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立花宗茂と携帯電話もしくは草の者

2012-03-26 22:11:14 | つらつら思んみるに
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立花宗茂は関ヶ原の戦いで敗戦方にあり改易されたものの、その能力を惜しむ諸大名からのお声がかかり、ついに家康に取り立てられ、最後には旧領に復帰した武将(多分、唯一?)。

この人の優秀さを思うと、ついどうしても一つ考えたくなってしまう。それは、この人が1600年のある日、大津での手間がほんのちょっと手早く住んで、あとほんのちょっとだけ早く関ヶ原に間に合っていたら、世の中どうなったかわからんのではないのか、と。

立花宗茂は、石田三成率いる西軍方にあって、別働隊として動き、関が原の寸前には大津で相当数の中国、九州勢を率いて戦っていた。

この様子は、今なら当然携帯でもテレビ会議でもなんでもあるだろうし、60年ぐらい前でもなんらかの通信網はあっただろうから、分刻みまではできずとも数十分刻みぐらいでは各方面に成り行きは告げられていたことだろう。

しかし、関が原の時代、どうもそれはそうはいかなかった。もし立花宗茂の動向が三成方に伝わっていたら、早晩大津が落ちそうだということが三成方で分かっていたならば、三成方としては関ヶ原などという家康が好む野戦ではなく佐和山で決戦することもできたのではあるまいか・・・。

なにしろ大津城が落ち京極高次が三井寺に入って降参したのは、関ヶ原の合戦当日のことなのだ。惜しい、惜しすぎる。

関ヶ原の合戦は早朝から準備がなされているから、このタイミングも難しいといえば難しいのだが、前の晩までに勝てそうだとの知らせでも入っていれば、三成方は待ちの姿勢に転じる可能性はあるし(それをぶっちぎって家康方が関が原をつっきって近江に入っていっていけば佐和山があり、大津があり、と障害物があるので順調に都または大阪に迎えるとは思えない)、もし合戦に入ってまだ浅い時間帯でも、

「もしもし、俺、宗茂、ほぼ大津は落ちたも同然、明日朝高次が頭剃るって」なんていう携帯が西軍の各武将の手元に入っていたならば、関が原を決戦とせず、合戦を引き伸ばしに引き伸ばし、陣を立て直すことも可能だったのはなかろうか? 

さらに、そうなれば、小早川も寝返りを躊躇したかもしれないし(寝返りは普通勝つ方に寝返る)、ぐだぐだの毛利勢も、吉川広家がいかな重鎮であろうとも、普通に西軍で行こうと思っていた諸将を止める大儀が見当たらないのではなかろうか(関ヶ原にいた毛利の中に本当に戦う気のあった人がいたのか、という感じも相当あるし、少なくとも毛利勢は決戦志向ではなかっただろう)。

などなど考えてくると、大津の立花宗茂の動向と関が原の西軍本体が連動している気配がないのが実に惜しい。携帯電話、無線、有線は無理としても、斥候兵とかいなかったのだろうか?

ふと思えばそこらへんは伊賀のものとか、甲賀のものとかの本場だ。西側にとって有益な迅速な連絡網はなかったのだろうか? 

『真田太平記』では、真田昌幸配下の「草の者」たちが家康本体を撃とうと暗躍するのだが、家康を撃つよりも、もっと地味でマメでスパイ網の基本であるところの「つなぎ」業務を心がけるべきだったのではなかろうか。考えてもまったく詮無いことながら、戦にとって古今東西あってもよさそうな機能がなかったような気がしてならない。というか、むしろそれは家康の側に有利に働いていたということなのか?


<追記>

・『葵徳川三代 第01回 総括関ヶ原』では、破れた三成が自害しようとすると、家臣たちが「佐和山でもう一合戦」と言う、という場面があった。関が原という場所で合戦をやっていて、自分たちにまだ余力があれば、地理的に考えて当然そういう発想になるだろうと思う。で、このプランは翌日、あの裏切り者の小早川秀秋軍を先鋒とした東軍による佐和山城猛攻撃によってあっけなく終わってしまう。ここで猛攻撃に耐えられなかったという時点で、要するに西軍は兵も装備も足りていない(そもそも豊臣家が資金援助していない)と考えるしかない。


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