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文京区千駄木 文京区立森鷗外記念館

2025年01月19日 09時06分56秒 | 東京都

文京区立森鷗外記念館。文京区千駄木。

2025年1月4日(土)。

本日は秩父宮ラグビー場でのラグビー観戦がメインだが、12時試合開始なので、その前に新宿区立漱石山房記念館、終了後には文京区立森鷗外記念館を見学することにして、試合が終了した14時ごろに外苑前駅から、千代田線「千駄木」駅に向かった。地上を出ると、交差点があり、団子坂を緩く登って5分余りで唐突に記念館の前に着いた。

島根県津和野にある森鷗外の旧宅(生家)と記念館は1980年代初めに見学し、遺書に記された「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という部分の複製を購入したが、記念館の前身である文京区立鷗外記念本郷図書館には食指が動かず見学しなかった。

1980年代に小説「舞姫」「文づかい」をはじめ、岩波文庫で重厚な史伝「渋江抽斉」を読んだ。

文京区立森鷗外記念館は、森鷗外の旧居である観潮楼(かんちょうろう)跡地に建てられた博物館で森鷗外生誕150年を記念し2012年に開館した。

  観潮楼は、森鷗外が1892(明治25)年30歳のときに購入していた地所に新築してから、1922(大正11)年60歳で亡くなるまで、家族とともに30年間住んだ家である。鷗外は、後に夏目漱石が小説『吾輩は猫である』を書いたことで知られる「猫の家」から、明治25年にここに移った。千駄木団子坂(汐見坂)上にあった家の2階からは遠く品川沖の海が見えたと言われ、鷗外により観潮楼と名づけられ、『青年』『雁』『高瀬舟』など数々の名作を著した。

詳細は、「観潮楼始末記」 (森於菟著、縦書き文庫)に記載がある。

観潮楼2階。

観潮楼復元模型。

  観潮楼は、明治40年(1907)からは鷗外がひらいた観潮楼歌会の会場としても使われ、石川啄木、斎藤茂吉、木下杢太郎、佐佐木信綱、与謝野鉄幹、伊藤左千夫なども参会した。 

鷗外は、通勤には大観音通りを行き、白山から電車を利用した。夕食後の散歩は、白山から本郷三丁目まで歩き、根津を通って戻り、休日には小石川植物園などに出かけた。 鷗外の見た明治の文京の姿は、小説「青年」や「雁」などに、うかがうことができる。

観潮楼は、鷗外の没後しばらくは家族が暮らし、その後は借家となった。1937(昭和12)年に借家人の失火により母屋の大部分が焼失した。1945(昭和20)年には戦災により、胸像、銀杏の木、門の敷石、三人冗語の石以外はすべて焼失した。

1949(昭和24年)、当時国立博物館館長だった高橋誠一郎が委員長となり、永井荷風、佐佐木信綱、齋藤茂吉らを中心とした鴎外記念館準備会が発足し、建設費の寄附を募った。翌1950(昭和25)年、鴎外生誕88年を機とし、観潮楼跡は記念公園(児童遊園地)となり、東京都の史跡として指定を受けた。1954(昭和29)年、鷗外の33回忌に胸像と「沙羅の木」の詩碑が設置された。

1962(昭和37)年、鷗外生誕100年の年、「鷗外記念室」を併設した「文京区立鷗外記念本郷図書館」(設計:谷口吉郎)が開館した。このとき、薮下通り側の鴎外記念室入口の門標として、佐佐木信綱の筆による「観潮楼址」碑が設置され、また鴎外記念室入口近くの壁には、佐藤春夫寄贈、高田博厚制作の「森鴎外レリーフ」が取付けられた。

2006年、図書館移転に伴い、記念室は独立して「本郷図書館鷗外記念室」となった。2008年、遺品資料の保存環境改善のため、改築が決まり、鷗外記念室は休室となり、庭園のみの開放となった。

2010年、森鴎外記念館の工事着工。1年半の建設工事を経て2012年6月竣工。2012年11月1日、「文京区立森鷗外記念館」として開館した。

建物は、2階が図書室と講座室、1階が受付、ショップ、カフェ(モリキネ カフェ)、庭園となっており、地下に展示室と映像コーナーがある。

特別展「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」が、開催されていたが、森鷗外との関連はなかった。

その代わり、映像コーナーの3本のビデオが面白く、平野啓一郎の鷗外評価に促され、鷗外の著作を読んでみようという気が湧いた。ビデオには記念館まわりの史跡も紹介されていたので参考に見学した

鴎外が立って撮影した場所の敷石。鴎外の足元の敷石は、現在も記念館玄関にある。

佐佐木信綱書「観潮楼址」門標。薮下通り側入口。

昭和37年の文京区立鴎外記念本郷図書館(当館の前身)の開館に合わせて設置された門標のため、於菟が鷗外と親交の深かった歌人の佐佐木信綱(当時90歳)に揮毫を依頼した。

三人冗語の石。

鷗外が座り、幸田露伴、斎藤緑雨とともに写った写真。

三人冗語同人。 明治30年(1897)4月。観潮楼(鷗外宅、現・森鷗外記念館)の庭で。

左から鷗外、露伴、緑雨。撮影は博文館の大橋乙羽。鷗外の座る石は現存している。

『めさまし草』の「三人冗語」では、樋口一葉「たけくらべ」も激賞された。

観潮楼ゆかりの大イチョウ。

三人冗語の石の脇に聳える大イチョウは、観潮楼の時代からこの地にある。

永井荷風揮毫『沙羅の木』碑文。

『沙羅の木』は、鷗外が明治39年に「文芸界」に発表した詩。朝開花し夕方には落花する、観潮楼の庭に咲く沙羅の木(ナツツバキ)を詠んだ。昭和25年、観潮楼跡地に『沙羅の木』の詩碑建設の計画が立ち上がり、鷗外長男・於菟から小説家・永井荷風に揮毫が依頼された

藪下通りの坂上からは、東京スカイツリーがビルの合間にのぞめる。

 

16時過ぎて暗くなったので宿に帰った。翌5日(日)は小金井市にある江戸東京たてもの園を見学した。

秩父宮ラグビー場  1月4日 ジャパンラグビーリーグワン(リーグワン)観戦



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