豪商豪農の館 重文・渡邉邸。新潟県岩船郡関川村下関。
旧米沢街道に面した豪商・豪農の館である渡邉邸の母屋(主屋)は、江戸時代後期の佇まいを残して関川村役場の道路向い側に堂々と建っている。
2023年9月28日(木)。
渡邉邸は16時に閉館する。13時45分ごろ、新発田城址公園駐車場を出て、関川村の重文・渡邉邸へ向かった。14時30分頃、渡邉邸向い側の関川村役場の駐車場に到着。15時30分前に見学を終え、村上市平林の道の駅へ向かった。
渡邉邸主屋西側の前座敷と重文・味噌蔵。
廻船業、酒造業や新田開発で財を築き、米沢藩上杉家の財政を支えた渡邉家の屋敷の敷地は3000坪にも及び、その周囲に黒塀と外堀をめぐらせている。500坪の母屋、米蔵・味噌蔵・金蔵・宝蔵・裏土蔵・新土蔵の6棟の土蔵、国指定名勝の庭園が今も残っている。
母屋は、桁行35.1m、梁間17.8m、切妻造、妻入、一部二階、南面及び北面庇付の奥行きの長い造で、二度にわたる火災のあと文化14年(1817)に現在の姿に再建された。
建物は街道に面し平行に建つ棟(前棟)と直角に建つ棟(後棟)の二つの棟からなり、建物の形式として、屋根がT字型となる「撞木(しゅもく)造り」の様式を採っている、この形式は関川村に多い形式である。
屋根は、杉の薄板の上に玉石を置いて押える「石置木羽葺屋根(いしおきこばぶきやね)」という日本海側特有の工法で造られ、約22万枚の板と15,000個の石を使用しており、日本最大規模を誇る。板は36.5㎝(一尺二寸)の材料を用い、主要部分は三重葺になっている。
1954年に母屋、金蔵、米蔵、味噌蔵の3蔵が、1978年に宝蔵、新土蔵、裏土蔵、塀3棟と慶応3年(1867)に描かれた屋敷図、宅地、米蔵の附としての棟札3枚が、重文に指定された。
また、江戸時代中期、元禄末期から享保初期にかけて京都から遠州流庭師を招いて構築した回遊式庭園は、1963年に国の名勝に指定されている。
建物は1964年の新潟地震や1967年の羽越大水害、白アリ被害などで老朽化が目立ってきたため、6年の歳月をかけて2014年、平成の大修理を完了した。
旧米沢街道沿いには、渡邉邸に続いて、撞木造りの津野邸、重文・佐藤邸が連なっている。
母屋の通用口から入ると、採光のため吹き抜けになっている土間が広がる。
豪壮な梁組と吹き抜けの通り土間が壮大な空間を造り出し、訪れる人を圧倒する。
母屋を南北に貫通する通り土間に面して茶の間・中茶の間・台所と続き、大黒柱はじめ各柱、天井の梁材はけやきの巨木良材を木取って組まれている。
街道に面した大座敷、ニ之間、納戸座敷などは繊細な数奇屋風の作りとなっており壮大さと繊細さを合わせ持つ建築である。
大座敷はもちろん、中座敷にも一本一本吟味して選ばれた無節の柱・丸桁・敷板など惜しみなく用いられ、庇ははね木で支えるという特別工法が施されている。
母屋の部屋は約40室あり、風呂4か所・便所7か所を備え、最盛期には75人の使用人が住んで「現場」と「帳場」に分かれて働き、1000ヘクタールの山林を経営、700ヘクタールの耕地から9000俵の米を収納したという。
渡邉家代々の当主は、米沢街道宿場町の利を生かした事業を展開して財を成し、それを大名貸や神社仏閣の再建、私財を投じた公共事業の推進など、地域の政治、社会、文化の発展に多大な貢献をなしてきた。
初代儀右衛門善高(よしたか)は、村上藩主松平直矩(なおのり)の家臣で郡(こおり)奉行をしていたが、藩主が姫路へ国替えのとき、家督を嗣子に譲り、桂村に隠居。寛文7年(1667)現在地に転居した。
2代目三左衛門善延(よしのぶ)は廻船業を営み、酒造業を開業して財を成し、3代喜久(よしひさ)は、享保11年(1726)財政難に苦しんでいた米沢藩に融資を行い、幕末まで10万両以上用立て米沢藩を支えた。その功により5代目以降は米沢藩勘定奉行格の待遇を受けた。
7代善映(よしあき)は寛政10年(1798)450石の知行を与えられ、米沢9代藩主上杉鷹山の藩政改革に貢献した。
10代善郷(よしさと)は、大正7年(1918)米坂線の誘致に尽力し、昭和11年(1936)の全通に至った。
11代萬壽太郎(ますたろう)は、関川村長となり、六三三制実験校誘致、診療所の開設、財団法人渡邉家保存会の設立など多くの社会貢献をした。
茶の間。
映画やテレビドラマの撮影でも度々使用されており、映画「峠 最後のサムライ」ロケ地(2018年)にもなった。
茶の間から土間を隔てて、西の土蔵群方向。
屋根を内側から煙で燻すために、今でも囲炉裏で火を焚いている。
中茶の間から入口方向。
台所。
1995年にNHKで放送されたドラマ「蔵」(原作:宮尾登美子)のロケ地となった。
このあと、名勝庭園のある大座敷、2階、前座敷を見学した。