新潟県埋蔵文化財センター。新潟市秋葉区金津。
2023年9月27日(水)。
保内三王山古墳群見学者用駐車場を15時30分頃に出て、新潟市秋葉区の新津丘陵北端にある新潟県埋蔵文化財センターへ向かったが、ナビに北東へ遠回りさせられて駐車場に16時過ぎに着いた。さらにセンター入口まで長い距離を歩かせられてしまった。「埋文にいがた」の埋文コラムがプリント頒布されていて参考になる。
縄文土器。脚付土器。縄文時代中期。南魚沼市五丁歩(ごちょうぶ)遺跡。
関東地方の勝坂式土器の文様を持ち、底部から伸びる4本の足が器を支えており他に例がない。縄文時代中期前半の環状集落。土器(独自色強い。焼町土器。新巻類型類似土器。阿玉台式。勝坂式など)。
アスファルトパレット。縄文時代晩期。新発田市青田遺跡。阿賀野市山口野中遺跡。
埋文コラム「縄文時代のアスファルト」埋文にいがたNo.101 2017年12月28日
アスファルトというと、道路の舗装を連想される方も多いと思います。ところが縄文時代の人々も、天然のアスファルトをさまざまな使い方で利用していました。アスファルトは、原油に含まれるタール分が固まったもので、黒くて粘りのある物質です。いったん溶けても冷えると固まる性質から、接着剤などとして大いに利用されました。
アスファルトが利用されたのは、北海道の南半分、東北、新潟県とその周辺で、現在までに1,200近くの遺跡で利用が確認されています。北海道と青森、岩手では縄文時代早期、新潟でも前期に利用がはじまり、利用エリア全域で後期中ごろから晩期に最盛期をむかえました。
アスファルトは原油からできるものなので、北海道、秋田、山形、新潟などの油田地帯が主な産地です。そこから各地に流通して、太平洋側でも盛んに利用されました。阿賀町大坂上道(おおさかうえみち)遺跡出土の土器入りアスファルト(写真①)や胎内市江添(えぞえ)遺跡出土の塊はアスファルトが流通する姿を示しています。特に、江添遺跡の塊の表面には編み物の痕がみられ、編み物で包んで運ばれたと考えられます(写真②)。
アスファルトは接着力が強く、水にぬれても接着力が落ちないため、石鏃(写真①)や石匙、やすなど骨角製の漁労具や石製の網の錘(おもり)などの接着に利用されました。太平洋側の貝塚でアスファルトが付着した骨角器がたくさん出土していることから、水に強いことが太平洋側まで流通した理由だとする説があります。ほかにも割れた土器の補修、色が黒いことから着色にも利用されました。
これまで、縄文人は油田で天然のアスファルトの塊を採取して利用したと考えられてきましたが、近年、アスファルトを製造・精製していた可能性が言われています。北海道や秋田、新潟の油田の近くの遺跡で、原油を煮た土器や不純物を多く含んだアスファルトの滓(かす)のようなものが出土したからです。新津(にいつ)油田に近い新潟市秋葉区大沢谷内(おおさわやち)遺跡でもそれらの資料が数多く出土しました(写真③)。出土品を見る限り、製造といっても原油を煮つめる、不純物を取り除くなどの作業だったようです。今後は、製造・精製の具体的な方法や、アスファルトの流通ルートなどの研究が進むことが期待されます。(沢田 敦)
赤漆塗り糸玉。縄文時代晩期。新発田市青田遺跡。
埋文コラム「縄文時代の赤漆塗り糸玉」 埋文にいがたNo.99 2017年6月30日
新発田市青田遺跡から出土した赤漆塗り糸玉は、縄文時代の文化を知るうえで大きく二つの意味を見出すことができます。一つは、縄文時代から盛んに行われていた植物繊維と漆の利用です。
この糸玉は植物繊維の束2 本を右撚(よ)りした直径約 1 mmの糸を素材としています(図 2 )。こうした糸は編布(あんぎん)にも利用され、様々な用途に使われていました。この糸にベンガラ漆を塗って漆糸を作り、15〜20本を束ねて結び目を付けたのが糸玉です。
漆糸は繊維上に直接ベンガラ漆 1 層を塗ったものや、漆を塗った後にベンガラ漆 3 層を塗り重ねたものがあります。いずれも結び目上からベンガラ漆が塗られた痕跡がないため、漆を塗った後に漆糸の変形作業が行われていました。こうした可塑性を持つ漆製品は縄文時代特有の漆工技術として注目されます。
もう一つは、糸玉の用途についてです。糸玉の出土地点は腕輪状 漆製品や土偶と重なるものも多く、装身具や祭祀具の可能性があります。一方、小林達雄氏(國學院大學名誉教授)は結び目の数や配置などによって記録や伝達の手段とする「結縄(けつじょう)」の可能性を指摘しています。
結縄はアメリカ大陸などの文字を持たない時代の社会に見られ、日本では沖縄の「藁算(わらざん)」が有名です。
青田遺跡の糸玉の長さは最大18.2cm、幅は最大2.1cm、最小0.8cmです。結び目はすべて一重結びですが、結び目の間隔を置かずに連続させるもの(図 1 )が13点、間隔を空けるもの(図 3 )が 4 点あります。連続するものの結び目数は 2 連〜 6 連を確認でき、間隔を空けるものには 5 〜 8 mm間隔で結び目を 1 つずつ付けるものや、2 個 1 対の結び目を約 5 cmの間隔で付けるものがあます。そして、同時期の阿賀野市山口野中遺跡で 4 点(図 4 )、福島県三島町荒屋敷遺跡で15点、さらに奈良県御所市京奈和自動車道関連遺跡D北区でも確認され、国内の広範囲に普及していたと考えられます。このように、豊富な数と規格性・広域性が認められる赤漆塗り糸玉は縄文時代の意思伝達具の可能性があるのです。(荒川 隆史)
漆製品。縄文時代晩期。青田(あおた)遺跡。新発田市金塚青田。
新潟平野の北部、胎内市との境界に近い新発田市西端の沖積地にある縄文時代晩期末(約2500年前)の河岸集落跡。標高はマイナス1mから1.6m、かつて一帯は紫雲寺潟(しうんじがた)とよばれた潟湖があり、遺跡はほぼその中央にあたる。1999年から日本海沿岸東北自動車道建設で新潟県教育委員会が発掘。当時の河川に沿って、川岸に立ち並ぶ掘立柱建物58棟のほか土坑や墓域とみられる深鉢形土器を逆さまにして埋めた埋設土器がまとまって見つかった。
低湿地に位置する青田遺跡は、地下水に守られ、丸木舟をはじめとする木製品(擢・籠類・草壁)動植物遺体(堅果類・貝類)・漆製品(漆塗り糸玉・腕環・櫛・弓・漆用具)などの有機質遺物が豊富に出土した。
令和5年度 企画展1「発掘された名前」。
新潟県の歴史を書き換えた、古代から中世・近世までの重要な木簡・墨書土器をはじめとする文字資料の中で、「名前」に焦点を当てました。名前には人名のほかに役所名・施設名・地名など多種・多様なものがあります。「名前」からみえる人と社会の実像に少しでも迫りたいと思います。
(会期 2023年4月21日~12月17日)
墨書土器。
佐渡国分寺跡出土瓦「三国真人」。
三国広見(みくにのひろみ、生没年不詳)。姓は真人。官位は従五位下・能登守。桓武朝の天応元年(781年)4月、従六位上から従五位下に叙爵されるのが史料における初見。同年5月には主油正に任ぜられる。翌延暦元年(782年)6月、越後介。同3年(784年)3月、能登守と地方官を歴任する。同4年(785年)7月に笠雄宗と役職を交替する。ところが、同年10月、謀反を誣告したという罪で、斬刑に処せられるところを、死一等を減刑して、佐渡国に配流されたという。これは同年9月の藤原種継暗殺事件と、広見配流と同月の安殿親王(のちの平城天皇)立太子の間に起こった出来事であり、種継暗殺に関係した処置と推定されている。
佐渡国分寺跡から出土した文字瓦に官人像の絵と「三国真人」の署名のあるものがある。
国宝・金銅威奈大村(いなのおおむら)骨蔵器。(複製)。
飛鳥時代・慶雲四年(707年)十一月二十一日在銘。大阪・四天王寺蔵。
江戸時代の明和年間に発見されたもので、甕を伏せた下からこの骨蔵器が出土したと伝える。球形の容器で、蓋と身が半球形に分かれる特殊な形である。よく似たものに佐賀県出土と伝えられる無銘のものがある。威奈大村骨蔵器は蓋裏に1行10字詰め39行391字におよぶ銘が刻まれている。これには、威奈大村が宣化天皇の子孫にあたり、持統朝に任官、文武朝に少納言、大宝令制定とともに従五位すなわち貴族に列せられ、慶雲2年(705)に越後守に任ぜられるが、同4年(707)に任地で歿したこと、そして故郷の大和の葛城下郡山君里、今の香芝市穴虫の地に葬ったことが記されている。
威奈大村は、飛鳥時代の貴族で、氏は猪名とも書き、姓(カバネ)は真人。威奈鏡公(鏡王)の三男。官位は正五位下・越後守。
『続日本紀』では猪名真人大村、『威奈真人大村骨蔵器』に刻まれた墓誌には威奈真人大村と記される。以下に記す事績のうち、『続日本紀』に記されるのは御装副官と越後守の任官の二つだけである。その他は墓誌によるが、墓誌には御装副と越後守の任官が書かれていない。
墓誌によれば、威奈大村は天智天皇元年(662年)に威奈鏡公の第三子として生まれる。天武天皇の14年(685年)か翌朱鳥元年(686年)に冠位四十八階制の務広肆となる。藤原宮に移ってから、勤広肆・少納言に叙任された。さらに直広肆に進み、大宝元年(701年)大宝律令に基づく位階制のもとで従五位下に叙せられ、侍従を兼ねた。大宝3年(703年)に行われた持統天皇の葬儀に際して、御装長官の穂積親王を輔佐する3人の副官の1人に任ぜられる。なお、他の2人は従四位下・広瀬王と正五位下の石川宮麻呂であった。大宝4年(704年)正月に従五位上に昇叙され、翌慶雲2年(705年)には左少弁を兼ねた。
同年11月16日に大村は越後城司に任命された。『続日本紀』によれば翌慶雲3年(706年)閏正月に越後守に任官している。越後城・越後城司は大村の墓誌にしか現れない城柵で、越後守と同じ官職、あるいは越後守の下僚にあたる官職か、学説が分かれる。3か月しか違わない任命時期の解釈も、一方を誤りとする説と、任命日と赴任日のずれと解する説、越後城司から越後守への昇進とする説がある。これ以前にも越後守の補任は行われていると考えられるが、名前が知られる中では大村が最初の越後守・越後国司である。
当時の越後国は後のものより範囲が狭く、新潟県本州部の東半分にあたり、蝦夷の領域と境を接する国境地帯であった。墓誌では、越後城司としての大村の統治を仁政を敷いたものと称え、軍事的な功績は記さない。慶雲4年(707年)2月に正五位下に進むが、同年4月24日に任地の越後で卒去した。享年46。最終官位は越後守正五位下。遺骨は大和国に持ち帰られ、同年11月に同国葛下郡山君里狛井山崗(現在の奈良県香芝市穴虫字馬場)に帰葬された。
威奈大村の骨蔵器(骨壺)は、江戸時代の明和年間に葛下郡馬場村の西にあった「穴虫山」から開墾中の農民によって掘り出されたと伝わる。発掘時、骨蔵器は大甕を伏せた下から見つかり、中には火葬骨が込められた円形漆器が入っていたとされる。発掘した農民は当初、骨蔵器を純金製と考えて所持していたが、やがて銅製とわかったため地元の安遊寺へ寄進し、遺骨入りの漆器は、同人が浄土真宗を信仰していたことから大谷本廟へ納めたという。
地元の人々は骨蔵器の墓誌を判読できなかったが、布教のため同地を訪れていた僧の義端がその価値を見出して『威奈卿銅槃墓誌銘考』を著し、また彼の友人で連絡を受けた木村蒹葭堂も同品を取り寄せ直接調査して『威奈大村墓誌銅器来由私記』を執筆し、さらに秋里籬島の『大和名所図会』や松平定信の『集古十種』でも墓誌が紹介されるに至った。その後、四天王寺の僧・諦順が大村の遺骨と骨蔵器を再び一緒にしようと尽力したが果たせず、骨蔵器は同寺の所蔵となって現在に至る一方、大谷本廟へ移された遺骨入りの漆器は所在不明となった。
骨蔵器は明治42年(1909年)に「銅壺(威奈真人大村卿骨壺)」の名称で国宝(旧国宝)に指定され、昭和30年(1955年)に国宝(新国宝)に指定された。
骨蔵器の出土地は二上山麓にあり、大阪府側からは船氏王後墓誌、高屋枚人墓誌および紀吉継墓誌が発見された他にも火葬墓や骨蔵器などが出土しており、同地帯は7世紀から8世紀には、官人の公葬地として使用されていたと考えられる。しかし、大村の骨蔵器が直接出土した穴虫山の正確な位置についてはすでに江戸時代当時から不明瞭となっており、義端は道場山のことではないかと推測しているが、現在地元で「御坊山」と俗称される場所がそれに該当しうるとの見解が出されている。
鋳銅製の球形骨蔵器は、総高24.2cm・径24.4cm、表面を轆轤仕上げで整形した上に鍍金し、中央やや下寄りの位置で蓋と身を合わせ、底部に高台を鋲留めする。球形骨蔵器は、他に佐賀県出土と伝わるもの(無銘)が知られる。地金の厚さは約1 - 3mmで、高台周辺に向かうほど薄くなる。蓋表には題を含め391字の漢文体の墓誌を10字39行で放射状に陰刻する。墓誌の撰者および筆者は不詳だが、内容は大村の出自より始まり、その性格、経歴や没年月日、葬地を並べた後、『論語』などからの引用と流麗な修辞でもって彼の人物と業績を称え、その死を悼む文句で締め括られる。刻字もまた優れた小楷で当時の書風を代表するものであり、直接調査を行った木村蒹葭堂も書道の手本とするべく明和7年(1770年)に墓誌を模刻している。
卿諱大村檜前五百野宮
御宇 天皇之四世後岡
本聖朝紫冠威奈鏡公之
第三子也卿?良在性恭
儉爲懷簡而廉隅柔而成
立後清原聖朝初授務廣
肆藤原聖朝小納言闕於
是高門貴冑各望備員
天皇特擢卿除小納言授
勤廣肆居無幾進位直廣
肆以大寶元年律令初定
更授從五位下仍兼侍從
卿對揚宸?參賛絲綸之
密朝夕帷幄深陳獻替之
規四年正月進爵從五位
上慶雲二年命兼太政官
左小辨越後北疆衝接蝦
虜柔懷鎭撫允屬其人同
歳十一月十六日命卿除
越後城司四年二月進爵
正五位下卿臨之以德澤
扇之以仁風化洽刑淸令
行禁止所冀享茲景祐錫
以長齡豈謂一朝遽成千
古以慶雲四年歳在丁未
四月廿四日寢疾終於越
城時年?六粤以其年冬
十一月乙未朔廿一日乙
卯歸葬於大倭國葛木下
郡山君里狛井山崗天?
疏派若木分枝標英啓哲
載德形儀惟卿降誕餘慶
在斯吐納參賛啓沃陳規
位由道進榮以禮随製錦
蕃維令望攸屬鳴絃露冤
安民靜俗憬服來蘇遥荒
?足輔仁無驗連城析玉
空對泉門長悲風燭
鏡王(かがみのおおきみ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。額田鏡王とも記される。臣籍降下後の氏姓は威奈公。宣化天皇の子である火焔皇子の後裔で、阿方王の子とする系図がある。
『日本書紀』には、額田王(ぬかたのおおきみ)は、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁ぎ、十市皇女を生むとある。
鏡王には、『日本書紀』の記載から娘に額田姫王がいたこと、『威奈真人大村骨蔵器』に刻まれた墓誌に大村が威奈鏡公の三男である旨の記載があることから、臣籍降下して威奈公の氏姓を称していたこと、および息子に威奈大村がいたことが判明している。
同じく息子とされる韋那 磐鍬(いなの いわすき)の官職は近江守。672年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)のために東国から兵力を動員する使者になったが、敵方に阻まれて逃亡し、任務に失敗した。
韋那氏(氏姓は「韋那君」、「偉那公」、「偉那君」、「猪名公」とも表記される)は宣化天皇の皇子・上殖葉皇子または火焔皇子を祖とする皇別氏族で、摂津国河辺郡為奈郷に設置されていた猪名部の伴造氏族であった為奈部氏(為奈部首)を出自とする乳母の姓に由来すると想定される。
韋那 磐鍬の息子の猪名石前(いな の いわさき)は、従四位下・右京大夫。大宝3年(703年)備前守に任ぜられ、在任中の大宝4年(704年)文武天皇に神馬を献上したところ、宮中の西楼上に慶雲が立ち上ったとことから、慶雲への改元が行われると共に、神馬献上の功績により正五位上に昇された。和銅7年(714年)1月11日卒去。
時間の余裕がなくなったので、10分程度見学して17時に閉館する弥生の丘展示館へ急いだ。