11月1日から4日までの、4日間の中山道行は快晴にも恵まれ、一昨夜無事帰宅した。最大の難所・和田峠も越えることができた。
『中山道 浪漫の旅』ではこの間の距離は71.3Kmで、実際に歩いた総数は159,528歩。1歩を55cmとやや少な目に計算しても約88Kmを移動したことになる。差異の17Kmは、道中以外の道のりや、道に迷った分や、脇道に入り神社にお参りした分等々がある。 初日、同行者3人は新高島平に6時20分に集合し、妹の夫ハムちゃんの運転で旧軽井沢へ。昨年のゴール地点「軽井沢一里塚跡」を9時20分にスタートした。軽井沢には紅葉がまだ残っていて美しい。旧軽井沢は日本で有数の別荘地域。その別荘の間を通る街道には人影は疎らで、所々の紅に彩られた静寂な風景を見ながらのスタートとなった。今回は道中全てが長野県。幼い頃から最近まで何度も遊びに行った地域。幾つもの懐かしい思い出と出会う旅でもあった。
初日は軽井沢宿→(5.0Km)→沓掛宿→(4.6Km)→追分宿→(5.7Km)→小田井宿。
右手に離山(はなれやま)を見ながら進むと、この日最初の宿沓掛。しかし、この宿の名はどこにも残っていない。直ぐ傍を通る「しなの鉄道」の駅名も中軽井沢に変えられて久しい。峠を控え旅人が沓(草鞋)を履き替え、履いていた古い沓を掛けて旅の安全を祈ったであろう謂れの宿名は、ビッグネイム軽井沢に乗っ取られてしまっていて悲しい。本陣跡も個人のお宅になってしまっていた。街道沿いの馬頭観音に往時を忍ぶ。(写真:本陣土屋の表札)
追分宿では堀辰雄文学記念館に立ち寄った。(写真:文学館入口)
追分宿の名は、その先で中山道と北国街道に分かれる「分去れ」から来ている。右は北国街道、左すれば中山道の別れである。現在ではその両街道を割くかのように国道18号線が走っている。私の大きな勘違いはそこに起因していた。「分去れ」地点で18号線と北国街道は分かれる、別のものと勘違いしていたのだ。実は18号線は北国街道を継承して1952年に制定された。18号線≒北国街道なのだ。
その分去れ地点に「中山道69次資料館」が立っていた。その脇にミニチュアの中山道。ここの資料館を開設したのが、『浪漫の旅』の著者岸本豊さん。翌朝妹から聞かされた話では妹夫婦は岸本さん夫妻と会話を交わしたことがあったそうな。その奇縁に驚かされる。中山道のミニチュアを歩き終え「これで中山道を歩き終えたことになるな」などと3人はほざいた。
分去れからは長い長い下り。ここに古い思い出があった。中学生の頃、叔母住む御代田に遊びに来た私は1歳年下の従妹とよく遊んだ。その遊びの一つが駆けっこ。中山道を分去れまで駆け上り、そこから18号線を走り下って元の地点に戻って来る一周の駆けっこ。あの頃はここが中山道などとは知る由もなく、60数年後ここを往くとは想像を越えていた。
御代田駅でしなの鉄道を潜り小田井宿着が15時。妹に電話を入れ、車で迎えに来てもらい、夕食をご馳走になり、ハーヴェストクラブ軽井沢まで送ってもらった。感謝!感謝!ホテルの湯に浸かり初日の疲れを癒した。
今日の一葉:沿道から望む浅間山