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【橋川文三の文学精神】 五 三島由紀夫『英霊の声』

2014年06月18日 06時00分00秒 | ★第二篇 橋川文三の文学精神1~5

 【橋川文三の文学精神】 第5回   内容目次@本文リンク



  五 三島由紀夫 『英霊の声』


 
批評家たちが「酷評」した『鏡子の家』を橋川文三だけが「評価」した。この「評価」に三島由紀夫は心打たれた。そしてその後の長く続く三島と橋川の思想的交感が始まった。戦後の思想史に例をみない真の独創的な「対話的関係」が開始された。

  しかしその対話はもしかしたら悲劇的なすれ違い乃至は勘違いを、少なくとも三島の側では含んでいたのかもしれない。このすれ違い乃至は勘違いが、三島の死をもたらした一因であろうといまの私は考えている。たとえば橋川のこういう発言がある。

私は『英霊の声』のもつ一種の迫力を否定しようとは思わない。しかし、この作品は作品としては必ずしも成功作とは思われない。むしろ不気味なメルヘンというように感じるが、それ以上のものとは思えない。それは、何よりも、ここに描き出された天皇と英霊の姿が、恐らくあの浄福の時代に現実にそうであった結びつきを絶たれ、すべてノスタルジアのもつあの美化作用にあまりにも浸透されているからである。あの時代のパトリオットは、いま、霊界において、決してこのような姿をしていないであろうというのは、ほとんど私の思想である。
(橋川文三「中間者の眼」『三島由紀夫論集成』深夜叢書社)

   私がこの一節に目を留めて驚いたのはもう遠い記憶である。。その時の私の驚きが何かと言えば、あの時代のパトリオットが霊界でいまどのような姿をしているかを、橋川はどうやらしっかりと見据えているらしい、見据えることができているらしい、という発見であった。〝半存在としての橋川文三〟という観点を導入することで今ならば理解の端緒を見出すこともできるのであるが、当時はただ不思議感だけを覚えた。

  話を戻して、三島の側のこのすれ違い乃至は勘違いとはどういうことか。ここで述べられた橋川文三の「思想」を、はたして三島は当時理解できていたのであろうか、という疑問が湧く。なおここで云う当時とは、「英霊の声」発表から死に至るまでの時期(1965年―1970年)という意味である。

 橋川はこの文章の中で定義することなく「中間者」という言葉を使用している。何と何の中間なのか。パスカルにとって人間とは神と動物の中間に立つ生物である。さらに人間は次のような意味においても中間者であった。パスカルは人間存在の中間者的性格を次のように理解している。

――そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。両極端を理解することから無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密の中に固く隠されており、彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がそのなかへ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである。
(前田陽一訳パスカル『パンセ』第二章「神なき人間の惨めさ」七二)

   橋川文三は三島由紀夫を論ずる際の視点としてパスカルのアントロポロギー(人間学)を踏まえている。橋川は三島以外の人物を論じる際にも、このような存在論的視点を失うことはなかった。

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■著者より
●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●三島由紀夫自身による『英霊の声』の朗読
【英霊の声】 天翔けるものは翼を折られ 不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑う。 
かかる日に、などてすめろぎは人間となりたまいし、
などてすめろぎは人間となりたまいし。


●【半存在について】 橋川文三という存在を考える際の最重要概念。キーワードと言っていい。

橋川文三は、自らの『きけわだつみのこえ』の精神について、それは「要するに、死に損ないの半存在による、死んだ半存在の供養である」(橋川文三;
幻視の中の「わだつみ会」)と述べている
【ダンスポ】o.38 エロスの革命か、革命のエロスか?・・・新旧の革命家超絶対談


【橋川文三の文学精神】 四 三島由紀夫『鏡子の家』

2014年06月17日 06時00分00秒 | ★第二篇 橋川文三の文学精神1~5

  【橋川文三の文学精神】 第4回         内容目次@本文リンク



四 三島由紀夫『鏡子の家』

 

――三島の資質は、小説より戯曲に向いていた。『鏡子の家』が批評家たちに酷評されたのは、戯曲の資質が前面に出すぎたためだった。(猪瀬直樹著作集二巻『ペルソナ 三島由紀夫伝』289頁)

   批評家たちが「酷評」した『鏡子の家』を橋川文三が、そして橋川文三だけが、ある独自の観点から「評価」した。この「評価」に三島由紀夫は心打たれた。そしてその後の長く続く三島と橋川の文学精神の交流が始まった。ここに戦後の思想史に例をみない真の独創的な「対話的関係」が開始されたのである。

「三島の資質は、小説より戯曲に向いていた」という評価に関して、私は猪瀬の意見に完全に同意する。三島の戯曲の代表作としてふつう挙げられるのは『わが友ヒトラー』と『サド公爵夫人』であるが、『わが友ヒトラー』に関しては三島自身の朗読が残されている(三島由紀夫全集決定版・第41巻)。『サド公爵夫人』については新妻聖子がサド公爵夫人を演じた極上の公演がネット上で公開されており視聴可能である(2013年10月現在)。

『豊饒の海』で三島の才能は出し尽くされたのではない。三島の自死によって失われたものをひとつだけ挙げよといわれたなら、それは三島の戯曲的才能であったと私は答えるだろう。

   橋川文三が『鏡子の家』を論じた「若い世代と戦後精神」は、『東京新聞』昭和三十四年十一月十一日~十三日付夕刊に連載されたものである。この三回の連載において橋川文三は、まず最初に三島由紀夫を論じ、大いに評価した後で、続く二回の連載の結論として石原慎太郎と大江健三郎の両者を否定的に語っている。この対比は鮮やかである。「若い世代と戦後精神」の結語を見てみよう。この結語は予言的であり、いまでもその有効性を失っていないほどである。

――大江や石原が時代の「壁」の背後にある歴史への感覚をもちえない限り、かれらはただ「時代の子」として、ある好ましい評判をかちえてゆくであろう。つまり、時代を動かすのではなく、押し流されてゆくであろう。なぜなら、かれらは、絶望的なまでに「われらの時代」にとらわれ、惑溺しているからである。

   橋川文三は「若い世代と戦後精神」で大江や石原をこのように酷評したのだが、批評家たちが口を揃えて一斉に酷評した三島由紀夫の『鏡子の家』は、これを諸手を挙げて絶賛したのである。なぜどのような意味において、『鏡子の家』は傑作でありうるのか。そこには橋川文三の歴史への感覚が十全に示されていた。橋川の『鏡子の家』評価を少し長くなるが大事な部分なので全文を引いておく。

――ここに描かれている四人の青年たちと鏡子とは、ある秘められた存在の秩序に属する倒錯的な疎外者の結社を構成している。かれらのいつき祭るもの、それはあの「廃墟」のイメージである。三島がどこかで「凶暴な抒情的一時期」とよんだあの季節のことである。「この世界が瓦礫と断片から成立っていると信じられたあの無限に快活な、無限に自由な少年期」――それがこの仲間たちを結びつける共通の秘蹟であった。

 じっさいあの「廃墟」の季節は、われわれ日本人にとって初めて与えられた稀有の時間であった。ぼくらがいかなる歴史像をいだくにせよ、その中にあの一時期を上手にはめこむことは思いもよらないような、不思議に超歴史的で、永遠的な要素がそこにはあった。そこだけがあらゆる歴史の意味を喪っており、いつでも、随時に現在の中へよびおこすことができるようなほとんど呪術的な意味をさえおびた一時期であった。ぼくらは、その時期をよびおこすことによって、たとえば現在の堂々たる高層建築や高級車を、みるみるうちに一片の瓦礫に変えてしまうこともできるように思ったのである。それはあのあいまいな歴史過程の一区分ではなかった。それはほとんど一種の神話過程ともいいうる一時期であった。そのせいか、ぼくには戦前のことよりも、戦後数年の記憶のほうが、はるかに遠い時代のことのように錯覚されるのだが、これはぼくだけのことであろうか?

 ともあれ、そのようにあの戦後を感じとった人間の眼には、いわゆる「戦後の終焉」と、それにともなう正常な社会過程の復帰とは、かえって、ある不可解で異様なものに見えたということは十分に理由のあることである。三島がどこかの座談会で語っていたように、戦争も、その「廃墟」も消失し、不在化したこの平和の時期には、どこか「異常」でうろんなところがあるという感覚は、ぼくには痛切な共感をさそうのである。いつ、いかなる理由があってそれはそうなったのかーーこういう疑惑はずっとぼくらの心の片すみにひそんでいるのではないだろうか。

 三島はさきの引用文のあとの方で、「それに比べると、一九五五年という時代、一九五四年という時代、こういう時代と一緒に寝るまでにいたらない」と記している。つまり、そこでは「神話」と「秘蹟」の時代はおわり、時代へのメタヒストリックな共感は絶たれ、あいまいで心を許せない日常性というあの反動過程が始まるのであり、三島のように「廃墟」のイメージを礼拝したものたちは「異端」として「孤立と禁欲」の境涯においやられるのである。「鏡子の家」の繁栄と没落の過程は、まさに戦後の終えん過程にかさなっており、その終えんのための鎮魂歌のような意味を、この作品は含んでいる。

 

   以上が橋川文三の『鏡子の家』評価の全文である。これにすぐ続けて、橋川にとって三島はいかなる存在であったのか、また今後ありうるのかをここで簡潔に述べているのだが、これまたその後の三島と橋川の思想的交流の全過程を予言する貴重な証言となっていて興味深い。

――元来、ぼくは、三島の作品の中に、文学を読むという関心はあまりなかった。この日本ロマン派の直系だか傍系だかの作家の作品のなかに、ぼくはあの血なまぐさい「戦争」のイメージと、その変質過程に生じるさまざまな精神的発光現象のごときものを感じとり、それを戦中=戦後精神史のドキュメントとして記録することに関心をいだいてきた。

   そして橋川はこの文章を「『鏡子の家』は、その意味で、ぼくにとってたいへん便利な索引つきのライブラリーのようなものである」と結んでいる。

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■著者より

●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●本文中で論じた三島の戯曲『サド公爵夫人』はWEBで公開されており現在も視聴可能です。
【サド公爵夫人 前編】


【サド公爵夫人 後編】


【橋川文三の文学精神】 三 転機としての昭和31年

2014年06月16日 06時00分00秒 | ★第二篇 橋川文三の文学精神1~5

 


  【橋川文三の文学精神】 第3回     内容目次@本文リンク



三 転機としての昭和31年

 
 
猪瀬直樹は吉本隆明との対話で三島由紀夫について次のように述べている。


吉本 六十年以後の三島さんの言動は、僕には、戦前の爛熟した上流社会を復活させようとするモダニズムに見えました。

猪瀬 一面では当たっています。三島さんの世界が崩壊するのは、昭和三十一年の経済白書で「もはや戦後ではない」と書かれたときですね。あの経済白書は、今読んでみると、三島由紀夫と共通する美文なのです。このとき「戦後が終わった」のではなく、気づいてみると、むしろ戦前が終わっていたんです。それからです、三島由紀夫の伝統回帰への執念が芽生えるのは。

吉本 なるほど。とても、よくわかります。猪瀬さんが橋川文三(1922年ー1983年)さんの仕事を引き継いでいることが、その分析で納得できました。
 (吉本隆明との対話「三島由紀夫と戦後50年」 猪瀬直樹著作集 第二巻『ペルソナ 三島由紀夫伝』所収)

 
 
吉本隆明こそは橋川文三の最大の理解者であった。橋川文三が死去したとき弔辞を読んだのは吉本隆明であった。弔辞の中で吉本は橋川の果たした仕事を次のように評価している。「わたしはいまもじぶんを、おおきな否定とのり超えの途上に歩むものとかんがえています。こういうわたしの眼からは、橋川さんは、すでに歴史の方法をわがものとした完成の人と映り、羨ましさに堪えません」。

『金閣寺』は「新潮」に昭和31年1月号~10月号に連載された三島のおそらく最高傑作であるが、その翌年昭和32年に橋川が1高の同級生によって刊行された同人誌「同時代」に協力して『日本浪曼派批判序説』(以後『批判序説』と略記、著者注)の連載を始めている。期せずしてこの両者は各々の最高傑作を相前後して発表した。

 なぜ昭和31年なのか。この年「戦後は終わった」からなのである。しかし猪瀬は昭和31年を「戦前が終わった」と読み替える。猪瀬直樹が橋川文三の仕事を引き継いでいるという吉本隆明の指摘はある核心を突いている。


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■著者より
●「橋川文三の文学精神」は6月14日より28日まで全15回連載します。
●ここで吉本隆明の名前が出てきましたが、私は『れぎおん』という今は廃刊になった連句の同人誌に、「好日」という総タイトルで50回ほどの連載をし、その中のある回で思想家としての吉本と橋川を比較し、橋川文三が一等、吉本隆明が二等という評価を下しています。ちなみに三等は小林秀雄です。参照⇒
好日27 戦後最大の思想家は誰か
なお、好日27には和田さんと名乗る方からのコメントがつけられています。素晴らしい内容です。私の記事と併せてお読み頂ければ幸いです。
●吉本隆明が亡くなった時は、吉本の文業について総合的な評価も行いました。
参照⇒好日41 吉本隆明への論理的弔辞
●今回は「橋川文三の文学精神」の連載3回目ですが、初回と二回目の連載当日のブログアクセス数は、初回の6月13日がIP(訪問者数)69で、PV(閲覧数)215。二回目はIP60でPV200でした。当分はこの程度の数字が続くものと推測しています。
 


【橋川文三の文学精神】 二 橋川文三の方法

2014年06月15日 06時00分00秒 | ★第二篇 橋川文三の文学精神1~5



 【橋川文三の文学精神】 第2回          内容目次@本文リンク



二 橋川文三の方法

 

 松本健一氏と猪瀬直樹氏の両者が、猪瀬氏の著書『ペルソナ 三島由紀夫伝』の発刊を機会に対談を行った。その際に、「橋川文三の方法」を巡って両者は激突している。激論のエッセンスと思われる部分を引用する。


 
【対談】三島由紀夫と官僚システム  松本健一●猪瀬直樹

 松本 僕は橋川は非常に直観的な人だと思います。この辺りに何か暗い影がかかっているな、と。そういったキーポイントを捉えるのがうまい。

猪瀬 大学院で、僕が修士論文を提出した時、橋川はまず文章がいいかどうかを見るんです。文章がいいとなると次には引用の一字一句を全部チェックする。事前の指導はしません。そういうことはしない人だから。で、内容に問題はないとなると、次には引用の漢字がひとつでも間違えていると指摘する。校閲みたいにね。極端に言えば正しい引用だけあればいいんだみたいな言い方もしていました。つまり、重要なのは事実であると。引用というのもひとつの事実なんですね。彼の手法はノンフィクションのものだと思うんです。ファクトがあればいい。正確な引用を求めているんです。

松本 橋川の方法はあなたのやりかたとは逆のものとしか思えなかった。あなたはノンフィクションだと言うけれど、その方法はあなたの方法であって、彼のではない。橋川の「三島由紀夫伝」は、あなたにとって反面教師ではなかったんですか。

猪瀬 いや、いちばん参考になったんですよ。竹内好さんの文章について橋川さんは、彼の文章は引用だけなんだけれど、引用だけ上手にできればいんだと言った。そんなもんかな、なんてその時は思ったけど。

松本 あとは文章がよければいい?

猪瀬 引用をつなげる文章がきちんとしていればいい、というわけです。もっともどこを引用するか、じつはそれが一番むずかしいんです。引用する場所でその人の理解度と主張がはっきりするわけですからね。

松本 彼は編集者としての名残なのか、そうではなくて資質的なものなのか、非常にファクトを大事にする。事実の手触りをあんまり下手にいじらないでいようとするんですね。そのような意味では資質的なものなんでしょうか。

猪瀬 ファクトについての緻密さというのは、じつは引用の緻密さに通じる。それが彼の方法論だと思いますね。彼の場合には、一つひとつのファクトの積み重ねが緻密で、絶対矛盾がない、そういう完璧さというものがあるんです。

(【対談】三島由紀夫と官僚システム 『三島由紀夫と戦後』中央公論特別編集 2010年10月20日刊)

 
 
橋川文三の方法について猪瀬直樹は完璧に解明している。しかし松本健一が橋川は直観の人だったと言う時、その言葉も橋川文三のある本質を伝えているのであって、そこに矛盾はない。鶴見俊輔は橋川文三の特色をこのように分析している。

――著者としての橋川文三には、文献を手がたくつみかさねる実証の方法と、それからかけはなれて、自分の心情の指さすところをいつわらずつたえる流儀とが、たがいに混同されることなく、二つながらあった。かけはなれた二つの流儀を混同しないでともに使いこなすところに、橋川文三の特色があり、それは文章だけでなく、考え方の特色でもあった。

――橋川さんは直感として語り、資料は資料として示し、この二つをとりちがえることをしなかった点で、保田與重郎とちがい、この点では、竹内好と似ている。(鶴見俊輔「橋川文三の思い出」『思想の科学』1984年2月号)

 
 
橋川文三は竹内好の方法を微塵も損なうことなく継承したのである。

 
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■著者より
●「橋川文三の文学精神」は昨日6月14日より28日まで全15回連載します。
●この評論は『断トツに面白いダンスポ』より後の掲載になりましたが、実際に書かれたのは昨年の10月です。誤字脱字のチェックだけはおこないますが、本文の修正等は施さず、原則そのそのままを掲載する方針です。
●「ダンスポ」も同時期に一旦は書き上げたのですが、実際の掲載に当たって全面的に書き直しをしています。これは新作同様のもの、あえて云えば完全に<新作>です。私の現在の到達点を示す作品です。
●「断トツに面白いダンスポ」を書き上げた今となっては、「橋川文三の文学精神」は、私にとって意を満たぬ内容となりました。しかし書き直しをしないのは、もし直すならば全面的な改稿が必要となりますが、新作を書き上げる余裕もなく準備もできていません。私としては、この「橋川文三の文学精神」があるがゆえに、この作品を前提にして、「断トツに面白いダンスポ」が成り立ったのであることを示すことで満足したいと思います。
●そのような意味において、「橋川文三の文学精神」と「断トツに面白いダンスポ」は、両者一体となって私の現在をかたちづくる作品であり、同じひとつの作品の「前編」と「後編」のようなものとして位置づけられます。ご理解ご了承のほどお願い申しあげます。

【お呼びでないのに出てきた百田夏菜子が一言】
 “ ハイ、理解しました。了承します ”

 
“ ホントはぜんぜ~んワカンナイの。ハハハ (*^o^*) “ 

★『来たるべきアジア主義』は世界を変えるための書物です。この本は無料で公開します。
アジアの新しい歴史の創造を祈念しつつ。⇒ 【来たるべきアジア主義】


【橋川文三の文学精神】 一 文学精神とは何か

2014年06月14日 06時00分00秒 | ★第二篇 橋川文三の文学精神1~5

 


 【橋川文三の文学精神】 第1回         内容目次@本文リンク



一 文学精神とは何か

 この評論は、昭和期を「独学者」として生きた橋川文三(一九二二~一九八三)の、時代に対峙する「文学精神」に注目し、その解明の糸口を見い出さんと試みるものである。「文学精神」という言葉の意味については、ここでは岡山麻子が『竹内好の文学精神』で定義したそのままを踏まえて使うこととする。

「本書(=『竹内好の文学精神』、引用者注)は、竹内が生涯に取り組んだテーマの多様さにも拘らず、その基底には、時代を規定する根源的な価値を転倒させるという、時代との関わり方をめぐる発想が、思想的核心として貫徹していると考える立場に立っている。そして、竹内の思想的核心である時代との関わり方を『文学精神』 と呼び、その形成から成立・展開に至る過程を解明することを課題とし、そのために竹内の文章の論理を内在的に読み解く方法を取ろうとするものである。」

 この書の「はじめに」で文学精神をこのように定義した岡山麻子は、「あとがき」ではさらに文学精神の概念の定義を拡張して、次のように述べている。

竹内が生涯の様々の場面で求めた『文学』――北京で求めた文学者としての矜持、戦時下の主著で求めた文学者魯迅の像、戦後提起した国民文学――はいずれも、詩や小説といった『作品』のかたちで実現すると限るものではない。それは作品のかたちをとるか否かを問わず、最も根源的な価値の次元から言葉を積み直すことによって、自らの目に映る世界を表現しようとする精神態度の問題なのである。従って、それは、教義の文学の枠組を超えている。つまり、文学を作品という実体において考えるのではなく、根源的な価値に触れようとする精神態度として捉え直すことが必要となる。」

  文学の意義をこのような観点において捉え直すとき、橋川文三が竹内好から継承し発展させたものが、岡山麻子が云うところの「文学精神」であったことを明白な事実として証明しようとするのが、この小論の目指す着地点である。

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■著者より
●「橋川文三の文学精神」は本日6月14日より28日まで連載。15回で完結します。
●完結後に【感想会議室】を設けますので、できればご感想・ご意見はそちらにお願いします。
●コメントを一括したいと思うのは、著者の都合ではなく、連載終了後の読者の利便性を考えてのとです。コメントがまとまっていた方が読みやすいかなと。もちろん感想やご意見を記事下のコメント欄にお寄せいただいてもかまいません。大歓迎です。
●資料;岡山麻子「 竹内好の文学精神と思考方法」⇒PDFをダウンロードする