白井さんと片山さんといえば若手の研究者としてどちらも非常に有能な方だと私は思っているのだが、そのお二人が揃って、これはマジでやばいと言っているというのはそれこそ心胆寒からしめるとはまさにこのことといった状況。
白井聡×片山杜秀 日本は破局的状況に突入した
http://gekkan-nippon.com/?p=13490
白井さんの方は自説の「永続敗戦」のコンセプトから説き起こして、かつての天皇の位置にアメリカが入っている、つまりアメリカ様が我々を愛してくださってる的な構造になっていることを危惧しているといういわば構造理解。
片山さんの方はそれとはいささか違う入口ではあるのだが、実は両者の論は同じ機構を表から眺めるか中から眺めるかの違うでしかないのだろうと私は思う。
片山さんは、前に島薗氏と対談されているところで指摘された、神聖なる存在としての天皇と象徴としての天皇の差異とこれがもたらす効果から、このようなご発言をされたものと思う。
片山 戦前との対比で言いますと、日本では昭和10年に「天皇機関説事件」が起こりました。天皇機関説とは憲法学者の美濃部達吉が唱えたもので、天皇は国家の最高機関ではあるが、あくまでも憲法に規定された一つの部品に過ぎないという考え方です。しかし、貴族院の菊池武夫が天皇機関説を反国体的学説だと非難したことから、時の岡田啓介内閣は「日本は機関でなく神的実体である」といった趣旨の国体明徴声明を出して、天皇機関説を否定しました。これは憲法を改正せずに解釈だけを変えたということですから、解釈改憲と言えます。
(中略)
この経過に現今を重ねますと、安倍政権も憲法を改正せずに集団的自衛権行使を容認しましたね。今再び9条改正という話が出ていて、護憲派も改憲派もそちらに目が行って興奮しているのかもしれませんが、「平成の天皇機関説事件」はもう終わっている。すでに解釈改憲によって日本がアメリカのために戦争するというルートは出来上がってしまっています。たとえ改憲を阻止したとしても、肝心な段階はもうクリアされてしまっている。
お二人を重ねると、構造理解と、内部で動く外から見えないが内部統制に役立つ動機付けの説明が重なってる。怖いですよほんと。
で、構造は外から無理やり変革することは表面的には可能だが、内部の動機付けの方がよほどやっかいだ。
つまり、うかつに、たいした考えもなしに、水戸学的というか尊王攘夷的というか、中朝論的というかといった世界を開けてしまったことが問題だと片山さんは思ってらっしゃるのではないかと拝察する。
しかしそれは「破局」かどうか、不確かかもしれない。というより、私が思うに、破局する力さえ失ったことがさらに問題なのではありますまいか。戦前の明徴論以降の日本というのは民の側(あるいは異論を持つ側)に力がなくなった状態ですし。
だから「もはや不可逆的」という事態であると認識されている、と。
ということは、歴史が繰り返すならカタストロフもいよいよ近い。私は国体の二度目の崩壊はすでに始まっており、もはや不可逆的なところまで来てしまったのではないかと思います。もう行くところまで行くしかない。そして、実際に国体の崩壊を迎えたとき、「やっぱりこうなったか」と笑うのかもしれません。
とはいえ、絶望は私の性にはあわないので、ここからどうしたらいいのかと考えるに、これはつまり、カルトでない右派と抵抗者としての左派をかき集めていくしか手はないんじゃないですかね。
ドイツで、右からAfD(ドイツのための選択肢)、左からディーリンケ(左翼党)というエスタブリッシュメント枠に収まらない(嫌われる)勢力が存在しているような恰好。
イタリアの現在も要するに脇から出て来たところが、ある種正気(sane)な勢力となってる。
日本でできる気はさらさらしないんだが(泣)、しかしそれぐらいしか思いつかない。
■ 参考
『近代天皇論—「神聖」か、「象徴」か』by 片山杜秀×島薗進
空っぽの国体明徴運動と日本の「悩み」
■ オマケ
この対談のタイトルは結構刺激的なのでみんなどうやって読んだのだろうかと思ってtwitterを見て見たが、安倍がどうした、のあたりに食いついちゃってますよね。いやもっと大変なんだと気付かれてないと思いますよ、片山先生。
日本国黄帝さんの解説。対立軸(フラッシュポイント)が日本海(対馬)まで下がってくる可能性を指摘しています。
日本はいったいどんな国になるのか?
民主主義と自由主義は存在しているのでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=2B8gPQkR7Os