「神無月(旧暦10月)に出雲に赴かない『留守神』とされたえびす神(夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須)ないしかまど神を祀り、1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願する。地方や社寺によっては、旧暦の10月20日であったり、秋と春(1月20日)の2回開催したり、十日えびすとして1月10日や1月15日とその前後などに行うこともある。」
「講のひとつであり、漁師や商人が集団で祭祀をおこなう信仰結社的な意味合いもあるが、えびす講は各家庭内での祭祀の意味も持つ。東日本では家庭内祭祀の意味合いが強く、また東日本では商業漁業の神としてのみならず、農業神として崇める傾向が西日本よりも顕著である。地域によっては1月のえびす講を商人えびす、10月のを百姓えびすと呼ぶこともある。」
(以上、ウィキペディア「えびす講」より)
上記に記載している様に、「えびす講」の内の「十日戎」が、本日から三日間、私の住む地元近くでも各神社で行われる。九日は宵えびす、十日が本えびす、十一日は残り福とされるそうで、私は今までに行った事が無いし、また興味も無いので、詳しくは知らない。上記の通り、商売繁盛を願うだけでは無い様ではあるが、今日においての大概は、それを願ってお参りに出向かれている様である。
全国で十日戎が行われるのは、西宮神社(西宮市)、今宮戎神社(大阪市浪速区)、京都ゑびす神社(京都市東山区)、堀川戎神社(大阪市北区)、柳原蛭子神社(神戸市兵庫区)、大阪天満宮(大阪市北区)、智恩寺(京都府宮津市)、平塚三嶋神社(神奈川県平塚市)、これで全部か、それとも他にも有るのかは知らない。
商売繁盛を願う事、確かに商売等の仕事でお金を稼ぐのは必要である。必要最小限の生活費と、少し生活にゆとりを作る為のお金、そして将来の為の貯金、また家族、親、子供の扶養の為といった辺りに稼ぐ事は、世間一般的に普通であり、基本的なレベルであり、決して貪欲であるとは言えない。
また、能力の有る方々は、そのお金を元手に事業を起こし、或いは有益な事業に投資する事で、それらの事から雇用を増やしたり社会の発展に貢献する事にも繋がる為に、それらの事の上では、お金は悪いものでは無い。
レジャーやショッピング、グルメ、博打、酒、好色、タバコ、ドラッグ、その他趣味……等と、ある程度は生活や精神へのゆとり、ストレス解消、潤滑油として必要に思われるかもしれない。また、その必要とするレベルも、人それぞれに違いが有り、欲の浅い者から深い者まで、またそれらの欲望の対象に成り得るものに対する依存する度合いの大きさの違いが有る。
私の場合、若い時に比べれば、欲望は大分小さくなっており、世間一般の欲望のレベルと比べても、かなり低くなっている事を自覚し、また自負している。また、それに加えて孤独である。それ故、周囲が私を傍から見て、「何が楽しくて生きているのか?」とか、「自殺するのではないか?」とか、「虚しくないのか?」等と陰口を叩かれているものと思われる。しかし、それらの言葉は、そのままそっくり、世間一般に返す事が出来る。
私の方こそは、世間一般を客観視して、その様に思えるのである。欲望の対象を追い求めても、一時的に気持ちが満たされるだけで、直ぐにまた欲しくなって来る。休みの日にレジャーに出かけても、その一瞬だけ楽しむだけで、次の休みにまたレジャーに行きたくなる。それで、日曜日毎にじっとしておられず、繰り返し外出するのである。これも、一つの依存症である。その他、酒にしても博打にしても、欲望の対象となるものは何でも、取り入れた「一瞬」だけ満たされた気持ちにはなるが、その実、心の奥底は満たされないので、時間が経つとそれぞれの欲望に対する空腹感を覚え、また次に手を出すという繰り返しの依存症である。世間一般の人達は、大概、その様な依存症に陥っているのである。
その様に、欲望で表面だけを繕おうとしても、すぐ渇いてしまう。心の奥底に溜めたものはすぐには失くならず、簡単には乾かない。それどころか、その溜めたものから次々と、思いや考え、アイデア、言葉、そして喜びや感謝する気持ち、感動が、湧いて来るのである。私がその様な依存症の姿を見ると、却って虚しく見えて来るのである。そして、もしその依存しているものが切られると、その人は自殺を考える程にまで陥る事となってしまいかねない。
依存する度合いが大きい程、その様に考える傾向となる。他にも、配偶者との死別や離婚、恋人との別れ、友人達からの裏切りや絶交、いじめ、会社にリストラされてクビになる事等も依存関係からの離脱であり、それらによってもその可能性が考えられる。
お金にしても欲望にしても、その依存度に比例して、精神が麻痺していく事となる。共に大きくなればなる程、多少の事では感動出来ず、嬉しい気持ちが起こりにくく、感謝する気持ちが失われ、そして謙遜さが失われてしまう。貪欲に成れば成る程、傲慢に成っていくのである。また、「空騒ぎ」するかの様に、喧騒の中に浸ったり忙しい状態が続くと、心が知らぬ間に虚しくなってしまっている。「忙」という字は、心が亡くなるという事である。静寂の中での禅や瞑想、お祈りは、自分を今一度原点に戻してリセットし、その虚しさも自覚するのである。虚しさを感じたく無いが為に仕事や遊び、付き合いでスケジュールを埋めようとする人達が多いが、それは依存症の理屈と同じく、根源的な虚しさを解消する事にはならない。表面を着飾って、内側の虚しさを隠しているに過ぎないのである。
潰しが効く事は大事である。依存していたもの、或いは依存とまではいかなくても関係や繋がりが有ったものが断たれても、落ち込む事も無く、ストレスに感じる事も無く、悠々と、飄々と、世を渡っていける様になる事は大事である。私の場合、社会に出て以降は初めから孤独なので、関係もくそも殆ど無い為、断たれて悩むという事が無い。雇用においても、今までに既に転々として来ており、潰しが効いて融通が効くと共に、開き直る事も出来ている。何か一つの事に囚われてしまう事は、結局は依存症にもなる訳で、その拘りを棄てる事で、依存からの解放を得る事が出来る。何事にも囚われない事が、自由であると言える。
つまり、欲望に囚われている状態は、自由では無く、それは欲望の奴隷となっているのである。依存症は、欲望の奴隷である。
この世での名誉や誇り、地位等も、欲望の対象である。十日戎で商売繁盛を願う以外にも、日本人は初詣や何やらで、神社に行っては賽銭を投げて、「何々が叶います様に」等と願い事をしている。それらは裏を返せば、自分の欲望を拝んでいるに過ぎないのである。つまり、その様に自分の幸福の願い事をする事は、自分の欲望を神として拝んでいるだけなのである。その様なお祈りの仕方は、タルムードを信奉するユダヤ人達と同じである。
「ユダヤ教」という名前の通り、タルム―ディック・ユダヤ人達は、自分達を神として拝んでいる。バビロニア・タルムードに書かれて内容は、正に、自分達が地上で最高の者、そして多民族を見下す傲慢である。タルムードは、正に、ユダヤ民族を神格化したもの、というよりも、悪魔化したものであり、自分達の欲望を纏めたものである。故に、タルム―ディック・ユダヤ人達は、自分の欲望を拝んでいるに過ぎないのである。しかし、日本人の大概も、そのタルムードを信奉するユダヤ人達と同様なのである。
敬虔なクリスチャンやムスリム(イスラム教徒)の方々は、その様なお祈りはしない。敬虔なクリスチャンやムスリムの方々は、自分の事を願わず、他人の幸福を願い、世界の平和を願い、また日々の生活の中で犯している自分の罪を告白してそれを赦して頂く様に神に願い、そして何よりも、神を賛美し、神を誉め讃え、神に感謝するお祈りをしているのである。敬虔なクリスチャンやムスリムの方々は、決して自分の欲望を願う事が無いのである。そして飽くまでも、「神第一」なのである。そして日々、創造主である唯一神によって生かされる事に対して感謝するお祈りをする程に、謙遜・謙虚であられるのである。
新約聖書・ピリピ人への手紙3章18~21節
というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
The New Testament・Epistle to the Philippians3:18~21
For many walk, of whom I told you often, and now tell you even weeping, as the enemies of the cross of Christ,
whose end is destruction, whose god is the belly, and whose glory is in their shame, who think about earthly things.
For our citizenship is in heaven, from where we also wait for a Savior, the Lord Jesus Christ,
who will change the body of our humiliation to be conformed to the body of his glory, according to the working by which he is able even to subject all things to himself.
新約聖書・マタイの福音書25章14~30節
天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。
※1タラント=6,000デナリ、1デナリ=当時の1日の労賃に相当、タラント…貨幣単位、才能
The New Testament・Gospel of Matthew 25:14~30
“For it is like a man, going into another country, who called his own servants, and entrusted his goods to them.
To one he gave five talents, to another two, to another one; to each according to his own ability. Then he went on his journey.
Immediately he who received the five talents went and traded with them, and made another five talents.
In the same way, he also who got the two gained another two.
But he who received the one talent went away and dug in the earth, and hid his lord’s money.
“Now after a long time the lord of those servants came, and reconciled accounts with them.
He who received the five talents came and brought another five talents, saying, ‘Lord, you delivered to me five talents. Behold, I have gained another five talents in addition to them.’
“His lord said to him, ‘Well done, good and faithful servant. You have been faithful over a few things, I will set you over many things. Enter into the joy of your lord.’
“He also who got the two talents came and said, ‘Lord, you delivered to me two talents. Behold, I have gained another two talents in addition to them.’
“His lord said to him, ‘Well done, good and faithful servant. You have been faithful over a few things, I will set you over many things. Enter into the joy of your lord.’
“He also who had received the one talent came and said, ‘Lord, I knew you that you are a hard man, reaping where you didn’t sow, and gathering where you didn’t scatter.
I was afraid, and went away and hid your talent in the earth. Behold, you have what is yours.’
“But his lord answered him, ‘You wicked and slothful servant. You knew that I reap where I didn’t sow, and gather where I didn’t scatter.
You ought therefore to have deposited my money with the bankers, and at my coming I should have received back my own with interest.
Take away therefore the talent from him, and give it to him who has the ten talents.
For to everyone who has will be given, and he will have abundance, but from him who doesn’t have, even that which he has will be taken away.
Throw out the unprofitable servant into the outer darkness, where there will be weeping and gnashing of teeth.’
新約聖書・ヨハネの福音書4章5~15節
それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――
イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
The New Testament・Gospel of John4:5~15
So he came to a city of Samaria, called Sychar, near the parcel of ground that Jacob gave to his son, Joseph.
Jacob’s well was there. Jesus therefore, being tired from his journey, sat down by the well. It was about the sixth hour.
A woman of Samaria came to draw water. Jesus said to her, “Give me a drink.”
For his disciples had gone away into the city to buy food.
The Samaritan woman therefore said to him, “How is it that you, being a Jew, ask for a drink from me, a Samaritan woman?” (For Jews have no dealings with Samaritans.)
Jesus answered her, “If you knew the gift of God, and who it is who says to you, ‘Give me a drink,’ you would have asked him, and he would have given you living water.”
The woman said to him, “Sir, you have nothing to draw with, and the well is deep. So where do you get that living water?
Are you greater than our father, Jacob, who gave us the well and drank from it himself, as did his children and his livestock?”
Jesus answered her, “Everyone who drinks of this water will thirst again,
but whoever drinks of the water that I will give him will never thirst again; but the water that I will give him will become in him a well of water springing up to eternal life.”
The woman said to him, “Sir, give me this water, so that I don’t get thirsty, neither come all the way here to draw.”
本ブログ過去の関連記事
・2013/01/04付:「日本の正月に存在する古代ユダヤの風習」
・2013/09/19付:「根源からのお金への問いは、規範を背景にし『喜捨』を行なうイスラムに答えがある・・・『エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと』を読んで」
・2014/06/08付:「お金・事業より優る『思想』、それをも上回る独立した名も無き小さな一個人の勇ましく高尚な真面目なる『生涯』・・・『後世への最大遺物・デンマルク国の話』を読んで」
・2017/07/23付:「高校中退後の30年間、友達・つながりが全く無かったが、こうして今ちゃんと生きている・・・世間・マスコミの論拠崩壊、独立自尊の精神、マイペース、へそ曲がり、リラックス、そして行雲流水、成るように成る」
・2017/11/29付:「『クリスチャン』が多いにも関わらず実際にはそれらしくない韓国人、逆に少ないにも関わらず実際には『キリスト者』らしい日本人・・・世界の『クリスチャン』の偽善と、古代ユダヤ人と景教徒が創った日本の神道」
参考文献
・ウィキペディア:「えびす講」
引用文献
・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
・World English Bible(eBible.org)
「講のひとつであり、漁師や商人が集団で祭祀をおこなう信仰結社的な意味合いもあるが、えびす講は各家庭内での祭祀の意味も持つ。東日本では家庭内祭祀の意味合いが強く、また東日本では商業漁業の神としてのみならず、農業神として崇める傾向が西日本よりも顕著である。地域によっては1月のえびす講を商人えびす、10月のを百姓えびすと呼ぶこともある。」
(以上、ウィキペディア「えびす講」より)
上記に記載している様に、「えびす講」の内の「十日戎」が、本日から三日間、私の住む地元近くでも各神社で行われる。九日は宵えびす、十日が本えびす、十一日は残り福とされるそうで、私は今までに行った事が無いし、また興味も無いので、詳しくは知らない。上記の通り、商売繁盛を願うだけでは無い様ではあるが、今日においての大概は、それを願ってお参りに出向かれている様である。
全国で十日戎が行われるのは、西宮神社(西宮市)、今宮戎神社(大阪市浪速区)、京都ゑびす神社(京都市東山区)、堀川戎神社(大阪市北区)、柳原蛭子神社(神戸市兵庫区)、大阪天満宮(大阪市北区)、智恩寺(京都府宮津市)、平塚三嶋神社(神奈川県平塚市)、これで全部か、それとも他にも有るのかは知らない。
商売繁盛を願う事、確かに商売等の仕事でお金を稼ぐのは必要である。必要最小限の生活費と、少し生活にゆとりを作る為のお金、そして将来の為の貯金、また家族、親、子供の扶養の為といった辺りに稼ぐ事は、世間一般的に普通であり、基本的なレベルであり、決して貪欲であるとは言えない。
また、能力の有る方々は、そのお金を元手に事業を起こし、或いは有益な事業に投資する事で、それらの事から雇用を増やしたり社会の発展に貢献する事にも繋がる為に、それらの事の上では、お金は悪いものでは無い。
レジャーやショッピング、グルメ、博打、酒、好色、タバコ、ドラッグ、その他趣味……等と、ある程度は生活や精神へのゆとり、ストレス解消、潤滑油として必要に思われるかもしれない。また、その必要とするレベルも、人それぞれに違いが有り、欲の浅い者から深い者まで、またそれらの欲望の対象に成り得るものに対する依存する度合いの大きさの違いが有る。
私の場合、若い時に比べれば、欲望は大分小さくなっており、世間一般の欲望のレベルと比べても、かなり低くなっている事を自覚し、また自負している。また、それに加えて孤独である。それ故、周囲が私を傍から見て、「何が楽しくて生きているのか?」とか、「自殺するのではないか?」とか、「虚しくないのか?」等と陰口を叩かれているものと思われる。しかし、それらの言葉は、そのままそっくり、世間一般に返す事が出来る。
私の方こそは、世間一般を客観視して、その様に思えるのである。欲望の対象を追い求めても、一時的に気持ちが満たされるだけで、直ぐにまた欲しくなって来る。休みの日にレジャーに出かけても、その一瞬だけ楽しむだけで、次の休みにまたレジャーに行きたくなる。それで、日曜日毎にじっとしておられず、繰り返し外出するのである。これも、一つの依存症である。その他、酒にしても博打にしても、欲望の対象となるものは何でも、取り入れた「一瞬」だけ満たされた気持ちにはなるが、その実、心の奥底は満たされないので、時間が経つとそれぞれの欲望に対する空腹感を覚え、また次に手を出すという繰り返しの依存症である。世間一般の人達は、大概、その様な依存症に陥っているのである。
その様に、欲望で表面だけを繕おうとしても、すぐ渇いてしまう。心の奥底に溜めたものはすぐには失くならず、簡単には乾かない。それどころか、その溜めたものから次々と、思いや考え、アイデア、言葉、そして喜びや感謝する気持ち、感動が、湧いて来るのである。私がその様な依存症の姿を見ると、却って虚しく見えて来るのである。そして、もしその依存しているものが切られると、その人は自殺を考える程にまで陥る事となってしまいかねない。
依存する度合いが大きい程、その様に考える傾向となる。他にも、配偶者との死別や離婚、恋人との別れ、友人達からの裏切りや絶交、いじめ、会社にリストラされてクビになる事等も依存関係からの離脱であり、それらによってもその可能性が考えられる。
お金にしても欲望にしても、その依存度に比例して、精神が麻痺していく事となる。共に大きくなればなる程、多少の事では感動出来ず、嬉しい気持ちが起こりにくく、感謝する気持ちが失われ、そして謙遜さが失われてしまう。貪欲に成れば成る程、傲慢に成っていくのである。また、「空騒ぎ」するかの様に、喧騒の中に浸ったり忙しい状態が続くと、心が知らぬ間に虚しくなってしまっている。「忙」という字は、心が亡くなるという事である。静寂の中での禅や瞑想、お祈りは、自分を今一度原点に戻してリセットし、その虚しさも自覚するのである。虚しさを感じたく無いが為に仕事や遊び、付き合いでスケジュールを埋めようとする人達が多いが、それは依存症の理屈と同じく、根源的な虚しさを解消する事にはならない。表面を着飾って、内側の虚しさを隠しているに過ぎないのである。
潰しが効く事は大事である。依存していたもの、或いは依存とまではいかなくても関係や繋がりが有ったものが断たれても、落ち込む事も無く、ストレスに感じる事も無く、悠々と、飄々と、世を渡っていける様になる事は大事である。私の場合、社会に出て以降は初めから孤独なので、関係もくそも殆ど無い為、断たれて悩むという事が無い。雇用においても、今までに既に転々として来ており、潰しが効いて融通が効くと共に、開き直る事も出来ている。何か一つの事に囚われてしまう事は、結局は依存症にもなる訳で、その拘りを棄てる事で、依存からの解放を得る事が出来る。何事にも囚われない事が、自由であると言える。
つまり、欲望に囚われている状態は、自由では無く、それは欲望の奴隷となっているのである。依存症は、欲望の奴隷である。
この世での名誉や誇り、地位等も、欲望の対象である。十日戎で商売繁盛を願う以外にも、日本人は初詣や何やらで、神社に行っては賽銭を投げて、「何々が叶います様に」等と願い事をしている。それらは裏を返せば、自分の欲望を拝んでいるに過ぎないのである。つまり、その様に自分の幸福の願い事をする事は、自分の欲望を神として拝んでいるだけなのである。その様なお祈りの仕方は、タルムードを信奉するユダヤ人達と同じである。
「ユダヤ教」という名前の通り、タルム―ディック・ユダヤ人達は、自分達を神として拝んでいる。バビロニア・タルムードに書かれて内容は、正に、自分達が地上で最高の者、そして多民族を見下す傲慢である。タルムードは、正に、ユダヤ民族を神格化したもの、というよりも、悪魔化したものであり、自分達の欲望を纏めたものである。故に、タルム―ディック・ユダヤ人達は、自分の欲望を拝んでいるに過ぎないのである。しかし、日本人の大概も、そのタルムードを信奉するユダヤ人達と同様なのである。
敬虔なクリスチャンやムスリム(イスラム教徒)の方々は、その様なお祈りはしない。敬虔なクリスチャンやムスリムの方々は、自分の事を願わず、他人の幸福を願い、世界の平和を願い、また日々の生活の中で犯している自分の罪を告白してそれを赦して頂く様に神に願い、そして何よりも、神を賛美し、神を誉め讃え、神に感謝するお祈りをしているのである。敬虔なクリスチャンやムスリムの方々は、決して自分の欲望を願う事が無いのである。そして飽くまでも、「神第一」なのである。そして日々、創造主である唯一神によって生かされる事に対して感謝するお祈りをする程に、謙遜・謙虚であられるのである。
新約聖書・ピリピ人への手紙3章18~21節
というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
The New Testament・Epistle to the Philippians3:18~21
For many walk, of whom I told you often, and now tell you even weeping, as the enemies of the cross of Christ,
whose end is destruction, whose god is the belly, and whose glory is in their shame, who think about earthly things.
For our citizenship is in heaven, from where we also wait for a Savior, the Lord Jesus Christ,
who will change the body of our humiliation to be conformed to the body of his glory, according to the working by which he is able even to subject all things to himself.
新約聖書・マタイの福音書25章14~30節
天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。
※1タラント=6,000デナリ、1デナリ=当時の1日の労賃に相当、タラント…貨幣単位、才能
The New Testament・Gospel of Matthew 25:14~30
“For it is like a man, going into another country, who called his own servants, and entrusted his goods to them.
To one he gave five talents, to another two, to another one; to each according to his own ability. Then he went on his journey.
Immediately he who received the five talents went and traded with them, and made another five talents.
In the same way, he also who got the two gained another two.
But he who received the one talent went away and dug in the earth, and hid his lord’s money.
“Now after a long time the lord of those servants came, and reconciled accounts with them.
He who received the five talents came and brought another five talents, saying, ‘Lord, you delivered to me five talents. Behold, I have gained another five talents in addition to them.’
“His lord said to him, ‘Well done, good and faithful servant. You have been faithful over a few things, I will set you over many things. Enter into the joy of your lord.’
“He also who got the two talents came and said, ‘Lord, you delivered to me two talents. Behold, I have gained another two talents in addition to them.’
“His lord said to him, ‘Well done, good and faithful servant. You have been faithful over a few things, I will set you over many things. Enter into the joy of your lord.’
“He also who had received the one talent came and said, ‘Lord, I knew you that you are a hard man, reaping where you didn’t sow, and gathering where you didn’t scatter.
I was afraid, and went away and hid your talent in the earth. Behold, you have what is yours.’
“But his lord answered him, ‘You wicked and slothful servant. You knew that I reap where I didn’t sow, and gather where I didn’t scatter.
You ought therefore to have deposited my money with the bankers, and at my coming I should have received back my own with interest.
Take away therefore the talent from him, and give it to him who has the ten talents.
For to everyone who has will be given, and he will have abundance, but from him who doesn’t have, even that which he has will be taken away.
Throw out the unprofitable servant into the outer darkness, where there will be weeping and gnashing of teeth.’
新約聖書・ヨハネの福音書4章5~15節
それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――
イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
The New Testament・Gospel of John4:5~15
So he came to a city of Samaria, called Sychar, near the parcel of ground that Jacob gave to his son, Joseph.
Jacob’s well was there. Jesus therefore, being tired from his journey, sat down by the well. It was about the sixth hour.
A woman of Samaria came to draw water. Jesus said to her, “Give me a drink.”
For his disciples had gone away into the city to buy food.
The Samaritan woman therefore said to him, “How is it that you, being a Jew, ask for a drink from me, a Samaritan woman?” (For Jews have no dealings with Samaritans.)
Jesus answered her, “If you knew the gift of God, and who it is who says to you, ‘Give me a drink,’ you would have asked him, and he would have given you living water.”
The woman said to him, “Sir, you have nothing to draw with, and the well is deep. So where do you get that living water?
Are you greater than our father, Jacob, who gave us the well and drank from it himself, as did his children and his livestock?”
Jesus answered her, “Everyone who drinks of this water will thirst again,
but whoever drinks of the water that I will give him will never thirst again; but the water that I will give him will become in him a well of water springing up to eternal life.”
The woman said to him, “Sir, give me this water, so that I don’t get thirsty, neither come all the way here to draw.”
本ブログ過去の関連記事
・2013/01/04付:「日本の正月に存在する古代ユダヤの風習」
・2013/09/19付:「根源からのお金への問いは、規範を背景にし『喜捨』を行なうイスラムに答えがある・・・『エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと』を読んで」
・2014/06/08付:「お金・事業より優る『思想』、それをも上回る独立した名も無き小さな一個人の勇ましく高尚な真面目なる『生涯』・・・『後世への最大遺物・デンマルク国の話』を読んで」
・2017/07/23付:「高校中退後の30年間、友達・つながりが全く無かったが、こうして今ちゃんと生きている・・・世間・マスコミの論拠崩壊、独立自尊の精神、マイペース、へそ曲がり、リラックス、そして行雲流水、成るように成る」
・2017/11/29付:「『クリスチャン』が多いにも関わらず実際にはそれらしくない韓国人、逆に少ないにも関わらず実際には『キリスト者』らしい日本人・・・世界の『クリスチャン』の偽善と、古代ユダヤ人と景教徒が創った日本の神道」
参考文献
・ウィキペディア:「えびす講」
引用文献
・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
・World English Bible(eBible.org)
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