如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

アートマン

2007-07-22 21:56:29 | サイ・フォーラムへの書込み
アートマン 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2003年 1月12日

アートマンの話がしばらく続いていましたので、某HPから、COPYしてきました。
少し長文ですが、わかりやすいかなと思いました。

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「非らず。非らず」 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 4.5.6

彼はいった。
ああ、実に良人に対する愛のために良人がいとしいのではない。
アートマンに対する愛のために良人はいとしいのだ。
ああ、実に妻に対する愛のために妻がいとしいのではない。
アートマンに対する愛のために妻はいとしいのだ。
(中略)
ああ、実に生き物に対する愛のために生き物がいとしいのではない。
アートマンに対する愛のために生き物はいとしいのだ。
ああ、実に万物に対する愛のために万物がいとしいのではない。
アートマンに対する愛のために万物はいとしいのだ。
実に、アートマンこそ見るべきもの、聞くべきもの、考えるべきもの、認識すべきものなのだ。
マイトレーイーよ。ああ、アートマンさえ見られ聞かれ考えられ認識されたなら、万物が知られるのだ。

いわば二元対立というものがあるならば、
その場合、一方が他方を見る。その場合、一方が他方を嗅ぐ。
その場合、一方が他方を味わう。その場合、一方が他方に語る。
その場合、一方が他方を聞く。その場合、一方が他方を考える。
その場合、一方が他方に触れる。その場合、一方が他方を認識する。

しかし、人にとってすべてがアートマンそのものとなったとき、
彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。
彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。
彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。
彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。
この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか。

この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
捉えることができない。捉えられないから。
壊れることがない。壊されないから。
こだわりがない。こだわらないから。
つながれず、動揺せず、損なわれない。
ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。

これで、マイトレーイーよ。お前は教えを受けた。
ああ、実に不死の本質とはこれだけのことだ、と語り終えると、
ヤージュニャヴァルキヤは、遍歴行者の生活に入った。

すべてのこだわりから無縁のお方

2007-07-22 21:42:26 | サイ・フォーラムへの書込み
すべてのこだわりから無縁のお方(Thought K322-1)   投稿者:ババ  投稿日:2002年12月31日

ある詩人がこう詠っている。

 クリシュナよ、ゴーパーラよ。
 わたしはあなたにやさしくしてもらうつもりはない。
 あなたが慈悲を請うわたしの声に動かされるとも思っていない。
 あなたが実の母親の兄上、カンサ王をその手で殺めたことを、
 わたしが知らないとでもお思いか?
 あなたはその胸にやさしくあなたを抱いて授乳した乳母プータナーの命も奪った。
 眉一つ動かすことなく、最愛の信者プラフラーダの父親を、
 目の前で苦しめたすえに打ち倒した。
 バリ王に施しをうけるふりをして近づいたあなたは、
 バリ王が喜んであなたの御足の前に頭を垂れるやいなや、
 その頭を踏みつけて地底の国に押し込めてしまった。
 そのような厳しいこころをもつあなたが、
 わたしごときの不幸に情けをかけるはずがない。
 まことに、まことに、主はすべてのこだわりから無縁のお方。
 愛するものも憎むべきものも神には存在しない。


「すべてのこだわりから無縁のお方」について思うこと 投稿者:だるまばらむ  投稿日:2002年12月31日

厳しい御言葉です。
この御言葉のミソは、ある詩人に詠わせたって事かもしれませんね。
自分で言えば角が立つ。こういったところにスワミの人間らしさをかいま見たりする。

>愛するものも憎むべきものも神には存在しない。
でこの御言葉は終わっていますが、バガヴァッド・ギーターでは次のようになっています。

『私は万物に対して平等である。私には憎むものも好きなものもない。しかし、親愛をこめて私を愛する人々は私のうちにあり、私もまた彼らのうちにある。』(バガヴァッド・ギーター9章29)

**コメント**
正直なところ、このある詩人の詩をなぜババの御言葉として掲示したのか、いまいち理解できない。
それなのにわかったような顔をして余分な事を書いて、それでBBS上ではどなたかに迷惑をお掛けしたようです。

生物と無生物のあいだ

2007-07-22 21:38:47 | Weblog
先週読んでいた「生物と無生物のあいだ」は、大変おもしろい本だった。
内容は、現代分子生物学を作り上げてきた科学者たちの物語、その光と影。発見にまつわるエピソード。
「生物とはなにか?」についての、分子生物学からのひとつの答えのようなもの。

その前に読んだ「はじめての超ひも理論」は教科書としても使えるような内容に感じられたが、この「生物と無生物のあいだ」は科学者の人間模様や著者の実際の体験がたくさん盛り込まれていて、講義の合い間の雑談のようなもの。
別の見方をすれば、「はじめての超ひも理論」は、無味乾燥だが明るいイメージがある。
「生物と無生物のあいだ」は、科学者の悲哀とか、発見競争の厳しさとか、実験動物に対する後ろめたさとか、そういった背景を色濃く感じてしまう。

それにしても、こういった最先端科学は何をめざしているのか?
基礎科学とはいえ、膨大な研究費用を消費するからには、費用を出す側になんらかのメリットがなければならないはずだが・・・

また、このような科学に十分な倫理的歯止めがかけられているのか心配になる。
それに、実験においては想定外の結果が出ることは、当たり前である。
最終的には法律による規制なのだが、先端技術についての立法はどうしても後追いになる傾向があるだろう。
さらに、法に触れなければよいという考えが世間にあることも事実だと思う。

人間はいったいどこへ行こうとしているんだろうと、思うのです。
遺伝子組み換えによる農作物ですら不安なのだが・・・