第13回例会
2007年12月8日(土)午後2~5時
於太宰府天満宮崇敬者会館宝満の間
第13回例会はDVD鑑賞と卓話を行いました。
今回のテーマは「六所宝塔院について」
前半は会員の末永様が記録・編集をされたDVDの上映。
まず、2007年10月20日の12回例会「愛嶽山・大南窟・枡形城踏査」。
30名での道行や各所での説明内容が約20分に編集されており、
踏査の様子を鑑賞することができた。
あとは今回のテーマである「本谷礎石群の下草刈」の様子を鑑賞した。
本谷礎石群は2007年4月25日に行った第8回例会で、踏査を。
この時、現地では小西信二、森弘子、小田富士雄のお三方が説明を行っている。
その様子が編集され、例会の時には本谷礎石群の場所が雑木林と化していたことが
DVDに収められていたことで、下草刈以前の様子を伺えた。
続いて、12月1日(土)に行った下草刈の様子が編集されていた。
冷川先生のご指導のもと次々と木々が切り払われ、明るくなった空のもとに
現れた礎石や基壇の様子を鑑賞。
礎石群からは山頂が望め、当時の眺望と立地の良さを改めて、知ることが
できた。
DVD鑑賞後、
本会幹事小西信二氏より本谷礎石群の下草刈を期に、
「六所宝塔院について」と題してお話をいただきました。
本谷礎石群は太宰府市大字内山字本谷に立地。
昭和56年9月に、遺跡分布調査の折に小西氏が発見。
地元の人がこの地で山芋掘りをしていて瓦を見つけているという話を聞いたのが
きっかけであったとのこと。
発見した後、山林所有者に遺跡の説明を行い、同年10月12日付で「遺跡発見届」を
太宰府市教育委員会に提出。
「宝満山の地宝」(大宰府顕彰会 1982年刊)には妙見祠があったことから「妙見祠礎石群」
として報告されている。
礎石群の銘名となっていた妙見祠は現在、本谷池の近くに移されている。
そのため、ここでは字名をとって「本谷礎石群」としている。
礎石群は小西氏の調査により、3間×3間の基壇を伴う礎石建物と考えられる。
南に階段上の入り口が推定される。
この礎石群は下記『岩清水八幡宮文書』に記された宝塔と想定される。
承平七年(937)「大宰府牒」
府牒 筥崎宮 應令造立神宮寺多宝塔壱基事
牒、得千部時僧兼祐申状僞、謹案天台伝教大師去弘仁八年遺記云、
為六道衆生直至仏道発願、於日本国書写六千部法華経、建立六箇基宝塔、
一一塔上層安置千部経王、下壇令修法花三昧、其安置建立之処、叡山東西塔、
上野下野国、筑前竈門山、豊前宇佐宮弥勒寺者、而大師在世及滅後僅所成五処塔成、
就中竈門山分塔、沙弥證覚在俗之日、以去承平三年建立成。・・・後略
弘仁八年(817)に伝教大師最澄によって発願された六所宝塔院のひとつである
筑前竈門山の宝塔が承平三年(933)に沙弥證覚により建立されたことを示す貴重な資料がある。
宝塔は二階建てになっており、上層に千部の法華経を修め、下壇では法花三昧行
つまり法華経を唱えるための施設である。
竈門山に建立された宝塔の位置については、
当初は内山地区周辺、さらには下宮礎石群が宝塔ではないかという説もあった。
現存する多宝塔の図面を見ると、構造として塔でありながら心礎がない。
建物構造としては二階建ての建物で、上層に経を納め、下壇で行を行う。
このため、下壇に柱が貫いている構造では祭壇を設置する空間の邪魔になるため、
柱は梁の上にのっかっている構造になっているようだ。
基礎部分は基壇が設けられ、3間×3間の礎石建物となっている。
本谷礎石群も階段を備えた基壇と3間×3間の礎石群が確認されている。
このことから、ここが筑前竈門山の宝塔の可能性が高いと考えられている。
この場所は太宰府市教育委員会による確認調査を行う予定となっており、
今後の調査成果に期待が寄せられる。
同日夕刻に二日市において
12名のご参加を得て忘年懇親会がおこなわれました。
本年も多くの方にご参加いただき
ありがとうございました。
※ 次回例会は2月の予定です。
2007年12月8日(土)午後2~5時
於太宰府天満宮崇敬者会館宝満の間
第13回例会はDVD鑑賞と卓話を行いました。
今回のテーマは「六所宝塔院について」
前半は会員の末永様が記録・編集をされたDVDの上映。
まず、2007年10月20日の12回例会「愛嶽山・大南窟・枡形城踏査」。
30名での道行や各所での説明内容が約20分に編集されており、
踏査の様子を鑑賞することができた。
あとは今回のテーマである「本谷礎石群の下草刈」の様子を鑑賞した。
本谷礎石群は2007年4月25日に行った第8回例会で、踏査を。
この時、現地では小西信二、森弘子、小田富士雄のお三方が説明を行っている。
その様子が編集され、例会の時には本谷礎石群の場所が雑木林と化していたことが
DVDに収められていたことで、下草刈以前の様子を伺えた。
続いて、12月1日(土)に行った下草刈の様子が編集されていた。
冷川先生のご指導のもと次々と木々が切り払われ、明るくなった空のもとに
現れた礎石や基壇の様子を鑑賞。
礎石群からは山頂が望め、当時の眺望と立地の良さを改めて、知ることが
できた。
DVD鑑賞後、
本会幹事小西信二氏より本谷礎石群の下草刈を期に、
「六所宝塔院について」と題してお話をいただきました。
本谷礎石群は太宰府市大字内山字本谷に立地。
昭和56年9月に、遺跡分布調査の折に小西氏が発見。
地元の人がこの地で山芋掘りをしていて瓦を見つけているという話を聞いたのが
きっかけであったとのこと。
発見した後、山林所有者に遺跡の説明を行い、同年10月12日付で「遺跡発見届」を
太宰府市教育委員会に提出。
「宝満山の地宝」(大宰府顕彰会 1982年刊)には妙見祠があったことから「妙見祠礎石群」
として報告されている。
礎石群の銘名となっていた妙見祠は現在、本谷池の近くに移されている。
そのため、ここでは字名をとって「本谷礎石群」としている。
礎石群は小西氏の調査により、3間×3間の基壇を伴う礎石建物と考えられる。
南に階段上の入り口が推定される。
この礎石群は下記『岩清水八幡宮文書』に記された宝塔と想定される。
承平七年(937)「大宰府牒」
府牒 筥崎宮 應令造立神宮寺多宝塔壱基事
牒、得千部時僧兼祐申状僞、謹案天台伝教大師去弘仁八年遺記云、
為六道衆生直至仏道発願、於日本国書写六千部法華経、建立六箇基宝塔、
一一塔上層安置千部経王、下壇令修法花三昧、其安置建立之処、叡山東西塔、
上野下野国、筑前竈門山、豊前宇佐宮弥勒寺者、而大師在世及滅後僅所成五処塔成、
就中竈門山分塔、沙弥證覚在俗之日、以去承平三年建立成。・・・後略
弘仁八年(817)に伝教大師最澄によって発願された六所宝塔院のひとつである
筑前竈門山の宝塔が承平三年(933)に沙弥證覚により建立されたことを示す貴重な資料がある。
宝塔は二階建てになっており、上層に千部の法華経を修め、下壇では法花三昧行
つまり法華経を唱えるための施設である。
竈門山に建立された宝塔の位置については、
当初は内山地区周辺、さらには下宮礎石群が宝塔ではないかという説もあった。
現存する多宝塔の図面を見ると、構造として塔でありながら心礎がない。
建物構造としては二階建ての建物で、上層に経を納め、下壇で行を行う。
このため、下壇に柱が貫いている構造では祭壇を設置する空間の邪魔になるため、
柱は梁の上にのっかっている構造になっているようだ。
基礎部分は基壇が設けられ、3間×3間の礎石建物となっている。
本谷礎石群も階段を備えた基壇と3間×3間の礎石群が確認されている。
このことから、ここが筑前竈門山の宝塔の可能性が高いと考えられている。
この場所は太宰府市教育委員会による確認調査を行う予定となっており、
今後の調査成果に期待が寄せられる。
同日夕刻に二日市において
12名のご参加を得て忘年懇親会がおこなわれました。
本年も多くの方にご参加いただき
ありがとうございました。
※ 次回例会は2月の予定です。