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【橋川文三の文学精神】 十 橋川文三と日本浪曼派

2014年06月23日 06時00分00秒 | 橋川文三の文学精神6~10

 


    【橋川文三の文学精神】  第10回   内容目次@本文リンク


  

   十 橋川文三と日本浪曼派

 

  筑摩書房の『近代日本思想史講座』(全10巻・別巻1)の第一巻『歴史的概観』は1959年7月に刊行されたが、橋川文三は「第三篇 近代思想の窒息」の「第二章 昭和十年代の思想」の部分を分担している。この「昭和十年代の思想」の中で橋川は日本浪曼派の歴史的位置づけを次のように概括している。

 ――それ(=日本ロマン派、引用者注)は、背景的には満州事変の衝撃から生まれているが、その主要メンバーのすべては、いずれもマルクス主義運動の洗礼をうけたいわば最後の世代であった。かれらのいう民族的なるものの内容はたんなる古代・古典のいいではなかった。日本ロマン派の創立宣言である「日本ロマン派広告」(昭和九年)を見ても、そこには民族とか古典とかの字句は一つも見当たらず、むしろこの運動がすぐれて世代的なるものであり、マルクス主義敗退の飛沫を真向からあびたのちに「ロマン的自我」を再建しようとする試みであったことが明らかにうかがわれる。この運動が思想史上ユニークな位置を占めるのは、その中心メンバーとみられる保田与重郎にとくに明らかにみられるように、ひさしく埋もれていた国学的思想がこの時期に発現したということであろう。彼は、いわゆる「転向」について、それを「もっとも日本的なるもののひとつ」と呼んでいるが、このような解釈の基底には、たんなるオポチュニズムとことなる国学の論理がよこたわっていた。それは、本来的に主体的決断の意味を解消するものであったが、彼は、マルクス主義的実践の不可能に直面した地点において、その実践に含まれる弁証法的契機を国学的に換言したのである。それによって、ひとたび「政治主義」「公式主義」の「ポチ犬」(亀井勝一郎)にすぎなかった自我は、すべて与えられたるものの流れに不断に「共感しながら参加する」(カール・シュミット)ロマン主義的主体として再生する。しかも、その場合、共感の対象はあるいは日本帝国の侵略行為そのものであり、あるいはソヴィエト革命であることも、フランス革命であることもできたのである。マルクス主義における世界史の必然は、このようにしてロマン化され、ロマン的自我は任意の出来事に共感することができた。ともあれ、マルクス主義をくぐった保田らが、国学の論理をこれに結びつけたのは、一種奇妙に「天才的」な着想というべきであった。 (橋川文三「昭和十年代の思想」『近代日本思想史講座1 歴史的概観』筑摩書房)

 

 この論文に示された日本浪曼派の思想史的位置づけは『日本浪曼派批判序説』に於いてはかくの如く圧縮される。

――私の考えでは、昭和の精神史を決定した基本的な体験の型として、まず共産主義・プロレタリア運動があり、次に、世代の順を追って「転向」の体験があり、最後に、日本浪曼派体験がある。このそれぞれの体験は、概して現在の五十代、四十代、三十代のそれぞれの精神的造型の根本様式となっており、相互の間に対応ないしは対偶の関係がある。この三者は、精神史的類型の立場からみれば、等価である。 (橋川文三『日本浪曼派批判序説』)

  橋川文三が『批判序説』を書いていた頃、橋川の生活は困窮の極みにあった。生活費に充てるため蔵書はすべて売り払われて手元に彼の所有する書物は一冊も残っていなかった。丸山真男から借りたカール・シュミットの『政治的ロマン主義』を、これまた友人から借りたドイツ語辞書を繰って自分の研究のためにぽつぽつと訳しながら、『批判序説』の原稿を書いて、一高の同級生が始めた同人誌に発表したのである。橋川文三の蔵書は没後に寄贈され橋川文庫と名付けられて蔵書目録も作成されたが、蔵書目録には橋川の十代から三十代半ばまでに読んだ本についてのリストが、その後再購入したものを除いて全部欠けているのである。橋川の膨大な読書経験は、書かれたものからその片鱗を伺うしかない。橋川文三の文章は噛んで含めるような滑らかな印象があるため、気づきにくくなっているのだが、じつは膨大な学知と豊富な文学体験が支えになっている。

――私が保田のものにいかれた時期は正に私の未成年期であり、文字どおりドストエフスキーの『未成年』と、保田の「ウェルテルは何故死んだか」とは同じ昭和十六年の秋に私の読んだものであった。これは閉塞された時代の中で、「神というと大げさになるが、何かそういう絶対的なもの」を追求する過程での不吉な偶然であった!? (同『日本浪曼派批判序説』)

  ここで保田の名と並べてドストエフスキーのことが語られている。両者が並べられた理由について橋川は、何かそういう絶対的なもの」を追求する過程での不吉な偶然とコメントする。これだけでも無限の連想を誘うに充分であるが、ここで語りたいのはそのことではない。ドストエフスキー全集は橋川の高等学校時代からの愛読書であり、ドストエフスキーを真正面から扱った作品が橋川には何篇かある。「絶対者の探求と政治」においてはドストエフスキーの名は北一輝と並べて論じられている。


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■著者より

●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●ドストエフスキーの造型した奇怪な人物スタヴローギン。橋川文三は『悪霊』に震撼された。


【橋川文三の文学精神】 九 宮嶋繁明と後藤総一郎

2014年06月22日 06時00分00秒 | 橋川文三の文学精神6~10

 
   【橋川文三の文学精神】
  第9回    内容目次@本文リンク

 


 

 

   九 宮嶋繁明と後藤総一郎

 
 橋川の『鏡子の家』評によって橋川と三島の対話的交流が開始された。橋川文三の『三島由紀夫論集成』と三島由紀夫の『文化防衛論』には両者の対話的応答のほぼすべてが収録されている。ほぼすべてと限定を付したのは三島の『日本文学小史』も両者の応答の極めて重要なエピソードと私は考えているからである。

 橋川文三(1922ー1983)三島由紀夫(1925ー1970)
□対話的交流クロニクル
   (☆は橋川文三、★は三島由紀夫の作品)

 

☆「若い世代と戦後精神」 『東京新聞』1959年11月11日~13日

★「橋川文三宛三島書簡」 1964年6月15日 。「夭折者の禁欲」執筆および『歴史と体験』の献本に対する礼状

☆「夭折者の禁欲」1964年7月 『三島由紀夫自選集』所収

★「橋川文三宛三島書簡」1966年5月29日 。「三島由紀夫伝」執筆に対する礼状

☆「三島由紀夫伝」1966年8月 『現代日本文学館』42「三島由紀夫」所収

☆「中間者の眼」 『三田文学』1968年4月号

★「文化防衛論」 『中央公論』1968年7月号

☆「美の論理と政治の論理」  『中央公論』1968年9月号

★「橋川文三氏への公開状」  『中央公論』1968年10月号

★『日本文学小史』 『群像』1969年8月号~1970年6月号

☆「三島由紀夫氏への回答」 『中央公論』発表なし

※注 最後の橋川文三による「三島由紀夫氏への回答」は書かれるべくして書かれなかった両者の対話的交流の最後を締めくくるべき作品である。

  宮嶋繁明は橋川文三に師事し(昭和48年卒、橋川ゼミ十三期生)、著書『三島由紀夫と橋川文三』を2005年1月に刊行した。宮嶋繁明の観点は橋川による三島への思想的影響の分析が主になっていることもあって、その点では克明な事実描写がなされている反面、やや三島の巨きさが捉えきれていない印象を受ける。ただ、橋川文三の名を冠した著作は、宮嶋繁明氏のこの書一冊しか現時点では刊行されていない。途方もない学識を散りばめ、謎かけが多い橋川文三の文章を論じて一冊の書物にまとめるのは絶望的なまでに困難であり、そのことが橋川文三の名を冠した書物がまだ一冊しか出ていない原因であろうと思われる。その意味で『三島由紀夫と橋川文三』は先駆的であるにとどまらず、両者の思想的交流を克明に描いて鮮やかであり、三島由紀夫論としてもまた橋川文三論としても完成度の高い出色の名著であることは疑いえない。

 別に橋川文三の後継者としては明治大学の日本政治思想史の講座を引き継いだ後藤総一郎(1933―2003)がいる。後藤は橋川没後の追悼文「お別れの言葉」において、「先生独自の日本政治思想史の巾広い開拓」について述べている。

――日本曼派批判を出発点として、北一輝を中心とする昭和ファシズムの新たなる証明作業を、近世水戸学の新たなる思想的位置付けを、明治維新の夜明けを指差した思想家吉田松蔭の思想核を、やっかいな西郷隆盛への関心を、アジアは一つであると念じた岡倉天心の世界を、そして柳田国男の民俗思想の先駆的な再評作業を、さらに一方、石川啄木をはじめとする近代日本の文学思想から、太宰治や三島由紀夫の文学思想史にわたる世界をというように、壮大に展開され続けた先生の思想史の世界に、わたしたちはただあれよあれよと追いついてゆくのが精一杯なほどでした。

  後藤総一郎はこのように橋川の研究した対象の広大さを賛嘆したのである。後藤は橋川文三の柳田国男研究を主に引き継ぎ発展させた。その橋川文三は竹内好の国民文学論を引き継ぐ形で思想史家としての歩みを開始した。橋川の著作家としての仕事は日本浪曼派の思想史的位置付けを定位することから開始された。


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■著者より

●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
橋川文三告別式における後藤総一郎氏の弔辞の音声記録が、ミクシー"橋川文三を考えるコミュニティ"の管理人氏により公開されています。
http://yahoo.jp/box/xhC-VV

後藤総一郎の研究した柳田国男。かの懐かしくてしなやかな知性は例えばこんな紹介のされ方がふさわしい。この語り口は柳田の本質を指し示している。


【橋川文三の文学精神】 八 猪瀬直樹の『鏡子の家』評価

2014年06月21日 06時00分00秒 | 橋川文三の文学精神6~10


   【橋川文三の文学精神】
  第8回    内容目次@本文リンク



   八 猪瀬直樹の『鏡子の家』評価

 

 話を戻して、三島の『鏡子の家』を猪瀬はどのような観点から評価したか。猪瀬直樹著作集二巻『ペルソナ 三島由紀夫伝』所収の、佐伯彰一との対談の中より猪瀬の発言を引用してみる。

猪瀬 父親の梓はいわば挫折したエリート官僚の典型ですが、それと対照的な存在が岸信介です。日本の近代をつくりあげてきた本質的な部分を抱えた秀才が、一九五九年に生産力倍増十ヵ年計画をつくる。それが池田内閣の高度経済成長に繋がっていくわけですが、それは満州国で展開した革新官僚の計画経済が源泉にある。一九六0年代に高度経済成長を実現していく過程で、日本の伝統が持っていた味わいが、一気に経済というブルドーザーによって突き崩されていく。それはわれわれ日本人が有史以来願った、飢えなく暮らせるという願望を実現するものではあったが、他方でそれによって何かが失われていくことを予感したものが『鏡子の家』だった。

  この発言を受け、佐伯彰一は、「それは非常に面白い解釈で、作者が生きていらしたらたいへん喜ぶと思うな」とコメントしている。この猪瀬の解釈は、橋川の『鏡子の家』評を踏まえた上で、その歴史的に正確な知識の補完を心掛けたものとして読むことができる。ちなみに『日本の近代 猪瀬直樹著作集全12巻』が、猪瀬の著作集の正式な表題である。『ペルソナ 三島由紀夫伝』はもともと日本の近代を解き明かす一環として書かれた著作であった。このような問題意識とその展開の内実は紛れもなく橋川文三の方法を継承したものである。


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■著者より

●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●あまり知られていない事実だが猪瀬直樹は橋川文三の後継者になる筈であった。明治大学の「日本政治思想史」の講座を橋川は持っており、橋川は自分の後継として猪瀬直樹を考えていたのである。諸事情により橋川のこの構想は実現しなかったが、以来猪瀬直樹は作家としてもまた政治家としても、偏見と曲解のまなこに晒され続けている。しかし偏見のメガネを取り去った時見えてくるのは意外な猪瀬直樹像である。次に紹介する猪瀬像は橋川文三の眼に映ったままのものに近い。
●ビブリオバトル in 紀伊國屋 突破する力(猪瀬直樹) 2011年10月10日 (月・祝)
 予め内容に予断を持って、聞きたくないな、パスしようかなとお考えになる方もいらっしゃるでしょう。この女子学生の明るく爽やかな声を聞いて、「これは聞いてよかった、得した」とお感じになる方もいることでしょう。まずは、白百合女子大学三年(当時)の吉田ユカさんの声に耳を傾けてみて下さい。猪瀬に対する偏見で凝り固まった方には特にお勧めです。


【橋川文三の文学精神】 七 半存在としての橋川文三

2014年06月20日 06時00分00秒 | 橋川文三の文学精神6~10

 


 
   【橋川文三の文学精神】  第7回   内容目次@本文リンク


 


  七 半存在としての橋川文三

 

   橋川文三の著述から「半存在」というキーワードを抜き出して、三島由紀夫の「英霊」と対比せしめたのは田中純氏である。田中純『政治の美学――権力と表象』東京大学出版会2008年の内容目次を示しておく。

II 権力の身体 ——政体論   4「英霊」の政治神学 ——橋川文三と「半存在」の原理
二つの生命 幽顕思想と祖霊信仰 天皇制政治神学の教理問答 「死のメタフィジク」と「死に損い」——橋川文三の思想的根拠(一) 「超越者としての戦争」——橋川文三の思想的根拠(二) 「美」に抗する「歴史」——橋川文三の思想的根拠(三)

   橋川文三が「半存在」の原理について説いたのは『幻視の中の「わだつみ会」』というテキストの中においてであった。これに対峙したのが三島由紀夫の「英霊」の神学である。『日本文学小史』は三島の晩年に書かれた思想的に重要な著作であり、『文化防衛論』とは比べ物にならないほど内容稠密な問題作である。未完に終わったのが惜しまれる。しかしこの橋川の発言はどういうことか?

 
野口  「日本文学小史」なんてのはどう思われますか、未完結に終わりましたけれど。

橋川 ああゆうのは読んでないの。ぼくは途中までだからね、三島については。

 (「同時代としての昭和」 野口武彦と橋川文三の対談 1976年10月)

 
 
これはたいへん残念な発言である。「いつかお目にかかる好機を得たいものと存じます。入梅の折柄、御身御大切に」(橋川文三宛三島書簡 昭和三十九年六月十五日付)と三島は橋川に伝えていた。 また別の書簡では、「御高著『日本浪曼派批判序説』及び『歴史と体験』は再読、三読、いろいろ影響を受けました。天皇制の顕教密教の問題、神風連の思想の正統性の問題など、深い示唆を受けました。いつかそんなあれこれのことについて、ご教示をいただきたいと思ってをります では何卒御自愛御加養を祈上げます」(同 昭和四十一年五月二十九日付)とまで述べている。

 かくもへりくだって橋川に対したことのある人物への返信がなぜ書かれなかったのか。。三島由紀夫の橋川文三に対する誠意は疑い得ないだけに、残念な思いがどうしても残るのである。

 
橋川 あれはしかしどうなってたかな。ぼくへの反論のあれはよく憶えてないけどね。彼の反論というのは何回か読んだんだけれども、ぼくが印象に残っているのは、確かに橋川にやられたけれども、ちゃんとそういうことはよくわかっているんで、逆手をとってるんだと。しかし逆手というのがよくのみ込めなかった。どういう意味か。よくわからなかったな。(同対談)

  三島はこの時の反論で言葉が足りなかった分を、橋川は当然読んでくれるはずだと期待もし、また当然想定もした上で、全力投球で『日本文学小史』(1969年『群像』に発表)を書き上げている。橋川は『日本文学小史』を読み込んだ上で、三島の反論に再度反論を書いてもよかったのではないか。


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■著者より

●三島・橋川論争の意義とは何か。それは猛り狂う「英霊」としての日本武尊(三島)か、それとも慈愛に満ちた「半存在」としての日本武尊(橋川)なのか。名を巡る争いであると同時に、真の英雄的個性の両者による日本武尊の存在奪取を賭けた壮絶な戦いでもあった。
●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●田中純『政治の美学――権力と表象』東京大学出版会2008年 宣伝ビデオ
 


【橋川文三の文学精神】 六 三島・橋川論争の起源

2014年06月19日 06時00分00秒 | 橋川文三の文学精神6~10


   【橋川文三の文学精神】
  第6回     内容目次@本文リンク



  六 三島・橋川論争の起源

 
   橋川文三は三島由紀夫の『英霊の声』という作品について、「ここに描き出された天皇と英霊の姿が、恐らくあの浄福の時代に現実にそうであった結びつきを絶たれ、すべてノスタルジアのもつあの美化作用にあまりにも浸透されている」と述べ、極めて否定的な評価を下した。

   しかし、ここでも問題になるのは、三島の戯曲的才能である。『英霊の声』という作品で、三島は自身を英霊の声と化して次のように語った。


――-天翔けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑う。
かかる日に、

などてすめろぎは人間となりたまいし。 (三島由紀夫『英霊の声』

 
 この英霊に対する三島由紀夫の渾身の同調・言挙こそが橋川・三島論争の起源となったのであった。

  それでは橋川文三は三島由紀夫の戯曲的才能を読み切っていたか。読み切っていなかったと私は思う。『文化防衛論』を端緒として開始された橋川と三島の論争。それは本質的には半
存在としての橋川文三と劇作家三島由紀夫との間で戦われたのである。日本武尊の存在奪取がその論争の隠れた動機であり動因であった。そのことは三島にとっては自明であったが、橋川にとってははっきり見えていなかったように思われる。

   三島由紀夫にとって日本武尊とはいかなる存在であったか。『日本文学小史』や『三島由紀夫と東大全共闘』でも日本武尊のことは語られているのだが、ここでは三島の父平岡梓の回想録から引用しておく。

――-倅は、つねづね、「日本武尊は兄貴を殺している。父の女を横取りした兄が、食事どきになっても厠に入ってまま出て来ないので、日本武尊が踏み込んで厠で彼を殺し、部屋に帰って来て、平気でまた父と一緒に食事をしたというのだ。日本武尊のこの気質の烈しさにびっくりした父は、彼を戦場に追い出し、彼は転戦また転戦でついに病に倒れ、白鳥に化してしまった。そもそも日本の近代化はここからはじまるのだ。これ以来、父というものは家を治めるために、烈しい気質の息子の存在を嫌うようになった。実はこの烈しさこそ人間の根本なのだが」と言っておりました。(平岡梓著『倅・三島由紀夫』文藝春秋・昭和47年5月刊)

   この三島の言明に平岡梓は、「これは僕に対する批判でもあったようです」とコメントしている。人間天皇と神的天皇の分裂は父親の立場からも感受されていたのである。

  猪瀬直樹の『ペルソナ 三島由紀夫伝』は、平岡家三代の物語を描くことによって、最終的に三島由紀夫が日本近代の矛盾を体現する存在であったことを証明しようとしている。その意味では橋川の思想史的方法を彼は継承している。 しかしそこにおいて三島の父親平岡梓に対する見方がやや同情が浅いという印象が残る。三島の思想=人間天皇と神的天皇の分裂という理念が、父と息子による共犯であることの、いわば父子結託による神話的詐欺であることへの視点がそこでは捨象されてしまっている。


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■著者より

●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●三島にとって日本武尊とは「人間天皇と神的天皇の分裂」を象徴する存在であった。では橋川文三にとって日本武尊はいかなる存在であったか? 橋川文三に思い描かれた日本武尊像は三島のものとは相当違っている。むしろ正反対といっていいくらいに人間味溢れるものであった。
参考1⇒ 日本浪曼派とは何か    参考2⇒ 
三・一一以後の思想