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新潟市 「弥生の丘展示館」史跡・古津八幡山遺跡 古津八幡山古墳

2024年02月07日 14時45分49秒 | 新潟県

史跡古津八幡山「弥生の丘展示館」。新潟市秋葉区蒲ケ沢 花と遺跡のふるさと公園内。

2023年9月27日(水)。

弥生の丘展示館新潟県埋蔵文化財センターから300mほど西の道路脇の広い「花と遺跡のふるさと公園駐車場」内にあるが、フラワーランドの方が目立っていたので間違って入り込んでしまい、探し回った。弥生の丘展示館は新津美術館寄りの奥まった場所にあり目立たなかったが、展示内容はガイダンス施設にしては意外と立派すぎる建物だった。16時30分頃に入館し、16時45分頃に出た。

古津八幡山(ふるつはちまんやま)遺跡古津八幡山古墳は裏山の山頂にあるが、5分で到達できそうもなく暗くなってきたので諦めて、阿賀町の道の駅へ向かった。

弥生の丘展示館は新潟市埋蔵文化財センターの管轄下のようで、新潟県埋蔵文化財センターと併せて8冊ほどのガイドブック的図録的な冊子を入手できたのが成果といえば言える。内容はネットでも読めるが、詳細で史跡の概要や意義がよく分かる。

古津八幡山遺跡は、新潟市秋葉区金津と古津にまたがり、信濃川と阿賀野川に挟まれた新津丘陵上に立地する。

弥生時代の高地性環濠集落から4世紀末から5世紀初頭にかけて造営された古津八幡山古墳造営に至る古墳時代への変遷を一つの遺跡で見ることができる史跡公園として2015年に全面公開された。

直径60mの円墳を、県内で初めて復元整備し、信濃川、阿賀野川の下流域に広がる蒲原平野の王墓にふさわしく、頂上部から平野を一望のもとに眺めることができる。

古津八幡山遺跡は新潟県中央部に位置し、信濃川と阿賀野川によって形成された新潟平野に突き出た新津丘陵北西端の標高約15~55m前後の丘陵上に立地する。

日本海沿岸としては最北に位置する弥生時代後期の大規模な高地性環濠集落新潟県内最大規模の古津八幡山古墳をはじめとして弥生時代から古代にかけての複合遺跡である。

集落は南北に延びる尾根頂上部と北東向き緩斜面を中心に展開しており、北半部は二重の環濠、南半部は尾根を断ち切る濠・溝によって画されている。それにより囲まれる範囲は南北400m、東西150mに及ぶが、一部の住居は環濠や濠の外に分布する。

内環濠、外環濠とも完全に連結するものではなく、断続的に北西辺から東辺にかけて配置されている。底面は狭いV字形で、幅約3m、深さ2m程である。

遺構が多いのは北地区で、150m四方程度の範囲から環濠、竪穴住居、方形周溝墓、土器棺墓、前方後方形周溝墓が検出された。

竪穴住居は32基確認されており、大部分が外環濠内部や条溝で区画され独立した丘陵頂部に位置する。一辺4から6mで、平面形は隅丸方形であり、地床炉、4本柱、壁溝、貯蔵穴があるものがほとんどである。山側に弧状の周溝を持つものが多く、北陸地方中西部からの影響を受けたものとみられる。

一方、方形周溝墓は外環濠の外側に位置し、埋葬施設は組合せ式木棺と見られ、主体部から鹿角装鉄剣やアメリカ式石鏃が出土し、出土遺物から集落とほぼ同時期のものである。

前方後方形周溝墓は内環濠に囲まれた丘陵頂部に位置し、全長13mを測る。

古津八幡山古墳は古墳時代前期(4世紀末から5世紀初頭)のもので、墳丘長約60mの二段築成の円墳で北側に造り出しをもち、周濠が巡る。

弥生集落からの出土土器では北陸系、東北系(天王山式系)・在地折衷系(八幡山式)の3系統が共存し、この地域が北陸系と東北系の分布圏縁辺にあたること、日本海や阿賀野川を介した北陸地方中西部、東北会津地方とのつながりをもっていたことを示唆する。土器から見ると集落の盛期は北陸地方中西部の高地性集落と同様に後期後半である。

この時期、高地性集落が日本海側にも点々と認められるようになり、本遺跡は現在のところ最北に位置し、西日本を中心とした社会の変化の影響が、この地域にも及んでいたことを示している。このことは、集落の廃絶後、同じ場所に前方後方形周溝墓を経て大型古墳が造営されたこと、この地域が日本海沿岸における古墳分布の北限であることと関連して興味深い。このように本遺跡は、弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての北陸地方の社会情勢やその変遷を考える上でも極めて重要である。

古津八幡山古墳出現前夜。

古津八幡山遺跡では、弥生時代後期(1世紀から3世紀)に、標高約50mの丘陵上の周囲に濠をめぐらした大規模なムラ(高地性環濠集落)が出現したが、弥生時代の終わり頃に廃絶した。標高55mの最も高い場所に築かれた前方後方形周溝墓は遺跡の廃絶前後のものと推測されている。戦いに備える必要がなくなり集落は低地に降りたと考えられる。それを裏づけるように、古津八幡山遺跡の廃絶と前後する時期に北西約700mの麓では古津八幡山古墳をつくった豪族の屋敷と推定される舟戸遺跡が新たに出現するなど、この時期に大きな社会の変化があったことが分かっている。

奈良時代、古津八幡山遺跡のある丘陵北西麓の金津地区では製鉄(製錬)が盛んに行われ、平安時代の終わり頃まで操業されていたと考えられる。当時、古津八幡山遺跡周辺は蒲原郡における手工業生産の一大基地で、「金津」という地名はこの鉄づくりに由来すると考えられる。

新潟市 新潟県埋蔵文化財センター 縄文の漆糸 国宝・金銅威奈大村骨蔵器