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東京都小金井市 江戸東京たてもの園④看板建築 村上精華堂 丸二商店 植村邸

2025年01月23日 09時01分02秒 | 東京都

江戸東京たてもの園。東京都小金井市。都立小金井公園内。

2025年1月5日(日)。

高橋是清邸があるセンターゾーンから看板建築が多い東ゾーンへ向かった。

万世橋(まんせいばし)交番。

建築年代は、明治後期(推定)。旧所在地は、千代田区神田須田町一丁目。

デザインや建築様式から明治時代のものと思われる。

正式名称は須田町派出所。神田の万世橋のたもとにあり、レンガ造のため移築の時にはトレーラーでまるごと運んだ。

上野消防署(旧下谷消防署)望楼上部。

建築年は、1925年(大正14)。旧所在地は、台東区東上野5丁目。

望楼は三脚四層式外廊型で、旧所在地では約23.6mの高さがあった。1970年(昭和45)まで使用された。

都電7500形。7514号。

1962年製造、1978年廃車。所属営業所は、青山営業所→柳島営業所→荒川営業所。

渋谷駅前を起終点とし、新橋・浜町中ノ橋・(神田)須田町まで走っていた車輌である。交通量の急激な増加にともない、都電は荒川線を除いて1963年(昭和38)から順次廃止された。

天明家(農家)(てんみょうけ)。

建築年代は、江戸時代後期。旧所在地は、大田区鵜の木一丁目。

江戸時代、鵜(う)ノ木村(現在の大田区内)で重職を勤めた旧家である。正面に千鳥破風(ちどりはふ)をもつ主屋・長屋門・枯山水庭園などに高い格式がうかがえる。

看板建築とは、鉄筋コンクリート造で建てるだけの資力がない中小規模クラスの商店によって関東大震災後に数多く建設された洋風の外観を持った店舗併用の都市型住居である。

そのほとんどは木造で建物の前面に衝立を置いたような看板を兼ねた外壁を持ち、その壁面があたかもキャンバスであるかのように自由な造形がなされている。

看板建築という名称は、東京建築探偵団として近代建築のフィールドワークを行っていた当時学生の藤森照信と堀勇良が、震災復興期に建てられた東京下町の商店建築に看板建築と命名し、1975年の日本建築学会大会で発表したもので、1980年代後半に一般的になった。

看板建築以前の東京の店舗併用住宅である町屋には、切妻屋根の平入2階建で1階上部に軒を大きく前面に張り出した「出桁造」と、それを防火のために土で包んだ「塗屋造」、「蔵造」の3種類があった。大正モダンといわれる時代にあっても、日本橋大通りですら蔵造が70%を越えており、下町の商店街はほぼすべてが町屋で形成されていた。

しかし、こうした伝統形式の街並みは1923年(大正12年)の関東大震災によって焼失した。震災後、焼け野原にはバラックの商店街が形成された。土地区画整理事業が行われた1928年(昭和3年)から、本格的な店舗が建てられることになり、大通りでは鉄筋コンクリート造のアール・デコ調の商店が建てられたが、その周辺部には看板建築が立ち並んだ

戦後。東京下町の街並みを形成していた看板建築は、バブル時代の地上げを経て数が激減し、今では点在するほどしか残っていない。

看板建築の前面は軒の出ない垂直な壁面になっているが、これは1919年(大正8年)に制定された市街地建築物法において、建物は敷地の境界線から突出してはならないとされたためである。

また市街地建築物法では、準防火という考え方から木造建築の外壁をモルタル、金属板、タイルといった不燃性の材質で覆うことを義務づけていた。建材としては高価な銅板張りが多いのは、当時世界的に銅の価格が安かったことによる。

看板建築には3階建が多いが、その多くの3階部分はマンサード屋根の屋根裏部屋になっている。これは、階数制限のあった市街地建築物法において屋根裏部屋は階数に含まれなかったためである。建築検査で許認可を与える権限をもっていた警視庁の役人が、確認申請で3階建の図面を却下する際にマンサード屋根にするよう指導していたことで広まった。

植村邸と大和屋本店の裏側。

採光や通風は道路に面した前面かもしくは裏路地に面した裏面からとられる。裏路地のない敷地の場合は敷地いっぱいに建てられることはなく、裏側に三尺ほどの空き地をとりそこから外光と通風を得ている。

1階の間取りは、通りに面した表側半分を店にして裏半分を住まいにしており、江戸以来の商店の作りを踏襲している。入り口から土間、上がり框の先に畳敷きの部屋、帳場までが店で、その先に居間(茶の間)、台所、風呂、便所、勝手口と生活空間が続く。2階は1階より造りのいい和室が造られ、道路に面した方には床の間つきの座敷が構えられる。このように看板建築の内部は出桁造や蔵造と変わらない間取りになっていた。

看板建築のデザインを具体的に見ると、洋風建築のデザイン要素を持ってきたり、当時流行していたアール・デコ的なデザインや表現派的なデザインを味付けに使ったりしているが、本格的なものではなく断片的ででたらめなものだった。

そうした中、看板建築特有のデザインとして、銅板張りの看板建築に見られる江戸小紋がある。江戸小紋は衣服や食器といった日用品に使われてきた身近な紋様であり、窓の型や軒のカーブといった図的な部位ではなくそれを浮き立たせる地的な面に用いられている。

戦後の看板建築は震災後のものに比べると、過剰な表現は見られなくなりあっさり仕上げられている。わずかな装飾すらしばらくすると施されなくなった。こうした変化は、当時流行していた装飾を否定するモダニズム建築をデザインに取り入れたためである。

村上精華堂。(化粧品屋)。

建築年代は、1928年(昭和3)。旧所在地は、台東区池之端二丁目。

台東区池之端の不忍通りに面して建っていた化粧品屋である。昭和前期には、化粧用のクリーム・椿油や香水等を作って、卸売りや小売りを行っていた。

正面に人造石洗い出しでイオニア式の柱を表現するなど、当時としてはモダンな造りとなっている。

植村邸。

建築年代は、1927年(昭和2)。旧所在地は、中央区新富二丁目。

建物の前面を銅板で覆った姿は、〈看板建築〉の特徴をよくあらわしている。

外観は、全体的に洋風にまとまっているが、2階部分は和風のつくりとなっている。

丸二(まるに)商店。(荒物屋)。

建築年代は、昭和初期。旧所在地は、千代田区神田神保町三丁目。

昭和初期に建てられた荒物屋である。小さい銅板片を巧みに組み合わせて江戸小紋の模様をかたち作り、建物の正面を飾っているのが特徴である。

店内は昭和10年代の様子を再現している。裏手には長屋も移築し、路地の様子も再現している。

東京都小金井市 江戸東京たてもの園③高橋是清邸  会水庵  西川家別邸 伊達家の門