総タイトル:【戦乱の下剋上の世に活躍したの技能者たち・・・「鉢屋秀吉〈第1部〉陰の一族・〈第2部〉筋者の道」を読んで】
「弥勒下生の世」の到来を待ち望むたち。終末期にイエス・キリストの再降臨を待ち望む現在と同様に……。
「鉢屋秀吉〈第1部〉陰の一族・〈第2部〉筋者の道」(著者:黒須紀一郎氏、出版社:作品社、出版日:2001/6/20・2001/10/20)
本書を読みました。
中央から離れて流された者が多く移り住んだ関東の地に、虐げられていた武士が最初に建てた鎌倉幕府。その後の南北朝の動乱以降の、戦国時代における戦乱の下剋上の世に活躍したの技能者たち。そのの裏の活躍によって、日本の方向付けが成されたと言っても良いと思います。
本書は教科書的歴史に対する多くの「裏日本史」的な存在のものを参考文献として用いている為に、より史実に近いものと私は思います。特に、に関して表の歴史はタブー視している為に、そのに関して理解されないどころか却って誤解を招いてしまっているのではないかと思います。しかし、は下層であるが故に社会の底辺・ベース・根幹を握っており、特に戦乱の世に在ってはその、及びその出自の者によって左右された様に思います。本書には、そのの歴史、秀吉がの出で、その秀吉に多くのが協力して秀吉を出世させた事が在ります。
以下、本書の内容からの一部要約。
7世紀の日本の人口は約540万人、その内に渡来人の占める割合が85%以上。
白村江の戦いで敗れた倭国は、百済からの亡命貴族を多数受け入れ、近江に遷都した。この大津京は百済の亡命政権。近江は渡来人の幽宮で、後に忍びの甲賀衆、石積みの穴太衆、近江商人、流通の堅田湖賊、坂本の馬借等。
流民・浮浪人達は、医薬師、鍛冶師、木地師、杣師、遊芸人等の技能者として飢えを凌ぐ。
672年の壬申の乱を経ての中央集権国家成立で、倭国が日本に。天皇・貴族・僧侶と、税を収奪される農民、そして国の体制からはみ出した浮浪人の3種類の人達の誕生。酷税と労役から逃れて山野に隠れ住む者達が多数出た。
古代政界の大立者・藤原不比等と浮浪人の棟梁・役小角との戦いの結果、「山の民」は敗れて畿内の行場・仕事場を追われて、比叡山西麓山地・愛宕郡小野郷の八瀬、琵琶湖東の山岳地帯・小椋郷、伯耆大山、出雲、信州・八ヶ岳等に移り住む。採薬、採鉱、猟、箕作り、竹細工等。役小角(役行者)は修験道・山伏の開祖。
伯耆の行者兵法集団の棟梁・飯母呂石念の登場。飯母呂衆は行者忍術を用いて、生活の糧を得る為に各地の戦乱に加担。生きる術。
藤原氏全盛時、朝家・公家・寺家の栄耀栄華とは対照的な、庶民の哀れな生活。藤原道長と山上憶良の詩。
939年、平将門と藤原純友の天慶の乱。東の山人と瀬戸内の海人による藤原打倒。遠祖・役小角からの藤原氏に対する積年の恨みを持ち、「弥勒下生の世」の到来を待望する飯母呂衆の参加。坂東八ヶ国(常陸・下野・上野・上総・下総・安房・相模・武蔵)と伊豆の関東一円の新皇・将門。
追われ山中に隠れ住む飯母呂衆の糊口を凌ぐ為の野盗化に対し、空也が托鉢での生計を立てる事を教える。鉢屋、八の者、茶筅、と「異形の一族」として蔑まれて呼ばれる。又、盗賊の手口を知り抜く鉢屋衆を検非違使の末端としての採用にも努めた。
漂泊の技能者、歩き筋。鍛冶師、木地師、杣師、穴太衆、番匠(大工)、鋳物師、播磨衆(土木工事)、馬借・車借(輸送)絵師、薬師等。
空也の流れを引き継ぐ、鎌倉期の一遍の起こした時宗の信者・阿弥衆には鉢屋衆も流れる。能の観阿弥・世阿弥、田楽の増阿弥、庭師の善阿弥、連歌の良阿、僧侶・遣明船の正使の祖阿、香・茶の千阿弥(千利休の祖父)、立花の立阿弥等、優れた芸の者達。室町時代以降で将軍に近侍して雑務や芸能に当たった阿弥衆は同朋衆とも。
役小角を始祖とする賎の民、遊行僧、乱破・透破・突破の忍び、「歩き筋」の技能者・芸能者。その内の飯母呂衆が鉢屋、阿弥衆となって、弥勒下生の世を求めながら戦乱の中を生き抜く。
中世の頃、表向きは鉄砲や硝石、異国の珍品等による商売とキリスト教布教を目的に世界を廻ったポルトガルとイスパニア(スペイン)の裏の目的である「奴隷狩り」。江戸時代の鎖国以前まで日本人の奴隷が輸出される中、奴隷を売り飛ばし民から搾り取る公家や大寺社の坊主や神官がその犠牲者とされる事を願う弥勒下生の世を待ち望むたち。
世人が「尾張のうつけ者」と嘲笑する織田信長は、平氏の血筋で渡来・遊牧騎馬民族の「渡り」の血で同族。既成勢力、仏教の権威・覇権主義に憎悪を抱いていた信長は、酒色に溺れ腐りきった比叡山の焼き討ち。石仏を破壊して城の石垣に使用。朝廷、貴族、寺社の既得権益を廃した楽市・楽座。
秀吉の母・仲(後の大政所)は美濃の鍛冶師・関兼貞の娘。父は織田家の足軽(雑兵)の木下弥右衛門でその亡き後の仲の再婚相手は同朋衆・竹阿弥。しかし弥右衛門も継父で秀吉の父母は定かで無く、野合の子で幼名も無き「怪しの民」の子(の子)とする中世~江戸初期の史書有り。鉢屋阿弥衆の歩き筋の出の秀吉。歩き筋への優遇で・阿弥衆の安穏の地となった長浜。秀吉に「弥勒下生の世」の到来の可能性の希望を抱く歩き筋の者たちが、同族の繋がりから各地の歩き筋のカスミが秀吉の出世を協力。
斎藤道山は丹波の探り筋(忍び)の同族で、一介の貧しい油売りから美濃を乗っ取る。 大名である武家も、野伏・山伏の卑賤の出。
忍びによる「裏の戦」。諜報、攪乱、奇襲。修験、出家、虚無僧、振り売り(行商人)、放下(遊芸人)、猿楽(歌舞芸)、傀儡師の歩き筋で諸国を廻る。忍びの事を甲斐では三ツ者、出雲では鉢屋、尾張ではひき猿。
美濃の茜屋・鉱山師で歩き筋の血筋の出の竹中半兵衛(重治)は、杣師や鍛冶師と深い繋がり。
長年の京の都の生活で足利尊氏の坂東武者の様から変貌し、権謀術数を身に付けて公家化した室町幕府将軍・足利家の、最後の将軍・足利義昭。
平将門の乱の後逃れた出雲鉢屋を重用した山中家。
薬師・目薬屋の血筋・黒田官兵衛(孝高)は北近江・賤ヶ岳山麓の黒田村の出で、その前は近江小椋の里で同族の歩き筋。
裏切りや密会を好み、諜略・策謀・計略を得意とした明智光秀。
藤原公卿の策謀の血を色濃く持った近衛前久。
徳川家康は、建武の乱で滅んだ上州新田氏の支流・江田氏の後裔で流浪の身・阿弥衆となった父と簓者(念仏を唱えて歩く遊行者)との子国松で、後に両親と別れて母方の祖母の簓者に育てられ、その後に人商いに騙されて売られた同じ歩き筋の願人坊主にこき使われ、それと別れた後に世良田二郎三郎と名乗った。人質となっていた松平元康の嫡男・竹千代を誘拐し、元康亡き後にその家臣がその死を隠蔽する為に、その子を連れて乗り込んで来た二郎三郎を松平元康(後の徳川家康)の替え玉とした。因みに新田氏の支流には、江田氏の他に世良田氏、得川氏。
観阿弥の母が姉妹の楠木正成は、ゲリラ戦を得意とした忍びの出。建武からの乱世の中、寺社・武家、百姓、の差別を無くす。
藤堂高虎は近江の忍び筋の出で、穴太衆とも関わり。
秀吉の原点・八瀬の抹消と千利休切腹は、秀吉の素性を消す為なのか。
徳川家康は、同族の秀吉の母・大政所(仲)の後継者で秀吉の正室・北政所(お寧)を守る。関ヶ原の戦いでの家康派と秀吉の側室・淀派との対立。
「弥勒下生の世」の到来を待ち望むたち。終末期にイエス・キリストの再降臨を待ち望む現在と同様に……。
「鉢屋秀吉〈第1部〉陰の一族・〈第2部〉筋者の道」(著者:黒須紀一郎氏、出版社:作品社、出版日:2001/6/20・2001/10/20)
本書を読みました。
中央から離れて流された者が多く移り住んだ関東の地に、虐げられていた武士が最初に建てた鎌倉幕府。その後の南北朝の動乱以降の、戦国時代における戦乱の下剋上の世に活躍したの技能者たち。そのの裏の活躍によって、日本の方向付けが成されたと言っても良いと思います。
本書は教科書的歴史に対する多くの「裏日本史」的な存在のものを参考文献として用いている為に、より史実に近いものと私は思います。特に、に関して表の歴史はタブー視している為に、そのに関して理解されないどころか却って誤解を招いてしまっているのではないかと思います。しかし、は下層であるが故に社会の底辺・ベース・根幹を握っており、特に戦乱の世に在ってはその、及びその出自の者によって左右された様に思います。本書には、そのの歴史、秀吉がの出で、その秀吉に多くのが協力して秀吉を出世させた事が在ります。
以下、本書の内容からの一部要約。
7世紀の日本の人口は約540万人、その内に渡来人の占める割合が85%以上。
白村江の戦いで敗れた倭国は、百済からの亡命貴族を多数受け入れ、近江に遷都した。この大津京は百済の亡命政権。近江は渡来人の幽宮で、後に忍びの甲賀衆、石積みの穴太衆、近江商人、流通の堅田湖賊、坂本の馬借等。
流民・浮浪人達は、医薬師、鍛冶師、木地師、杣師、遊芸人等の技能者として飢えを凌ぐ。
672年の壬申の乱を経ての中央集権国家成立で、倭国が日本に。天皇・貴族・僧侶と、税を収奪される農民、そして国の体制からはみ出した浮浪人の3種類の人達の誕生。酷税と労役から逃れて山野に隠れ住む者達が多数出た。
古代政界の大立者・藤原不比等と浮浪人の棟梁・役小角との戦いの結果、「山の民」は敗れて畿内の行場・仕事場を追われて、比叡山西麓山地・愛宕郡小野郷の八瀬、琵琶湖東の山岳地帯・小椋郷、伯耆大山、出雲、信州・八ヶ岳等に移り住む。採薬、採鉱、猟、箕作り、竹細工等。役小角(役行者)は修験道・山伏の開祖。
伯耆の行者兵法集団の棟梁・飯母呂石念の登場。飯母呂衆は行者忍術を用いて、生活の糧を得る為に各地の戦乱に加担。生きる術。
藤原氏全盛時、朝家・公家・寺家の栄耀栄華とは対照的な、庶民の哀れな生活。藤原道長と山上憶良の詩。
939年、平将門と藤原純友の天慶の乱。東の山人と瀬戸内の海人による藤原打倒。遠祖・役小角からの藤原氏に対する積年の恨みを持ち、「弥勒下生の世」の到来を待望する飯母呂衆の参加。坂東八ヶ国(常陸・下野・上野・上総・下総・安房・相模・武蔵)と伊豆の関東一円の新皇・将門。
追われ山中に隠れ住む飯母呂衆の糊口を凌ぐ為の野盗化に対し、空也が托鉢での生計を立てる事を教える。鉢屋、八の者、茶筅、と「異形の一族」として蔑まれて呼ばれる。又、盗賊の手口を知り抜く鉢屋衆を検非違使の末端としての採用にも努めた。
漂泊の技能者、歩き筋。鍛冶師、木地師、杣師、穴太衆、番匠(大工)、鋳物師、播磨衆(土木工事)、馬借・車借(輸送)絵師、薬師等。
空也の流れを引き継ぐ、鎌倉期の一遍の起こした時宗の信者・阿弥衆には鉢屋衆も流れる。能の観阿弥・世阿弥、田楽の増阿弥、庭師の善阿弥、連歌の良阿、僧侶・遣明船の正使の祖阿、香・茶の千阿弥(千利休の祖父)、立花の立阿弥等、優れた芸の者達。室町時代以降で将軍に近侍して雑務や芸能に当たった阿弥衆は同朋衆とも。
役小角を始祖とする賎の民、遊行僧、乱破・透破・突破の忍び、「歩き筋」の技能者・芸能者。その内の飯母呂衆が鉢屋、阿弥衆となって、弥勒下生の世を求めながら戦乱の中を生き抜く。
中世の頃、表向きは鉄砲や硝石、異国の珍品等による商売とキリスト教布教を目的に世界を廻ったポルトガルとイスパニア(スペイン)の裏の目的である「奴隷狩り」。江戸時代の鎖国以前まで日本人の奴隷が輸出される中、奴隷を売り飛ばし民から搾り取る公家や大寺社の坊主や神官がその犠牲者とされる事を願う弥勒下生の世を待ち望むたち。
世人が「尾張のうつけ者」と嘲笑する織田信長は、平氏の血筋で渡来・遊牧騎馬民族の「渡り」の血で同族。既成勢力、仏教の権威・覇権主義に憎悪を抱いていた信長は、酒色に溺れ腐りきった比叡山の焼き討ち。石仏を破壊して城の石垣に使用。朝廷、貴族、寺社の既得権益を廃した楽市・楽座。
秀吉の母・仲(後の大政所)は美濃の鍛冶師・関兼貞の娘。父は織田家の足軽(雑兵)の木下弥右衛門でその亡き後の仲の再婚相手は同朋衆・竹阿弥。しかし弥右衛門も継父で秀吉の父母は定かで無く、野合の子で幼名も無き「怪しの民」の子(の子)とする中世~江戸初期の史書有り。鉢屋阿弥衆の歩き筋の出の秀吉。歩き筋への優遇で・阿弥衆の安穏の地となった長浜。秀吉に「弥勒下生の世」の到来の可能性の希望を抱く歩き筋の者たちが、同族の繋がりから各地の歩き筋のカスミが秀吉の出世を協力。
斎藤道山は丹波の探り筋(忍び)の同族で、一介の貧しい油売りから美濃を乗っ取る。 大名である武家も、野伏・山伏の卑賤の出。
忍びによる「裏の戦」。諜報、攪乱、奇襲。修験、出家、虚無僧、振り売り(行商人)、放下(遊芸人)、猿楽(歌舞芸)、傀儡師の歩き筋で諸国を廻る。忍びの事を甲斐では三ツ者、出雲では鉢屋、尾張ではひき猿。
美濃の茜屋・鉱山師で歩き筋の血筋の出の竹中半兵衛(重治)は、杣師や鍛冶師と深い繋がり。
長年の京の都の生活で足利尊氏の坂東武者の様から変貌し、権謀術数を身に付けて公家化した室町幕府将軍・足利家の、最後の将軍・足利義昭。
平将門の乱の後逃れた出雲鉢屋を重用した山中家。
薬師・目薬屋の血筋・黒田官兵衛(孝高)は北近江・賤ヶ岳山麓の黒田村の出で、その前は近江小椋の里で同族の歩き筋。
裏切りや密会を好み、諜略・策謀・計略を得意とした明智光秀。
藤原公卿の策謀の血を色濃く持った近衛前久。
徳川家康は、建武の乱で滅んだ上州新田氏の支流・江田氏の後裔で流浪の身・阿弥衆となった父と簓者(念仏を唱えて歩く遊行者)との子国松で、後に両親と別れて母方の祖母の簓者に育てられ、その後に人商いに騙されて売られた同じ歩き筋の願人坊主にこき使われ、それと別れた後に世良田二郎三郎と名乗った。人質となっていた松平元康の嫡男・竹千代を誘拐し、元康亡き後にその家臣がその死を隠蔽する為に、その子を連れて乗り込んで来た二郎三郎を松平元康(後の徳川家康)の替え玉とした。因みに新田氏の支流には、江田氏の他に世良田氏、得川氏。
観阿弥の母が姉妹の楠木正成は、ゲリラ戦を得意とした忍びの出。建武からの乱世の中、寺社・武家、百姓、の差別を無くす。
藤堂高虎は近江の忍び筋の出で、穴太衆とも関わり。
秀吉の原点・八瀬の抹消と千利休切腹は、秀吉の素性を消す為なのか。
徳川家康は、同族の秀吉の母・大政所(仲)の後継者で秀吉の正室・北政所(お寧)を守る。関ヶ原の戦いでの家康派と秀吉の側室・淀派との対立。
鉢屋秀吉〈第1部〉陰の一族価格:¥ 1,944(税込)発売日:2001-06 |
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