国史跡・城の山古墳。新潟県胎内市城塚。
2023年9月30日(土)。
奥山荘(おくやまのしょう)歴史館は、国史跡・奥山荘城館遺跡のガイダンス施設であるが、城の山(じょうのやま)古墳をトピック展示していたので、江上館跡・坊城館跡を見学後、現地に向かった。
城の山古墳は、新潟県北部の沖積地に位置する古墳時代前期(4世紀前半)に築造された東西41m、南北35m、高さ5mの楕円形の円墳である。新潟県では古津八幡山古墳(約60m)、菖蒲塚古墳(約35m)についで3番目の大きさである。なお、2014年前方後円墳とする見解が示されていたが、現在では前方後円墳の可能性は否定されている。
古墳時代前期は,前方後円墳や前方後方墳に加え,大型の円墳が各地に拡散する時期に相当するが,城の山古墳は現在までのところ日本海側における最北端,従来の北限であった阿賀野川よりも北に立地している。また,豊富な副葬品はこの古墳の被葬者とヤマト政権との密接な関わりを想定させるもので,ヤマト政権の北国政策の一端を示すものとして重要であるだけでなく,古墳時代前期の社会や地域の動向を考える上で,極めて重要な古墳である。
城の山古墳の南には清水潟(後の塩津潟、紫雲寺潟)があり、内水面を通じて阿賀野川につながり、日本海と内陸部とを結ぶ水上交通の要衝に立地していた。当時、物流は内陸部の湖沼や河川伝いに行われており、ここを拠点にすでに物流が展開されていたとみられる。福島県会津大塚山古墳からも似たような副葬品が出ており、阿賀野川水系を通じて古墳文化が会津へもたらされたとみられる。
周辺には,同時期の集落や生産遺跡が認められている。
また,この地域は,続縄文土器が散発的に見出され,7世紀には,渟(ぬ)足(たりの)柵(き)や磐(いわ)舟(ふね)柵(のき)が本地域周辺に築かれたと推定されるなど,ヤマト政権と北方世界が交わる境界の地に当たる。
発掘調査によって,未盗掘の状態で検出された全長約8m,幅1.5mの舟形木棺からは靫(ゆぎ)3点や盤(ばん)龍(りゅう)鏡(きょう)1面をはじめとする豊富な副葬品が出土した。棺周辺部には赤色の顔料が大量に用いられていた。
靫(ゆぎ)。
銅鏡(盤龍鏡)。
龍を浮き彫りにした盤龍鏡。このデザインは、1世紀から3世紀頃の中国(後漢、魏、晋代)にみられるものであり、日本では珍しい。古墳の築造年代とずれているため、中国から直接持ち込まれたものではなく(国産であったとしても)、大和朝廷を介して地域にもたらされたものと考えられている。
残っていた人骨の一部。
両頭金具。
弓に取り付ける鉄製の金具。以前に長野市の大星山古墳(3号墳)から出土したものを上回る年代であり、2012年現在、日本最古の出土品。
12時に近づき、9月28日に場所が分からなかった新発田市のカトリック新発田教会へ向かい、見学したのち、新潟市北区の福島潟へ向かった。