如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

神の化身 

2007-07-16 18:17:52 | サイ・フォーラムへの書込み
 神の信者さんへ 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年/10月26日

サイババのことをいつも考えていらっしゃるあなたのことをスワミが知らないはずはありません。
スワミについて全く知らない者のところにさえ、必要とあらば現れるのですから。

---御言葉です---
肉体をまとって生まれて来たものはすべてアヴァター(神の化身)です。つまり神の降臨であり神の顕現であるのです。ではラーマ、クリシュナ、ブッダ、キリストの抜きん出ていた点は・・・(中略)・・・こうです。彼らは真理であるアートマンを悟ったのであり、あなた方はそれを悟っていないということなのです。悟りは恩寵、栄光、威厳、力、光輝を授けてくれます。悟りは執着からの解放、時間、空間、因果の法則、眠りと夢と現実から解脱させてくれるのです。アヴァターたちはつねに目を光らせ、物事を覚知し、光輝に満ちているのです。
------  
あなた自身が「自分自身も神の化身である」と多少でも感じられる時、スワミが自分よりもっともっとはるかにすごい「神の化身」なのだと実感できるのではないでしょうか。


(無題) 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年11月15日

>現に、悪魔はあります。
匿名希望さんのこの言葉、とてもいいです。
私だったらつい、「悪魔はいます」と書いてしまうでしょう。でも、仮に悪魔が存在するとしても「います」ではなく、「あります」なんですね。
「神」も「あります」なのだと思いました。

>地球人は殆ど広義には、闇の住人に見える
闇の使者さんのこの言葉も、意味が深そうです。チンパンジーに毛の生えた程度の?意識しか持たない人類は、まだ文化を始めたばかりなのです。
意識には、闇の部分が多いのでしょう。あるいはほとんどが闇だったりして・・・(特に私の場合は)
でも、闇の中にあるもののすべてが悪いものであるということではないはずです。

ところで、「ほんの通りすがり」さんと、「闇の使者」さんは、目が読みたいと感じたり、書籍にビビッと感じたりするそうですが、具体的な書名があげられたらぜひお願いします。


匿名希望さんへ 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年/11月17日

匿名希望さんありがとうございます。

悪魔については、わからないことだらけです。
この日本の無神論的な雰囲気の中を、悪魔がこれ幸いと大手を振って歩いているのではないかと考えたこともあります(これは、もちろん擬人化した表現ですけど)。
また、悪魔は神の属性のひとつではないかと考えたこともあります。
でも今はあまり悪魔のことを考えたくはありません。(これもサタンの仕業だったりして)


闇の使者さんへ 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年11月19日

お礼が遅くなりましたが、「サイババから感じるエネルギーについて」ありがとうございました。

「独特の感じや匂い」という言葉に共感します。
私は1年の3分の1くらいの期間、どちらかの鼻がつまっているような人間なのですが、霊的なものに対しては嗅覚で感じるような気がします。めったにありませんけどね。
また、生命エネルギーのようなものは視覚で、つまり光で感じるようです。これも経験が少ないので明確ではありませんが。

なお、私の名前「だるまばらむ」は、ご存じの方も多いと思いますが、鉄道の駅の名前です。
「Dharmavaram Jn.」です。どんな意味かは知らないで使わせてもらっています。

サンニヤーサ・遍在

2007-07-16 11:01:49 | サイ・フォーラムへの書込み
遍在 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年/10月20日

サイババが遍在であることの一例を私の経験からお話ししておきます。
サイババの周辺ではよくある話でしょうが、たまにはこんな話題もよいかと思います。

30年以上前に私は日本でスワミを見ています。
見ていると言っても、実体としてではなく神のビジョンとしてですが。
ビジョンに現れたスワミの姿が、その頃私のいだいていた神の姿のイメージとあまりにかけ離れており、しかもなぜかスキップを踏んでいるように見えたため、強く記憶に残りました。
もちろん、スワミが現れたのは、その時の私が危機的状況にあって必死に神(ありとあらゆる神様仏様)に祈ったからでした。
神であるスワミは、取るに足らない私の祈りを聞きつけて姿を現して下さったわけです!!!
この出来事が起こったのは、私がテレビでスワミを知るよりも15年も前のことでした。

日本でも、ほんとに多くの人が、いろいろな奇蹟を体験しているのです。
それも、インドではなく、この日本で起きているのです。
スワミは遍在します。
      AUM SRI SAI RAM


サンニヤーサ 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年/10月16日

・・・・
この御言葉に相当するバガヴァッド・ギータの文章は次の通りです。

( バガヴァッド・ギーター第9章27~29 )
    
クリシュナは告げた。
「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。
  
かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為(業)の束縛から解放されるであろう。
放擲のヨーガに専心し、解脱して私に至るであろう。
  
私は、万物にたいして平等である。私には憎むものも好きなものもない。
しかし、親愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。」

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なお、「放擲(ほうてき)のヨーガ」という言葉はむずかしいですが、解説によれば、この場面での意味は「ありとあらゆる行為を絶対者(最高神=クリシュナ)へのささげものとして行うこと」だそうです。
もちろん、クリシュナはサイババであり、アルジュナはあなたであるわけです。

サイ・フォーラムへの書込み

2007-07-16 10:52:59 | サイ・フォーラムへの書込み
久しぶりに、サイ・フォーラムのBBSを読み返してみた。
私がこのBBSに書き込んでいたのは2002年9月から2004年6月。
この期間の途中で、BBSの管理者がサイババ批判を始めたことにより、BBSは騒然となり、しばらくして終息した。
管理者の御好意でいまだにインターネットで見られるので、今のうちに自分の書き込んだ意見くらいはコピーしておいてもよかろうと思った。
それを、このプログに少しずつ載せてゆこうかと思う。
このブログでのカテゴリー名は「サイ・フォーラムへの書込み」とした。
BBSへの書込みなので、前後の関係がわからないと、意味がよく取れないところもあるが、あまり手直しをしないでコピーしたいと思う。
必要と感じれば、多少のコメントを付けるかもしれない。

無題 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年 9月23日

最初に、幸運にもこのホームページにたどり着けたことを、スワミに感謝いたします。
スワミは、必要な時に、必要なものを与えて下さっているようにいつも感じます。
もちろん、与えて下さるものが時には試練であったりするのですが、それも、この世界の存在理由が霊性の向上であることを考えれば、当然のことなのでしょう。
しかし、では「霊性の向上とはいかなる事であるのか」ということになると、あまり明確ではないのです。
さいわい、このサイ・フォーラムはスワミの言葉で埋め尽くされていますから、これからよく読ませていただきます。特に今日の御言葉が毎日読めるのはすばらしいことです。
      AUM SRI SAI RAM


バクティ 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年/10月12日

「神への愛」は、投稿日10月11日のThought K354-1では 、「DEVOTION」あるいは「Bakthi」でした。
「DEVOTION」は英語ですから、スワミの本来持っているイメージは「Bakthi=バクティ」なのでしょう。
「バクティ」は「信愛」、もっと詳しくは「神への献身的な信仰と愛」と訳されるそうです。
スワミはクリシュナの話をよくされますから、この「バクティ」は「バガヴァッド・ギーター」で説明されている「バクティ」の意味と考えるのが妥当と思われます。
「バクティ」について詳しく知りたい方は岩波文庫の「バガヴァッド・ギーター」を読むのがよいのでしょうが、私のような門外漢には、NHK出版の「バガヴァッド・ギーターの世界」がわかりやすくて目から鱗でした。

**コメント** 
この頃は、「バガヴァタ・バヒニ」とか、上村勝彦氏の「バガヴァッド・ギーターの世界」を読んでいたようです。