GHQ焚書図書開封シリーズ第35回。今回は「歴史に顕れる国体」。
http://www.youtube.com/watch?v=JoEhsQIiveY
出演:西尾幹二平成21年6月27日 放送
■今回のご本
『國体の本義』
編纂:文部省
発行年:昭和12年
この本は、タイトル通り国体の精神というものを説明しようとしているのだが、その名から連想されるほど「すごい」ものではない。
国体に関していえば、壮絶に神学的で、聞くだに心が痛むほど独善的な言説というのが実際存在しているわけで、戦後それだけが喧伝されてきたきらいがある。しかし、文部省編纂のこの本は、西尾先生の解説と部分的な朗読を聞かせてもらう限り、そこまで「すごい」ものではなく。抽象的な国体を探るというよりは、事象から解こうという態度が見られる。そのへんは、文学者、宗教関係者、なんらかの運動家が書いたものではなくお役人さんの産物だからということなのだろう。
西尾先生の説明からすると、日本の歴史を具体的に叙述し、その上で網羅的ではないのかもしれないが日本の日本らしさの具体例をピップアップしているような仕立てになっている模様。
わたくしとは、パブリックに対するプライベート、公とは古代においては天皇、個我を小さくして協調的に生きる、ごちそうさまの意味云々。そういう意味では、現代において人々が日本を紹介する歳に切り口とする例というのは、この時代から既にリストアップされているようなものだったりするのかな。
歴史の叙述については、しかしながら、問題なしとはいえない。天皇があらわれるところは大きく長く、武家が勃興したところはあっさりとした叙述になっているようで、幕府は天皇の政治に反したことなので「あさましきこと」など記述されていると。
つまるところ、相当に偏った歴史観とはいえるし、現在の感覚からだけでなく当時としても、まぁ偏重には違いなかっただろう。しかし、実際問題、天皇を中心とした、あたかも古代を思わせるような仕組みで「復古」してしまった体制(つまり明治維新)において官僚職にある人々が、武家政権の実務性をほめたりはできない、とも思う。たいへんな時代だったのだなとも思う。
ただ、繰り返しになるが、あの有名な田中智学氏とこの文部省編纂の書を比べれば、官という国の権力中枢に近い人の方が遥かに抑制的だ。いたずらに文によって掻き立てられる昂揚感を狙うようなものではない。
昭和前期というのは、人々が現在信じているところとは逆に、官とか上とかいうところではなく民間が突出していた時代という気もする。