6月23日(日)、本駒込活動センターで、深田研ジオフォーラムの講演報告を、妻から、トモさんと私の二人で受けた。報告レポートは、A4用紙で本文が63枚、質問集が55枚の合計118枚(236ページ)と膨大なもので、報告時間は2時間半に及んだ。
過去に起こった大津波が古文書や口承伝説と併せて紹介された。北海道胆振(いぶり)・日高地方、島根県江津市、和歌山県御坊市、高知県土佐市、琉球・八重山群島などの日本列島だけでなく、台湾などの外国での津波も紹介された。分けても、西インド洋に落下した隕石による、マダガスカル島とソコトラ島を襲った超巨大津波は500mもの高さがあったとの話にはびっくりした。
最後には津波の危険に鈍感な地方自治体が幾つも紹介され、都司探偵は「責任者 でてこーい」と大きな怒りを表していた。これらの話題は大きな興味を引く。私自身でも調べ、まとめた上でブログに記したい。 今日は貞観地震と百人一首「末の松山」の和歌の謎について。
まずは思い出から。
高校時代、「百人一首かるた」ゲームが私の周りで流行っていた。中学時代の友人の深谷君のお宅でやったことはよく覚えている。家族でやったこともあった。読まれた上の句を聞いて直ぐに手が動く為には、百人一首を覚えておいた方が有利この上ない。というか、子ども遊びとしても和歌を覚えておかなければ戦いにならない。そこで友人たちは和歌を覚え始めた。私は百首全部を丸暗記した。今でも、上の句を聞けば下の句が出て来る歌は50首くらいはある。
ゲームの勝敗は兎も角、是非取りたい札があった。例えば私は「天つ風・・・」と来たら「をとめの姿しばしとどめん」を取りたかった。「憂かりける・・・」と来たら「はげしかれとは祈らんものを」にさっと手が動いた。意味など分からなかったが。 「契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは」(清原元輔)。
この歌も覚えたが気に入った一首ではなかった。今までに何度か聞いて意味もよく分かっているが、都司先生の解釈・妻のアレンジを含め私なり解釈を記そう。
「固い約束をしたよね。互いに涙で濡らした袖をしぼりながら。あの末の松山を決して波が越えることがないのと同じように、私達の仲も変わらないと約束したのに」。恨みの歌であり、相手をなじる歌だ。そこでは「変わらないもの」「永久不変のもの」の象徴として「末の松山」が使われている。
末の松山は宮城県多賀城市八幡「宝国寺」の裏山である。現在では海岸から1.5Kmの地点に位置している。津波が来たならば波は当然ここを越えて行くはずの地点。しかし何度かの津波にも拘わらず末の松山を波は越えたことは無かった。周囲は全部浸水したのに、末の松山だけは浸水しなかった。 貞観地震でも3・11大地震でも越えなかった。その両地震は同規模の地震であり津波だそうだ。「三代実録」による死者1,000人は、当時の人口700万人に比すると、被害者の数も2011年と同規模という。2011年の大津波でもここは越えい映像を何度も見た。(写真:赤い地域が浸水となった)
歌の作者は清原元輔(清少納言の父。908年~990年)。貞観地震(869年)は彼の生まれる39年前のこと。一地方の末の松山の事柄が都にまで伝えられたということは、貞観地震の規模があまりに大きく、遠く離れた都にも大きな衝撃を以て伝えられ、和歌の世界にまで入って来たのだろう。
そこから都司探偵は「末の松山」を単に「波越さじ」の場所としてだけでなく、もう一歩進んで、古代の津波避難指定場所!と推定した。神社が高い場所に建てられたのも、過去の津波被害から学んだことの一つと推測した。
明後日から帯広に出掛けるたるため、ブログ更新は7月3日以降になります。
我が家から三田線千石駅に向う途中に「深田地質研究所」がある。徒歩5分くらいのところに位置し、時折、立ち寄って玄関前に張り出された「深田研談話会」の案内を見て、興味があるテーマだと、ネットで参加を申し込む。第184回の講演「海底資源」は特に面白かった。
2ヶ月ほど前だったか表題の講演の案内が張り出されていて、私にも妻にも興味津々のテーマ。早速申し込みをしようとして、内容を熟読すると「参加費5,000円(資料代を含みます)」とあった。いくら何でも5,000円は高すぎる、二人で1万円か、と申し込みを断念した。
しかし、都司嘉宣(つじ よしのぶ)さんのこの講演、聞き逃すには惜しいテーマであり、兎も角資料を手に入れたかった。そこで妻に「私が2,000円出すから、聞いてきたら」と提案した。私より聴力も記憶力も優れている妻が講義を聞いてきて、それを丁寧に説明してもらえば目的は達せられると判断し、妻にその旨を告げると勿論大賛成。
ご一緒にと誘っていたトモさんは用事で断念したが、妻の友人で、大学院で地質学を学んだチヨさんは大乗り気。かくして二人はネット抽選50人の枠を潜り、一昨日講演を聞いて来た。二人の講演評価は「素晴らしかった」と。妻は早速資料をコピーした。A4にして61枚。大半がカラー印刷である。講義代が高いことが少し理解出来た。そのコピーを基に、来週地域活動センターの一室で、妻がトモさんと私に説明する手はずも整った。
今、私の手元にはそのコピーがある。垣間見ると『講演内容 -津波研究者は探偵であるー』に始まり、探偵さんは10の謎を解いたらしい。
謎2 三陸を襲った津波が真っ黒である謎
謎3 百人一首「末の松山」の和歌の謎
謎6 和歌山県御坊市を襲った安政南海地震津波 などなどである。
妻からの説明を聞いた上でブログに綴ることもあるかと思うが、今日はまず、問わず語りに妻が語った謎2について記しておきたい。 東北日本の沖には、濃い緑色の親潮が流れている。しかし三陸を襲った津波は真っ黒であった。何故か?現在YouTubeで当時の様子を見てもどす黒い。
謎解決の発端は、石巻市で漁船を沖出し避難した船長の証言と海表面のTBSのビデオ映像にあった。船長は「海表面が墨の様に黒かった。ところどころ泡が沸き上がっていた。鼻を刺激する臭いがした」と語った。ビデオ映像には、大きなパッチ(斑点)状の海水の沸き上がり場所(プリューム)が見える。
このことから、探偵(都司)さんは黒い津波は黒潮と判断した。普段は房総半島辺りから東へと流れる黒潮が3月11日、普段より北上し、親潮と合流し、津波となって三陸地方を襲った、と解釈した。外洋に面した海岸に来た第1波からしてどす黒かった。
(門外漢の私が推理するのはおこまがしいが、南下する親潮と北上する黒潮は普段房総半島辺りでぶつかり、親潮は東方向へと流れを変える。地震により東方向へ流れを変えた親潮の、南方向への流れ・圧力が減少した隙をついて黒潮はより北へと移動し、三陸沖の津波と合流したのかもしれない)
上の写真に見られる如く、津波来襲中に茨城県大洗港沖に出現した大渦からは気泡と海水上昇湧昇が見られる。船長が鼻に刺激臭を感じたことから、それはメタンガス。黒潮はメタンガスを多く包含している。そこから、探偵さんは真っ黒い渦の正体を黒潮と鋭く推理し、謎を解いたのだ。
ブログの題は運慶展の予定だったが皆既月食が割込みます。
一昨日の31日、本郷3丁目で富士前福寿会の新年会。14名で楽しく語らった。終宴後の帰宅途上に上空を見上げると月が出ているではないか。今夜の月食観察は望み薄いとの予報は良い方に傾いた。
帰宅後慌てて屋上へ。スパームーンの皆既月食が良く見えた。
20時48分頃部分食がスタート。月はほぼ真上に。ということは太陽は真下方向にあるはずだ。その光による地球の影が次第に月を隠していく不思議。不思議ではないのだろうが不思議。寒かったが缶ビール1本を飲みながら、撮影しながらの観月。
21時51分、皆既食が始まった。皆既食では月は見えなくなるものと、大きな誤解をしていた。理由は良く分からないが、赤い月が見え続けるという不思議。暫く眺めていたが寒くなり、自宅へ移動した。
性能の優れないカメラで何とか撮影した。赤い月の写真はネット上から借用。以下は一昨夜撮影した写真。昨日はそれらの写真10数枚を「Power Point」に張り付けた。上の写真はその集合体。
私が利用しているGooブログには“アクセス・ランキング”というコーナーがあって、例えば前日の訪問者数が分かるようになっている。最近の訪問者数は150人~200人くらいで推移していたが、1ヶ月ほど前、突然300人台を記録した日があった。不思議に思い”アクセス解析”を見ると、「東京スカイツリー」で検索し、このブログに到達した訪問者が40人ほどいたことが分った。前日にスカイツリーがマスコミに取り上げられた形跡はなかったから、突然の訪問者増加の理由は分からないまま時が過ぎて行った。 ところがその日から1週間ほどして、ブログにコメントが寄せられた。2015/12/5のブログで「昼間に黒く見えた東京スカイツリー」と題した一文へのコメントだった。
そのブログ要約すると
「2015年11月27日に、富士前福寿会の3人で竹芝小型船ターミナルから新東京丸に乗船した日、快晴にもかかわらずスカイツリーが時々黒く見えた。昼間に黒くなる現象を不思議に思い、自分自身でも考え、周りの人に聞いた結果、向丘高校の同僚だった石野さんから、『多分雲の影だろうと思う』との解答があった。その説ならばなんとか納得が出来る。このブログを読まれて新説があればコメントに書いて下さい」というものだった。
もう2年ほど前のことである。よもやコメントが寄せられるとは思ってもいなかったのだが、この11月7日に”のぶさん”という方から、次の様なコメントがあった。
「雲の影です。建築途中から毎日見ていていつも驚いていました。良く見ていると、晴れた日でも気が付かない雲があるもので、それがツリーとの間に入り光量が落ちるとあの輝くような白がグレーになります。数秒目を離した際に色が変わっていてビックリした事が何回もありました」と。
そのコメントに私は「東京スカイツリーを良く観察した方から、『グレーに変化する原因は雲の影』とのコメントを頂き、そうであったかと納得出来ました。有難うございます。同じ事に気が付いている方がるいることを知り嬉しかったです」と率直な気持ちをコメントした。
(上の写真も含めその日に撮影した東京スカイツリーの3葉。様子が全く異なって見えた)
1498(明応7)年8月25日に、マグニチュード8.2~8.4と推定される“明応の東海地震”が起こった。日本中世最大級の地震であったと考えられている。
この情報は妻から聞いた。妻は「源氏の会」で『更級日記』を解説するため、作者菅原孝標女が京へ帰京する際に利用した中世の東海道を調べる過程で『中世の東海道をゆく』(著:榎原雅治 中公新書)に出合った。その本が私に回って来たのだ。
本書の著者は、東大史料編纂所々長だった歴史学者で、内容は鎌倉時代の貴族飛鳥井雅有一行が京都を出発し鎌倉を目指した旅の様子を記した、旅日記『春の深山路』を題材にして、中世の東海道を解説したものである。
その第3章「湖畔にて・・・橋本・・・」の“浜名の風景”の中で、初めて明応の東海地震が登場してくる。
《現在でも浜名湖は東海道有数の景勝の地であるが、十五世紀末より前の浜名湖は今とは異なる形をしていた。そしてその形はある日突然に変わった。明応7年(1498)8月25日辰の刻(7時~9時)に御前崎沖で発生した地震が本州中部の広い範囲で起こった。大きな震動に遭遇した京都の公家は「生まれて以来、このようなことは経験がない」(『実隆公記』八月二十五日条)と記し、ひと月ののち、別の公家は伊勢・三河・駿河・伊豆に大波が押し寄せ、海辺二、三十町の民家がことごとく流されてしまい、人命も牛馬も数知れず失われたとの情報を耳にしている(『後法興院記』九月二十五日条)。推定される地震規模はマグニチュード8.2~8.4で、日本中世最大級の地震であったと考えられる》と記している。
公の文章にこの地震の記録はないようだが、何人もの公家の日記にこの地震のことが記され、大きな地震の起こったことは歴史的事実と考えて間違いない。 問題はその規模と影響だが、著者は3つの事実を挙げている。(右は明応地震以前の浜名湖南部の地図に東海道新幹線など現在の要素を書き加えたもの)
(1) 現在、浜名湖に向かって西から流れ込んでいる浜名川は、地震以前には、逆に浜名湖から遠州灘に向って西へ流れていた。要するに、川の流れは逆転した。
(2) 東海道のなかでも有数の橋本宿は消滅し、住民は寺社とともに新居地域に移住した。
(3) 浜名湖と遠州灘は繋がっていなかったが、この地震により、今切(いまぎり)という湖口が出現し、湖は海と繋がった。
(地震によって浜名湖は1メートルほど沈降し、満潮時には海水が遡上し汽水湖となった。との通説もある)
更には『皇代記』に驚くべき記述がある。(文章は現代語訳)
《高潮は地震によって満ちて来た。そして引いたときにはとんでもないものだった。海底の砂が現れ、魚はことごとく死んでいた。はるか彼方まで潮が干上がり、世にもまれな不思議であるので、人々はみなこれを見学していた。ところが突然、高潮が起こり、山のようになって襲って来た。干潟に出ていた者は仰天してみな戻ろうとしたが、大半は途中で死んでしまった》
津波第二波の襲来に先だって大規模な引潮現象が起こったのだ。2004年インド洋大津波でも、3・11大震災でも起こったと同じことが、今から519年前の明応の東海地震でも起こり、記録に残されていた。しかし、そのことは語り継がれて来なかった。このような記録の収集と啓蒙こそが、地震・津波大国日本の政府など公の機関の大きな役割のはずだ。