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尾張組の前田利家

2012-01-28 14:59:32 | つらつら思んみるに

前田利家と徳川家康の和議は、余命いくばくもない老境に入った利家が和を求めていた、と見えなくもないドラマ仕立てになっていることが多い。その一方で、見舞いに来た家康に心を許していないエピソードとして抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていた、などともいわれる。

しかし、結局のところ、1598年当時において、反家康同盟の主役たり得る人物だったのは利家なわけで、その利家が家康に下る意味は小さくない。さらに、現実問題、利家没後、家康は豊臣家を滅ぼしたのだし、前田家にも脅しをかけていることから考えれば、前田利家は結果において家康に騙された人、といえなくもない。

利家は家康中心のスキームについてどういうパースペクティブを持っていたのだろう?

まず、利家は、自身も実績を積んだ大大名ではあったが、家康強しの感は、他の、例えば三成ら秀吉後期の人脈に繋がる人たちなどと比べて、はるかに強く持っていただろうと思う。また、尾張、近江、近畿だけでなく、北陸という近畿の後背地でもありかつ北方に、そして東方に繋がる地からものを見たことのある人として、東方地域に確実な力を持つ家康を侮るわけにはいかないというリアリズムも、近畿中心主義の人々よりも強く持っていただろうとも思う。なにしろ、現実に、家康と利家は織田信長の躍動期からかれこれ30年以上知り合っているし、その間には数々の戦を同じ側で戦っている(姉川とか長篠時代)のだから。

だからといって豊臣家が潰される方向に道を譲ってしまうかどうかは別問題なのだが、彼にとっての現状は、武将同士が力と力で戦ってきた結果であり、できる限りを尽くしたらその後のことは天命、ぐらいに思っていても不思議ではないだろうと思う。なにしろ信長が今川を破り、将軍を従えて京に上り、本能寺があって、秀吉が超人的な活躍をして、という激動の時代の中で、自身もまた生き抜いた。強さだけでも、賢さだけでもない、「運」も流れもあるのだと承知せざるをえない人だっただろう。このへんが、一旦確立してしまった権威を前にした人々、すなわち、秀吉後期の人脈の差なのかなと思う。後期の人々にとって権威は磐石なものであり、守られねばならぬもの。逆にいえば、運や流れを泳ぎきっていなければ取れないものではないのだ。

前田利家と石田三成は共に豊臣家の繁栄を願う者ではあったが、二人の視座は大きく異なっていたのではないかと思われる。

さらに、もう一点、(どこまで影響があったのか不明ではあるのだが)三成vs家康とは、豊臣家内の、近江文治派vs尾張武断派と見る見方もある。

その構図でいえば、利家は否応なしに尾張グループに親近感または信頼感を持っていたとも考え得るだろう。高台院、前田という、尾張出身グループのコアにいる人が、家康にはっきりと抗していないことは、ここでも目をひく。

近江vs尾張という構図は、いわゆる俗説として広がっているように見えるが、学説としてどのぐらいの広がり、確からしさがあるのか私はよくわからない。ただ、あっても不思議ではなさそうな感じは残る。とはいえ、近江の旧主京極氏は家康に付いているので、ここでいう近江グループとは、いうなれば新興近江グループというべきなのかもしれない。いやしかし、京極氏は先祖の高氏を出すまでもなく結果において勝つグループに最後にはつく、という系統というべきか。近江というのは実に難しいところだ。

「淀殿vs高台院、近江vs尾張」を主張するお話発見


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