江戸東京たてもの園。東京都小金井市。都立小金井公園内。
2025年1月5日(日)。
西ゾーンから高橋是清邸(C3)を中心とするセンターゾーンへ向かった。
高橋是清邸。
建築年代は、1902年(明治35)。旧所在地は、港区赤坂七丁目。
明治から昭和のはじめにかけて国政を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。
赤坂の旧高橋邸は赤坂御所と対面する青山通り沿いにあって、丹波篠山藩青山家の中屋敷跡に建てられ、敷地は約2000坪、現在公園に隣接しているカナダ大使館も往時は高橋邸の一部であった。
昭和13年(1938年)邸宅は東京市に寄贈され、母屋は多磨霊園に移築。休憩所「仁翁閣」となり戦災を免れた。だが老朽化で昭和51年(1976年)公開中止となり、昭和58年(1983年)に一部修繕された。
総栂(つが)普請で、食堂の床は寄木張りになっている。和風邸宅に窓ガラスを使った初期の事例である。
2階は是清の書斎や寝室として使われ、1936年(昭和11)の2・26事件の現場になった。
2階寝室から眺める復元された庭園。
2階寝室。床の間。
2階寝室。
2階寝室から書斎の間。
2階書斎の間。
高橋是清(1854~1936)は、幕府の絵師川村庄右衛門の庶子として江戸に生まれた。仙台藩足軽高橋是忠の養子となる。1867年藩の留学生として渡米し苦学。翌年帰国し森有礼の書生となり,大学南校に入学。文部省を経て農商務省に入り特許局長まで進む。90年ペルーの銀山開発に失敗。92年日本銀行に入り,95年横浜正金銀行支配人に転じ,99年日銀副総裁に就任。日露戦争外債募集に成功した。11年日銀総裁に昇任した。
1913年第1次山本権兵衛内閣の蔵相となり,同時に政友会に入党。18年原敬内閣の蔵相に就任,政友会の積極政策を財政面で推進した。21年11月原敬暗殺のあとを受け,第20代総理大臣。ワシントン体制と国内の戦後不況・階級闘争の激化に対応する協調的新政策路線を模索したが,内閣改造に失敗し,22年6月辞職。27年金融恐慌に際し,田中義一新首相の懇請で蔵相となり,モラトリアムその他の処置で危機を脱すると在職42日で辞任。
満州事変勃発後政友会犬養毅内閣が成立すると蔵相として入閣,大恐慌によって破綻した民政党の金解禁・緊縮財政・非募債政策を一新して,金輸出再禁止,軍備拡張と農村救済を柱とする積極財政による景気刺激政策を推進した。五・一五事件後の斎藤実内閣にも蔵相として留任,積極財政の具体化のため日本銀行券の発行限度を拡大し,赤字公債日銀引受けの道を開いた。この一連の政策により,貿易は伸張し景気はいちじるしく回復した。しかし軍部の軍拡要求はとどまるところを知らず,34年11月政友会の反対を押し切って岡田啓介内閣の蔵相に就任した高橋は,36年度予算編成にあたり悪性インフレを警戒して緊縮財政・軍事費抑制の姿勢を示した。このため青年将校の恨みを買い,二・二六事件で襲撃を受け暗殺された。
叛乱当日は中橋基明中尉および中島莞爾少尉が襲撃部隊を指揮し、赤坂表町3丁目の高橋私邸を襲撃した。警備の玉置英夫巡査が奮戦したが重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。
1階仏間前室。
庭園は、赤坂にあった高橋是清邸庭園の一部を復元したもので、組井筒を水源にした流れと、 雪見型灯籠などを含む景観を再現している。
高橋是清は本所押上から赤坂へと移り住み、1902年(明治35)にこの家が完成してから、1936年(昭和11)の2・26事件で暗殺されるまでの30年あまりをこの家で過ごした。
多忙な日々のなかで、是清はこの家に帰り、家族との団らんや夕食をなによりの楽しみにし、晩年は孫を連れて庭を散歩する姿が見かけられたという。夕食後は風呂を浴び、二階の寝室と書斎でラジオを聴いたり読書をしたりして過ごしていた。
高橋是清邸の主屋と食堂。西川家別邸。
西川家別邸から眺める高橋是清邸主屋と食堂。
会水庵(かいすいあん)。
建築年代は、大正期頃。旧所在地は、杉並区西荻北五丁目。
宗徧(そうへん)流の茶人、山岸宗住(会水)が建てた本畳三枚と台目畳一枚からなる三畳台目の小間の茶室である。
1957年(昭和32)、劇作家の宇野信夫が買い取り、西荻窪に移築した。
西川家別邸。
建築年代は、1922年(大正11)。旧所在地は、昭島市中神町二丁目。
北多摩屈指の製糸会社西川製糸を設立した実業家西川伊左衛門が隠居所及び接客用に建てた邸宅である。
多摩地域の養蚕・製糸業が最盛期をむかえた時期(大正期から昭和初期)に建てられ、 よく吟味された部材が使われている。
伊達家の門。
建築年代は、大正期。旧所在地は、港区白金二丁目。
伊達侯爵家(旧宇和島藩伊達家)が大正時代に東京に建てた屋敷の表門である。起り屋根(むくりやね)の片番所を付けるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしている。
総欅(けやき)造りで、門柱の上に架けられた冠木(かぶき)には、宇和島藩伊達家の家紋が木彫りで施されている。