大正八年 六月一八日)


  
完城[君という]男子があるの[に]何んで婿取りの必要があるのか。二十四歳ハ決して婚期に遅れたのでハなくて此れから結婚を考え始むべきとなったといふに過ぎないのだ。

(略)何事も十四五歳の心、即ち男子が二十四五歳にてハ漸く一人前になりかけた位であると同じ意味に於いて、御前に是れからが人生の門出であると考えねバなりませぬ。十幾年家□(不明)一切のことを顧みなかった兄さんであるが今回こそ御前等の運命を開く人になりたいものと考へている。

 亡くなられた叔父叔母に対する御前の悲しみ、誠に思ひやります。志かし御前等二人が人並みすぐれた人になると云ふことが何より両親に対する孝行なのだから極度に悲しんでハなりませぬ。

 凡ての物質界に因果律といふものがあることハ学校で学んだであろう。其れと同じく人の道徳的行為にも厳然たる因果律といふものがある。御前が両親を悦バせ弟を世に出さんが為に少女の夢の時代を通勤の生活に暮らした原因は必ず其れに幾倍する結果を来すのだ。両親ハ亡くなった、完城が成人しても報酬ハ来ない。志かし道徳の因果律ハ御前に全く別途の途から十分の幸福を来すのであるぞ。要するに御前の宝ハ御前の其の清き情深き人格であることを考へて、凡ての幸福は此の打出の小槌より出るのことを信じなさい。この人格の低きものは錦衣王食するも真に乞食より下等なものである。御前は世の富豪の子女と比すべからざる此の宝を持って生まれ、且つ貧者の間に於て此の宝を磨くことが出来たのであるから兄さんの眼より見る時にハ御前こそ千万金の富豪よりも貴き女であるのだ。御前ハ能く胸に手をあてゝ其身の幸福を理解しなければなりませぬ。(北一輝著作集第三巻より)


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■著者より

●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。


【橋川文三の文学精神】 十一 絶対者の自覚

2014年06月24日 06時00分00秒 | 橋川文三の文学精神11~15

 

 


  
   【橋川文三の文学精神】
  第11回   内容目次@本文リンク
 


 

 十一 絶対者の自覚

  人類は生物界の中でどのように位置づけられるのか。このような根本的な問題提起を北一輝はその処女作『国体論及び純正社会主義』の中で行っている。北によれば人類は類猿人の仲間ではない。人類は猿人と同類の生物種族に分類されるべきではなく、神類に向かって進化しつつある種族に属するのであって類神人と呼ばれるべきというビジョン、を北一輝はその『国体論』の生物進化論を論じる章において述べている。人類とは神人と類人猿の中間に立ち、神人へと進化を図る途上の生物であるというのが北一輝の社会主義学説の前提的仮説であった。

 北一輝が類神人のビジョンを自身の精神の内から汲み取っているのは確かである。北一輝にとって自らは類神人のビジョンに叶う人物であった。この類神人の系列に分類される人間としては他に誰がいるのか。日本の思想史の伝統にその系譜を辿るならば、まず神話の中では日本武尊尊が起源であり、歴史的人物としては聖徳太子が発端にあげられるであろう。聖徳太子は絶対者の理念を抱いて日本史に出現した最初の人物である。丸山真男は聖徳太子について、その出現の意義を思想史的にかくのごとく位置づけている。

――十七条憲法は、何らかの特定の事件・出来事と直接結びついた、いわば機会的な産物ではなく、聖徳太子という卓越した思想家の手になる一個の「抽象的」な、それ自体として完結し、独立した作品であり、古代日本の持った最初の一般的政治学説と呼ぶに値する。

――十七条憲法に用いられているカテゴリーや観念を検討すると、かなり広汎に中国古典を広く素材として駆使していることが分かる。

――いま述べた儒教を中核とする諸々の大陸思想に有機的な統一を与えている思想的根底は、ここでは太子によって理解された世界宗教としての仏教である。そして思惟方法の基底に置かれた仏教の普遍主義的性格が高度に自覚されているために、いままでわれわれが検討してきた場合のように、「原型」のあちこちに異質的な論理が介入してくるというタームでは捉えられないような、むしろ、かえって「原型」とまったく断絶し非連続な精神によって全体の講座が支えられている。その意味で十七条憲法の基本精神は、その後の日本仏教史を貫いてその特色をなす「習合(シンクレティズム)の伝統からも顕著に浮き上がった例外の一つをなしているのである。一言にしていえば、この基底の精神は、自然と人間世界を超越した聖なるものとしての「絶対者の自覚」ということである。(『丸山真男講義録』第四冊 148頁~150頁)

  丸山真男はクリスチャン南原繁の弟子であり、南原繁は内村鑑三の弟子であった。北一輝は内村鑑三の西郷隆盛論に感激し触発されて維新の第二革命のビジョンを形成している。そして橋川文三はエッセー「絶対者の探求と政治」においてドストエフスキーの「大審問官」とならべて北一輝を論じているのである。絶対者自覚の系譜を辿ってみた。

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■著者より

●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●橋川文三は、竹内好と丸山真男の両者を自身の「師」であると述べている。