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石原順(西山孝四郎)日経最高値 パラダイムシフトというより、「金融抑圧」による「円安バーゲンセール」

2024年02月22日 20時22分34秒 | 社会

石原順(西山孝四郎)日経最高値 パラダイムシフトというより、「金融抑圧」による「円安バーゲンセール」

2024年2月22日。✕(旧ツイッター)

 

日経平均34年ぶりに史上最高値、パラダイムシフトで海外資金流入 - Bloomberg

デフレでなくインフレ状態、消費者物価は右上がり続く-日銀総裁 - Bloomberg

 

日本銀行の植田和男総裁は22日、足元の物価動向について、デフレではなくインフレの状態にあるとの見解を示した。衆院予算委員会で答弁した。

 

リセッション(景気後退)に入ったのだから、インフレーションではなく、スタグフレーション。

バブルがないと経済はマイナスの自然利子率に陥ってしまう

こうした長期停滞の考え方はMITコンセンサスと呼ばれ、現在の日本銀行の政策のメインストリームを形成している。

日本人は今、「給料は上がらないが物価は上がる」という典型的なスタグフレーションの渦中にいる。この傾向は、これからもっとひどくなるだろう。公的債務の対GDP比の限界は250%程度と言われ、1940年代に英国が一度経験しているだけである。少子高齢化が進む日本は金利が上がると厳しい事態を迎える。

 

最近の日本の経済政策、すなわち、破滅的な量的緩和政策は、円安によって企業収益を上げ、その恩恵が家計に還元されるのを待つことが目的であった。しかし、トリクルダウンはいっこうに起こらず、国民の有意義な賃金上昇をもたらすという点では大失敗であった。

日銀が輪転機で刷った円で政府の借金を帳消しにするというインフレの方向性は、これから、日本国債や円に対する信認を揺るがすことになるだろう。

 

日銀の量的緩和政策は<日本国民の預金を連帯保証人とするインフレ政策>である。

景気が悪くてもインフレ懸念が強い時に政策金利を引き下げれば、将来のインフレ懸念を煽ることになり、将来の金利である中・長期の金利は上がってしまうのだ。

政府は景気が悪くなると中央銀行に金利を下げろと圧力をかけてくるが、中央銀行が金利を下げると、長期金利が逆に上がってしまうという現象が過去に何度も起きている。

問題は金利のコントロールがうまくいくかどうかである。中央銀行がコントロールできる金利は短期金利(=政策金利)だけである。景気が悪くなると、いつも政府は金融政策による景気刺激策を催促してくる。政治家が誤解しているのは、政策金利を下げれば全ての金利が下がると思っていることである。

 

金融抑圧とは何か?

自由市場における活動や、債券や通貨の価格形成に干渉する政府の政策は何であれ、金融抑圧的な行為と見なすことができます。

金融抑圧の一般的な動機として、政府が痛みを伴う財政再編を行うことなく、負債発行による資金調達能力を向上させることがあります。負債調達コストを、自由市場で要求される水準より低く抑えることによって、政府は借り入れコストを軽減し、債務残高の増加ペースを遅らせることができるのです。

金融抑圧は、密やかなデフォルトの一形態だと見なすこともできます。不換紙幣を発行する現代国家が、表面上は金利と元本を返済しつつも、債権者を割りの合わない目にあわせる紳士的な方法です。

2011年6月『世界的な金融抑圧という新時代』スコット・A・ マザー

 

これからの日本は、「金融抑圧」によって国民の富が政府に移転していく。早い話が、国民が貧乏(実質資産が目減り)になる一方で、政府は債務を実質的に圧縮していくのである。

2%のインフレが10年も続けば、政府の債務は実質20%軽減される。だが、多くの国民はそれを認識しづらい。いわゆる「茹でカエル」状態だ。

多くの借金を抱える国が、「インフレ率より長期金利を下げたい」という<金融抑圧の誘惑>にかられるのは当然の帰結なのかもしれない。

リーマン危機以降、どの国も債務残高が危険ラインに到達している。これを簡単に解消するにはハイパーインフレしかないが、そんなことはできないので金融抑圧政策が行われている。政府の借金圧縮(いわゆる財政健全化)のための「増税」や「歳出削減」は、国民やマスコミから文句が出やすい。

 

日経平均最高値更新の報道で、なぜNHKが山一證券の破綻場面を何度も映すのか分からないです。諸悪の根源は資産バブルに踊った銀行であり、証券会社は振り回されただけと思います。それにしても34年前のように世の中にお金が回っている印象はありませんね。(マーケットエッセンシャル主筆・前田昌孝

 


新潟市 水の駅「ビュー福島潟」 江南区郷土資料館(亀田郷)

2024年02月22日 15時43分08秒 | 新潟県

水の駅「ビュー福島潟」。新潟市北区前新田乙。

2023年9月30日(土)。

胎内市の国史跡・城の山古墳を見学後、新発田市のカトリック新発田教会を見学したのち、新潟市北区のビュー福島潟へ向かった。13時過ぎに駐車場に着いたが、満車に近かった。新潟県は潟湖が多かったが干拓により多くが埋められたため、福島潟は新潟の原風景が眺められる貴重な風景となって残っているということで訪れた。有料の展望階は障害者無料。

 

水の駅「ビュー福島潟」の建物は地上7階、地下1階で外観は螺旋状となっている。高さ29mの屋上展望台は晴れた日のみ開放されている。4階から上は有料。福島潟の自然や歴史に関する展示がある。喫茶店や展望台も設けられている。

福島潟は越後平野の北部、阿賀野川右岸に位置する262haの新潟市内最大の潟湖(せきこ)で、浅い水域にはヨシ帯が島状に広がり、日本の原風景「豊葦原の国」を思わせる。

福島潟へは五頭連峰を主な水源とする13本の河川が流入し、水面の標高はマイナス0.7m、平均水深は0.5mという越後平野の低湿地環境を象徴する存在で、多様な生きものが生育生息する自然豊かな湿地である。

福島潟はこれまで220種以上の野鳥が確認され、国の天然記念物オオヒシクイの日本有数の越冬地となっている。水辺ではヨシ、水域ではヒシが優占する中、アサザやガガブタ、オニバスなどの絶滅危惧種が生育する環境である。

福島潟は、その昔形成された新潟砂丘により、阿賀野川などの河川の流れが遮られ、さらに砂丘列の内陸側に徐々に土砂が堆積し、約2000 年~1000 年前に形づくられた。1680(延宝8)年頃、面積は約5800 haあったと伝えられている。

福島潟の干拓の歴史は江戸時代中期にまでさかのぼる。新発田藩は新田開発のための福島潟の干拓を進めたが、安政2(1855)年、当時の潟水面540haを豪農15人に譲渡した。明治44年(1911年)に、潟は天王の市島家の所有となった。

昭和に入り、国が市島家から潟を買収した後、1968年に国営福島潟干拓建設事業が始まって、69haが干拓され農地となり、1975年、福島潟の面積は193 haとなった。

東に五頭連峰や飯豊の山々を背景とする福島潟の特徴的な風景。潟の浅い水域にヨシ帯が島状に広がり、越後平野の原風景を思わせ、春には整備された菜の花畑と雪をかぶった山々が潟の景色を彩る。

西方向に遠く角田山と弥彦山が眺められる。

 

江南区郷土資料館。新潟市江南区茅野山。新潟市江南区文化会館内。

「水と人々のあゆみ」を中心テーマとし、「地図にない湖」と表現された亀田郷内での水との闘いに明け暮れた生活を物語る農具や民具を収蔵・展示している。

亀田郷土資料館から名称を変更し、江南区全般をカバーしている。

広大な駐車場に駐車。図書館の中にある。亀田郷といえば亀田製菓を思い浮かべるが、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んで、水と戦う農民の姿を想像し、実際に1953年制作の映画「芦沼」を見て凄絶さに驚いた。

亀田郷は、越後平野を流れる信濃川、阿賀野川およびその支流である小阿賀野川に囲まれた新潟市中央区・東区の一部と江南区のほぼ全域にあたる鳥屋野潟を中心とした約11km四方、約10,000haにも及ぶ広大なエリアで、かつては「地図にない湖」「葦沼」ともよばれた大湿地帯であったが、干拓されて美田となった。

この地域は多くの横列砂丘が発達し、河道に沿った自然堤防の背後を低背湿帯が占め、耕作地の標高が低いといった越後平野の地形的特徴を全て備えたような地域であった。

この地域の開発が始まったのは溝口秀勝が新発田城に入った1598年(慶長3年)であり、以後の新発田藩主・溝口氏による新田開発などの土地改良事業がその後の開発の礎となった。

19世紀末までに農民たちは村単位で協力して水田地帯の周囲に小堤と排水路を巡らせて小さな輪中を構成するようになるが、村ごとに対策は異なっており対立や紛争が繰り返された。

1906年(明治39年)以降、地域内に排水機が順次設置されていくが、農民は舟を使って腰まで水に浸かりながらの農作業を強いられ、生産性が低く且つ命懸けの作業環境にさらされていた。

1948年、戦前から進められていた農地整備事業の一環として、鳥屋野潟東端部から栗ノ木川を通じて機械による強制排水を行う「栗ノ木排水機場」が稼働を開始した。合わせて域内には土地改良区が組織され、農地を統一規格に整備することとなり、用排水路など疏水の整備も進められた。

こうした策によって亀田郷の排水は急速に進捗し、1955年頃には水田の区画化がほぼ完了。牛や馬、機械による農作業が可能となって舟農業からの脱却を果たした

 

14時45分ごろに見学を終え、新潟港近くの新潟市歴史博物館へ向かった。

新潟県胎内市 国史跡・城の山古墳 日本海側最北端の古墳 会津への道