【霊告月記】第二十一回 ジャン=ジャック・ルソー対トマス・ホッブズ
ルソーもホッブズも、その学説は精緻で奥深い体系を構築しており、その精確な理解は容易ではない。しかし、下記ディドロの発見を導きの糸とすることにより、その完全な理解が今までよりは達成困難なものとは感じなくても良いように思われてきた。とつぜん近道が出現したみたいだ。
ジュネーブのルソー氏の哲学は、ホッブズの哲学の裏返しと言ってよい。一方は自然のままの人間を善良なものと考え、他方はそれを邪悪なものと考える。ジュネーブの哲学者によると、自然状態は平和な状態であるが、マームズベリの哲学者によると、それは戦争状態である。ホッブに言わせれば、法や社会の形成が人間をより良いものにしたのであるが、ルソー氏に言わせれば、そういうものが人間を堕落させたのである。一方は騒乱と陰謀の中に生まれ、他方は社交界や学者の間で生活していた。時代が変わり状況が変われば、哲学者も変わるわけである。ルソー氏は雄弁で感情に訴えるが、ホッブズは非情で峻厳でたくましい。この人は王座が揺らぎ、市民が敵味方に解れて武器をとり、狂信的な長老派の狂躁によって祖国が血の海になるのを目撃した。だから、神も牧師も祭壇も蛇蝎視するようになったのである。一方、ルソー氏の方は、万学に通じた人々が互いに傷つけあい、憎みあい、情念に身を任せて、名声や富や顕職をあさり、獲得した知識にそぐわないような行動をするのを目撃した。だから、学問や学者たちをさげすむようになったのである。(ディドロ『百華全書』「ホッブズの哲学」の項。)
ホッブズが、AはBである、と主張するとき、ルソーは必ずAはBではない、と主張する。ルソーが、CはDである、と主張する時、ホッブズはCはDではない、と主張していた。ホッブズとルソー。この正反対である学説を総体として把握する時、初めて我々はホッブズとルソーのオリジナリティを発見し理解したということができるのだ。ルソー対ホッブズ。ディドロはこの両者の哲学の差異を鮮やかに描き出している。
・・・まてよ、ここまで書いてきて、ある言説の反対命題を記述することによって自らの学説を構築したもう一人のケースを思い出した。それはパスカルである。パスカルはモンテーニュの諸種の命題を全部ひっくり返して自らの学説としていた。
本日の考察はこれにて。どうです? 今回のエッセー、すごく重要なヒントが含まれていると思いませんか? ある体系をぜんぶひっくり返して新しい理論を創造する。それはマルクスもやった方法だ。北一輝もやった。もう一人のマルクス、もう一人の北一輝を、私は目指したい。
※参照※ 好日32 ルソーの声
】橋川文三の霊告【 四年前、フランスにおいてルソーとヴォルテールの死後二百年祭が行われたが、それはヴォルテール賛美の気配が濃かったという。これは一言でいうとルソーの自然賛美とヴォルテールの人工賛美との対抗であろう。
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