続日本100名城。国史跡・村上城跡。新潟県村上市二之町。
2023年9月29日(金)。
本日は、粟島へ日帰り見学することがメインで岩船港10時30分発・14時35分着を除く時間帯を村上市の見学に当てた。村上市神林の道の駅から村上城跡へ向かい、法務局前から狭い道に入り西麓にある登城口の駐車場へ8時前に着いた。本丸まで20分が標準だが30分ほどを要した。早朝のウォーキングには最適らしく5人ほどの市民をみかけた。
北西のイヨボヤ会館から眺める村上城。
村上城は、標高135mの臥牛山(がぎゅうさん)に築かれた城で、別名舞鶴城。中近世を通じて阿賀野川以北の揚北(あがきた)地方の中心であった城であり、今日に残る遺構もそれにふさわしい壮大なるものである。ことに、中世の遺構と近世の遺構が渾然一体として残る姿は貴重なものである。
村上城の築城年代は不明だが、16世紀前期には城が存在していたものと考えられる。戦国時代には本庄氏の本拠地として、永禄11年(1568年)の上杉謙信との篭城戦など戦いが繰り広げられ、江戸時代になると村上藩の藩庁となって享保5年(1720年)以後は内藤氏が代々城主を務め、明治維新を迎えた。
中世における揚北は、城氏滅亡の後に入った各鎌倉御家人が勢力を伸ばしていた。奥山荘の中条氏、黒川氏、加地荘の加地氏などがそれで、揚北地方最北の岩船郡(小泉荘)には秩父平氏の本庄氏が入った。彼らは南北朝期以降にも、守護上杉氏の影響をあまり受けず、独自の政治圏である「揚北」を形成し、「揚北衆」と呼ばれた。
小泉荘に入った本庄氏は南北朝内乱期には同族の色部氏と合戦し、敗れて「(本庄)持長城」が落城していることが色部文書等により分かる。ただし、当時の本庄氏の城については未詳で、この城が村上城を指す可能性もあるが、伝承をもとに、猿沢城(朝日村所在)であるとする説もある。
室町時代以降、本庄氏は他の揚北衆に同じく反守護(上杉氏)の立場を鮮明にし、延徳元年(1489)、明応2年(1493)、永正4年(1507)と守護及び守護方の武将と数次にわたって合戦したが、永正4年9月、本庄城は火を放たれ落城した。この本庄城は臥牛山にある村上城を指すものである。
天文8年(1539)、本庄房長は伊達・中条連合軍の攻撃を受け本庄城は落城、天文20年(1551)になって房長の子繁長が本庄城を取り戻す。繁長は一時、上杉氏に従うが、永禄11年(1568)3月、武田信玄の誘いに応じ、反旗を翻して、上杉輝虎(謙信)の軍に包囲された。繁長は、「南方は深田洋々として湖水の如し、西は大海原、特に大河は郭をめぐり、地利無双の城地たり」(上杉年譜)とある堅固な地利を頼んでよく凌いだが結局孤立し、翌永禄12年(1569)2月、米沢の伊達氏、会津の芦名氏の仲介で輝虎に降り、嫡子を人質として春日山に送った。本庄氏の治世は天正18年(1590)末、豊臣秀吉が繁長を改易するまで続いた。
慶長2年(1597)の「瀬波郡絵図」には「村上ようがい」と城下の街が画かれており、山上に多くの建物のあったことが分かる。
慶長3年(1598)、上杉氏の会津移封に伴い堀秀治の家臣・村上頼勝が9万石で転封された。しかし、豊臣恩顧の村上家は間もなく取り潰され、元和4年(1618)堀直竒が10万石で村上城に入封となった。堀氏は村上城の縄張り、作事を進め、ここに近世城郭としての村上城が完成した。
寛永19年(1642)、堀家は嗣子がなく絶家となり、正保元年(1644)本多忠義が入城した。
正保2年(1645)の城郭絵図に画かれた村上城はこの時のもので、本丸には3層の天守閣の外、渡櫓、多門、二の丸には5か所の櫓などが画かれ、この絵図によって往時の姿を偲ぶことができる。
この後慶安元年(1648)、松平直矩(結城松平)が15万石で入城、以降榊原政倫、本多忠孝、松平輝貞、間部詮房の各家が続き、享保5年(1720)内藤弌信が5万石で入って、以降明治維新まで8代、150年近く続いた。
遺構は、山上に本丸天守台、二の丸に乾櫓、巽櫓、埋門、出櫓、平櫓等の跡、三の丸に月見櫓、靱櫓、千貫丸等の跡が残り、石垣は高さ8m近く、山頂の各部にくまなく巡らされている。山下には居屋敷、一文字門、下渡(げと)門等の跡が、藤基神社境内には外郭土塁も残っており、石垣も使われている。また臥牛山東面には本庄氏時代の戦国遺構である腰曲輪や竪堀、土塁、井戸跡等も良好に残っている。
大手道。
出櫓台と本丸石垣。
臥牛山山頂と天守跡
村上城跡の本丸には、かつて三層の天守櫓が存在していた。慶安2年(1649)に播磨姫路から移り、村上藩主となった松平直矩(なおのり)によって寛文元年~5年(1661~1665)頃に大きく改変された。特に本丸は地形を三尺(約90cm)ほど下げ、天守櫓を始め山上山下合わせて21の櫓が造り替えられたという。
しかし、天守櫓は、寛文7年(1667)に落雷火災により焼失し、その後は再建されることはなかった。現在は礎石と石垣のみ残っており、一部に焼失した時の痕跡(被熱痕)を見ることができる。
天守台。
天守跡から見た村上市中心部。
本庄氏。
平安後期院政期に、現在の村上市を含む岩船郡に越後城氏の勢力がのび,藤原北家勧修寺流中御門家を本所とする小泉荘が立荘された。後に新しい領域が加わり、古い地域を本庄、新しい地域は加納と呼ばれるようになる。
鎌倉時代初頭、小泉荘には坂東平氏秩父氏が地頭に任命された。本庄には秩父行長が入って本庄行長と改名し、その弟為長は加納の色部条(村上市)に入って色部為長を名乗り、両氏は土着した国人領主となった。
小泉荘内各地に一族が分派したが,鎌倉時代に加納方を領した色部氏がもっとも早く自立した。室町時代には鮎川氏,小河氏などが独立し,一時本庄宗家は小河氏に家督を奪われた。本庄氏は猿沢(現在の朝日村)を居所として極めて堅固な構えを築くが、狭い居住地域で不便だったため、明応年間(1492年から1501年)頃に村上に居所を移し、本庄房長は独立峰の臥牛山一帯に堅城である村上城を築城した。房長は一族内紛の末に憤死し、跡を継いだ嫡子本庄繁長は内紛を制して越後北部に強大な勢力を築いた。
繁長は上杉謙信に仕えて鬼神とまで称された勇将であった。一時期は武田信玄に通じて謙信を裏切り大いに苦しめたこともある。だが降伏して許され、謙信没後は跡を継いだ養子景勝に仕えて優遇された。村上は上杉家の本拠春日山城に次ぐ軍事都市に発展し、天正16年(1588年)には本庄繁長は最上義光と戦って十五里ヶ原の戦いで最上軍を撃破し、庄内地方をも制圧した。繁長が天正18年(1590年)に村上を去ると、上杉家家老直江兼続の弟大国実頼の代官春日元忠が入った。
上杉氏が陸奥会津に転封されると本庄繁長はこれに従い、慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦でも功績を挙げた。上杉氏の120万石から30万石への減封後も、本庄氏は重臣として福島城(福島県福島市)城代を務め、寛文4年(1664年)に減封で上杉氏が15万石となり福島を失った後は、鮎貝(山形県白鷹町)に置かれた鮎貝城の城代に代々任ぜられた。
内藤家の時代。
内藤家は、戦国期に三河国松平氏家臣だった内藤清長の養子で、徳川家康の異母弟という説もある内藤信成を家祖とし、江戸時代には棚倉藩主家、ついで村上藩主家となった。第6代藩主・内藤信敦は寺社奉行・京都所司代、その子の第7代藩主・内藤信思は大坂城代・京都所司代・老中などを歴任している。幕末に、信思の養嗣子で第8代藩主となった内藤信民は佐幕派で、藩内における方針対立に苦しみ、慶応4年(1868年)7月城内にて自殺した。享年19。
村上藩は藩主不在となり、家老で佐幕派の鳥居三十郎が主導権を掌握する。親幕府派の藩士が山麓居館に火を放って庄内方面へ脱出して庄内藩兵と合流し、新政府軍と羽越国境で交戦したが、8月11日、村上城は新政府軍によって落城、9月27日に降伏した。
皇后雅子妃の小和田家は村上藩士の家系であり、同じく村上藩士家であった祖母の実家である嵩岡家の住宅が公開されている。