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【霊告日記】第十八回 永遠の詩人アルチュール・ランボー 青いカナリア

2014年10月31日 10時00分00秒 | アルチュール・ランボー

【霊告日記】第十八回 永遠の詩人アルチュール・ランボー     青いカナリア

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     永遠の詩人アルチュール・ランボー
     第一部「夏の日のランボー

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                         Arthur Rimbaud (1854-1891)


 朝、目覚めた時、すでに世界戦争は始まっていた。思い出そう、あの日、我々は何者であったのか。そして私は誰であったのか。

 戦争は夏の日に始まった。一八七〇年七月十九日、普仏戦争勃発。世界戦争の朝が訪れた。その時、アルチュール・ランボー、十五才。言葉が届く―ー「夏の日の絶望」。戦闘は年を越えて続けられ、黒煙と砲声の中から、パリ・コミューンの成立が宣言された。世界最初の社会主義革命は一八七一年三月一八日から五月二八日まで持続した後、ビスマルクの手によって倒された。コミューンの兵士は全員虐殺された。パリに「地獄の季節」が訪れる。


  

【コミューンによってパリ市内に築かれたバリケード】


 ランボーは戦争が始まって以来狂ったように脱出を繰り返し、第三回目の家出でパリから故郷のシャルルビルに戻ったのはコミューン成立の八日前、三月十日のことであった。革命のパリを見据えながら、一八七一年五月十五日の日付をもつ「見者の手紙」が書かれる。以来、ランボー論が書かれるたびに、数しれず引用されてきた「見者の詩法」は、この手紙の中で明らかにされた。人間精神の至高の高み・最も力強い決意表明・恐るべきランボーの「見者の手紙」を私もまた全文引用しよう。ただし、ランボーへの変らぬ尊敬の意思を示すために、次の一行の白い空間の中に。誰もがこのような場所でランボーの言葉に出会うべきだ。「見者の手紙」が置かれ、白熱して震える一行の空間がここに設定される。さあ、行こう。精神の秘密と出会うためのただ一行。その空間の中へ。

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 宇宙のエア・ポケットから無事帰還。隠された宝石の捜索劇は終わった。まずは熱いお茶を一杯、そしてもう一杯。

 「見者の手紙」を書き終えてからのランボーの行動は素早い。ヴェルレーヌとの出会い、そして常軌を逸した放浪と叛逆の旅が始まる。このころのランボーの生活は、年譜と『地獄の季節』を照らし合わせれば判る。嵐のような生活は、ヴェルレーヌのランボーに向けて発射された一発の銃声と共に終った。一八七三年七月十日のことである。『地獄の季節』は、その夏、一挙に書き下ろされ、十月二四日に印刷も完成。金を全然払う気のなかったランボーは、仕上がった見本刷りを火に投げ込んだ。灰になって消滅した筈の『地獄の季節』を、今我々が読むことができるのは、様々な偶然の事情が重なったためである。以来、無数の青春が、様々な場所で、様々な時代に、たかが十八才のランボー一人のために、それぞれの「伝説の午後・いつか見たランボー」を繰り返す。愚かにも、そして光栄にも、私もまたその一人に加わってしまった。

 『地獄の季節』の中で予告した通り、ランボーはアフリカへ旅立ち、激烈な放浪の生活を繰り返して、旅の傷がもとで三七才で死んだ。死体となって故郷シャルルビルに帰るランボーに、もっともすばらしい葬送行進曲を! ぼくらはその周りで花束を撒き散らしながら踊ろう…………。

                アビシニアのランボー

 それにしてもランボーの死の瞬間の光景を思い描く時、例えば『地獄の季節』の中に書かれたこんな言葉を、どう理解すればいいのだろうか。

「これもやはり人生だ! ――この地獄墜ちが永劫に続くものとすれば! 自分の手足を切りとりたいと願う男、これは地獄墜ちの資格がたっぷりあるのではなかろうか?」(「地獄の夜」高橋彦明訳)

「それから何だ! ……他のやつらが二十年生きるならば、おれだってあと二十年生きてやる……いや! いや! 今おれは死に反抗する!」(「閃光」高橋彦明訳)

 片足を切断し、十八年後に死亡。それが『地獄の季節』を書いたランボーをその後に見舞った現実であった。

「おお、不思議、一体これは!」(シェイクスピア『ハムレット』福田恒存訳)

……驚くホレイショーに、ハムレットは答えた。

「だからさ、珍客はせいぜい大事にしようではないか。ホレイショー、この天地のあいだには、人智の思いも及ばぬことがいくらもあるのだ」(同、『ハムレット』)

 シェイクスピアの仕掛けた劇場の真実に思い至るべきなのか? たしかに想像力は現実を越えて軽々と飛び回る全能の力をもっている。しかし、想像力を凌駕する現実に出会うためにそれを使用するのでないならば、我々の生活はいつまでたっても貧しいままで終るしかないだろう。想像力を疾駆させた果てに待っているもうひとつの現実、そのような現実こそが、我々の出会うべき唯一の場所だ。驚嘆のただ中で我々は真にいつか出会うことが出来るだろう。人生の入口で、世界叛乱の季節に生まれあわせた我々には、こうした危機の頭脳となって生きるより他に方法がないのだ。

 こうして、その肢体の一端をさらして登場を予告される我等、電子ネットワーク戦士の青春!

★悲鳴を上げたカナリア・・・ランボーこそはその悲鳴が世紀を超え国境も越えて届いた青いカナリアであった。 第二部「伝説の午後・いつか見たランボー」繙読のまえの間奏曲「青いカナリア」★


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       永遠の詩人アルチュール・ランボー
     第二部「伝説の午後・いつか見たランボー」


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 朝、目覚めた時、すでに世界戦争は始まっていた。思い出そう、あの日我々は何者であったのか。そして私は誰であったのか。

 上京して最初の秋、その頃私が通っていた明治大学和泉校舎校門横の壁面には、「十一月に死す」と大書された落書きがあった。いまでは遠い記憶のように霞む一九六九年十一月決戦の直前の気配を、私はいま思い出している。街頭が叛乱の青春一色に塗りつぶされたあの季節に、私もまたそこに居あわせた一人であった。ある日のこと、政治的言語ばかりを呼吸する生活が続くのに疲れ、ふと手にした詩の雑誌の巻頭論文、そこに引用されていたのが、次のランボーの詩であった。

  まだまだ前夜だ。流れ入る生気と現実の優しさのすべてを受け入れよう。そして夜明けが来たら俺達は、燃え上がる忍辱の鎧を着て光り輝く街々に入るのだ。(アルチュール・ランボー『地獄の季節』「別れ」記憶によるため訳者不詳)

 もしも人間の精神を隈なく写し出す一つの鏡があるとしたら、「まだまだ前夜だ」、この一語こそ、私にとってまさにその鏡であった。それだけではない。この言葉の中には時代の認識すら秘められていたのだ。世界叛乱の時代に都市生活の第一年を大学生として迎えた私に、詩人の指令は速やかに届いた。……流れ入る生気と現実の優しさをすべて受け入れよ、と。そして前夜のあとには夜明けが来る筈であった。夜明けと共に光り輝く街々が現れる。そこへ我々は決意も固く鎧で武装して入って行くのである。

 「前夜」「夜明け」「光り輝く街々」、すべてが未決定で混沌のこの新たなる出発の時期に、これらの象徴的言語は輝く多面体の水晶のように隈なく私の内面を照射したが、学生生活が一歩内部に踏み込むにつれて、ランボーの私への呪縛は、次の詩句によって、より純化された。

  すべてに縛られて
  なすこともなく過ごした青春よ、
  心がせんさいなばかりに
  おれは生活を失ってしまった。
  ああ! 時よこい、
  すべての心の燃える時よ!
  (アルチュール・ランボー「忍耐の祭り」高橋彦明訳)

 私とは誰か? 詩人の究極の質問にしてかつ最初の質問にランボーは答えた。解かれるべき謎・暴かれるべき神秘は自己の外部に存在するのではなく、自己自身が一個の絶対的神秘であることを、神秘のコペルニス的転回の意味を、この質問はそれ自身の中に含んでいるのだ。かってエジプト人は到達しえた究極の知恵と信じたものを彼らの神殿に彫り付けた。我々は何者か? 「我々はいまあるところのものであり、かってあったところのものであり、将来あるところのものであろう」。この碑の前に立ったすべてのエジプト人は、人間自身を、時間の制約を越えて現在・過去・未来に渡って飛び回る鷹のように自由な存在に感じたことであろう。だが気付いて頂けただろうか? ランボーのこの詩においてもまた、詩人はまるで正確な設計図を描くように自分の過去・現在・未来を一望のもとに見渡しているのである。過去を描写し、現状を規定し、そして未来を眺めている。極めて短いが、しかし「私とは誰か」という質問に、すべてを答えているランボーの詩がこれだ。

 ランボーから発せられる絶対への指令を私は次々に受け入れようと試みた。ランボーへの熱狂が始まった。それは原初の自然に近づいた日々、不可能への痙攣の日々であった。だが、その頃のもはや絶対的に失われ去った無垢の季節をどのような言葉を連ねようと今に蘇生は不可能である。過ぎ去った夏、旅のある日、小高い山の中腹を素早く走る四角い影を見た。それはまさしく大空を駆ける四輪馬車でなければならなかった。真白い雲が空をおおい、そこから覗いた三角形の青空、それは神の眼球でなければならなかった。旅の終りの日に駅で見送ってくれた女たち、それは季節と共に死滅する美少女でなければならなかった。だがこれらはまた別の事だ。放浪の日のランボーの記憶に、いま・ここの私から関係の糸を繋げようとしても、その糸はプッツリとすぐに切れてしまう。

 ランボーと共に過した吉祥寺の街を私は思い出す。ジャズ喫茶「ファンキー」の狭い階段を降りた地下室では、ドラムの音が、ベースが私をアフリカへの気配に包んでくれた。そして目をランボーの詩集に落せば、たちまち開始されるランボーのヴォーカル! ランボーの肉声を私は何度も何度も聞いた。ミック・ジャガーのヴォーカルよりも、第九の合唱よりも素晴らしい、いやそもそもこの世では絶対に聴くことができないだろう不可能の音楽を私は聴いた。私はもはや他にどのような芸術表現も必要としなかった。不可能の絵画、不可能の演劇、不可能の映画、不可能の美術、不可能の舞踏。それらすべてはランボーの言葉の中にあった。それらすべては一冊の詩集の中に存在していたのである。

 さて、生誕のその日以来、生活のさまざまな局面を越えて生き延びてきた最も深い秘密を、もはや明かさなければならない。

 いつものように私は「ファンキー」の地下でランボーを読んでいた。否、ランボーの叫びを聞いていた。ジャズがあり、テーブルがあり、黒い壁があった。スポット・ライトに照らされたランボーの書物に、頭蓋を傾けた姿勢のまま、一時間、二時間経った。肉体はジャズのリズムの中に浮かんでいた。叫びは私の魂の中に満ちた。恐るべき言語は次々と聴覚から頭脳の中に入り込み、ランボーのさまざまな眩暈は一挙に私を襲った。ジャズのボリュームが上げられ、それを上回る激しさでランボーの狂気の声が耳元で響いた。ついに爆発だ! 錯乱だ! 栄光だ!

 ついに私の頭脳はある至高の精神状態へ突入していった。私は限界点を越えて絶対的明晰の方向へ限りなく加速されていった。そのようにして私に訪れた時間にしてわずか二・三秒の名づけようもない事態を普通の言葉で伝えるのは無理であろう。そこではすべてが起こったし、また何も起こらなかったともいえる。コップは投げられ、テーブルは倒された。私は躍り上がって右に左に襲いかかった。銃弾は発射され、人々の頭蓋から血潮が吹き上がるのが見えた。しかし、事実は私はこれらのことは何もしなかった。もしそれが事実でないのなら、事実の方が間違っている。こんな曖昧な文学的レトリックを付け加えたとしても、それは無意味に近い。

 昨日、ここまで書いてすぐ後に、シェイクスピアの『夏の夜の夢』を観た。そこで、この後をどう続ければいいか、まことに奇妙だが、しばらくシェイクスピアに任せてみよう。『夏の夜の夢』第五幕冒頭、シーシアスは語る……

 ……妙だな、本当とは思えぬ。到底、信じられぬのだ、あんな奇妙な昔話や、子供くさいお伽話は。恋するものや気違いなどというものは、頭のなかが煮えくりかえり、在りもしない幻をこしらえあげるらしい。あげくの果てに、冷静な理 性ではどうにも考えつかぬことを思いつく。物狂い、恋するもの、それと詩人だ。彼らはいづれも想像で頭が一杯になっている。広大な地獄にもはいりきれぬほど、たくさんの悪魔を見るものがある。それが、つまり、狂人だ。恋するものも、やはり気違い同様、どこの馬の骨かわからぬ乞食女の顔に、国を傾ける絶世の美女の再来を想う。詩人の目とて、同じこと、ただもう怪しく燃え上がり、一瞥にして、天上より大地を見おろし、地上からはるかの天を見はるかす。こうして詩人の想像力が、ひとたび見知らぬものの姿に想いいたるや、たちまにして、その筆が確たる形を与え、現実には在りもせぬ幻に、おのおのの場と名を授けるのだ。強い想像力には、つねにそうした魔力がある。つまり、何か喜びを感じたいとおもえば、それだけで、その喜びを仲だちするものに思いつくし、闇夜にこわいと思えば、そこらの繁みがたちまち熊と見えてくる。それこそ、何のわけもないこと!
  (シェイクスピア『夏の夜の夢』福田恒存訳・新潮文庫)

 サンキュー、ミスター、シェイクスピア。
 さて、冗談はすばやく忘れ、もとの地下室に戻ろう。

 視覚でとらえられ、ほとんど同時に幻聴されたランボーの言葉は、次々と頭脳の中の映像として繰り広げられていった。一言で言って私は、夢の中の現実の領域へ完璧に踏み込んだのである。あるいは私はその時、本当の狂気の一歩手前にいたのかもしれない。しかし、ちょうど全速力で疾走する自動車から本能的に身をかわす人間のように、私はある種の危険を身に感じて身を引いた。テーブルの上のランボーの書物からゆっくりと視線を上げていった。しかし、幻聴がしだいに遠のいていくその短い数刻の間にも、新たな気配はまた起こった。目を上げた私の前方に拡がったのはジャズ喫茶の室内だけでなく、その黒い壁を越えてはるか彼方の地平線まで続く黒い砂漠であった。そして前方約5米の地点に、両手をだらりと下げ、わずかに斜め向きの姿勢で、こちらの方を見つめている一人の若者が立っているのが見えた。アルチュール・ランボーであった。戦慄が私の中を走った。身体は動かなかった。叫ぼうとしたが何も叫べなかった。ランボーの目をまっすぐに見据えながら、私の魂は瞳から発する光と共にランボーの肉体の中に入り込み、再び戻った。砂漠はゆらゆらと揺れた。私はもう私が誰であるのか忘れ去った。ランボーが見える。そこへ入った私は、私である。だからランボーは、私だ。ではランボーが見つめている人間は誰だろう? 私ではない。私ではない。私が還っていかねばならぬ虚ろな容器、滅ぶべき肉体に過ぎぬ。私を見つめ続けていたランボーがかすかに笑った。ランボーは、ゆっくりと肩を後方へと向ける気配を示し、それを合図にすべての憑依は終わった。

 よろめきながら「ファンキー」の戸口を出ると、正面に見える映画館のガラス窓はまだ地震のように痙攣していた。かたわらを振り向けば、道路もまた揺れていた。私は「ファンキー」の戸口を振り返った。その中に座っていた自分のことを思った。何かが起こり、もはや永久にそれは終った。私は何かを置き去りにしたまま帰ろうとしている。そんな気もした。ランボーは砂漠の彼方へ消え、もはや帰っては来ないだろう。これが最後の別れだ。そんな気もした。こうして私の「伝説の午後・いつか見たランボー」はただ一度上映され、以後永久に倉庫に眠ったのである。

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 それからもランボーへの熱狂は続いた。私にはランボーと共に断崖の果てまで行く勇気がないわけではなかった。断崖の上で踊るダンスのように、危険なものと美しいものとがもつれあう場所へと私は追い詰められていった。意識の危機は近づいた。神秘の力を求めて、呪文のように、この詩を暗唱した日々があった。

 俺たちは毒薬を信じている。いつの日にもこの命を洗いざらい投げ出すことを知っている。(アルチュール・ランボー『飾画』「酩酊の午前」小林秀雄訳)

 毒薬を信じている。こう呟くだけで不思議な力を私は得た。だが毒薬とは何だろう? それはこの世に決して存在しないもの、また決して存在し得ないものであった。ド・ク・ヤ・ク。この馬鹿げた空気の振動が、不可能へ通じる為の魔法の痙攣、であった。国分寺駅南口の急な坂を、頭脳にはただこの詩だけを詰め込んで、私は歩いていた。一つの言葉が地上に生まれ、その言葉が私と共にこの坂を歩いて行った。それは人類に初めて言葉が誕生した瞬間、言語が肉体と共に踊った最初の日であった。命を差し出す事を交換条件に、私はあらゆる力を得た。こうして私は恐るべきテロリストとなった。途方もない不協和音の中を私は歩いて行った。頭脳の中に水爆は生まれ、その信管に手をかけて低く私は笑った。「なぜ恐れる事をやめ、私は水爆を愛するようになったのか」。その解答はこの日の私が握っている。私の心の分身達が、この頃、現実の世界でも、爆弾を投げ、旅客機をハイジャックした。しかし現実のテロリズムよりも、更に激しいテロルを私は愛した。もちろん、果てまで行ったこの頃の生活を、その惨めさを、人は笑う事はできるだろう。しかし、私はけっして笑わない。

 詩、それを、私達に訪れた究極的な幻想の形態として捉えるならば、私達の宿命はすでにその時、幻想が生活を解体するか、それとも生活が幻想を絞殺するか、この二つの岐路として選択されてしまっており、決してそれ以外の道はない。ランボーへの直接的な熱狂は、学生生活が終りを告げると共に、終った。新しい生活が扉を開き、私はその中へ入って行った。過ぎ去った熱狂の季節、ランボーの呪縛を、自分の目の前において見つめる事のできる時間が始まった。狂気が理性と対面した。

 ひとつの疑問があった。すべてのランボーの詩の中で、なぜこの三つの詩だけがあたかも特殊な位置を占めるかのように、学生生活のそれぞれの時期に私を完璧に呪縛しえたのかという問題である。しかし、この疑問は簡単に解ける。私も人並みに、最初はこれから始まる学生生活に希望を抱き、中程にはもっと何かやらねばと苛立ち、終わり頃には自由な時間を喪失する瞬間の到来に非常に焦った。それだけの事にすぎない。馬鹿馬鹿しいことではあるが、これは学生の自然な生活感情であるから何も不思議はない。この三つの詩の内部に私は宙吊りになった生活者を見た。それは各々の時期の私である。

 人間は感情を持つ、これは抽象的な言い方である。人間は自分の置かれた生活の様々な局面において、それに即応した生活感情を抱く、そこを出発点として人間は様々な事を考え、あるいは悩みあるいは行動する。こう言わねばならない。それぞれの時期に存在した自然な生活感情を出発点にして、一個の存在が何者かに到達しようと情熱をふりしぼった。私の場合、それがランボーであった。これがランボーが私を呪縛しえた秘密である。すべての幻想は、根源的であればある程、深く実在的生活と関わりを持ってくる。幻想はただただ生活の中からのみ飛翔するからだ。こうして私は「生活幻想」の概念を発見した。「幻想史を編むならば、生活史の暗喩となるだろう」「生活幻想を徹底的に極めれば、必ず時代と相渉る」。ノートに書き記した自らの言葉を見つめながら、私はこれらの言葉が私の意識の内的推移の秘密を解く鍵であるだけでなく、人類史のパースペクティヴにおいて、すべての芸術表現の謎を解く鍵でもあると考えた。

 すでに二八歳のマルクスは、当時のドイツ哲学のイデオロギー的性格の暴露という、私とは別の動機と経路を辿って、私と同じ結論に到達している。

 意識は意識された存在以外のなにものかでありうるためしはなく、そして人間達の存在とは彼らの現実的生活過程のことである。
 人間たちの頭脳の中の模糊たる諸観念といえども、彼らの物質的な、経験的に確かめうる、そして物質的諸前提に結びついた生活過程の必然的昇華物である。

 これらのテーゼが書き記された『ドイツ・イデオロギー』の完成が、一八四八年のフランス二月革命のわずか一年半程前であった事に注意する必要がある。間近に迫った革命の気配が、マルクスに理論の成就を急がせた。そして、すべてを薙ぎ倒し転覆する究極的認識は、ただ青春の頭脳にのみ可能であった。

 しかし、マルクスの理論はマルクスのものではない。ランボーの詩はランボーのものではない。それらはすべて、生活幻想を徹底的に極める事によって打ち立てられた時代精神の塔である。そして我らの頭脳はすべて、あらゆる時代精神が訪れて祝祭の旗をなびかせるための通底器なのである。(終)

                    電子ネットワーク戦士・ダンボール 

 参照 ⇒ 究極の詩人アルチュール・ランボー Le Dormeur du Val 

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究極の詩人アルチュール・ランボー   Le Dormeur du Val   

2007年11月14日 23時02分00秒 | アルチュール・ランボー

 



「大空を行く四輪馬車」―― 究極の詩人アルチュール・ランボー

 


      
アンリ・ファンタン=ラトゥール画=左から二人目がアルチュール・ランボー。


「大空を行く四輪馬車」という表題は、アルチュール・ランボーの次の詩句を踏まえて作った。
おれは単純な幻覚には馴れた。おれは全く思いのままに、工場のかわりに回教寺院を、天使たちによって作られた鼓手学校を、大空の街道を行く四輪馬車を、湖底のサロンを見た。また怪物どもやさまざまの神秘を見た
(アルチュール・ランボー『地獄の一季節』高橋彦明訳、以下同じ)

 アルチュール・ランボーは私の出会った最初の詩人であった。 最初に読んだ西欧の長編小説は、スタンダールの『赤と黒』だったが、反逆児ジュリアン・ソレルに感情移入した浪人時代の体験は、ランボーの全面的な受容の準備になっていたと思う。
 ランボーの『地獄の一季節』は、「おれの記憶が正しければ、むかしのおれの生活は、あらゆる人の心が口を開き、あらゆる酒が流れる饗宴だった」という書き出しで始まる。
 饗宴の記憶。そしてそれがもう過去でしかないことの確認。失墜が前史として語られる。堕天使としてのランボー。語っているのは虚構の主人公だ。
おれの地獄堕ちの手帳から見苦しい二、三枚を破り取って見せてやろう
 この前口上が終わるとともに始まるのは、『悪い血統』という表題を持つ、世界史を舞台にした詩人のバーチャルな前史である。「おれはゴールの先祖からこの蒼白い眼、偏狭な脳みそ、それに喧嘩下手をゆずり受けている
 ゴール人を先祖に持つと言われても、西欧の人種のことだ。実感は湧かない。要は、出自が違うこと。先祖に根を持つ異端児の来歴を語ることに主眼があるとみなせばよい。
おれはあらゆる手仕事が嫌いだ。親方も、職人も、あらゆる百姓も下劣だ。ペンを持つ手だって鋤を持つ手と同じだ
 収入を得るために働くことの全面的拒否。たった一人のストライキ。この部分に共感して、シュールレアリストは文筆を含む一切の表現活動を収入の手段にすることを拒否した。少なくともアンドレ・ブルトンの理念においては。
 労働の拒否。これはひとつの理想であろうが、労働を売らねば生活できない境遇の人間には高嶺の花の理想であることは事実だ。稲垣足穂のように生涯定職につかずに生きた人もいるが。ただし、その代償の凄まじさは『弥勒』によって知ることができる。ランボーその人でも生涯定職につかずという理想は守れなかったのだから、詩人足穂は本物であったとこういう側面からも言えるのである。
おれたちは精神へむかう。これはまったく間違いのないことだ。おれにはわかっている。だが異教徒の言葉でなくては、おれの考えを伝えることができないから、黙っていたいのだ
 沈黙の意志。なにゆえに? 精神へむかうという理念は、異教徒の言葉でしか伝えられないからとランボーは言う。異教徒とはここでは詩人の代名詞である。
おれは帰って来よう、鉄のような手足、黒ずんだ肌、怒りを含んだ眼をして。おれの顔付から、まわりのものは、おれを強い力の種族のものと思うだろう
 異教徒・先祖・他の種族に共感できても、同時代の人間に対してはただただ侮蔑の気持ちしか持てなかったランボー。このおそろしいまでの自尊心、矜持の心は、ジュリアン・ソレルの物語とランボーの詩によって味わったものであった。文学の毒を食らったことによって、社会と折り合いをつけるのが難しくなってしまった。血液と心臓の鼓動の中にまで、入り込んだこの矜持によって、生きにくくなってしまった。だが仕方がない。この出会いが私のカルマであったからには。
 おつぎは『地獄の夜』、「火が地獄墜ちの男を包んで燃え上がる」物語である。読み返してみたが、むかし読んだ時ほど感心できない。いま読むとこれは小説でしかない。だが小説ならば感心できないというのはどういうことなのか。詩は黄金であるが、小説は紙幣にしか過ぎない。黄金が紙幣に変わった。時のマジック。『錯乱 二』においては、この小説仕立てはもっとはっきりしてくる。愚かな処女が地獄の夫のことを語るという設定になる。
眠っているあの人のいとしい身体のそばで、なぜあの人が現実からあんなにも逃げ出したがるのかと考えあぐみながら、私は毎夜幾時間も目を覚ましていたことでしょう。あんな望みを持った男は今迄にいません。私はーーあの人のためには心配しないのですが、ーーあの人が世の中でとても危険な存在になるかも知れないということを知っていました。ーーあの人はたぶん人生を変える秘密を握っているのではないでしょうか? いや、あの人はそれを探しているだけなのだ、と私は自分の考えを打ち消したものです
 たしかにこれは「子供の本の中にある冒険生活」だ。では詩人とは、子供が大人を引きずりまわす生活のことなのだろか? 大人になれないことが、詩人の弱点ではなく、魅力の源泉なのか?こうした疑問が浮かぶ。そして次に来る章が、『錯乱1 言葉の錬金術』だ。
聞いてくれ。おれの狂気沙汰の一つの物語だ
 ランボーの肉声はこの「言葉の錬金術」の章でこそ今なお生々しく響く。自叙伝がそのまま詩になっている。これは不思議な奇跡だ。自作を引用しつつ素手でなされる魂の切開手術だ。
おれは旅をして、おれの脳に集まったさまざまな魔術をまき散らしてしまわねばならなかった。おれは海を、おれのけがれを洗いおとしてくれるものとでも言わんばかりに愛していたが、その海の上に、おれは慰めの十字架が立つのを見た。おれは虹の橋によって地獄に墜とされていたのだった
 魔術をまき散らしてくれるが旅であり、けがれを洗いおとしてくれるのが海である。実感としてとてもよく分かる。ランボーの実生活に則してもそうであったろうと共感できるのである。
 次が『不可能』。どこに逃げるべきなのか。その省察の章。原初の叡智が詰まった東洋か? エデンの園へなのか。再び西欧への侮蔑が語られる。結論は?
 とりあえずは自分に対するこういう呼び掛けである。
「 おお純潔よ! 純潔よ!
  純潔の幻影をおれに与えてくれたのは、まさしくこの目覚めの瞬間なのだ!ーー精神を通じて、人は神に向かって進むのだ! 」 カトリックのランボー? 無垢と純潔を信仰する以上、キリストのイマージュが気になるのは詩人にとって避けられない事態だ。ニーチェすら、キリスト教は否定したけれども、キリストその人はどこでも否定していないのである。ランボーもまた同様であったというのが、ランボー=カトリック説に対する私の意見である。
 『閃光』の章。スピードが早まり、議論が圧縮される。
最後の時が来たら、おれは右に左に襲いかかってやるぞ・・・」 音楽的で不滅のランボーの文学的遺書ともいうべき『朝』の章。「一度はおれにも、黄金の紙に書かねばならぬ、愛らしい、英雄的な、神話にでもあるような青春があったではないか、ーー身にあまる幸福よ! どんな罪によって、どんなあやまちによっておれは今の衰弱を招いたのか?
 その答えは、おそらく「あまりにも大きすぎる矜持」ということになろう。
 最後の章は『別れ』である。
ところで、まだ前夜だ。生気と真の愛情の流れ入るのをくまなく受け入れよう。夜明けに、おれたちは、忍耐で武装して輝く街へ入っていこう
 この一節こそは、ランボーに呪縛された時代に、何度も自分の心の中に鳴り響いた詩句であった。詩的幻想のただ中から現実への架橋の呪文として、それを私は聞いた。
 「やがておれには、魂と精神の中に真実を所有されることが許されるだろう」と最後に結ばれて、『地獄の一季節』は終わる。

 『地獄の一季節』という作品は、堕天使の物語という西欧キリスト教文学の枠組みの準拠枠を使った創作として読むことができる。ロートレアモン『マルドロールの歌』も、神に反逆する堕天使マルドロールの物語であった。
 天使は、神と人間の仲立ちをする存在であるが、天使同士はそのコミュニケーションに言語を使用せず、テレパシーを使って会話する。波動のごとき、音楽のごとき、天使たちの会話。それこそ文芸が究極に於いて憧れる境地ではあるまいか。
 天使的な領域に踏み込んだ文学は西欧でも数少ない。僅かに国民的な大作家、ゲーテや、シェイクスピアや、ドストエフスキー等、数人を数えるのみである。
 しかしこれらの大作家が、天使的な領域に踏み込んだのは、生涯に渡る誠実な努力の成果として、やっと晩年になってからであった。
 ランボーは世界最年少で、天使のテレパシーに近いところまで、文芸を接近させた。この奇跡。ただ一回性の出来事が、いまなお私を振り向かせるのだ。
 マラルメの野望。世界は一冊の美しい書物を準備するために存在している。その書物が出現したら世界は滅びても構わないのだという文芸の理想は、ロートレアモンとランボーの作品を前提にしてこそリアリティを持っている。
 アルチュール・ランボーは私の出会った究極の詩人であった。そして『地獄の一季節』は、私の記憶が確かならば、あらゆる美を搭載した大空を行く四輪馬車であった。



★究極の詩人アルチュール・ランボー★



アルチュール・ランボー
Le Dormeur du Val 
                谷間に眠るもの 金子光晴訳


C’est un trou de verdure, où chante une rivière

Accrochant follement aux herbes des haillons
D’argent; où le soleil, de la montagne fière,
Luit: c’est un petit val qui mousse de rayons.

立ちはだかる山の肩から陽がさしこめば、
こゝ、青葉のしげりにしげる窪地の、一すじの小流れは、
狂ほしく、銀のかげろふを、あたりの草にからませて
狭い谷間は、光で沸き立ちかへる。

Un soldat jeune, bouche ouverte, tête nue,

Et la nuque baignant dans le frais cresson bleu,
Dort; il est étendu dans l’herbe, sous la nue,
Pâle dans son lit vert où la lumière pleut.

年若い一人の兵隊が、ぽかんと口をひらき、なにも冠らず、
青々と、涼しさうな水菜のなかに、頸窩をひたして眠つてゐる。
ゆく雲のした、草のうへ、
光ふりそゝぐ緑の褥に蒼ざめ、横たはり、

Les pieds dans les glaïeuls, il dort. Souriant comme
Sourirait un enfant malade, il fait un somme:
Nature, berce-le chaudement: il a froid.

二つの足は、水仙菖蒲のなかにつつこみ
病気の子供のやうな笑顔をうかべて、一眠りしてゐるんだよ。
やさしい自然よ。やつは寒いんだから、あつためてやつておくれ。

        戦死した兵士の足元に咲いた花グラジオラス

Les parfums ne font pas frissonner sa narine;
Il dort dans le soleil, la main sur sa poitrine,
Tranquille. Il a deux trous rouges au côté droit.

いろんないゝ匂ひが風にはこばれてきても、鼻の穴はそよぎもしない。
静止した胸のうへに手をのせて、安らかに眠つてゐる彼の右脇腹に
まつ赤にひらいた銃弾の穴が、二つ。

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