国名勝・清水園(しみずえん)。新潟県新発田市大栄町。
2023年9月28日(木)。
清水園は、池泉廻遊式大名庭園で、京風の庭の中心に草書体の「水」の字をえがく大池泉を配し、その周囲に茶室を配している。「越後を代表する大名庭園である」と評価されて国の名勝に指定されている。
隣接して、新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館・清水谷蔵所資料館、重文・足軽長屋、石黒家武家屋敷がある。
受付から大門をくぐり書院に入る。女性職員が庭園や書院について説明してくれる。その後は、庭園を茶室・桐庵から反時計回りに歩いて、新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館・清水谷蔵所資料館、重文・足軽長屋の順に見学していった。
最奥の南部には2段落の滝石組、下部には飛石が打たれ、沢渡りの形で廻遊路が結ばれている。
近江八景をとり入れた庭園は、技術的には桂離宮、要素的には苔寺(西方寺)といわれ、巧みな遠近法を見せてくれる。南西部の岩島や南東の岩島(亀島)、北西部の中島など架かる石橋、南部には2段落の滝石組、下部には飛石が打たれ、沢渡りの形で廻遊路が結ばれている。東部中央に突き出す洲浜は、荒磯の浜の意匠で、西端には岬燈篭が置かれる。
池の周囲には田中泰阿弥が設計した五つの茶室(桐庵、夕佳亭、翠濤庵、同仁斎、松月亭)が点在する。
州浜と夕佳亭。
最奥部方面。
書院横の庭園出口から新発田藩史料館・堀部安兵衛伝承館・清水谷蔵所資料館へ。
五階菱(溝口菱)。
新発田藩初代溝口秀勝は関ケ原の合戦に徳川勢に属し大功を樹てた。その合戦の前夜、秀勝は溝口家の家紋ミヅナの紋に美しい後光がたなびく夢をみた。秀勝はこれを瑞兆として、その形に則って家紋を定めた。それが溝口菱であるといわれる。
昭和9年町制当時、溝口家に請うて溝口菱を町章として、今日の新発田市章に至っている。
慶長3年(1598年)、上杉景勝が会津に移されると、そのあとの新発田には、加賀大聖寺から溝口秀勝が六万石で入部し、5万石 、万延元年(1860年)に 10万石と推移したが、幕末まで十二代、溝口氏の治世が続いた。
溝口 直正(なおまさ、1855年~1919年)は、12代(最後)の藩主、のち伯爵。
明治22年(1889年)に長女の溝口久美子が、新発田出身で大倉財閥総帥の大倉喜八郎の長男喜七郎(後の2代目総帥)と結婚した。この頃より家運が傾き始め、明治24年(1891年)に、旧新発田藩士の中村谷五郎より貸付金および立替金7万円余を請求されて訴えられた。明治31年(1898年)前後には家宝として伝来していた茶道具類などを、財界人で茶人でもあった原三渓や高橋箒庵に売却した。明治37年(1904年)には、古道具商のもとで売立を行ない、再び家宝を売却した。
有栖川宮熾仁親王妃 董子(たるひとしんのうひ ただこ、1855年~ 1923年)は、有栖川宮熾仁親王の2番目の親王妃である。
第10代藩主溝口直諒の六男・直與の次女として生まれ、その後、伯父・直溥の養女となる。幼名は、栄姫。
溝口直與は、安政3年(1856年)8月、伊勢神戸藩6代藩主・本多忠寛の世嗣ぎ養子となり、本多忠穆(ほんだ ただひこ)と改名した。しかし、同年9月家督相続前に27才で早世した。
董子は、1873年、貞子妃を病気で亡くした熾仁親王と結婚する。董子は、夫と共に佐野常民らを助けて博愛社(後の日本赤十字社)の創設に尽くし、東京慈恵医院幹事長を10年間務め、67歳で薨去した。
日本初のチャリティ-バザー(鹿鳴館での婦人慈善会)の総長は、董子妃であった。この時の収益が「看護婦教育所発祥の地」として紹介されている有志共立東京病院の看護婦教育所の建設にも使われ、のちに東京慈恵医院、現在の慈恵医大へとつながっている。
篤志看護婦人会は、1887(明治20)年5月19日、有栖川宮熾仁親王妃董子の意を受けて、有志の女性たちと橋本綱常(初代日赤病院長)、石黒忠悳(軍医総監)が日赤本社事務所に参集し、設立が決まった。この集会に出席した親王妃4人と三条治子、大山捨松など25人の計29人が篤志看護婦人会の発起人となり、董子妃は、明治20年~29年まで幹事長を務めた。その後、全国各地に女性たちの赤十字ボランティアの輪が広がり、会員数は多い時には10万人におよんだ。
大倉喜八郎(1837―1928)。政商的実業家。大倉財閥の創設者。新発田の名主の家に生まれる。18歳で江戸に出て、かつお節店の店員となる。1865年(慶応1)銃砲店を開業し、幕末、維新の動乱に乗じて販売を拡大した。明治元年(1868年)に有栖川宮熾仁親王御用達となり、奥州征討軍の輜重にあたる。
維新後は欧米視察のうえ、1873年(明治6)大倉組商会を設立して貿易および用達事業に乗り出し、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得た。この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥の体制を確立していった。とくに中国大陸への事業進出に積極的で、中国軍閥との関係も深かった。
また渋沢栄一と協力して東京商法会議所設立に尽力するなど財界活動にも力を入れ、渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場、東京電燈はじめ多数の会社の設立に関与した。大倉高等商業学校(現東京経済大学)や大倉集古館も設立している。
大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営むが、曽祖父・宇一郎(初代定七)の時、兄に田地を返し、商いで生計を立てる。祖父・卯一郎(2代目定七)の時に、薬種・砂糖・錦・塩などで大きな利益を得、質店を営み始める。この頃より藩侯への拝謁を許されるようになる。父・千之助(4代目定七)は、天保の大飢饉で米倉を開き窮民に施すなどの経緯から、藩主から検断役を命じられるほどの家柄であったという。
大倉直介(なおすけ、1884年~1953年)は建築技術者で大倉火災海上保険社長などを務めた。
旧新発田藩主・溝口直正の次男として生まれた。1910年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、陸軍技師となり、1914年に退官。
1914年、同郷の実業家・大倉喜八郎の妹みち(道)の養子となり大倉に改姓。1915年、大倉組に入り会計部で勤務。大倉組ロンドン支店、大倉商事保険部長、1926年、同監査役、1928年、大倉火災海上保険常務取締役を経て、1935年、同社長となり1943年頃まで在任。
高田馬場の仇討ち、赤穂浪士など講談のヒーローとして後世に名を残すことになる堀部安兵衛武庸が寛文10年(1670年)に中山弥次右衛門の子として城下に生まれる。
重文・旧新発田藩足軽長屋。
「清水園」の東側を流れる新発田川をへだてて隣接した場所にある。旧新発田藩の下級武士の住んでいた長屋で、八軒を一棟に連ねた棟割長屋である。
新発田藩は軍事的理由から、城下の幹線道路の出入り口付近に人数溜まりをつくり、その外側に「足軽長屋」を置いた。長屋は旧会津街道口、古くは足軽町とよばれた上鉄炮町の裏につくられ、幕末まで4棟あった清水谷長屋のうち現存するのは1棟のみである。当時の城下絵図には、「北長屋三軒割八住居」としるされている。
建造年代は不明だが、昭和44年(1969年)に解体修理が行われたさい発見された棟札に「天保十三年」(1842年)の文字が残されており、同年の建造と考えられている。
昭和44年の春頃まで住居として使用されていた。現在の建物は、昭和46年に解体修理に着手、翌47年6月に完成させたものである。
「足軽長屋」は、桁行24間、梁間3.5間、寄棟造りの茅葦屋根をもつ八戸の棟割長屋で、一戸の主屋は間口、奥行3間の9坪、裏には2坪の炊事場と1坪の土間が下屋造りでついている。
主屋の間取りは、半坪の玄関土間、炉付の2坪半の板の間、それに8畳と4畳の2室、または6畳2室。床や書院はなく、軒高で内法高は低く、小屋組みも叉手構造のつつましい造りである。
当時の住人は、記録によると姓のあるのは1人だけで、ほか7人は名のみ。役職は御門番組・御旗指組などの小者と御綱方と、足軽以外のきわめて身分の低い家臣であった。幕末の下級武士の生活ぶりを伝える住居は、全国的にも例をみない貴重な遺構である。
このあと、新発田市街地へ向かい、カトリック新発田教会を探したが見つからず、新発田城跡へ向かうと激しい雨に遭遇した。