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【霊告月記】第四十回  劇団ノラクラフト旗揚げ公演評  駄菓子屋ROCK

2019年02月01日 10時00分00秒 | 霊告月記 36~40

【霊告月記】第四十回  劇団ノラクラフト旗揚げ公演評   駄菓子屋ROCK

           海賊ジョン・シルバー

★60年代の小劇場運動。その非日常的空間を切り開いたのは唐十郎のこの歌。

                 
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    劇団ノラクラフト旗揚げ公演「拝啓 空の中より、」評


      拝復 空の中へ、
                    by ダンボール

       
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劇団ノラクラフト旗揚げ公演を観た。初日の舞台がはけた後の新宿三丁目の通りを、地下鉄の駅に向かって歩きながら、僕はたったいま見たばかりの劇の印象を反芻していた。

主人公の少女の名はナオミ。ナオミは放射能で汚染された区域の境界に建つ壁の見張りの高時給バイトをしている。名付け親で花火師でもあった叔父さんの四十九日の命日の出来事だ。ナオミはその叔父から贈られた小さな金庫を携えている。壁の中からゴトウと名乗る男がとつぜん現われて少女とお互いの秘密を徐々に解き明かすかのような神妙で深遠な会話を始めるのだ。少女にしか見えない他界の生き物もその対話に立ち会う。不思議な状況、不思議な登場人物たち。しかしそこでは極めてリアルで緊迫した密度の濃い劇がたしかに演じられていたのである。

この劇の作・演出の谷口由佳は、当日配布されたチラシで、主催あいさつとして次のように述べている。

 年初めに劇場に足を運んでくださり、誠にありがとうございます! これまで学内公演を打つにあたって、劇場という 「空間」 の持つカを毎回思い知らされて参りました。
 じっと席に座って、何か日常では出会わないものをいつの間にか期待してしている・・・私にとってはそんな場所です。
 この作品から、 この場所に足を運んでくださった皆さまが何かしらをふっと拾って持ち帰れるような、そんな時間をお送りできれば幸いです。
                          谷口由佳

かくも簡潔に演劇の魅力と可能性を語った言葉を僕は他に知らない。真の演劇ファンならば、このあいさつ文を読んだだけで、作者の才能と演劇愛に心打たれ、劇を見逃したことに後悔の気持ちを抱くことだろう。

肉声によってのみそして生身の肉体によってのみ言葉が伝達され享受される空間、それが劇場である。その言葉は虚構であっても、役者は現実の肉体である。虚構と現実が境を接して共存する、非日常性と日常性がメビウスの帯のようにつながっている、そのような空間と時間を確保しているのが演劇というメディアの内部構造の秘密であろう。劇場とは、指の先に地球を乗せ念力をかけ地球の自転を止めることができると同時に、フッと息を吹きかけるだけで自転を再開させることも可能にする魔術的空間である。

劇の内容に戻る。登場人物の少女ナオミとゴトウ、この二人は生者だが、ハレルヤの叔父さんと精霊は他界の生物である。現実と虚構が入り乱れて劇が進行するが、彼ら彼女らを導く情念は〈愛〉である。少女ナオミに注がれる愛と、少女ナオミの抱く愛がこの劇を進行させる動因である。劇の進行それ自体もそうであるし、個々の登場人物の台詞も、時には大胆な、時には秘めやかな、愛のエッセンスを込めた言葉たちであった。

であるからして、僕はルソーのフラグメントを引用して、素早く今回の劇の批評を締めくくりたいと思う。千年に一人の大思想家ジャン=ジャック・ルソーの援用による、まさに〝神の一手〟と了解されたし。

愛は女性の領域です。愛に掟を与えるのは女たちです。なぜなら自然の秩序に従って、抵抗は女性に属するものであり、男たちは自分の自由を犠牲にしてはじめてこの抵抗に打ち勝つことができるからです。こういった種類の芝居のーつの自然な結果は、したがって女性の支配力を拡げ、女や娘たちを公衆の教師にし、さらには彼女たちが自分の恋人に対してもつのと同じ力を観客に対しても及ぼすことであります。

(ルソー『演劇に関するダランベール氏への手紙』西川長夫訳)

 
※参照⇒
 【霊告月記】第三十二回 演劇『薄明の彼方へ』感想

 
】霊告【 大人が子供を幸福にしようと努力する。するとあべこべに子供が大人を幸福にしてくれる。そんな懐かしい景色を再現する駄菓子屋ROCKは本物だ! 

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【霊告月記】第三十九回  世界思想の獲得に向かって一路邁進!

2019年01月01日 10時00分00秒 | 霊告月記 36~40

【霊告月記】第三十九回  世界思想の獲得に向かって一路邁進!


一年の計は元旦にありと云うので、今年の計画の一端を述べてみたい。

■江戸思想史とロシア思想史を併行して研究する。

・江戸思想史に関しては子安宣邦氏の諸著作と毎月二回の市民講座が導きの糸となろう。なるべく今年中に決着をつけたい。もしくは目途をつけたい。

・ロシア思想史に関しては清水正氏の日大芸術学部文芸学科の最終講義を聴いたことに点火されたと思う。清水正氏はドストエフスキーを50年間研究し続けて止むことがない。集中力が衰えることもない。極限のエネルギーを発揮した名講義であった。

■世界思想の獲得に向かって一路邁進する。

・個別領域の研究も大事だが私の最終的な目標は世界思想の獲得である。21世紀を領導する内実を持った思想はいかなるものでなければならないか。着実に地道に思索を重ねることによってその目標を追い求めていきたい。


 以上、年頭に掲げる、私の今年の目標でした。

 ◆月蝕歌劇団 ネオ・ファウスト地獄変 予告篇(2015年)高取英/作・演出 J.A.シーザー/音楽

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2018年12月31日までの、トータル閲覧数、トータル訪問者数

トータル閲覧数  (PV) 321,460
トータル訪問者数(IP) 137,573

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【霊告月記】第三十八回 フェイスブックを始めました Angèleサイコー!

2018年12月01日 10時00分00秒 | 霊告月記 36~40

【霊告月記】第三十八回   フェイスブックを始めました  Angèleサイコー!


●私のブログのコンセプトは<いつも輝いて煌めいていましょう!>だが、そのコンセプトを体現するような人物を発見した。それが Angèleだ。ベルギー出身でこの10月に最初のCDを出したばかりだからまだ新人と言っていい。詳しい情報は知らない。WEBをさまよっている内に偶然に発見した。

        ダリが描いたロートレアモンの想像画

この
Angèleだがサルバドール・ダリの描いたロートレアモンの想像画に似ているような気がしてならない。この両者(ロートレアモンの想像画とAngèle)は共に天使の相貌を想起させる点に於いて共通するものがある。ちなみに天使は男でも女でもなく中性である。天使は人間ではないのだから男性・女性の性差の片方だけに偏ることはできないのである。


●フェイスブックを始めた。思想家の千坂恭二氏の投稿にコメントを付けた。千坂氏の投稿は短いものなので、その全文を引用し、私のコメントと併せて一括掲載する。

千坂氏:ファシズムやそれに類する思想や運動とは、その初発の動機は、第一次大戦の敗戦国における多くの、敗戦国であるがゆえに死の意味を奪われた戦死者たちの、死の意義を問い、その死を意味あるものにせんとする思想と運動の一環であったという側面がある。

私:然り。まったくその通りでありましょう。なぜファシズム思想が多くの若者や大衆そして知識人までも魅了したのか。その秘密はファシズムが「死の意味を奪われた戦死者たちの、死の意義を問い、その死を意味あるものにせんとする思想と運動」だったからに他ならない。アドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』の疑えない煽動力も死者への追悼をその本質的テーマとして描き得たことにある。
しかし、問題はその先に在る。果たして、「敗戦国であるがゆえに死の意味を奪われた戦死者たちの、死の意義を問い、その死を意味あるものにせんとする思想と運動」に対して、霊界に住まうその戦死者たち自身はどう見ていただろうかという問題です。この視点を欠くことがあるいは無視することが無智蒙昧で無学な「その後のファシズム」の在り方として問われてくる。
エルンスト・ユンガーは、第二次大戦後に、いや第二次大戦の末期に、すでにこの無知蒙昧で無学なファシズムを、原理的に批判する思想的境位に達していたと私は見ています。ユンガーこそは「総動員」の思想の創始者であった。だからこそ、その「総動員」の思想の超克者たりえた。
 


●子安宣邦氏の投稿にコメントを付けたくて始めたフェイスブックだった。著書の中国語訳が出版された際の子安氏の投稿の内容に感ずるところがあってコメントを付けた。これは私のフェイスブックにおける最初の発言である。

①「私の本は日本で見ることのない積極的な反応をなぜ中国で見出すのか」という問いについて考えてみました。先生の御本の内容を私はまだ熟知しているとはいえない段階ですので、設問を一般的な形に直して考察してみます。「優れた価値を持つ書物が地域や時代によって積極的な反応を見出されないということはあるのか」という問いに変換してみるのです。そうすると直ちに明らかになることは著者の同時代に高評価されても時代が変わればその評価が消滅するケーは数限りなくあります。逆に世界史的価値を持つような重要な書物が人々の記憶から完全に消えてしまうが後に復活を果たすようなケースもあります。ロートレアモンの『マルドロールの歌』などその典型的なケースです。シュールレアリストが再評価するまで同書は忘れ去られていたも同然でした。

②ルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)などは写本が一冊残っているのみで1400年もの長い間世界から完全に消えていた。その書が再発見されルネサンスと近代科学の勃興に多大の寄与をした。文字通りの奇跡の書です。それらの事共をあわせ考えると先生の御本も5年10年の尺度で測れば確かに然るべき妥当な評価を得ていないという判断はありうるでしょうけれども、真実が広く行き渡るのに時間の要素を組み入れなければならない。そういう観点も必要になるのではないでしょうか。従って先生が現在感じておられるご不満は先生が健康で長生きするということでしか解決しない問題ではなかろうかと思う次第です。

 
※フェイスブック・アドレスhttps://www.facebook.com/profile.php?id=100015965474424


】 Angèle の霊告 【 ワン・タイム。 ツー・タイム。 スリー・フォー・ユー。

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【霊告月記】第三十七回 詩人の肉声・清少納言の巻

2018年11月01日 10時00分00秒 | 霊告月記 36~40

【霊告月記】第三十七回 詩人の肉声・清少納言の巻

今回は動画のアンソロジーです。朗読される文章を添付したのが唯一の工夫といっていいところ。解説は不要とかんがえます。いろんな解釈・感想がありうるでしょう。多様性を切り開くのが肝心ということです。


枕草子(春はあけぼの)  清少納言 暗唱



枕草子「春はあけぼの」

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。

夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ、ほたる飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。

冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。


平家物語 暗記!3歳3カ月

平家物語「祇園精舎

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風 の前の塵に同じ。

遠く異朝をとぶらえば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の祿山、これらは皆舊主先皇の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の亂れん事を悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。

近く本朝をうかがふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信賴、これらはおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、傳へ承るこそ心もことばも及ばれね。

 

『紅楼夢〗 主人公宝玉が自作の「红豆曲」を即興で唄う場面

紅豆曲

滴不盡相思血淚拋紅豆
開不完春柳春花滿畫樓
睡不穩紗窗風雨黃昏後
忘不了新愁與舊愁
咽不下玉粒金蒓噎滿喉
照不見菱花鏡裏形容痩
展不開的眉頭
挨不明的更漏
呀恰便似遮不住的青山隱隱
流不斷的緑水悠悠

私の涙は止められない、
紅豆のような涙、一粒、一粒……
春だね、柳も緑一色に染められ、
お花も延々と咲く。
日暮れの中、風も雨も訪れる
忘れない愁え、眠れない夜、
風と雨の足音は私の耳に伝わってくる

どんなに珍味といっても食べようとしない
鏡に映っている姿は日々痩せていく。

広げない眉間
どんなに待っていても明けない夜。
私の思いよ
山々のように何処までにも連綿と続く
川の水のように何処までにも流れていく。


Catastrophe - Be Bop Record | Live Plus Près De Toi

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【霊告月記】第三十六回  詩人の肉声 高村光太郎と折口信夫

2018年10月01日 10時00分00秒 | 霊告月記 36~40

【霊告月記】第三十六回   詩人の肉声  高村光太郎と折口信夫

『道程/高村光太郎』☆暗唱発表☆記憶☆4歳♪詩・天


詩人の高村光太郎に有名な「道程」という詩がある。

  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
    父よ

  僕を一人立ちにさせた廣大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため

この詩の雑誌に発表されたときの初期形は随分と長かった。高村光太郎はこの長い詩を最後の詩節だけを抜き出しただ一行のリフレインを付け加えるだけで残りぜんぶをバッサリと切り捨て完成形とした。

最終の詩形は簡潔で凝縮されておりその意味でたしかに完成度は高いのだが、詩人の肉声は初期形の方によりよく保存されているように思える。

詩人にとっての肉声とは何か。高村の「道程」の初期形と完成形とを読みくらべて確かめてみることができる。この読み比べの作業は一興とかんがえ、ここに掲示する次第である。

【道程 初期形】 高村光太郎


  道程       高村光太郎

どこかに通じている大道を僕は歩いているのじゃない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから 道の最端にいつでも僕は立っている

何という曲がりくねり 迷い まよった道だろう
自堕落に消え 滅びかけたあの道
絶望に閉じ込められたあの道
幼い苦悩に もみつぶされたあの道

ふり返ってみると 自分の道は 戦慄に値する
支離滅裂な また むざんなこの光景を見て
誰がこれを 生命の道と信ずるだろう
それだのに やっぱり これが生命に導く道だった

そして僕は ここまで来てしまった
このさんたんたる自分の道を見て
僕は 自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ

あのやくざに見えた道の中から
生命の意味を はっきりと見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては 目をはじき もう此処と思うところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ これこそ厳格な父の愛だ

子供になり切ったありがたさを 僕はしみじみと思った
どんな時にも 自然の手を離さなかった僕は
とうとう自分をつかまえたのだ

丁度そのとき 事態は一変した
にわかに眼前にあるものは 光を放射し 空も地面も 沸く様に動き出した
そのまに 自然は微笑をのこして
僕の手から 永遠の地平線へ姿をかくした

そしてその気魄が 宇宙に充ちみちた
驚いている僕の魂は
いきなり「歩け」という声につらぬかれた

僕は 武者ぶるいをした
僕は 子供の使命を全身に感じた
子供の使命!

僕の肩は重くなった
そして 僕はもう たよる手が無くなった
無意識に たよっていた手が無くなった
ただ この宇宙に充ちている父を信じて 自分の全身をなげうつのだ

僕は はじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間 冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た

僕は 心を集めて父の胸にふれた
すると 僕の足は ひとりでに動き出した
不思議に僕は ある自憑の境を得た
僕は どう行こうとも思わない どの道をとろうとも思わない

僕の前には広漠とした 岩疊な一面の風景がひろがっている
その間に花が咲き 水が流れている
石があり 絶壁がある それがみないきいきとしている
僕はただ あの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく

しかし 四方は気味の悪いほど静かだ
恐ろしい世界の果てへ 行ってしまうのかと思うときもある
寂しさは つんぼのように苦しいものだ
僕は その時また父にいのる

父はその風景の間に わずかながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を 僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に 僕はふるえ立つ
声をあげて祝福を伝える
そして あの永遠の地平線を前にして 胸のすくほど深い呼吸をするのだ

僕の眼が開けるに従って
四方の風景は その部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に 小さい人間のうじゃうじゃ はいまわって居るのもみえる
彼等も僕も 大きな人類というものの一部分だ

しかし人類は 無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は 鮭の卵だ
千萬人の中で百人も残れば 人類は永遠に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して 自然は人類のため 人間を沢山つくるのだ

腐るものは腐れ 自然に背いたものは みな腐る
僕はいまのところ 彼等にかまっていられない
もっと この風景に養われ 育まれて 自分を自分らしく 伸ばさねばならぬ
子供は 父のいつくしみに報いた気を 燃やしているのだ

ああ
人類の道程は遠い
そしてその大道はない
自然の子供等が 全身の力で拓いて行かねばならないのだ

歩け、歩け
どんなものが出てきても 乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に 踏み込んでゆけ

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため   


【詩人の肉声】 折口信夫(釈迢空)の場合


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