三条市歴史民俗産業資料館。新潟県三条市本町。
2023年9月27日(水)。
保内三王山(ほないさんのうやま)古墳群は、古墳時代前期4世紀に造られた前方後円墳(1号墳)、前方後方墳(4号墳)、造出付円墳(11号墳)と、古墳時代後期6世紀に造られた円墳9基(2・5〜9・13・15・17号墳)、方墳5基(3・10・12・14・16号墳)の計17基の古墳からなる。
蒲原平野の信濃川右岸地域を支配した三条の豪族は、大和王権によって認められ、 代々上保内の丘陵の尾根筋に、前方後方墳、造出付円墳の順に古墳を大型化しながら、 形をより大和王権との結びつきが強いものへと昇格させ、最終的に古墳群中最大の全長38mの前方後円墳を築く。
この古墳時代前期の古墳は、東北南部・会津を到達点に、北方支配を推進した大和王権の中継拠点として三条の地が特に重視され、この地を治めた豪族が勢力を拡大したことを物語っている。また、蒲原平野に所在する後期古墳は唯一のものであり、古墳時代の新潟県の歴史を考える上で重要な古墳群である。
1号墳は、本古墳群中唯一の前方後円墳で、丘陵尾根地形を最大限に利用しながら、地形整形と盛土によって構築されている。全長は37.5mで、平野に面する墳丘西側には平坦面や焼土壙などが設けられ、墳丘東側に比較して複雑な様相を示している。主体部は発掘せず、保存されている。墳頂部から墓壙を中心に、直口壺や甕などの土師器が出土している。
4号墳は、後方部に比べ前方部が極端に小さい小形の前方後方墳である。全長は16.1mで、後方部墳頂平坦面に隅丸方形の中心主体の墓壙の跡と思われる掘り込みが認められるが、内部は未調査である。遺物は出土していないが、東日本の古墳出現期に特徴的な前方後方墳であり、1号墳より高所に位置することから、古墳前期の築造で1号墳に先行すると考えられる。
11号墳は、北東墳裾に方形突出部が付設された主軸長23.0mの造出付円墳である。古墳群中最高所の標高101mにある。埋葬施設は、木棺直葬で、円丘部中央に位置している。東西4.8m、南北3.8mの墓壙の中に、長さ2.93m〜3.32m、幅0.75m組合式木棺が納められていた。
副葬品はすべて棺内副葬品で、青銅製の四獣鏡(しじゅうきょう)1、鉄剣1、短冊形鉄斧1、細形管玉62、太形管玉2、ガラス製丸玉34が出土した。また墳頂部からは、土師器の二重口縁の壺や小形壺や小形器台が出土している。
11号墳から出土した四獣鏡、鉄剣、鉄斧、管玉、ガラス玉などは、質が高く被葬者の権力の高さを示すもので、大和王権からこの土地を治める被葬者に信任の証として贈られたものと考えられる。
四獣鏡 。中国のものを真似てつくられた鋳あがりの良い鏡で、鏡の裏面には四頭の獣があしらわれている。
5号墳は、11号墳の立地する丘陵頂部から西側に下る尾根がふたまたに分かれる分岐点に位置する円墳である。直径約14mで、内部主体は未調査だが、陥没壙を中心に多数の供献土器として、須恵器甕(底部穿孔)・直口壺、土師器杯・甕が出土した。出土状況からこれらのうち少なくとも一部は意図的な破砕が行われたと考えられる。
12号墳は、隅丸方形の方墳である。墓壙は不整方形で中心主体に箱形木棺を埋設したものと推定される。棺内副葬品はなかったが、木棺の痕跡の上縁部に沿って造り出された2段の棚状平坦面に、棺外副葬品として鉄鏃2、長脚一段三方透しの無蓋高杯1点で検出された。墳頂平坦面からは供献土器は検出されなかったが、鉄鏃1、耳環1が出土した。副葬された須恵器の高杯から6世紀前半の築造で、5号墳よりは後出と考えられる。
保内三王山古墳群。三条市上保内。
15時10分ごろ三条市歴史民俗産業資料館の見学を終え、保内三王山古墳群の現地に向かい、集落内の狭い道路を通って15時25分頃に見学者用駐車場に着いた。入口を見ると、陰鬱な様子だったので見学はしないことにした。
次は、新潟市秋葉区の新潟県埋蔵文化財センター、弥生の丘展示館、古津八幡山遺跡を見学し、阿賀町の道の駅へ行くことにしたので、時間が足りなくなった。五泉市の村松郷土資料館を予定していたが諦めざるを得なくなった。