NHK大河ドラマ 葵 徳川三代 完全版 第壱集 [DVD] | |
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■参考
家康が、佐和山を襲撃するという噂に釣られ、是が非でも敵よりも西に出なければと思ったのだろうか?しかしだったらもう一歩西に行ってもよかったのではないのか、というのが私の疑問。
結果的には、陣形としては西軍優位だったことは知られており、結果が東軍の勝ちだったのは裏切りがあったからだ、という話で止まっている。
しかし、結果からみれば、西の端で小早川軍が側面攻撃に出られる位置にいて、家康の背中を狙える位置にいる毛利軍も動かなかったのだから、布陣だけから見れば、冗談のように西軍が袋のネズミになり得る布陣だった。
その布陣を前に、西軍主力は怪しまなかったのかというのは疑問だが、疑問に思っても先に着々と着陣されてしまってはどうしようもなかった、かもしれない。
さてしかし、このようなリスクを抱えた布陣を前にして(そもそも小早川は怪しいとわかっていた。毛利はどうあれ多分勝つ方に付いただろう)、三成らには他に手はなかったのだろうか。
そこで、どうせならかく佐和山まで退却して、そこで決戦に持ち込むというのはどうなんだろう…。琵琶湖を背に魚燐の構えで臨むとか…。これなら小早川隊の動きを死活的に重要なポイントにしないですむ。いわば無力化できる。
さらに、大津城の攻撃にあたっていた中国九州勢は、ようやくのことで関ヶ原の決戦当日に落城させている。当然加勢が期待できる。ことに、そこには立花宗茂がいる。さらに毛利元康もいる。
すると、日和見を決め込まされている吉川率いる毛利勢もいい加減な対応は取りづらくなったのではあるまいか。諜略に諜略で向かっても切りがないなら、そのリスクを見込んだ上でリスクの無力化を目指すのがリアルというものではないのか、など思う。
ただ、関ヶ原の当日に、三成が大津城落城をせめて予測できていたかは謎なので、中国九州勢を頼むという姿勢はとりずらかっただろう(携帯電話があれば!)。
しかし、万一大津城が落ちていなかったとしても、西側から攻めて来る東軍というのも直ちにはいないので、佐和山を背にする格好でも日数を稼ぐことはできたのではなかろうか。
今さら言っても全く何の役にも立たない話だが、西軍がなぜ関ヶ原を決戦場にしたのか、実のところ今もって理解に苦しむ。