乙宝寺(おっぽうじ)。新潟県胎内市乙(きのと)。
2023年9月30日(土)。
村上市の国史跡・平林城跡の見学を終えて南進し、乙宝寺へ向かい、9時15分ごろ第1駐車場に着いた。一通り境内を眺めてから、山川の歴史散歩に記載されている奥山荘黒川条総鎮守の八所神社を見学しようと、血の池付近に駐車して少年自然の家周辺まで探し回ったが、なかなか見つからなかった。乙宝寺の大日堂方面を探すと、大日堂のすぐ南西、六角堂の右側に八所神社があった。神仏分離令により、境内地に算入しない別法人扱いのようで、案内図には建物は記載されているが番号は付いていない。20分ほど時間をロスして10時15分ごろ奥山荘歴史館に向かった。
乙宝寺は真言宗智山派に属する。金堂には胎蔵界大日如来、阿弥陀如来、薬師如来の三尊が本尊として祀られている。天平8年(736年)に聖武天皇の勅願を受けて行基菩薩と婆羅門僧正(菩提僊那)によって開山された。婆羅門僧正は名を菩提僊那(ぼだいせんな)といい印度から渡来した高僧で、釈尊の両眼の舎利を請来した。右眼の舎利は日本へ渡来する前に中国へ渡り「甲寺」を建てて納めた。そして日本へ渡来し、聖武天皇の勅願を受けて建てたこの寺に左眼の舎利を納めて供養をし「乙寺」と名付けた。
その後、後白河法皇より舎利を奉安する金の宝塔を賜り、併せて「宝」の一文字を与えられ乙宝寺と名前を変えた。
乙宝寺の境内は2万5千坪あり、広い境内には多くの堂塔伽藍が残されている。
弁天堂。県指定重要文化財。
江戸初期の建築。池中の小島に建てられている。外観は、縦行3間、梁間2間、4柱造りで屋根は茅葺、堂内にある厨子は、小規模であるがいずれも極彩色で施してある。
また、堂内三方の壁板には、豊かな色彩で竹林が描かれた跡があり、桃山時代の特色を失わない江戸初期の作品と思われる。
仁王門。
延亨二年(1745年)に改修。奈良創建の金堂の古材が使用されている。仁王尊は行基菩薩の作。また、山額「如意山」は洛東智積院第七世運敞の揮毫。
重文・三重塔。
慶長19年(1614年)起工、元和6年(1620年)に竣工。村上城主・村上忠勝が願主となり、慶長9年(1614年)起工、元和6年(1620年)の村上城主堀丹後守直奇のときに完成した。棟梁は京都の小島近江守藤原吉正。塔頂の九輪に、貞享年間(1684~87年)の再興の刻銘がある。
柿葺の塔の建築様式は純和様の三層塔姿で、内外とも絵様・繰形など装飾をはぶき簡素であるが、全体の形が荘重で、均衝が美しい。
塔内安置仏は普賢菩薩で、辰年と巳年生まれの守り本尊である。
大日堂(金堂)。
乙宝寺の中心堂宇。延亨二年(1745年)に再建された旧大日堂は昭和十二年に焼失。現在の御堂はその再建で、昭和五十八年に竣工した。大きさは旧大日堂に倣い十五間四面となっている。本尊に大日、弥陀、薬師の三尊を祀り、所願成就の御祈祷がお勤めされる。
六角堂。
延亨年間に再建された御堂で、本尊は釈迦如来。地下には当山に伝わる仏舎利を祀った五重塔の心礎が安置され、奈良朝創建を裏付ける。この御堂は結びの堂とも呼ばれ、良縁成就の御利益がある。
「写経猿伝説。猿供養」伝説。
乙宝寺は古刹として名高いが、最も有名な伝説として「写経猿伝説。猿供養」の話が残されている。これは『大日本国法華経験記』第126話を初出として、『今昔物語集巻14』『古今著聞集』『元亨釈書』に記載されている。
乙寺に専ら法華経を誦経する僧がいた。ある時から2匹の猿が来て、木の上で1日中経を聞くようになった。数ヶ月して、僧は不思議に思って猿に誦経するかと尋ねると、猿は首を横に振った。さらに写経するかと尋ねると、今度は猿が笑みを浮かべて手を合わせたので、写経をしてやろうと言うと涙を流して木を下りて行った。数日後、多くの猿が木の皮を持ってきた。僧はこれで紙をすいて写経をして欲しいと悟り、早速紙をすいて写経を始めた。2匹の猿は毎日欠かさず現れ、山で採れる木の実などを置いて帰った。しかし法華経の第五巻まで写経した時、ふっつりと猿はこなくなった。気になった僧は山へ行き、そこで猿が2匹とも死んでいるのを見つけた。そして猿の遺骸を葬り、書きかけの法華経を仏像の前の柱の中に納めたのであった。
それから40年もの歳月が流れた。突然、新しく越後の国司となった紀躬高(『今昔物語集』だけは藤原子高とし、承平4年(934年)のこととしている)が夫婦で来訪し、「この寺にまだ書き終えていない法華経はないか」と尋ねた。かつて猿に法華経を写経してやった僧がまだ生きており、そのことを告げると、国司は「私たちは、その時の猿の生まれ変わりです。あなたの誦経によって発心し、その勧めで写経を志したのです。どうかその法華経を最後まで写経していただきたい。私たちはその願いを叶えるために生まれ変わり、この国の国司に任ぜられたのです」と言う。それを聞いて僧は感激し、経を取り出して写経を完成させ、国司もまた法華経を写経して寺に納めたという。
このことから乙宝寺は猿供養寺とも言われ、乙宝寺の境内にはこの2匹の猿を供養した墓である猿塚がある。
芭蕉の句碑。「うらやまし浮世の北の山桜」。
松尾芭蕉は奥の細道の途次、元禄2年(1689年)7月1日に当寺を参拝している。寺は当時より桜の名所となっていたようである。この句碑のあるところを浮世塚と呼んでいる。
随伴者である曾良によると、「7月1日。時々小雨。朝門人ら尋ねてきて、皆で榊原帯刀の菩提寺泰叟院参詣。午前11時頃、村上を立つ。午後1時頃、中条町(胎内市)に到着。次作を尋ねる。大変もてなされる。次市良宅へ泊る。時々雨強く降る。夜強雨」。
芭蕉一行は実際には16日かかって越後路を通過したが、柏崎や直江津で芭蕉の宿泊や待遇について手落ちがあって気分を害したために奥の細道の越後での記述は極端に省略されたらしい。
曾良の日記の中で越後路(新潟県)の神社仏閣は記載されているものは少なく、村上の光榮寺、泰叟院(現在の浄念寺)、胎内の乙宝寺、弥彦の弥彦神社(当時の弥彦明神)、長岡(寺泊)の西生寺(文中では最生寺)、直江津(上越市)の五智国分寺、居多神社に限られている。
八所神社宮殿(きゅうでん)。県重文。
大同2年(807)創立、市川八所大明神と称し、奥山荘黒川条内乙郷44カ村の総鎮守として崇敬されてきたと伝えられる。現在の宮殿は、元和6年(1620)乙宝寺大日堂の南側の小高い丘に建立された。
身舎桁5尺、梁間4.5尺、向拝の出4尺の一間社流造りで、全体に一見して手筋の良さが感じられる。