次の本を読む。
「脱世間のすすめ」(著者:山田史生氏、出版社:祥伝社、出版日:2008/7/1)
私は普段から、世間一般の人達と比べてリラックスしている度合いが大きい様に思う。比較的マイペースな考え方とプライベートを持っている。
群れる事を嫌い、孤独を楽しんでいる。傍から見てどうでは無く、自分自身の素直な感覚と判断から、寂しいと感じる事も一切無く、悪い事とも判断していない。
「成るように成る」と、いつも思っている。諦観の念を抱き、運命に委ねている。目標や夢にしがみついてはいない。
一方で、他人・周囲の介入・干渉は許さない。人には振り回されたくは無い。頑固である。自分の考えを曲げない。自分を信じている。よって、他人・世間には委ねない。
世間に依存しないからといって、肩肘張って自立しようとしているのでは無い。意地を張っているのでも無い。世間に寄りかからず、精神的に自立して離れる事で気楽である。群れの中に混ざったりつるんだりする事で、却ってストレスが溜まってしまう。独りは精神的に自由である。
欲望にも依存していない。欲望が少ない分、我慢する事も少ないので、ストレスも溜まりにくい。欲望からの解放で、心が自由である。
しかし、私も現在捕らわれているものがある。かつては釣りという趣味に捕らわれていた頃もあった。しかし現在は、読書や情報に捕らわれている。本や新聞を読み、インターネットの文献を読み、YouTubeの動画を見、自分のブログを書いている。現在、私はそれらに捕らわれている。しかし、仕事をしながらそれらを並行してこなす為の時間は限られている。仕事以外の自分の時間が少ない中でそれらを無理してこなそうとすると、ストレスとなってしまう。それらを手放してしまえば解放される。しかし、私にとってのそれらは、ある意味で使命の様にも感じている。だから、手放す事は出来ない。
そしてそれらをこなす時、引きこもって隠遁生活をしている。他にもストレッチや軽い運動、瞑想も、家の中で隠れて行っている。そして世間の評価や判断にも束縛されず、孤独で自由で、世間からは「透明人間」の様に見られているのかもしれない。
確かに、勉強もせず、日々欲望の赴くままに生きてもストレスは貯まらないのだろう。無知であった方が危機意識を持つ事も無いので、恐怖心や不安から解放されるだろう。
また私は少し完璧主義の傾向があり、そして潔癖症である。それらが多少、私のストレス源になっているのは否めない。
私が「脱世間」でいる事の基本として持っているのは、節度とバランスである。自由と人権を個人が持つ一方で、その個人は責任と義務も同時に併せ持っている。責任と義務を放棄する事は出来ない。また、道徳の範囲内での生活をする事である。そして、運命・使命に従う事である。人に従うのでは無く、神に従うのである。
著者は中国哲学を専門とする文学博士で大学教授である。しかし自分の事を昼行灯だの無用者だと言い、表彰とは無縁で尺八や酒肴を楽しみとすると言う。無能である事を悪く思わず、名誉に関心が無く、他人の理解を得ようとも思わず、仕事場への帰属意識も薄く、世間と距離を置き、線を引き、気楽にゆったりと、あるがままの自然体で過ごしておられるとの事である。また現実を悟り、執着心が無いとの事である。決して開き直りでは無く、自分なりの、自分にとって自然な気持ちでいられる事は、私には理解し共感出来る。世間にとっての普通では無く、自分の気持ちにとってストレスがかからないという普通である。
また著者は、行き当たりばったりで失敗も多く、楽観主義で呑気、人情に流されやすく、優柔不断であるという。私も今までに失敗を多くし、会社も転々として来たが、臨機応変に対応して来た。そして、へそ曲がり、捻くれ者というのも、私と共通する。空気を読まないところも同じである。私の場合は、空気を読んでも敢えて合わさないという、そのあたりにも天の邪鬼な性格が表れているのだが、もう一つは気が付いていても自分の中で取捨選択していらないものを捨てる、周囲の雑音を捨てる、いる情報のみ取り入れるという様な「鈍感力」の表れでもある。
他にも著者の場合、その日暮らし、目先の事だけ、本を読み新聞は取らず、インターネットはしないとの事である。読書は同じだが、この辺りは私と違っている。
著者は中国文学を専門とする事から、一番好きだという陶淵明や、李白、莊子、老子等の詩を取り上げて引用した解説も行っている。後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれた文学者・陶淵明、奔放で変幻自在な詩風から、後世『詩仙』と称された詩人・李白、俗世間を離れて無為自然として人為を忌み嫌う思想家で道教の始祖の一人・莊子、哲学者で道教の始祖・老子。(以上4人の参考文献:ウィキペディア)
以下、本書より引用する。
「『人境』のどまんなかに住んでいながら、俗塵にわずらわされることはない。晋の王康居が『大隠は朝市(まちなか)に隠る』(『反招隠詩』)と歌ったように、真の隠者は、山奥にこもったりせず、むしろ俗世間にありながら身の潔癖を守るのである。」(著者)
(・・・※「居」の字の本当の文字は、王偏が左に付く。)
「陶淵明は四十一歳のとき、彭沢県(ほうたくけん)の長官をわずか三カ月でやめて、ふたたび出仕することはなかった。『五斗米(サラリー)のために腰を折らず』というセリフは、隠遁生活にはいらんとするにさいして、かれが俗世に叩きつけた絶縁の一句であった。」(著者)
「たかだか百年の人生なのに、ひとはそれに執着する。なにひとつ成し遂げることなく生を終えるのではないか、と。毎日をムダにすごしているのではないか、と。生きているあいだは珍重されたがり、死んでからも追想されたいと願っている。やれやれ。わたしは自分の道をゆき、ひととは異なった生き方をしてきた。ひとにホメられようともおもわず、世間の価値観にまみれても、けっして黒くは染まらなかった。貧乏暮らしをしながら、旨い酒を飲み、詩をつくってきたものさ。」(陶淵明「自祭文」の中の一節の、著者による日本語の現代語訳)
「ほんとうにわかっているものは、しゃべらない。よくしゃべるものは、わかっていない。(ほんとうにわかっているものは)感官をふさいで、知識の出入りをとざし、尖った鋭さをくじいて、鋭さからくる紛糾を解きほぐし、きらびやかな輝きをやわらげて、すべての塵とひとつになる。こういうのを玄妙な同一という。(「老子」第五十六章、著者による日本語の現代語訳、和光同塵について)
「『天を楽しみ命を知る。ゆえに憂えず(楽天知命。故不憂)』」(「易」繋辞上伝)
・・・天地自然の法則、つまり創造主の法則・計画を素直に受け入れて委ね、運命を悟る事で、憂い・ストレスは起こらない。
本ブログ過去の関連記事
・カテゴリー:「世間・空気」 ・・・本ページ右サイド
「脱世間のすすめ」(著者:山田史生氏、出版社:祥伝社、出版日:2008/7/1)
私は普段から、世間一般の人達と比べてリラックスしている度合いが大きい様に思う。比較的マイペースな考え方とプライベートを持っている。
群れる事を嫌い、孤独を楽しんでいる。傍から見てどうでは無く、自分自身の素直な感覚と判断から、寂しいと感じる事も一切無く、悪い事とも判断していない。
「成るように成る」と、いつも思っている。諦観の念を抱き、運命に委ねている。目標や夢にしがみついてはいない。
一方で、他人・周囲の介入・干渉は許さない。人には振り回されたくは無い。頑固である。自分の考えを曲げない。自分を信じている。よって、他人・世間には委ねない。
世間に依存しないからといって、肩肘張って自立しようとしているのでは無い。意地を張っているのでも無い。世間に寄りかからず、精神的に自立して離れる事で気楽である。群れの中に混ざったりつるんだりする事で、却ってストレスが溜まってしまう。独りは精神的に自由である。
欲望にも依存していない。欲望が少ない分、我慢する事も少ないので、ストレスも溜まりにくい。欲望からの解放で、心が自由である。
しかし、私も現在捕らわれているものがある。かつては釣りという趣味に捕らわれていた頃もあった。しかし現在は、読書や情報に捕らわれている。本や新聞を読み、インターネットの文献を読み、YouTubeの動画を見、自分のブログを書いている。現在、私はそれらに捕らわれている。しかし、仕事をしながらそれらを並行してこなす為の時間は限られている。仕事以外の自分の時間が少ない中でそれらを無理してこなそうとすると、ストレスとなってしまう。それらを手放してしまえば解放される。しかし、私にとってのそれらは、ある意味で使命の様にも感じている。だから、手放す事は出来ない。
そしてそれらをこなす時、引きこもって隠遁生活をしている。他にもストレッチや軽い運動、瞑想も、家の中で隠れて行っている。そして世間の評価や判断にも束縛されず、孤独で自由で、世間からは「透明人間」の様に見られているのかもしれない。
確かに、勉強もせず、日々欲望の赴くままに生きてもストレスは貯まらないのだろう。無知であった方が危機意識を持つ事も無いので、恐怖心や不安から解放されるだろう。
また私は少し完璧主義の傾向があり、そして潔癖症である。それらが多少、私のストレス源になっているのは否めない。
私が「脱世間」でいる事の基本として持っているのは、節度とバランスである。自由と人権を個人が持つ一方で、その個人は責任と義務も同時に併せ持っている。責任と義務を放棄する事は出来ない。また、道徳の範囲内での生活をする事である。そして、運命・使命に従う事である。人に従うのでは無く、神に従うのである。
著者は中国哲学を専門とする文学博士で大学教授である。しかし自分の事を昼行灯だの無用者だと言い、表彰とは無縁で尺八や酒肴を楽しみとすると言う。無能である事を悪く思わず、名誉に関心が無く、他人の理解を得ようとも思わず、仕事場への帰属意識も薄く、世間と距離を置き、線を引き、気楽にゆったりと、あるがままの自然体で過ごしておられるとの事である。また現実を悟り、執着心が無いとの事である。決して開き直りでは無く、自分なりの、自分にとって自然な気持ちでいられる事は、私には理解し共感出来る。世間にとっての普通では無く、自分の気持ちにとってストレスがかからないという普通である。
また著者は、行き当たりばったりで失敗も多く、楽観主義で呑気、人情に流されやすく、優柔不断であるという。私も今までに失敗を多くし、会社も転々として来たが、臨機応変に対応して来た。そして、へそ曲がり、捻くれ者というのも、私と共通する。空気を読まないところも同じである。私の場合は、空気を読んでも敢えて合わさないという、そのあたりにも天の邪鬼な性格が表れているのだが、もう一つは気が付いていても自分の中で取捨選択していらないものを捨てる、周囲の雑音を捨てる、いる情報のみ取り入れるという様な「鈍感力」の表れでもある。
他にも著者の場合、その日暮らし、目先の事だけ、本を読み新聞は取らず、インターネットはしないとの事である。読書は同じだが、この辺りは私と違っている。
著者は中国文学を専門とする事から、一番好きだという陶淵明や、李白、莊子、老子等の詩を取り上げて引用した解説も行っている。後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれた文学者・陶淵明、奔放で変幻自在な詩風から、後世『詩仙』と称された詩人・李白、俗世間を離れて無為自然として人為を忌み嫌う思想家で道教の始祖の一人・莊子、哲学者で道教の始祖・老子。(以上4人の参考文献:ウィキペディア)
以下、本書より引用する。
「『人境』のどまんなかに住んでいながら、俗塵にわずらわされることはない。晋の王康居が『大隠は朝市(まちなか)に隠る』(『反招隠詩』)と歌ったように、真の隠者は、山奥にこもったりせず、むしろ俗世間にありながら身の潔癖を守るのである。」(著者)
(・・・※「居」の字の本当の文字は、王偏が左に付く。)
「陶淵明は四十一歳のとき、彭沢県(ほうたくけん)の長官をわずか三カ月でやめて、ふたたび出仕することはなかった。『五斗米(サラリー)のために腰を折らず』というセリフは、隠遁生活にはいらんとするにさいして、かれが俗世に叩きつけた絶縁の一句であった。」(著者)
「たかだか百年の人生なのに、ひとはそれに執着する。なにひとつ成し遂げることなく生を終えるのではないか、と。毎日をムダにすごしているのではないか、と。生きているあいだは珍重されたがり、死んでからも追想されたいと願っている。やれやれ。わたしは自分の道をゆき、ひととは異なった生き方をしてきた。ひとにホメられようともおもわず、世間の価値観にまみれても、けっして黒くは染まらなかった。貧乏暮らしをしながら、旨い酒を飲み、詩をつくってきたものさ。」(陶淵明「自祭文」の中の一節の、著者による日本語の現代語訳)
「ほんとうにわかっているものは、しゃべらない。よくしゃべるものは、わかっていない。(ほんとうにわかっているものは)感官をふさいで、知識の出入りをとざし、尖った鋭さをくじいて、鋭さからくる紛糾を解きほぐし、きらびやかな輝きをやわらげて、すべての塵とひとつになる。こういうのを玄妙な同一という。(「老子」第五十六章、著者による日本語の現代語訳、和光同塵について)
「『天を楽しみ命を知る。ゆえに憂えず(楽天知命。故不憂)』」(「易」繋辞上伝)
・・・天地自然の法則、つまり創造主の法則・計画を素直に受け入れて委ね、運命を悟る事で、憂い・ストレスは起こらない。
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