批評家たちが「酷評」した『鏡子の家』を橋川文三だけが「評価」した。この「評価」に三島由紀夫は心打たれた。そしてその後の長く続く三島と橋川の思想的交感が始まった。戦後の思想史に例をみない真の独創的な「対話的関係」が開始された。
しかしその対話はもしかしたら悲劇的なすれ違い乃至は勘違いを、少なくとも三島の側では含んでいたのかもしれない。このすれ違い乃至は勘違いが、三島の死をもたらした一因であろうといまの私は考えている。たとえば橋川のこういう発言がある。
――私は『英霊の声』のもつ一種の迫力を否定しようとは思わない。しかし、この作品は作品としては必ずしも成功作とは思われない。むしろ不気味なメルヘンというように感じるが、それ以上のものとは思えない。それは、何よりも、ここに描き出された天皇と英霊の姿が、恐らくあの浄福の時代に現実にそうであった結びつきを絶たれ、すべてノスタルジアのもつあの美化作用にあまりにも浸透されているからである。あの時代のパトリオットは、いま、霊界において、決してこのような姿をしていないであろうというのは、ほとんど私の思想である。
(橋川文三「中間者の眼」『三島由紀夫論集成』深夜叢書社)
私がこの一節に目を留めて驚いたのはもう遠い記憶である。。その時の私の驚きが何かと言えば、あの時代のパトリオットが霊界でいまどのような姿をしているかを、橋川はどうやらしっかりと見据えているらしい、見据えることができているらしい、という発見であった。〝半存在としての橋川文三〟という観点を導入することで今ならば理解の端緒を見出すこともできるのであるが、当時はただ不思議感だけを覚えた。
話を戻して、三島の側のこのすれ違い乃至は勘違いとはどういうことか。ここで述べられた橋川文三の「思想」を、はたして三島は当時理解できていたのであろうか、という疑問が湧く。なおここで云う当時とは、「英霊の声」発表から死に至るまでの時期(1965年―1970年)という意味である。
橋川はこの文章の中で定義することなく「中間者」という言葉を使用している。何と何の中間なのか。パスカルにとって人間とは神と動物の中間に立つ生物である。さらに人間は次のような意味においても中間者であった。パスカルは人間存在の中間者的性格を次のように理解している。
――そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。両極端を理解することから無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密の中に固く隠されており、彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がそのなかへ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである。
(前田陽一訳パスカル『パンセ』第二章「神なき人間の惨めさ」七二)
橋川文三は三島由紀夫を論ずる際の視点としてパスカルのアントロポロギー(人間学)を踏まえている。橋川は三島以外の人物を論じる際にも、このような存在論的視点を失うことはなかった。
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■著者より
●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●三島由紀夫自身による『英霊の声』の朗読
【英霊の声】 天翔けるものは翼を折られ 不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑う。
かかる日に、などてすめろぎは人間となりたまいし、などてすめろぎは人間となりたまいし。
●【半存在について】 橋川文三という存在を考える際の最重要概念。キーワードと言っていい。
橋川文三は、自らの『きけわだつみのこえ』の精神について、それは「要するに、死に損ないの半存在による、死んだ半存在の供養である」(橋川文三;幻視の中の「わだつみ会」)と述べている。
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