狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

僕52歳の求職活動からの連想(9/12)/Age of 52 my associations from job hunting・・・旋盤工作家・小関智弘氏、下請け町工場の鉄工所、渡り職人

2021-04-06 01:00:00 | 鉄工所・職人・町工場
 <※本当の投稿日時
  True posted date & time:2021/04/13 05:06>

   (当方の都合にて、投稿日時を変更しております。
    I changed posted date and time for my convenience.)

 ※ 本記事において幾つかの文献と画像を引用する事によって構成しておりますが、本記事により当方は収入を一切受け取っておりません。
 ※ I have made composition by borrowing some references and pictures in this article, but I don't receive the income at all by this article.

 <→8/12からの続き>

 僕52歳の求職活動からの連想(9/12)
  Age of 52 my associations from job hunting
   ・・・旋盤工作家・小関智弘氏、下請け町工場の鉄工所、渡り職人


 ……その他にも日本には、伝統や文化、習慣、しきたり等に至るまで、古代イスラエル由来のものが幾らでも存在する。1975年に設立された偽イスラエルの失われた10支族に関する調査機関「アミシャーブ(Amishav)」や、元偽イスラエル駐日大使のエリ・コーヘン氏等も、古代ユダヤ人の末裔が日本に居る事を認めている。また、最近進められているDNA検査で、日本人に男系男子のハプログループDE (Y染色体)である「YAPマイナス」の遺伝子を持つ者が多い事も判明して来ている。
 (コメントここまで)



出典:次のYouTube「【初体験】イスラエル人 日本のクリスマスデビュー【カイチューブ kaiTube】」より


YouTube: 【初体験】イスラエル人 日本のクリスマスデビュー【カイチューブ kaiTube】
2020/12/26

 以下、上のYouTube「【初体験】イスラエル人 日本のクリスマスデビュー……」に投稿した僕のコメント
  ユダヤ教徒のカイ・コーヘン氏が彼女と出られておられる。彼女の方の親の一方がイタリア人と言うが、どうなんだろうか。
  それはともかく、わざと議論を巻き起こそうとしてであるのか、クリスマスにスターバックスに入っている。スターバックスと言えば、シオニスト企業として有名だ。
  僕は明確に、「反シオニスト」であり、そして同時に、クリスチャンでもある。それ故、僕は、偽イスラエルの占領政策やアパルトヘイト政策、入植政策に反対だ。しかし、反対に欧米諸国のクリスチャンには、現在、パレスチナ地方を占領する偽イスラエルを支持する人々が多い。特にアメリカの場合は、連邦議会の議員の殆ど、超党派的に、偽イスラエルを支持するシオニストばかりだ。
  実は、パレスチナ人達の中に、血統的な本物のユダヤ人が含まれている。パレスチナという名前は国名、或いは地域名であって、民族名では無い。パレスチナ人と呼ばれる人々の中には、アラブ人の他、ユダヤ人、その他の民族が混合している。それは、偽イスラエル国の中に様々な民族が混じって居住している事と同じだ。
  また、ここ日本も、実は日本人というのは同様に国名や国籍名であって、本当のところは日本人は単一民族では無く、支那人(中国人)や朝鮮人、東南アジア系、古代イスラエル人、古代ユダヤ人、その他、多くの民族の末裔が居住している多民族国家なのだ。
  そして、ユダヤ人と言われる人々は大きく分けて、スファラディ―・ユダヤ人(セファルディム)とアシュケナジー・ユダヤ人が居る。前者は、今から約500数十年前にスペインを追放された血統的ユダヤ人であり、後者はユダヤ教に改宗した宗教的ユダヤ人で、本当のところはカザール人(ハザール人)とされる。
  現在の偽イスラエルにも、母方がユダヤ人である者をユダヤ人としたり、ユダヤ教に改宗した者をユダヤ人とする法律が在る。この事は、現在のイスラエルが偽物であると言える一つの理由になる。本者のユダヤ人は、男系男子の血統を持つ者、つまり、ユダヤ民族としての男性しか持っていないY染色体を持っている者の事だ。男性の性染色体はXY型であるが、女性はXX型であるので、女性はそのY染色体を持たない。そのユダヤ民族の祖先である、アブラハム―イサク―ヤコブ……の男系男子の血統のY染色体を持つ者だけが、本者のユダヤ人であると言う事が出来、ユダヤ教に改宗しただけでユダヤ人になるなんて理屈は正にフェイクである。
  因みに、イエス・キリストの誕生日は、新約聖書に書かれていない。ただ、イエス様が御降誕された時の背景として、羊飼いが夜中に羊の番をしながら野宿していた事が書いてあり、春以降の暖かい時期である事が解る。クリスマスは、ローマ・カトリックが12月25日を祭日とするミトラ教に影響を受けた事による。他にも、人間マリアを偶像化して拝む等と、キリスト教界の宗教組織・団体にも、そんなフェイクが在る。
 (コメントここまで)

 


 

 


 

 


 また、次の件も、僕にとっては他人事とは思えないし、共通し、共感する事が含まれる。
 2003年5月、滋賀県東近江市の湖東記念病院で入院中の男性患者(当時72歳)が死亡した件で、誘導尋問により虚偽の自白をした事で冤罪を被った女性について、次の報道が有った。

 以下、2021/03/30付・毎日新聞『いまだ謝罪なく 元看護助手「闘い続ける」湖東病院・再審無罪1年』より 
  『……西山さんは2004年に24歳で逮捕され、17年8月に刑務所を出所。無罪を勝ち取るまで15年余りを要した。元々人と関わることが好きだったため、介護施設や販売の仕事など約30社に応募したが、履歴書にある約13年の「空白」のせいか、全て不採用だった。19年に採用されたリサイクル工場では車の部品を造るなどしていたが、看護助手をしていた以前の仕事とのギャップを感じていた。
  働きながら介護施設への応募を続けて20年11月、同県彦根市の自宅近くの特別養護老人ホームにようやく採用された。現在は週5日、入所者の入浴や食事、着替えなどを介助する。入所者から「ありがとう」と感謝されるとやりがいを感じるが、「人の命を預かっているので責任がある」とも語り、表情を引き締める。30日から市内の介護専門学校に通い始め、週1回の通学と通信講座で資格取得を目指す。……
  …(中略)…
  ……西山さんにとって幸せとは「普通に働いて、おいしいご飯を食べて、買い物ができること」。全てがかなった今、求めるのは県警と検察が二度と冤罪被害者を出さないよう生まれ変わることだ。西山さんは「本当はひっそりと暮らしたい。でも、県警と検察が変わるまでは闘い続ける」と力を込めた。……』
 (以上、2021/03/30付・毎日新聞『いまだ謝罪なく 元看護助手「闘い続ける」湖東病院・再審無罪1年』より)

 『……両親が共働きで、子どものときから祖母と過ごす時間が多く「おばあちゃんっ子だった」という西山さん。だが、その祖母は服役中に亡くなった。
 「介護の仕事を、ずっとしたかった。おばあちゃんの影響も大きい」と語る。施設の利用者は八十歳以上がほとんどで、認知症の人も多い。食事や排せつの介助などに汗を流し、天気やテレビ番組の話など、お年寄りとの会話も楽しむ。「介護の仕事は楽しい」と笑顔を見せた。
 職場の先輩と愚痴を言い合い、休日には一緒に出掛ける。逮捕期間を含め十三年間の身体拘束の後に得た、穏やかで普通の生活を「今でも続けたいという気持ちはある」と語る。それでも国賠訴訟で再び法廷に立つことを...』
 (2021/03/31付・中日新聞『西山さん「声上げることに意味」 呼吸器事件、無罪判決1年』より) 

 そんな、騒音おばさんについての事件から、この記事の中で、創価学会、公明党、エセ右翼、マスゴミ、サイモン・ウィーゼンタール・センター、オウム真理教、アレフ、ユダヤ、ホロコースト、ナチ・ガス室、阪神淡路大震災と、繋がって来た訳だ。
しかし、元々の、僕自身の求職活動の件からは、大分、逸れてしまったかもしれない。

 泥沼にハマり、負のスパイラルで沈み続けて溺れていくまでに、辞退届けを出して沼から脱出した。後になって「出しときゃ良かったかなぁ」と後悔する事も無くスッキリしたところで、心機一転、多少の擦り合せ、妥協を働かせた。やはり、Preparationに書いている通りに、鉄工に携わりながら並行して、もの書き、ジャーナリズムを行なっていく事を覚悟する事となった。

 しかし当面は、何と言ってもお金が無いので、向こうに合わせてやるしかない。週休二日とか残業なしとかは、言っていられない。尤も、極端に夜遅くまでとか、休日出勤の過多は、避けたい所だ。まぁ、とにかくお金が無いので、極端に合わないのでは無い限り、当面は忍耐、我慢だろう。
 そして、何と言っても、拾ってもらった事に対しての恩返しをしなければならない。

 臨工関係を辞退した2日後の3月13日(土)に、次の本を注文し、翌日に面接を控える17日(水)にメール便で到着した。お金が無いので、中古の本を買った。



小関智弘氏著「働きながら書く人の文章教室」(2004/10/20・岩波書店刊)
出典:amazon等

 作家の小関智弘氏は、戦前の1933年(昭和8年)2月に東京市大森区(現・東京都大田区)で生まれ、現在、御歳88歳となられる。東京都立大学附属工業高校(都立電機工業学校、現・東京都立大学附属高等学校)を卒業後、1951年から大田区内の数々の町工場を渡り歩きながら旋盤工として働きつつ、作家活動を続けて来られた。しかし、渡り職人としては44歳まで、旋盤工としての経験が26年程になっていた頃までであったらしく、その後の約25年は同じ鉄工所で勤務し続けられた。2002年、小関氏が69歳と4ヶ月の時に、勤め先の工場の閉鎖により51年間の旋盤職人としての生活に幕を閉じられたものの、作家としての活動は現在に至っても未だ続けておられる。

 小関氏は作家として、これまで小説、ドキュメンタリー、ルポルタージュ、エッセイと、幅広く熟して来られた。

 『1960年代から『新日本文学』や同人誌『塩分』などを舞台に小説を発表、1977年『錆色の町』で直木賞候補、1978年『地の息』で同、1979年「羽田浦地図」で芥川賞候補、1981年「祀る町」で同、同年『大森界隈職人往来』で日本ノンフィクション賞受賞。2004年『職人学』で日経BP・BizTech図書賞、2015年『町工場のものづくり』で産経児童出版文化賞・産経新聞社賞受賞。』
 (ウィキペディア「小関智弘」より) 


YouTube: OTAKARA発見隊 vol.26 『元旋盤工・作家 小関智弘さん』
2013/06/30

 中学と高校時代から文芸部に所属され、読書やもの書きの素養や素質が備わっておられたのだろう。しかし本人は、5歳年上の秀才の兄と比較して、自らの事を愚鈍等と謙遜しておられる。その小関氏の兄は、何と東大を出ておられる。
 小関氏も、大学への進学を周囲から勧められたり、自身も進学する事を考えられたそうだが、家の事情を考えてやめる事にした。また、本人の希望も有って、敢えて、就きたかった旋盤工の職種に、しかも、小さな町工場の職人としての道を選んだという。そして、最初に就いた会社に安住する事無く、敢えて複数の町工場を転々と渡り歩かれ、困難な道、苦難となる道を通りながら、自己研鑽、練磨に励まれ、同時に作家としてのモチーフとして取り上げるべく、取材も兼ねて働かれた様だ。

 小関氏は旋盤工の作家として、「人はなぜはたらくのか」という問いを、生涯のテーマとして持つ。そして、町工場の事が取り上げられる事が殆ど皆無である、そんな社会的な雰囲気やシステムの中に存在する欠落部を埋めるべく、世間、社会に風穴を開けて、世の中にその町工場の事を伝え知ってもらう事を主題にする事を、もの書きとしての使命とされて来た様だ。

 小関氏の生まれ育った東京都の大田区は、世界的に製造業の町として有名で、工場数と従業員数は東京都で第一位であるという。その大田区に存在する会社は、従業員が10人以下の中小零細企業が80%程を占める。以前のピーク時には1万近く存在したその中小零細の会社は、3,000程(2017年時?)にまで減少した。
 1947年に大森区と蒲田区が合併して誕生した大田区は、東京23区の中で最も面積が広く、昔から魚介類を獲ったり海苔の養殖をする等と漁業が盛んで、交通の要衝、観光・行楽の名所としても栄えた。


YouTube: 来て!大田区ってこんなところ
2013/07/18

YouTube: モノづくり探検隊
2013/06/30

 戦後、現在の大田区に当たる海岸が埋め立てられ、そこに羽田空港が建設され、そして日本が主権を取り戻した1952年には東京国際空港となった。その空港が作られる前、終戦直前と直後には、余り語られていないものが存在したという。
 「羽田史誌」等の資料や、小関氏の聞き取り調査にも出て来なかった事が、所轄の蒲田警察署の「五十年誌」には、次の様に載ってあるという。

  「昭和十九年六月、穴守の慰安施設特別認可なる。穴守町七五〇番地付近六、五〇〇坪を、産業戦士に対する慰安施設として臨時私娼黙認地域を認可。」

 公娼制度としての「赤線」に対し、公には認められていないものの、非合法での売春でありながら、警察が「黙認」する形での、私娼としての「青線」といったところであろうか。

 終戦直前についての或る1枚の地図によると、鈴木町については1945年(昭和20年)3月の第三次強制疎開直前の記録で、隣接する穴守町は1944年(昭和19年)の洲崎業者転入直前を記録している、と明記してあるという。
 その洲崎の業者とは、戦前に日本人に対しての慰安所を作り、戦後は米軍兵士用の売春施設を作ったものだという。その「洲崎業者転入」が、蒲田警察署の「五十年誌」に書いてある「穴守の慰安施設特別認可」を意味しているという。

 終戦直後には、大田区を流れる多摩川河口のデルタ地帯に在る羽田穴守町、羽田鈴木町、羽田江戸見町を、アメリカのGHQ占領軍が、当時住んでいた農民や漁師達を強制的に立ち退かせ、ブルドーザーで根こそぎ破壊して、埋め立ててしまったという。
その強制立ち退きの被害は、「大田区史年表」によると1,231世帯、「羽田史誌」によると766世帯、2,894人であるらしい。しかし、こんな事実が、当時の新聞で殆ど報道されなかったという。
 そして、米国占領軍兵士達による強姦や性暴力等の性犯罪を防ぐ目的で、その兵士専用としての「特殊慰安施設協会(Recreation and Amusement Association:RAA)」の第一号として、大森に戦前から在った小町園という料亭が使われたという。
 
 1979年に発表された短編小説の「寒暖計」や、次の1982年に上梓された「羽田浦地図」は、そんな東京に戦時中、戦後と在った慰安施設をモチーフにしたものだ。
1979年に芥川賞候補となったその「羽田浦地図」は、1977年に直木賞候補となった『錆色の町』と併せて脚本化され、2年後の1984年(昭和59年)にNHKのドラマの原作としても用いられた。



出典:amazon

 NHKアーカイブス『「ドラマ人間模様 羽田浦地図」(1984年)』

ドラマ人間模様 羽田浦地図

脚本:池端俊策/演出:門脇正美、木田幸紀/主演:緒形拳/空港と川ひとつ隔てて町工場が立ち並ぶ羽田界わ・・・

テレビ60年 特選コレクション | NHKアーカイブス

 


 2014/08/01付・喫茶 輪「小関智弘さん」
  (同日付・神戸新聞朝刊・葉月の随想「羽田のハマグリ 小関智弘」)







『大森界隈職人往来』
(朝日新聞社 1981
のち文庫、
岩波同時代ライブラリー、
岩波現代文庫)


『職人学』
(講談社 2003 
のち日経ビジネス人文庫)



『町工場のものづくり 生きて、働いて、考える』
少年写真新聞社 ちしきのもり 2014

 日経BP・BizTech図書賞を受賞し、小関氏と同じ歳の経済評論家の内橋克人氏からも推薦を受けた「職人学」を読んだ感想を、僕は次の本ブログ記事に記した。

 2014/05/17付『職人と単なる労働者とは異なる・・・本当の喜びと誇り・・・「職人学」を読んで』

 小関氏は旋盤工と作家を一体にして活動され、自らの立場、自らが存在する位置、場所を基に、主に下請けのものづくりの町工場をライフワークにして来られた。
 僕は今回、『働きながら書く人の文章教室』(2004、岩波書店)という本を購入したが、今までに既に、小関氏が書かれた本は5冊、所有する事となっていた、『仕事が人をつくる』(岩波新書、2001)、『手仕事を見つけたぼくら』(ガテン編集部共同編集、小学館文庫 2001)、『職人学』(講談社 2003、のち日経ビジネス人文庫)、『職人ことばの「技と粋」』(東京書籍、2006)、『道具にヒミツあり』(岩波ジュニア新書、2007)と、ルポルタージュやドキュメント、エッセイといったところで、小説は読んでいない。今に至っても、普段から時事問題等を見つめる僕は、リアリストであるが故もあってか、余り小説には興味を示して来なかった。

 僕も、22歳で下請の鉄工所の町工場に見習いで入って以来、その後は36歳になる直前までは一貫して、製缶工として仕事をする事を変えずに、数か所の鉄工所を渡り歩いた。臨工関係の専門学校へ行った4年間を挟んで再び鉄工界に戻ろうとしたものの、リーマンショックが重なっていたり、そんな中途半端に肩書というべきかレッテルというべきかというものを持ってしまったが故も有って、却ってそれが製缶工として勤める事に妨げになった事も有り、それ以降も転々とする事になってしまった。それ故、本来なら一貫して続けていれば今年で丸30年になっていたところを、途中で抜け出したり、その後もそんな、いささか翻弄された様になってしまった事も有って、純粋に製缶工として働いたのは、その内の20年余りにしかならない。

 そんな風に、小関氏にしろ、僕にしろ、渡り歩いて来た事は、今でこそ殆ど居なくなっているのかもしれないが、昔は「渡り職人」とか「渡り職工」と呼ばれた人々が沢山おられた。

 以下、小関智弘氏著『職人ことばの「技と粋」』(2006/08/10・東京書籍刊)より
 『【渡り職人】
 横山源之助が「諸国を巡歴し所謂ワタリの苦艱(くかん)を嘗め」と書いたのが「渡り職人」です。“包丁一本さらし(晒布)に巻いて、旅に出るのも板場の修行”と歌にあるように、調理人の世界にも渡り職人がいました。
 マイスター制度で名高いドイツには、<遍歴職人>という制度が14世紀後半に始まりました。マイスターの下で3年間修行をした後、職業上の知識と技を磨き、人間の幅を広げる為に各地の親方を渡り歩きながら修行する事が強制されたそうです。重病に罹ったり、近親者の葬儀に参列する以外は、故郷から50キロメートル以内に帰れず、3年間の遍歴を続けるという厳しいものでした。……
 …(中略)…
 ……日本でも古くから渡り職人は存在します。各地を渡り歩いては親方の所に厄介になります。人手が足りなければ、そこでしばらく働かせてもらいますが、足りていたり、あまり腕が良くないから断ろうというような時には、一宿一飯の世話をして、草鞋銭(わらじせん)を包んで送り出すという習慣がありました。……』

 『【渡り職工】
 明治になって近代工業化が進むにつれて、工場で働く人たちは職人ではなく「職工」と呼ばれるようになります。職人は生産手段を私有していますが、工場で働く労働者は生産手段を私有してはいないからです。職工という呼称は明治から大正初期までは、誇り高い呼称でした。当時は単純労働にたずさわる底辺労働者を労働者と呼び、技能を身につけて働く労働者を職工と呼んだのです。明治16(1883)年に職工学校が設立されます。これが後の東京工業大学になります。……
 …(中略)…
 ……しかし次第に、この「職工」という呼称は、事務労働者・社員・職員と区別して、身分差別的な使われ方がされるようになりました。……
 …(中略)…
 ……渡り職人ということばは、職人気質(かたぎ)の気まぐれや定着性のなさから否定的に評価されることが多いようです。しかし渡りが修行のひとつの形態であったことは、ドイツの遍歴職人や……
 …(中略)…
 ……わたしもまたその町工場を振り出しに、たくさんの町工場を渡り歩きました。たぶん渡り職工としてはしんがりにあたるでしょう。いくつもの町工場を渡り歩いたおかげで、小は手のひらにのせて吹けば飛んでしまうような小物から、ひとつの機械部品の重さが2トン~3トンという大物まで削る体験をしました。機械技術の進歩に合わせてさまざまな鋼やガラス繊維やアクリルやナイロンも削りました。それはわたし自身の修行でしたが、そんなわたしを受け入れてくれる受け皿としての町工場があったから可能だったことです。そのつど、「こんな仕事をやったことがあるかい」「こういう刃物を使ったことは」と質問されてから採用されました。新しい種類の仕事、新しい機械や刃物を経験している職工(人)を雇えば、雇う側には都合がいいわけです。
 受け皿がなければ、渡り職工は存在しえなかったことを見逃してはならないと思うのです。……
 …(中略)…
 ……わたしの渡り歩きは、1970年代に入って終わりました。それまでの手動操作の旋盤が、コンピューター制御のNC旋盤に変わったそのころからは、小さな町工場の世界にも渡り職人の姿はほとんどなくなりました。……』
 (以上、小関智弘氏著『職人ことばの「技と粋」』より)



出典:amazon

 そんな渡り職人や渡り職工の人生というのは、小関氏の著書のタイトル「町工場巡礼の旅」に相当するのだろう。

 以下、小関智弘氏著「働きながら書く人の文章教室」(2004/10/20・岩波書店刊)より
  『旋盤工なら知っているでしょう
  『町工場巡礼の旅』というのは、2002年に発刊となったわたしの著書のタイトルであるが、1986年の『町工場の磁界』の帯にすでにそのことばを使った。それ以来の主な著書『町工場の人間地図』や『仕事が人をつくる』も、あるいはそれらの著書を使って集大成した近著「職人学」までが、わたしにとっては町工場巡礼の旅となった。
  巡礼は言うまでもなく、山本周五郎の『青べか物語』に引用されている、ストリンドベリ―の「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」を意識している。ストリンドベリ―やそれを引用した山本周五郎の意図を離れても、このことばはわたしをいつも励まし、力づけてくれるものであった。……
  …(中略)…
  ……わたしは、工場と書いて「こうば」と読んでいる。「こうじょう」だと、建物と機械がクローズアップされてしまって、そこで働く人たちが点景になってしまうというイメージが強い。「こうば」だと、働いている人間がクローズアップされて、建物や機械はその背景に後退する。工場の工は「たくみ」であり、工場はたくみたちの場だからである。旋盤工の工は、旋盤という機械を使ってものづくりをするたくみである。主人公は人間だという思いを込めている。町工場は、「こうば」と呼ぶにふさわしくどこも個性的で、だから似たような工場をたずねても、そのつど新しい発見があった。
  巡礼の旅とは、たずね歩いては新しい発見をする旅であった。しかし同時に、それは自分を発見する旅でもあった。見知らぬ人をたずねて感動を共有することがしばしばある。こういう仕事をしていると、こんなふうに感動し合える自分がいるという発見をする。そんな二重の感動である。……』
 (以上、小関智弘氏著「働きながら書く人の文章教室」より)






『町工場巡礼の旅』
(現代書館 2002 
のち中公文庫)


『町工場の磁界』
(現代書館 1986)



『町工場の人間地図』
(現代書館 1990)

 小関氏は、30代の後半まで、そんな渡り職人として複数の町工場を転々と渡り歩いて来られ、その後、69歳と半ばまで一貫して、旋盤工として勤められた。
 その事と並行して、作家、それも趣味としてのレベルでは無く、直木賞や芥川賞にノミネートされ、その他の賞を受賞される程の業績を上げられたぐらいの事をされてきた訳で、ここは一つ、僕も一応、今後、製缶工ともの書きやジャーナリズムを並行して行なっていく身として、何か得るものはないかと、今後に活かせる参考になるものはないかと、その「働きながら書く人の文章教室」を読んでみた。

 読書のスピードも遅い、マイペースでノロマな亀の様な僕は、未だその本を途中までしか読んでいないのだが、先程と同様に、そこから少し引用させてもらう。

 以下、小関智弘氏著「働きながら書く人の文章教室」より
  『あとは手が教えてくれる
  ……昼間は旋盤工として働いていたから、机に向かって原稿を書く時間は、夜と休日しかなかった。そんなにたくさん書いてきたわけではないが、職場の仲間の多くが帰りがけにパチンコやマージャンに興じたり、釣りや野球や競馬に出かけたりする時間を、執筆に当てるぐらいのことはした。町工場のことだから残業は多いし、週休二日制というのにはついに生涯恵まれなかったから、四十代の直木賞や芥川賞の候補になったころなどは、寝る間を惜しんで書いた。……
  …(中略)…
  ……4,5枚のエッセイを依頼されても、20枚くらいの連載ものを書くのにも、休日一日を朝から晩までかけて書くというのが、そのころのわたしの習慣になっていた。では、たとえば20枚の原稿を日曜日の朝から晩まで書いたら書けたかというと、そうではない。
  まず、昼間働きながらも、それをどう書くかを考える。昼間工場で肉体労働をして、さぞ大変でしょう、とよく言われたがそうではない。相手が鉄だから、気を使うことがない。気は使うが、それはまったく別の気であって、しかももう何十年も鉄を相手に働いてきた。…(中略)…これがもし、対人関係に気を使う営業や教員のような仕事をしていたら、そうはいかなかったろう。旋盤工だからよかった。
  そんなふうだから、鉄を相手に百分の一ミリの精度に気は使いながらも、ふと文章の内容を考えてみたりする。いいことばを思いついてメモを取る。……』
 (以上、小関智弘氏著「働きながら書く人の文章教室」より)

 僕は、「時間が無ければ無理」と思って、面接先でも土日休みや残業したくないと希望して、ワーク・ライフ・バランスを求めたりしたが、小関氏は生涯、週休二日制に恵まれずに日曜日だけ休み、残業も多かったと述べている。そんな少ない自分の時間しか無いのに、よくそこまで本を出版される等と著作活動が出来るものだなぁと、僕は恐れ入ってしまう。寝る間も惜しんだと述べられるが、平日の工夫が肝心だという事の様だ。僕のワーク・ライフ・バランスを取りたいという希望は、小関氏にとれば贅沢な希望、悩みであろうか・・・?

 小関氏は、先に掲げたNHKの「ドラマ人間模様 羽田浦地図」の製作中、そのドラマに旋盤工の役で主演された緒形拳氏と語り合う中で脚本にサインを頼まれたが、その代わりに自分が著した本を贈られた。そしてその本の中に、「働くことと暮らすことが同義語のひとたち」という言葉を添えられたという。
 町工場を巡礼する旅をする事、数百ヶ所にもなるという小関氏は、著作の為の取材であちこち渡り歩いて来たとも述べられる。そんな数々の取材も含め、作家として、旋盤工として、ライフワークが正に一体になっておられた事が伺える。
 一方で、「職場というアンテナ」を活かし、旋盤の前に立ちながら、工場にやって来る工具屋、油屋、スクラップ屋、運送屋等と、様々な客や取引先からの情報も得て、それがまた、新たな取材先に繋がっていたと言われる。

 ドキュメンタリーやルポルタージュを書く場合は、そんな取材で半分は決まった様なものとおっしゃる。僕の場合は同じ様に町工場で勤めながらも小関氏とは異なり、今後も小説を書くつもりは無いし、却って自分の勤めている職種関係の事もそんなに取り上げないと思う。他に色々と、様々な時事問題や歴史見直し問題、マスゴミの問題をはじめとした社会問題、そして国際情勢と沢山在り、それらが僕にとってのライフワークとなる。謂わば現場に出て取材はしないネット・ジャーナリストとして、取材されたものを活かした情報をキュレーションしたり、その他、エッセイやコラム、論評等を書いたりする事となる。

 僕は普段、メールマガジン等も取って様々な分野の時事問題に目を通しているが、その情報量には圧倒されてしまいそうになる。最近ではSNS、特にTwitterなんかは、つぶやき程度の短文投稿に限られるので、世界中の誰もが投稿しやすい。それこそハッシュタグ(#)が付いたトレンド情報なんかでは、数秒単位で次から次へとナンボでも、ポンポンポンポンと、世界中から多くのツイートが投稿されている。よって、そんなつぶやきを追いかけていたら際限が無いし、流されてしまいかねない。

 本ブログ
  2020/05/16付「捻くれもんのツイッターに実感不要、つぶやき洪水に流されずマイペースで/Unobedient and stubborn I do my work and Twitter in my own way 」

 『デジタルトランスフォーメーション(DX)、デジタル庁、デジタル通貨――。最近、「デジタル」という言葉が世間を飛び交っている。
 情報を伝えるメディアの世界でもデジタル革命が急速に進んでいる。なかでも特筆すべき変化は、ソーシャルメディアの台頭だ。フェイスブックやツイッターなど世界で膨大なユーザーを抱えるSNS(交流サイト)の拡大で、世論形成に大きな影響を及ぼすようになった。
 かつては新聞、ラジオ、テレ...』
  (2021/04/04付・日本経済新聞「データ洪水の世界で確かな情報 6日から春の新聞週間 論説委員長 藤井彰夫」より)

 ものを書く上でも、しかも製缶工として働きながら非常に限られた時間の中で残していこうと思えば、そんな膨大な情報からモチーフなり材料とするものを取捨選択しなければ、とてもじゃぁないがやっていく事は難しい。そこで、小関氏にはそういう事に於いて、何かコツの様なものがあるのだろうかと、本の中から聞いてみた。
 すると小関氏も、「資料を集めて読み進めるうちに、その内容の豊かさに溺れて途方に暮れて書けなくなった」と述べられているではないか。

 以下、小関智弘氏著「働きながら書く人の文章教室」より
  『旋盤工の目の高さで書く
  わたしがずっと愛用してきた『広辞苑』には、〔町工場〕という項目がなかった。よく使い、よく知っている字をあらためて引くことはないので、町工場が『広辞苑』に載っていないことなど、気がつきもしないで、町工場のことを書いていた。
  1983年の春、わたしはNHKテレビの「訪問インタビュー」という番組に出演した。……
  …(中略)…
  ……わたしは「だからわたしは、いつの日かこの辞書に町工場が載るまで、町工場のことを書き続けるつもりです。」と決意のほどを語った。
  その年の秋『広辞苑』第3版が出て、そこには〔町工場〕が載っている。まさかにもわたしの声が届いたわけではないが、その一事が当時のわたしを鞭打ち奮い立たせてはいた。聳え立つ富士を見て美しいと言っても、それを支えている広大な裾野を見ない。大樹が、その枝葉の広がりよりももっと広く張った土中の根に支えられて立っていることに人は思いを寄せない。似たように、「技術立国日本」の、技術の高さや経済的な豊かさに溺れて、多くの人びとはそれを下支えしている産業の底辺を見る目を失っているのではないか。
  そんな思いがわたしに、昼は旋盤のハンドルを握り、夜はペンを握らせた。……
  …(中略)…
  ……資料を探せば山ほどある。その資料の山からなにを選び、なにを捨てるかの判断基準を、旋盤の前に立ったときのわたしの目の高さから見えるものに限ることができなかったら、『大森界隈職人往来』を450枚で書き上げることなど、とうてい不可能であった。
  いまここに書いたようなおふくろの話は、『大森界隈職人往来』のなかでほとんど、“一筆書き”でしか書けなかった。書けば際限がなく豊富な資料、……』
 (以上、小関智弘氏著「働きながら書く人の文章教室」より)

 僕も、「世界を変える」と言う程に痴がましい(おこがましい)事までは言えないものの、実は密かに、「伝わっとる」とか、それも「アメリカまで聞こえとる」といった事には、ほくそ笑んだりしている。そんな事が、僕のもの書きの上での支え、励ましに繋がっている事は確かだ。
 僕は、下請の町工場の鉄工・製缶工としての、一応臨工関係の勉強もした者としての、そしてクリスチャンとしての、そんな視点、視座を持ちながら、また、周囲と異なった個性、アイデンティティ、タラントをも活かしながら、ものを書いていく。






『仕事が人をつくる』
(岩波新書 2001)


『ものづくりに生きる』
岩波ジュニア新書 1999

出典:amazon等

 東京の大田区に存在する中小零細企業が、ピーク時の1万から3,000程にまで数が少なくなったが、今でも世界有数の製造業の町として健在である。その大田区と同じく、同様に日本有数の産業の集積地である大阪府の東大阪市も、6,000の町工場が存在する。
 しかし、昭和から平成に入った直後の1990年(平成2年)、正月明けの最初の株式取引日である大発会の日、年末最後の取引日である大納会で付けた史上最高値の平均株価からの急落が始まる事となって、前年までのバブル経済が崩壊した。
 それから少なくとも、第二次安倍政権が誕生する2012年(平成24年)12月までは、デフレ・スパイラルに陥る中で、日本は金融解放や新自由主義経済で格差も広がり、大企業はまだしも、中小零細企業、下請けの町工場は、苦しい状態が続いて来た。また、その後の安倍政権時のアベノミクスについても、大概の町工場クラスの経営者達は、その恩恵を受けていないと愚痴をこぼしている。


YouTube: 大阪・町工場の現場から
2013/07/14

YouTube: 平成不況の町工場
2012/09/15 (1993/05/07録画、大阪府八尾市)

 バブル経済の真っ只中では、株の売買や先物取引、デリバティブ、レバレッジといった金融商品であるとか、土地転がしによる金儲けがブームとなり、ものづくりという実体経済が軽視され、蔑ろにされた。
 またバブル崩壊後も、経営者は単価の引き下げ等の無理難題を親会社から押し付けられ、儲からないどころか赤字が続き、工場を手放して空いた土地にマンションを建てたり、駐車場にした。それで経営者は儲かるものの、その経営者の下で勤めていた従業員達は、路頭に迷う事となった。

 僕は丁度、既にバブルが弾けた後の1991年(平成3年)に、大阪府の隣、兵庫県内の下請けの鉄工所の町工場に入って、それから鉄工の見習いを始める事となった。入った当初は未だバブルが破裂した直後という事もあってか、そんな不況という感じはしなかった。
 その下側のYouTubeが録画された1993年(平成5年)は、前述した通り24歳の歳男であった僕にとっては鉄工界での飛躍となる年であった通り、僕が勤めていた町工場の会社は、結構、忙しかった程に仕事が有った。しかしそれ以降、取引先や周囲の工場が倒産したとかいう事を耳にする様になった。
 
 当時、僕が勤めていた町工場は、社長自らが営業に回り、日中は会社に居ない事が殆どであった。そんな事もあって、若干24歳で、しかも未だ鉄工界に入って2年しか経っていないにも関わらず、社長をはじめ周囲からとやかく言われる事も無く、そういった放任主義、また、仕事を概ね完全に任せられていた事が、僕の性格にマッチしていた事が確かに言える。

 この記事の冒頭付近に掲げた事と同様に、「待ち工場」では無く、社長自ら走り回って仕事を取って来ていた。その代わり、他所が断った仕事をする事は勿論、納期までの日にちが少ないものや、ややこしい品物、難しい製品等と、何でもかんでも仕事を取って来る。選り好みしていたら、そんなに仕事を取れなかったのであろう。そして、そうして色々な所と取引する事となるので、親会社が1社2社の場合にそれらに切られて倒産という事態も避ける事が出来ていた。

 また、下請けの町工場は仕事量の波が有る事が常であるが、仕事の薄い状態が暫く続きそうな時には、僕自らが進んで、他所の会社に移って来た。

 そんなバブル崩壊以降、日本は長い間、デフレ・スパイラルという泥沼に沈んでいく事となった。同時に、金融ビッグバンで金融経済の解放、規制緩和、ネオリベラリズム、小泉・竹中の自民党政権による構造改革によって格差は一層広がり、大企業は優遇された。
 国の税収が落ち込む中でも国際競争力を高める事を目的とした法人税の減税等で、大企業は生き残る事は容易かったかもしれない。また、そんな大手の正社員は、そんな恩恵も有って社内留保に回す、そんな余力の有る大手企業の中で、余りデフレの影響を受けなかったのかもしれない。更に、所得税の最高税率の軽減で、そんな大企業に勤める富裕層はその分、余計に貯蓄に回す事が出来る様になった。

 しかし、下請けの会社、町工場、そして非正規社員、派遣社員らは、中小法人の軽減税率が適用されようとも、所得に関係なく一律に課される消費税の増税で圧迫され、そんな大手の人々の様に貯蓄に回せる程の余裕も無く、不安定な状態に置かれる事となった。
 大企業は、下請けの町工場に非効率、割の合わない品物を作る様に強制した。大企業が国内総生産額や輸出額の内の割合を大きく占める様になり、弱肉強食、企業の合併・買収(M&A)と、グローバリズムの中での優生学の考えの下、中小零細企業が淘汰されていった。



法人税率の推移
(「昭和56年3月31日の間に終了する事業年度については年700万円以下の所得に適用。」)
出典:財務省「法人課税に関する基本的な資料」



所得税の最高税率の推移
1974年(昭和49年):75.0%、1984年(昭和59年):70.0%、1987年(昭和62年):60.0%、1989年(平成元年):50.0%、1999年(平成11年):37.0%、2007年(平成19年):40.0% (課税標準1,800万円以上)、2015年(平成27年)、45.0%(ウィキペディア「所得税」より) 
出典:2012年6月13日付・神戸新聞
 
 『コロナ禍で鮮明になった世界の分断は、日本にとって対岸の火事ですか――。
 「女性や非正規労働の雇用に深刻な影響が出ている。自殺の増加や孤独・孤立の問題に真正面から向き合っていく」。菅義偉首相は3月16日、新型コロナウイルスの非正規雇用の緊急対策関係閣僚会議で訴えた。
 2020年に非正規雇用者は前年比で75万人減と比較可能な03年以降で最大の減少幅となった。一方で正規は35万人増えている。飲食・サービ...』
  (2021/04/04付・日本経済新聞『繰り返さぬために(4) 「一億総中流」もはや過去 成長と安全網、両輪で』より) 



「日本は経済が伸びず貧困層も増えてきた」
名目GDPと生活保護受給者数の推移
出典:2021/04/04付・日本経済新聞『繰り返さぬために(4) 「一億総中流」もはや過去 成長と安全網、両輪で』

 そんなデフレ禍の中に在り、且つ、リーマン・ショックの後で未だその不況から抜け出せないでいた頃、当時民主党政権であった時の、小関氏による下請けの町工場の立場に立ったコメントが、以下に在る。

 『……たとえば東京・三鷹にある従業員40人ぐらいの会社は、スペースシャトルに載るような最先端の光学機械を作っています。名だたる大企業でも作れない製品を作れるのです。その技術は、実はわかってしまえば簡単なもの。発想が重要なのです。
 ところが大企業の人がその工場に「どうしてうまくできたのか」と聞きに来たから教えたところ、「それならウチだってできるな」と言って帰ったそうです。人の成果をすぐに横取りするのが今の大企業の姿勢。それではダメです。技術をきちんと評価しないようでは、日本の技術力は衰弱するしかないでしょう。』
  (2010/05/12付・東洋経済ONLINE「町工場の悲鳴が耳に刺さる 元旋盤工・作家・小関智弘氏①」より)

 『……大きく言えば、人の役に立つものを作ることが、人間を特徴づけることであり、人間のいちばん大きな役割、というのが私の考えです。人はなぜ、何のために働くのか、その根源にあるのが「人の役に立つものを作る」ということだと思うのです。
 これは多くの町工場を訪ねてわかったことです。町工場の人たちは、大きくなろうとしていません。工場を大きくするよりも、いい仕事、楽しい仕事をして死んでいきたいと考えています。経営者を含めほとんどの町工場の人がそう考えています。
 ところが大企業になると、少しでも大きくなろう、少しでもおカネを多く儲けよう、となる。町工場の人がそうならないのはなぜか。それは、自分の生きがい・働きがいと、自分がものを作るということが、非常に密接に結びついているからだと思います。たとえば、苦労して作り上げたものは、本来なら高い値段を請求してもいいでしょう。ところが町工場の多くの人は、高い値段を請求せず、完成できたことに大きな喜びを感じます。値段と違うところに生きがい・働きがいを感じているからです。そういう価値観で生きているのが町工場の人たちなのです。』
  (2010/05/19付・東洋経済ONLINE「値段とは違う価値に生きがい 元旋盤工・作家・小関智弘氏②」より)

 『日本の工場は、1980年ぐらいからコンピュータで制御するNC工作機械が主力になってきました。それを境に、人間の持っている五感や、勘とかコツといわれるような、あいまい模糊としたものが、古臭いと排除されるようになりました。……
  …(中略)…
  ……こうした職人技は、長い経験とたくさんの失敗の積み重ねがあって初めてできるもの。広めていく必要があるものなのに、それをいらないといって排除する最近の風潮は間違いだと私は思っています。』
  (2010/05/26付・東洋経済ONLINE「刃物の切れ味は耳で聞け! 元旋盤工・作家・小関智弘氏③」より)

 『……人生経験豊かな男気あふれる人です。この人に負けたくないという競争心から、学ぶことに貪欲になりました。
 私は不器用なので、手先ではかないません。だから工夫することで勝負しようと思い、毎日の仕事の記録をつけ始めました。新しい仕事が来るたびに図面と加工法をノートに記し、うまくいった、失敗したといったことを書き留めていったのです。すると、後で同じような注文が来たときに確認でき、もっとうまく工夫できるようになったのです。……
 …(中略)…
 ノートをつけ続けたおかげで私は成長できたと思います。旋盤で鋼(はがね)を削ることの奥深さがわかり、苦痛にすぎなかった仕事がどんどん面白くなっていきました。
 そして鋼が見えてきたとき、人も見えてきました。職人さんたちの姿が見えてきたのです。その頃から文章も書けるようになりました。私は高校を出てから同人誌などで町工場の暮らしを書いていました。
 それまでは、職人という人たちは、口が重く煮え切らず面白くない人たちだと感じていましたが、そうではないことがわかってきたのです。その後に職人を描いた小説は、4度も直木賞や芥川賞の候補になりました。……』
  (2010/06/02付・東洋経済ONLINE「ノートのおかげで成長できた 元旋盤工・作家・小関智弘氏④」より)

 実は、僕も鉄工所に見習いに入って以来、ノートをつけて来た。下請けの町工場の製缶工として、特に前述した通り、僕が在籍した鉄工所の場合は様々な種類の製品の仕事を多く取っていた事もあって、お陰で色んなものを作らせて頂く事が出来た。しかしその分、同じ物ばかりを作る訳では無く、そんな一品物を作る故に、それぞれの製品、仕事は異なっているので、余計に記憶だけに頼ろうとするのは危ない。

よって、それらについて、掛かった時間の他、それぞれの特徴や重要に感じた事、例えば溶接後の歪みが思ったよりも大きく出てしまったとか、それを防ぐ為の補強が足りなかった事、手順を間違えたとか、このやり方の方が早く出来たのではないかとか、失敗した事、作ってから後悔、反省すると同時に気が付いた事等を、メモを添える様にして記録して来た。……

 <10/12に続く→>

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