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新潟県 長岡市郷土史料館 蒼柴神社 忠犬しろ神社

2024年02月01日 17時28分26秒 | 新潟県

蒼柴(あおし)神社。新潟県長岡市悠久町。(悠久山公園内)。

2023年9月27日(水)。

当日は、長岡市街地、与板、燕市、三条市、新潟市新津区を見学した。午前中は激しい雨に見舞われた。道の駅「長岡」から、長岡市郷土史料館へ向かった。

長岡市郷土史料館は、市街地東郊外の悠久山(ゆうきゅうざん)公園の高台にある。道なりに進入すると駐車場は蒼柴(あおし)神社横にある。史料館へは蒼柴神社横を通り抜けて、1㎞ほど歩くことになるが、史料館近くにも駐車場があると入館後に教えられた。公園内は一般車禁止なので、どちらにしても、登り坂になる。

蒼柴神社は、越後長岡藩3代藩主牧野忠辰(ただとき)公を主祭神とし、境内には河井継之助ゆかりの招魂社や忠犬しろ神社などがある。本殿および拝殿は国の登録有形文化財。

1722年(享保7年)に既に隠居していた牧野忠辰が死去。これを通達された京都の神祇道管領の吉田家より、故人忠辰に蒼柴霊神の神号が贈られた。このため、養嗣子で当時の4代藩主牧野忠寿(ただかず)が長岡城東隅に社殿を造営して忠辰の霊璽を奉安したのが始まりである。

享保13(1728)年3月の三蔵火事により、社殿が全焼したために千手町の八幡社に奉遷し、同年11月御遷座式が行われた。

明和3年(1766年)に牧野忠精(ただきよ)が9代藩主となると、社殿の城内からの移転が計画され、天明元年(1781年)に三官山を開拓し日光東照宮を模して社殿を造営し、7月に社地を三官山から悠久山と改名し、8月に遷宮式が行われて現在地に移転した。

神仏分離令を受けて1871年(明治4年)に蒼柴大明神から蒼柴神社に改名され、「お山」の名で長岡における崇敬の対象となる。

蒼柴神社は、人気漫画「るろうに剣心」のファンが御朱印目当てに参拝に訪れることで知られる。作者の和月(わつき)伸宏は同市で育ち、長岡高校在学中に新人作家の登竜門、手塚賞で佳作を受賞し漫画家の道に進んだ。この作品には美男子キャラクターの四乃森蒼紫(しのもりあおし)が登場する。

忠犬しろ神社。

長岡藩三代藩主牧野忠辰(ただとき)がかわいがっていた白い秋田犬の「しろ」を「忠犬しろ」として祭っている。犬や猫の健康祈願を行っているほか、しろが描かれた「愛犬守」なども頒布されており、参拝する愛犬家も多い。

長岡市郷土史料館。長岡市御山町(悠久山公園内)。

模擬天守をかたどった建物の史料館である。建物は天守風に建てられているが、長岡城との関係はない。館内展示は、河井継之助・小林虎三郎・杉本鉞子・山本五十六など、近世から近代にかけて長岡の精神文化の礎を築き、日本的、世界的に活躍した郷土出身の先人の業績とその人となりを紹介している。

長岡城。

越後長岡藩の藩庁が置かれていた城。今日のJR長岡駅付近につくられた平城(ひらじろ)で、西に信濃川、北に広大な湖沼の八丁沖(八町沖)に面した梯郭式の城郭であった。

現在の長岡市域は、戦国時代には越後守護代長尾氏(のち上杉氏)の一族古志長尾家が古志郡蔵王の蔵王堂城(現長岡市西蔵王)に拠って治めていた。その古志長尾家の景信が御館の乱により戦死した後は、上杉景勝の直接支配を受けることとなる。

慶長3年(1598年)に上杉氏が陸奥会津に移封すると、かわって越後に入封した堀秀治の弟堀親良が4万石を与えられて蔵王堂城主となるが、親良を継いだ甥の鶴千代が慶長11年(1606年)に早世したため、蔵王藩は2代で断絶した。さらに慶長15年(1610年)、宗家の堀忠俊が家老堀直次・直寄兄弟の内紛を収められなかった罪で除封され、替わって徳川家康の6男松平忠輝が越後に入封すると、蔵王堂城もその属城となった。

1616年(元和2)、越後高田藩主の松平忠輝が大坂の役での不始末を理由に改易されると、越後高田藩の属領となっていた旧蔵王藩領に堀直寄が8万石で入封され、蔵王堂城(長岡市)に入城した。

蔵王堂城はたびたび水害を受けていたことから、直寄はその南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に新たな城を築き城下町を移して長岡藩を立藩した。直寄は2年後の1618年(元和4)に越後村上藩に国替えとなり、代わって譜代大名の牧野忠成が6万2000石(のちに7万4000石)で入封して城の建設と城下町の整備を引き継いだ。

堀直寄は長岡城の縄張りを「苧引形兜城(おびきがたかぶとじょう)」と呼び、また長岡城は信濃川と栖吉川が周囲を囲むように自然の外郭を形成し、さらに城の東側の江筋より水を引いて幾重にも堀を巡らしていたために「八文字の浮島城」ともいった。

完成した城は土塁を主体とした城郭で、本丸と二の丸、詰の丸を三の丸が囲むようにつくられ、本丸の角櫓(すみやぐら)の一つに「御三階」とよばれる建物がそびえる城であった。これが長岡城の始まりである。天守はなく、本丸北西の三階櫓を代用としていた。以降、明治維新まで牧野氏が藩主として同城を居城とした。

山本五十六書「常在戦場」。

長岡城が歴史の舞台に登場するのは、1868年(慶応4)の北越戦争(戊辰戦争の中の一つ)である。河井継之助を家老に抜擢した越後長岡藩は奥羽越列藩同盟に加盟したことから新政府軍の攻撃を受け、一度占領された長岡城を奪い返したものの、新発田、新潟が攻略され、新政府軍の増援部隊が到着したことで形勢が変わり、再落城して長岡城はほぼ焼失した。

1874年(明治7)ごろ、長岡城は旧藩主の牧野家の所有となり、城跡は旧藩士らによって遊覧場と呼ばれた公園として整備されたが、1897年(明治30)の北越鉄道(現JR)開通にともない、本丸の東部分が長岡駅となり、さらに第二次世界大戦の空襲と戦災後の復興により、長岡城の遺構はすべて失われてしまった。

中央に長岡駅・長岡城跡。右上が悠久山。

中央に榎峠・朝日山。

長岡城は、西に信濃川があり、南北と東を東山山地に源流がある赤川(現在の柿川)が三方を囲むように流れ、信濃川と合流している。北に広大な沼であった八丁沖を天然の守りにしていた。ただし、守備側は天領であった小千谷との境にある朝日山、榎峠を確保することが必須条件で、攻守ともにこの南方高地を制圧した側が城を手にすると言われていた。

1868年(慶応4)の北越戦争では、朝日山、榎峠が激戦地となった。

松岡譲(ゆずる、1891~1969年)。小説家。現長岡市出身。父親は真宗大谷派の僧侶。旧制長岡中学では、同級生に詩人・フランス文学者となる堀口大學がいた。一高を経て東京帝国大学文学部哲学科に在学中、夏目漱石の門人となる。漱石の長女筆子と1918年4月に結婚四女の半藤末利子(1935年~)は随筆家で、夫は昭和史研究家の半藤一利(先祖は長岡藩士)。第二次大戦中は、父の故郷である長岡市に疎開し、県立長岡高校を卒業。

長岡駅方面への展望。

新潟県 長岡市馬高縄文館④三十稲場式土器 藤橋遺跡