【橋川文三の文学精神】 第15回 内容目次@本文リンク
十五 橋川文三先生が呼ぶ
橋川文三の教え子たちが師を語るその語り口にはどれも畏敬の念が満ち溢れていて、そのことはどの卒業年度を取ってみても変わらない。教え子たちは、橋川文三に学問の師だけでなく、在学中には見えなかった人生の師を見出してその発見を綴っているのである。告白するならば、私もまた橋川文三ゼミの末席に連なった者である。ゼミでの対話も大教室での講義も私には忘れがたいものがある。
橋川文三の日本政治思想史の講義は、開始時刻がわりと朝早かった。同じ講義が第二部でもあったため、朝の講義を聞きそびれた時に私は第二部の講義を聞くことにしていた。夜はこじんまりした小教室で、講義を受ける学生たちもせっせとノートを取ってまじめであり、教室はいつも厳粛な雰囲気が漂っていた。
橋川文三の日本政治思想史の講義でいちばん感銘を受けたのは、石原莞爾の東亜連盟の思想と運動をテーマに語られた日のものであった。私はこの日の講義は、あまりに面白かったので、朝と夜と二回聞いている。蒋介石の北伐から始まり、混沌とした中国の近代史の歩みの中で東亜連盟の思想が立ち上がる光景が鮮明かつ詳細に語られる。それは思想と現実が交差する真の歴史の実相を描いた名講義であった。
石原莞爾は東条英機との権力闘争に敗れ予備役に編入される。故郷鶴岡に隠遁を余儀なくされた石原の元に、東条は憲兵を差し向け、監視を続けた。この日の講義は、この憲兵と石原との次のようなエピソードが紹介されて終わった。
憲兵「閣下。閣下は東条閣下と思想が合わないのでありますか」
石原「東条と思想が合わないって? そんなことはないよ」
憲兵「さようでありますか。東条閣下とは思想が合わないと聞いておりましたのですが、どういうことでしょうか」
石原「東条には思想がない。俺には思想がある。だから合わないということはない」
ここで教室は大爆笑。名講義の見事な幕切れであった。
ゼミの講義の中で最も印象深かったのは、司馬遷の『史記』についての話を聞いた時であった。竹内好に個人教授で中国語を学んでおられた先生は、『史記』の全文も原文で読まれていたようである。司馬遷の時代と現代は、中国語に文法的な違いはそれほどないことなどを話の枕にされた。ところで、荊軻による秦の始皇帝暗殺のドラマをクライマックスとするその日の講義は、まずギリシャと中国の歴史叙述のスタイルの違いの話題から始まった。
ギリシャの歴史叙述は、ヘロドトスの『歴史』でもツキディディスの『戦史』にしても、それぞれペルシャ戦争やペロポンネソス戦争といった〈事件〉を時間を追って語るという叙述のスタイルを取っている。これは基本的に現代の歴史叙述にまで至る方法である。しかし司馬遷の『史記』の叙述のスタイルはギリシャ人の創始したものとは根本的に異なっていた。紀伝体と呼ばれるそのスタイルは、「本紀」でまず王朝の歴史を述べた後に、「世家」の部で諸侯の歴史を語り、最後に「列伝」で個人の伝記を加えている。このようにして王朝の歴史から個人を含む世界全体を記すスタイルのユニークさを語った後、特に「列伝」が素晴らしいのだということを、荊軻の例を以て先生は示されたのであった。
先生は身振り手振りを交えて荊軻の性格や経歴を語られた。そいてついに荊軻は始皇帝暗殺に出発する。「風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去ってまた還らず」と荊軻が詩を詠む段に至った時、僕らは時空を超えて中国の壮大な世界のその日その時を、まざまざと見るかのような臨場感を味わったのであった。あの日の先生は、始皇帝刺殺を企てる哀しき荊軻の心に感情移入したもう一人のテロリストであった。
懐かしい記憶を手繰って私なりに橋川文三論をかたちづくってみたこともある。七年前の平成十八年三月の作である。その日から私の橋川文三理解はいささか程も進歩していない。はなはだ残念な事態ではある。しかし私の橋川文三論の原型をなすものでもあるので、いっさい手を加えずそのまま取り出して示しておく。
□橋川文三先生が呼ぶ
(連句同人誌『れぎおん』2007・春・57号初出)
私は学生時代に橋川文三先生から日本政治思想史という学問を学んだ。橋川ゼミを卒業した十二年ほど後に、私も福沢諭吉と柳田國男を対比した思想史の論文を書いたことがある。
橋川文三は丸山眞男から思想史の方法を学んでいる。丸山眞男は思想史の特徴について次のように語っている。
「思想史の素材は解釈を通じてのみ我々の認識の対象となりうるが、それが解釈された瞬間、素材の本来の相貌は永遠に失われる。そうしてその代わりに、解釈を通じて史家自身の価値体系が不可抗的に介入してくるのである」(『丸山眞男集』第二巻・二百九頁)
解釈に於いては、まず素材についての全体的な洞察が前提になるが、次には表現の吟味が肝要である。論理的な思考を前提としつつも、最終的には、一字一句に至るまで洗練された表現を獲得できるかどうかが決定的な要素なのである。このような特色を持つ日本政治思想史という学問は、丸山眞男によって創始され、橋川文三によって継承・発展せしめられた。しかしその後、橋川文三の問題意識を正統に受け継いだ人はまだ現れていない。
橋川文三の問題意識を正統に受け継ぐとはどういうことを意味するか。それは日本政治思想史という学問の起源を問うことによって明らかになる。立花隆が『天皇と東大』で明らかにした事実であるが、戦前に於ける学問の自由は天皇機関説事件によって壊滅的打撃を受けた。そのような時代の動きを見据えた上で、東大法学部教授南原繁は、助手の丸山眞男に日本の思想史の研究を指示する。西洋の学問を身に付けるだけでは足りない。西洋の学問も理解した上で、日本のことも分からなければいけない。これは、南原自身の痛切な反省に立っての後輩研究者への忠告であった為、丸山眞男はその指示に全身全霊を込めて応えたのであった。
橋川文三は丸山眞男の死角を突いた対象を研究した印象があるが、丸山眞男も橋川文三も共にドイツのカール・シュミットの研究を横に見据えつつ、日本の思想史の可能性を極限にまで拡張した。二十世紀は国民国家が二つの陣営に分かれて二度までも世界戦争を繰り広げている。日本政治思想史という学問は、この国民国家の時代を、日本という舞台に即しつつ内在的に理解する可能性を追求した。橋川文三の問題意識を正統に受け継ぐ研究は、国民国家の時代が終わる超越的な視線を獲得するまで続く(はずである)。ホッブズによって創られた近代国民国家の理論を、国民国家終焉の地平から見直し、国家が廃棄される時代の眺望を創りあげることが、日本政治思想史という学問の最終目的ではないか。これは日本人の果たすべき世界史的課題であろう。
橋川文三が亡くなった翌年、ゼミ卒業生有志が編集した追悼の雑誌が帰省中の実家に送られてきた。追悼雑誌の中の橋川の写真を母が見て、「やさしい顔をした人だ」と評したのを、印象深く記憶している。やさしい人。それは私が二年間親しく膝突き合わせて研究した橋川文三先生の人間像を端的に示す言葉であった。橋川文三はまことソクラテスと吉田松陰のやさしさを併せ持つ人であった。
それにしても、写真をちらりと見ただけの僅か一秒にも満たぬ短い時間に、どうして母は橋川文三の人となりを見抜くことができたのだろう。一千億の脳細胞がどのように活動してそのような判断が成り立ったのか。人間の洞察力を生み出す脳の働きには、まだまだ解明されぬ深い秘密が隠されているようだ。
白鳥の胸のランプの消えて月
橋川文三先生が呼ぶ
(歌仙「橋川文三先生が呼ぶ」の巻より)
橋川文三は未来社から『歴史と人間』を1983年4月に上梓した後、その年の12月17日に急逝した。『歴史と人間』の「あとがき」には3月24日の日付が記されている。そのあとがきで橋川は「戦中派廃棄」の心理を告白し、最終的な遺言として自身は何を信じるかを語っている。その問いは誰もが自らに突きつけるべき問いであろう。橋川文三の何を信ずるかの答えはこうである。
――それはアジアでもなく、ヨーロッパでもない。いってしまえば宇宙に近いが、要するに地上にさかえる何ものでもない、とある実在である。そうするとそのとある実在をお前は信ずるのか、といわれそうであるが、私は今それを信ずるというしかない。
『歴史と人間』の「あとがき」はこのように書き始められている。
――私は未来社からカール・シュミット『政治的ロマン主義』の初版本の訳書を昨年出した。すでにもう二十数年の昔のものであるが、それは私が結核をやみ、まさに戦後の最大の危機という時期に翻訳したものである、当時、丸山真男先生からシュミットの初版本を借りていたためであり、それによって「日本浪曼派」批判の考えをかためた記憶がある。その『批判序説』は一九六〇年二月に本になった。今覚えば戦争後凡そ十五年をたどる私の回生の時期にほかならない。
そしてこの「あとがき」の最後の一文はこのように書き納められている。
――要するに、私の生き方は「希望」と「絶望」の中間にただよっている状態なのである。
この最後の言葉の中に橋川文三の生は永遠に宙吊りになっていつも輝いて煌めいている。橋川文三先生は未熟な僕たち彼女たちを見放さず現に今も呼んでいるのである。橋川文三のいう「とある実在」、それは存在でもなく非存在でもなく「半存在」である。自らを「半存在」と化すとき、人は誰でも橋川文三のいう「とある実在」に接近することが可能になる。しかし自らを半存在と化すとはどういうことか。その方法・手段はいかに? 橋川文三の叡智のすべては橋川文三著作集全十巻の中に封印されている。その著作はあたかもスフィンクスの謎のようにそこにうずくまっている。オイディプスが近づいてその謎を解く日をスフィンクスは永遠に待っているのだ。
ゼミや大学院で学んだ生徒たちの橋川先生に対する畏敬の念は一種のプラトニック・ラブを思わせるに近いものがある。これは男生徒でも女生徒でも性の違いを超えて変わらない。プラトン的な愛とはそもそも本質的には何か。そのことを語ったのがプラトンの『饗宴』という作品である。『饗宴』の最後で酩酊状態のアルキビアデスが饗宴の中に乱入しソクラテス賛美の演説を繰り広げる。その一節を引用する。
――一度その言葉の開かれるのを目にし、その内部に踏み入った者なら、まず第一に、他に言葉はたくさんあるだろうが、ただただ彼の言論だけが、内に知性をもったものであること、さらに神の言葉にも近いものであること、徳の無数の像(すがた)を内に孕んでいること、また、すぐれた人物になろうとする者なら、考察すべき大部分のことがら、いな、むしろ一切のことがらに、その視野のおよんでいることを知るだろうと思う」
(森進一訳プラトン『饗宴』)
橋川文三もまたこのような人として我々の前に現れたのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■著者より
●「橋川文三の文学精神」6月14日より28日まで15回の連載は今日で完結しました。最後までお読み頂きありがとうございました。「橋川文三ゼミ談話室」を設けました。拙文の感想など聞かせて頂ければ幸いです。
●今後の予定です。7月4日(金)より毎週金曜日午前十時に『霊告日記』シリーズを公開します。週一回定時の更新です。ご期待下さい。