1944年4月17日、ソ連赤軍はドニエプル・カルパチア攻勢を終えて、ナチス・ドイツ南方軍集団に壊滅的な打撃を与えた。これによって、スターリングラードの敗退後、ウクライナ地域の真ん中あたりに築かれていたドイツの防衛線は破られ、ソ連領内の解放が終わり、いきおい、目先は、ではヨーロッパはどうなるの?となっていった。
これはホントに全戦線を通しても屈指の大きさを持った、とても重要な4カ月だったと言っていいでしょう。
これ大事。こうやってヨーロッパは解放されたのだし、少なからぬ欧州人もそれでほっとしたのに、戦後、ソ連が占領したとか抜かした奴らがいた。この馬鹿さ加減が今に至る西側ナチ化の原点。 https://t.co/En2pO3Vgc9
— DEEPLY JAPAN (@DTJTakumi) April 17, 2022
これは、1943年秋あたりの図で、地図の真ん中に太い赤い線で描かれているのがドイツの防衛線。ソ連軍がこれを右から左へと突破していく。
私がこ汚く書き加えた緑の線は、ソ連の国境。△モスクワ、〇スターリングラード。南の方(下の方)の、赤い線と緑の線に囲まれたところがこの一連の戦闘の場所。(ドニエプル川の)「右岸ウクライナ」の拡大版みたいなところ。
Dnieper–Carpathian offensive
1943年の夏から秋にかけて、ソビエト軍は「左岸ウクライナ」の解放に成功し、そのドニエプル川の戦いの最中に、ドニエプル川の右岸(向かって左、西)に橋頭保を築き、そこから、赤い線を越えて、右岸に取り掛かり、12月から4月までかけて、ドイツ軍を押し返した。
全体的にはこんな感じで、1943年夏から44年春にかけて、ベラルーシとウクライナで、あわせて5つの前線を動かして、東から西へと押し返している。
これによって、ドイツの南方軍集団はソ連領内での拠点をほぼ失い、ソ連はルーマニア方面へと向かう足場が強力に完成。
■ 無力化まで動く
で、後年、ソ連はソ連領内で止まればよかったのよ、ヨーロッパに入ったのが悪いわ、みたいなことを言う人が多数いるわけですが、それは、相手との関係の問題だと思う。
もしここで、ドイツが降伏したとしても、まだ装備は山のように残っているし、ドイツ本国は戦場ではないから、編成してさらにかかってくるという可能性が残る。そして、本来的に仲間ではないイギリス、アメリカが西の方にいるわけで、ソ連軍としては落ち着くわけもない。
事実、チャーチルは、1945年、ドイツが降伏した後でも、よしここからドイツ軍を編成しなおしてソ連を襲おうと言ったがイギリス陸軍に無理だと言われたという話がある。「想像を絶する作戦」というやつですね。
また、そもそも、ソ連に進軍してきたのはドイツだけではなく、
ルーマニア
ハンガリー
フィンランド
イタリア
スロバキア
といった国々がバルバロッサ作戦で兵隊をソ連に送って、ドイツと同様ソビエト国民殺しに奔走しているわけだから、ソ連から見たら仕返しも必要だ、とも言えるでしょう。特に、ルーマニア、ハンガリー、スロバキアは当時ソ連だったウクライナと国境を接して非常に血なまぐさい地域と化しているわけだから、負けたから帰ればいい、ではすまない。
ということから考えれば、一時的に占領して、軍事的に無力化して当面中立的にふるまえ、というのは全然おかしな要求ではない。むしろ、ソ連に対して加えられた被害からすれば、優しいぐらいでしょう。同じだけ殺すと言われなくて助かったと思え、といったところ。
にもかかわらず、ソ連が欧州に入っていったことを、後年ソ連の侵略的行動だとか、拡張政策の表れだ、みたいな言い方をして、それを定着させた。
これはまず第一に、「ディープな人たち」の都合によるものだろうと思う。そしてそのディープな人たちの発想を修正したり、考え直したりせず許したままにしたことが、結局は、西側が集団的にナチ化して申し開きもできないようなみっともない今日を迎えた主要な要因だろうと思う。このへんは別途考えたい。
あまり語られることのないこの「ドニエプル・カルパチア攻勢」は、攻勢のスケールの大きさと首尾においても画期的だが、各国のディープな人たちが戦後体制の構築に向かう意味でも画期を成した4カ月だと思う。
■ オマケ
ソ連軍って、ノモンハンでおたおたするような軍が相手にできるような軍では絶対にない。どうしてそれがわからなかったのだろうか? 皮肉で言っているのではなくて純粋に不思議だ。
■ WW2シリーズ
1943年2月2日:スターリングラードでドイツ軍降伏
1944年1月18日、レニングラード包囲解消(プーチン献花)
1943年2月2日:スターリングラードでドイツ軍降伏
1944年1月18日、レニングラード包囲解消(プーチン献花)
1944年4月17日、赤軍、ドニエプル・カルパチア攻勢完遂
1945年1月17日:ソ連赤軍ワルシャワ解放
1945年1月27日:ソ連赤軍アウシュビッツ解放
1945年2月4日、ヤルタ会談始まる
1945年2月13日、ブタペストついに陥落
1945年4月11日:ブーヘンヴァルト強制収容所解放
1945年4月25日 プーチン&トランプ:エルベ河の邂逅を記念して共同声明
1945年1月17日:ソ連赤軍ワルシャワ解放
1945年1月27日:ソ連赤軍アウシュビッツ解放
1945年2月4日、ヤルタ会談始まる
1945年2月13日、ブタペストついに陥落
1945年4月11日:ブーヘンヴァルト強制収容所解放
1945年4月25日 プーチン&トランプ:エルベ河の邂逅を記念して共同声明
確かにスターリン批判は馬鹿な行動だったと思う。
でもヨーロッパで親ソ派が生き残らなかったのは、NATOとアメリカの政策のせいでしょう。ソ連に付く奴は悪い奴というプロパガンダで知識人と左派を潰していった。
最後まで残ったのは、本当にナチと戦ったイギリスの、特に労働者階級。そこも、ブレアにつぶされて、もはやヨーロッパは来歴のわからない人々となりおおせた。だから、ロシアがヨーロッパと離婚しようとしているのは無理もないし懸命な政策でしょう。
👉Wikipedia「第二次世界大戦中のギリシャ」
ギリシャのイタリア侵攻撃破は国家ファシズムに対する初めての勝利で、バルバロッサ作戦の足留めになったといいます。その後のナチスドイツ占領はギリシャに30万数千の飢死と殺戮をもたらし、パルチザンの一斉蜂起はドイツ軍撤退後の英米軍による鎮圧進駐とハウル1世即位をもって一掃された。
かの人を「ウクライナのチャーチル」と拍手喝采する人たちと、歴史観や世界観の共有をいったいどこから試みればいいのでしょうか、それともあれは辛辣な皮肉なのでしょうか。