遠野まちなかドキ・土器館。岩手県遠野市新町。
2023年6月11日(日)。
遠野市天然記念物の続石(つづきいし)を見学後、遠野市街西にある遠野まちなかドキ・土器館へ向かい、14時過ぎに建物横の駐車場に着いた。ドキ・土器館は、遠野市内で出土した縄文時代の土器や石器などの考古資料を中心に展示している小さい資料館である。入場無料。月曜休館。
10月まで、鍋倉城跡国史跡指定記念「特別展 風雲!!鍋倉城」が開催されていた。
2023年3月、城下町遠野の象徴的な史跡である鍋倉城跡が国の史跡に指定された。遠野市民にとって、鍋倉城跡は桜の名所で天守閣風展望台のある公園として長年親しまれてきたという。
このあと、遠野市立博物館・伝承園・カッパ淵を見学後、17時前に鍋倉城跡の現地を訪れて見学した。
鍋倉城(遠野城)跡。三の丸天守閣風展望台。
鍋倉城は遠野盆地南方の独立丘陵である遠野市街地南端の標高344mの鍋倉山に築かれた岩手県内屈指の大規模な多郭構造の中世山城である。遠野地方は北上高地最大の盆地であり、北上川流域の内陸部と三陸沿岸部との中間に位置し、交通の要衝として経済的、政治的に重要な場所であった。
鍋倉城は天正年間(1573~1592)に阿曽沼広郷(あそぬまひろさと)によって築かれたと伝わる。阿曽沼氏が居城した時代の曲輪や土塁、空堀、堀切等の遺構が良好に残る。
大手口は北西にあった。
阿曽沼氏は、藤原秀郷流足利氏の一族で、足利有綱の四男阿曽沼広綱を祖とする。下野国安蘇郡阿曽沼(現・佐野市浅沼町)を領して阿曽沼氏を名乗ったのに始まる。
阿曽沼広綱は、治承・寿永の乱(源平合戦)では平家側についた本家の藤姓足利氏とは異なり、源頼朝に従い、鎌倉幕府のもとで御家人となった。広綱は文治5年(1189年)奥州合戦に参加、その功により陸奥国閉伊郡遠野保地頭職に補任された。広綱の子・朝綱は下野国の本領を継いだと伝わる。
朝綱の弟の親綱は、陸奥の遠野保を継承し遠野阿曽沼氏の祖となった。遠野保は代官統治とみられるが、鎌倉時代初めの建保年間(1213~19年)に広綱の次男親綱が護摩堂山に横田城(護摩堂城、現在の遠野市松崎町横田)を築き、統治の拠点とした。建武元年(1334年)親綱の4世孫の朝綱の代に南朝の陸奧国司北畠顕家によって遠野保所有を安堵された。
横田城は遠野盆地の西北部、猿ヶ石川の北岸に位置し、たびたび洪水の被害に遭ったため、阿曽沼広郷の代になって、本拠地を鍋倉山に移した。鍋倉城は阿曽沼氏の旧居城の名を受けて横田城とも、新横田城とも呼ばれた。
広郷のときに最盛期を迎えたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、阿曽沼氏は領主権を没収されて独立大名から南部氏配下となった。
城を造った戦国大名の阿曽沼広郷は織田信長と関係があった。
広郷の子・広長の代になって、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いのとき、南部利直に
属して上杉景勝攻めの最上出陣中の留守の間に、一族の鱒沢城主・鱒沢広勝、横田城留守居役の上野広吉、平清水平右衛門の三人が首謀者となって主家に叛逆した。
広長は戦いを終え遠野に引き返したが、鍋倉城を占領され領地の遠野を奪われて城に入ることが出来ず、また、妻子は脱出の途中殺害された。広長は妻の実家にあたる気仙郡世田米城に走り、伊達政宗等の支援で気仙勢を借り受けて三度にわたり遠野に攻め込み奪回を図るも失敗、広長は伊達領に身を寄せて生涯を終え、遠野阿曽沼氏の嫡流は断絶した。
その後、遠野の所領を安堵された鱒沢氏らも、謀叛を企てたとされ、南部利直によって切腹を命じられ滅んだ。
慶長6年(1601)遠野は南部氏の治下に入り、近世盛岡藩の一部として城代が治めることとなった。阿曽沼氏の旧領の内、横田城代として内陸部を上野・平清水両氏を知行させ、海岸地帯を大槌氏、田瀬を江刺氏に分知させた。城代の平清水氏は元和元年(1615年)刑死し、ついで、上野氏が同7年(1621年)に病死すると、遠野奉行の毛馬内三左衛門を横田城代として赴任させたが、治安の乱れが続いた。
そのため、盛岡藩二代藩主南部利直は、寛永4年(1627年)、阿曽沼氏残党による治安の悪化と仙台領との境目警護を理由に、三戸南部と並ぶ有力な一族である筆頭家老の南部(八戸、根城南部、遠野南部)直義を八戸根城から横田城へ領内の独自の裁量権を認めて入部させ、横田城を修復して鍋倉城と改め、領内統治の拠点とした。以後240年あまりの遠野南部氏12500石の時代が明治維新まで続いた。
南部直義入部以降も曲輪の大規模な改変はなく、中世山城の曲輪が近世期もそのまま利用された。このように、鍋倉城跡は岩手県内屈指の大規模な中世山城の遺構を良好に残し、それをほとんど改変することなく近世城郭として利用し、戦国期から明治期まで存続した稀有な城郭である。
大手口は北東にある。
中央に本丸(120m×24m)が位置し、空堀をはさんで南方に二の丸(88m×45m)、本丸の北東に三の丸(135m×29m)がある。
重臣は城内に居住し、二の丸には新田氏、三の丸には中館氏・福田氏の各屋敷が構えられていたと思われる。本丸の西辺に土塁が残り、また本丸と二の丸には礎石も見られる。堀跡も各所に見られ、本丸と二の丸の間のほか、本丸西方や二の丸西方(行燈堀)なども認められる。
山麓の西・北・東方は諸士屋敷があり、その外側に町人街、町の西端に下組、北端に中組、東端に上組の各同心屋敷があった。
麓の遠野市立博物館付近から鍋倉山を上る市道を北から反時計回りに回り込んで上ると、本丸東下・三の丸西の平場にある駐車場へ至る。
大手門跡。
本丸平面。右が北。
本丸の発掘調査では、慶安4年(1651)の火災後に建てられた本丸屋敷と推定される礎石建物、御玄関に至る通路の石垣等が検出された。本丸屋敷と推定される礎石建物は安政3年(1857 年)以降の作成である近世絵図の「鍋倉城本丸屋敷絵図」と符合する。
本丸の建物は当初は萱葺きで、慶安年間(1648-1651)の火災以後は柾葺きに改められた。
本丸北側。
本丸北側から南方向。東側の虎口。
本丸南側の館跡。
本丸南側から北方向。
三の丸には現在、天守閣風の「なべくら展望台」がある。